ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ

ひまえび

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第3章――「石の宮殿と皇后の賭け」

第1話――「短刀を捨てた夜」

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1519年3月27日 深夜 ポトンチャンの浜の野営地

 潮の匂いが濃くなるころ、野営地はほとんど眠りについていた。
 たき火の炎は低くなり、波音と帆縄のきしむ音だけが、布の天幕越しに聞こえていた。

 チャックニク〈24〉は、自分の寝所の隅で膝を抱えて座っていた。
 胸のあたりに、小さな重みがある。薄い織布の下、肌に沿う位置に、短刀の柄が冷たく当たっていた。

(拒まれたら、その場で終わらせる)

 考えは簡単だった。
 夫ルイスの寝所の前で、何度、足を止めては引き返したか分からない。言葉を尽くしても、笑顔を見せても、彼はいつも視線をそらした。
 妻でありながら、女として抱かれることのない日々が続いた結果、チャックニクの中には、じわじわと自分の形が消えていくような感覚だけが残っていた。

 けれど今夜、彼女の足は別の方角を向いていた。
 たき火の光がまだ消えきらない中央の天幕。アルバロ・デ・モリーナの寝所である。

 立ち上がると、外の空気が頬を撫でた。海風が、汗の引いた肌にひやりとまとわりつく。
 砂地を踏み締めるたび、足首の鈴飾りがかすかに鳴った。こんな夜更けに鳴らしてよい音ではない、と理性が囁いたが、チャックニクは歩みを止めなかった。

 ◇ ◇ ◇

 天幕の前に立つと、内側から布越しの明かりが漏れていた。
 アルバロはまだ起きているらしい。

「アルバロ」

 マヤ語で名を呼ぶと、すぐに布越しに気配が動いた。

「入れ」

 スペイン語の低い声が返ってきた。

 天幕をめくると、ランプの明かりの下で、アルバロが上半身を起こしていた。上着を脱ぎ、地図と小さな木片を前にしていたらしい。
 焦げた革と汗と海塩の匂いが、狭い空間に満ちていた。

「こんな時間にどうした、チャックニク」

 彼は、たしなめるでもなく、いつもの陽気な響きでそう言った。
 しかし、チャックニクの顔を見ると、その視線がわずかに細くなった。

 チャックニクは口を開きかけ、言葉が出てこないことに気がついた。
 喉が乾いている。舌が自分のものではないようだ。

 代わりに、ただ一歩、彼の寝台に近づいた。
 胸元で短刀の柄が鳴った。布越しとはいえ、音ははっきりとした。

 アルバロの眼差しが、そこに落ちた。

「それを、見せろ」

 静かな命令口調だった。

 チャックニクは、ゆっくりと胸元の布をかき合わせ、短刀を取り出した。刃は鞘に収まったままだったが、冷えた鉄の感触が手のひらにじかに伝わってきた。

「拒まれたら、ここで終わらせるつもりだったのか」

 今度はナワトル語だった。
 チャックニクは、息を詰めたまま小さくうなずいた。

「ルイスの妻として、何も出来ないまま生きるのは、恥だと思いました」

 ようやく絞り出した言葉も、母語ではなくスペイン語だった。
 舌の上でたどたどしく転がる音を、アルバロは遮らずに最後まで聞いていた。

「俺の前で、自分を恥じるな」

 短くそう言うと、彼は寝台から身を乗り出し、チャックニクの手から短刀を取り上げた。
 鞘ごとひょいと持ち上げると、入口近くの荷袋の上に放り投げる。布が鈍い音を立てた。

「ここで血を流すのは、敵だけでいい」

 アルバロは、チャックニクの両肩に手を置いた。
 大きな手のひらは、鍛えられた指先が荒く、皮膚にざらりとした感触を残したが、その力は意外なほど優しかった。

「お前は、この土地の道を知っている。
 森の匂いも、川の流れも、帝都への近道も。
 それを俺のために使おうとしている女が、恥じる必要などない」

 言葉が、胸の奥の固くなった場所に触れた。
 ずっと「余り物」だと思われていると感じていた自分に、別の名前を与えられた気がした。

「でも……」

 チャックニクは、顔を上げた。ランプの光が、アルバロの瞳に揺れていた。
 彼の目は笑っていたが、戯れではなかった。

「ルイスは、私を女として見ませんでした」

 吐き出した瞬間、唇が震えた。
 言ってはならない本音を漏らしてしまったような罪悪感が、背筋を走った。

 アルバロは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

「そうか」

 たったそれだけの言葉だったが、声には怒りでも同情でもなく、事実を受け止める重さだけがあった。

「なら、今夜ここへ来たのは、お前自身の足だな」

 チャックニクは、じっと彼を見つめ返した。
 頷く代わりに、ゆっくりと腰を下ろし、寝台の端に座った。

 ランプの炎が、布の天井に揺らぐ影を描いた。
 外では、波が砂を撫でる音が続いている。

「怖いか」

「少し。けれど……」

 チャックニクは、指先で寝台の毛布をつまんだ。粗い羊毛の感触が、指先にざらざらと伝わった。

「ここで拒まれたら、私は本当にいなくなってしまう気がします」

 声が震えたが、言い切った。

 アルバロは、ふと笑った。完全に肩の力が抜けた笑いだった。

「俺はそんな下手な真似はしない」

 そう言うと、彼はチャックニクの手首をとらえ、そっと引き寄せた。
 胸元に抱き寄せられた瞬間、チャックニクの耳に、彼の心音が響いた。
 一定の速さで打つその音は、戦のときよりも少しだけ早く、それでも乱れてはいなかった。

 革の匂いと汗と煙の匂いが、間近で混ざり合った。
 外の風よりも、彼の体温の方がずっと強く、確かな現実としてそこにあった。

「お前は、ここにいていい」

 耳元で、スペイン語とマヤ語が入り混じった囁きが落ちた。
 その瞬間、胸の奥で長く固まっていた何かが、音もなくほどけ始めた。

 チャックニクは、彼の衣服を握りしめた。指に触れる布地は粗く、指先がひりついた。
 たき火の名残のような暖かさが、背中から腕へ、そして胸の内側へと広がっていった。

 やがて言葉は必要なくなった。
 ランプの炎が静かに消え、天幕の内側には、肌と肌が触れ合う気配と、長くこわばっていた心が解けていく静かな息づかいだけが残った。

 ◇ ◇ ◇

 波の音が、いつもより近くに聞こえる気がした。
 目を開けると、薄明かりの中で、天幕の布がかすかに揺れていた。まだ外は夜と朝のあいだである。

 チャックニクは、自分の体にかけられた毛布の重みを感じた。
 肌には、夜の名残のように、彼の体温が薄く残っている。耳を澄ませると、すぐそばで規則正しい寝息が聞こえた。

 上体を起こすと、肩から滑り落ちかけた布を慌てて引き寄せた。
 視線を入口の方へ向けると、昨夜の短刀が、荷袋の上に無造作に置かれていた。鞘はそのまま、紐も解かれていない。

(もう、いらない)

 胸の奥で、自然にそう思った。
 ルイスに拒まれ続けた夜々の重さと、「役に立つ女」としてだけ扱われることへの恐怖が、少しずつ遠ざかっていく。

 昨夜、アルバロは一度も「憐れみ」という言葉を口にしなかった。
 彼はチャックニクを惜しみ、必要とし、そして普通の女として腕の中に迎え入れたにすぎない。

 それだけのことが、どれほどの救いになるのかを、チャックニクはようやく理解し始めていた。

 天幕の外から、遠く船員たちの声が聞こえ始めた。
 新しい一日が近づいている。

 チャックニクは、毛布をしっかりと巻き直し、ひとつ深く息を吸った。
 潮と煙と革の匂いが肺の奥まで満ち、それが自分の居場所の匂いだと、初めて素直に思えた。

(明日は、彼と一緒に出発する)

 そう心の中で言葉にすると、不思議と足元が安定した。
 短刀ではなく、自分の舌と足で、アルバロの行く先を支える女として生きる。

 彼女の中で、その決意だけが、夜明け前の光よりもはっきりと形を持って立ち上がっていた。

 ◇ ◇ ◇

1519年3月28日 夜明け前 チャンポトンの浜

 天幕を出ると、東の空がかすかに白んでいた。
 浜には既に部隊が整列し、船から降ろされた荷や馬が影になって並んでいる。

 チャックニクは、列の先頭近くに立つアルバロの背中を見つけた。
 昨夜と同じ革の匂いと、鉄と潮の匂いが風に混じっている。

「出発する、と皆に伝えてくれ」

 彼が言ったとき、チャックニクはもう迷っていなかった。
 マヤ語とナワトル語の命令が、彼女の舌から自然に流れ出る。

 列が動き出し、チャンポトンの浜がゆっくりと後ろへ遠ざかっていく。
 チャックニクは一度だけ振り返り、それからまっすぐ前を向いた。

(ここから先は、私とこの男の道だ)

 夜明け前の薄光の中で、彼女の足取りは、昨日までとは違う重みを帯びていた。


―――――――――――――――――
挿絵は、『アステカ王国』です。

出典は、『小学館 日本大百科全書「ニッポニカ」』です。
挿絵は、『メソアメリカ』です。

出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P10』です。
挿絵は、『テノチティトラン侵攻「コルテス」』です。

出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P115』です。
挿絵は、『スペイン軍進路』です。

出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P103』です。
挿絵は、『テスココ湖周辺図』です。

出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P121』です。
挿絵は、『メソアメリカのカカオの産地』です。

出典は、『河出文庫「チョコレートの歴史」ソフィー・D・コウ:マイケル・D・コウ著。樋口幸子訳。P111』です。
挿絵は、『テノチティトラン地図』です。

出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P137」増田義郎著。P137』です。
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