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第3章――「石の宮殿と皇后の賭け」
第2話――「テワンテペク地峡へ送る百人隊とチャックニクの行き先」
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同じ日の夜明け前
チャンポトンの浜を離れるころ、夜明けの光はまだ海面に薄く漂っていた。
アルバロ・デ・モリーナは濡れた砂を踏みしめながら、後ろに控える女へ目を向けた。
チャックニク。
六弟ルイスの正妻である、という事実よりも、今のアルバロが重視しているのは別だった。
マヤ語とナワトル語を自在に操る女。
その舌を通してアルバロに両方の言葉を叩き込み、自分自身もスペイン語を驚く速さで身につけた女。
褐色の肌に赤い刺繍布を巻き、背筋は弓のように伸びている。
森のざわめきと海風の変化を、その目だけで読み取ってしまう。
「出発する、と皆に伝えてくれ」
声をかけると、チャックニクは短くうなずき、マヤ語とナワトル語を交えながら素早く号令を送った。
滑らかな両言語の切り替えは、既にアルバロも半分ほど理解できるようになっていた。
(この女がいなければ、俺はこの大地の音ひとつ聞き取れん)
それは事実だった。
タバスコ、テワンテペク地峡、トチテペク、そしてテノチティトラン。
アステカ圏へ通じる最短の道筋を教えたのも、ほかならぬチャックニクである。
列が動き出す直前、アルバロは一度だけ空を仰いだ。
夜と朝の境目のような薄闇の中で、彼の視線は、自然と前日の出来事へと戻っていった。
1519年3月28日 昼前 タバスコ近郊の森
列が森に入ると、チャックニクは先導役のマヤ人とナワトル語で短い会話を交わし、すぐにアルバロへ戻す。
「この先は川の匂いが強くなります。足場が変わります」
「市場までどれくらいだ」
「半日もありません。タバスコの村は、この川筋でつながっています」
説明の簡潔さは変わらない。
しかし、その裏には広い地の利が透けていた。
(言葉も、土地も、俺のものに変える能力がある)
アルバロは歩きながら判断した。
女の素質は、通訳だけに置いておくには惜しい。
◇ ◇ ◇
同じ日の昼前、グリハルバ川の湿気が近づき、風が甘い匂いを運んできた。
「カカオの香りです」とチャックニクが言う。「このあたりは良い実が採れます」
タバスコの市場に入ると、彼女は迷わずスペイン語で説明を続けた。
「羽飾りを売るのはこの一族。カカオはここの村。あの黒い実は、トチテペクの商人が持ってきたものです」
「トチテペクか」
「はい。そこから山道を越えれば、テノチティトランの盆地に入れます。コスタの道より安全で、ポチテカがよく使います」
アルバロは一瞬、チャックニクの顔を見た。
その情報は、帝国の心臓部へ向かう最短の鍵だった。
市場の喧噪と香辛料の匂いの中で、アルバロは頭の中の地図を書き換えていった。
テワンテペク地峡、トチテペク、そして帝都テノチティトラン。
チャックニクの舌が、その全てを一本の道として結び始めている。
◇ ◇ ◇
同じ日の夕刻、市場を抜けて湿地帯へ入り、川の流れが大きくなっていく。
前方の樹林が途切れ、巨大な大河が現れた。
「コアツァコアルコスです」とチャックニクが告げる。「マヤ語もナワトル語も通じます。商人の町で、ここから地峡の道が続きます」
アルバロは川面を渡る風を吸い込み、低く言った。
「この女を連れて来て正解だった」
言葉にはしなかったが、胸の底でそう認めていた。
言語。土地。道。
チャックニクが開いたものは、一つの情報に留まらず、アステカ王権の奥座敷に手を伸ばすための案内図そのものだった。
「渡るぞ」とアルバロは言った。「都まで、もう一本道だ」
チャックニクは静かにうなずいた。
川風が吹いても揺るがない横顔は、森より深く、湖より澄んで見えた。
◇ ◇ ◇
1519年3月28日 夜 コアツァコアルコスの野営地
夜になるころには、川岸の高台に野営地が形を整えていた。
たき火がいくつも並び、槍の穂先と鎧の縁が赤く光っている。川面の闇には、商人たちの小舟がゆらゆらと影を落としていた。
アルバロは、踏み固めた土の上に棒切れで簡単な地図を描いた。
コアツァコアルコスから南西へ伸びる線がテワンテペク地峡、その先で海に落ちる地点に丸印をつける。
「ここから地峡を抜け、太平洋側の道を押さえる部隊を1つ作る」
周りには五弟フランシスコ、六弟ルイスをはじめ、若い隊長格たちが円を描いて立っていた。
「部隊は100名。隊長はフランシスコ・デ・モリーナ、副隊長はルイス・デ・モリーナだ。
地峡を越えたら南へ折れ、沿岸の町と港を順に抑えろ。商人どもと話をつけながら進むんだ」
フランシスコが胸に手を当ててうなずく。
「承知しました、兄上」
ルイスも口を引き結んでうなずいたが、その目には別の決意が光っていた。
「兄上」
ひととおり命令が行き渡ったところで、ルイスが一歩前に出た。
「ひとつ、願いがあります」
「言ってみろ」
「地峡へ向かうとき、俺はチャックニクを連れて行きません。代わりに、2番目の妻イシュタを連れて行きたい」
その場の空気がわずかに揺れた。
チャックニクはたき火の少し後ろで、ほかの女たちと並んで立っている。耳は確かにこちらを向いていた。
「ルイス」
アルバロは弟の名を一度呼び、視線だけでチャックニクを示した。
「お前の正妻は、マヤ語もナワトル語も話す。地峡の道で一番役に立つのは、あの女だろう」
ルイスはすぐに言い返さなかった。
少し息を飲んでから、言葉を選ぶように口を開いた。
「兄上こそ、困るはずです」
「俺がか」
「はい。帝都を目指すのは兄上の隊です。テノチティトランの盆地で、誰の言葉も分からないままでは、話にならない。
チャックニクは、兄上にマヤ語もナワトル語も教えた女です。兄上の言い回しも、癖も、全部覚えている」
ルイスは、たき火越しにチャックニクを一度だけ振り返り、それから続けた。
「俺たちが行くのは、地峡の町と港です。商人も多いし、スペイン語も少しは通じる。
道中のやり取りなら、イシュタと俺とで足ります。
チャックニクを危ない目にあわせたくない、というのも本音です」
アルバロは弟の顔を見つめた。
甘さと打算が、同じだけ混ざった表情だった。
「つまり、お前はチャックニクを手放してでも、イシュタを連れて行きたいわけだな」
ルイスは観念したように頷いた。
「はい。兄上が良いと言ってくださるなら」
そのとき、輪の少し外側から、落ち着いた女の声がした。
「アルバロ」
イサベラだった。
薄い外套を肩にかけ、腕を組んでアルバロたちを見ている。
「私はルイスの言い分に賛成よ。
チャックニクの目と耳は、あなたのそばにあるほうがいい。帝都に入れば、言葉ひとつで立場が決まるでしょう?」
イサベラはチャックニクの方へ視線を送った。
「それに、あの女はもうあなたの働き方をよく知っている。
兄弟の嫁として囲っておくには、惜しいくらい」
アルバロは、たき火のぱちりという音を聞きながら考えた。
チャックニクが教えた道筋がなければ、今ここにも来られていない。
テノチティトランの奥へ踏み込むとき、彼女の舌と耳は、確かに自分の武器になる。
「……分かった」
やがてアルバロは決めたように顔を上げた。
「ルイス、お前はイシュタを連れて行け。
地峡を越えて南へ下る百人隊は、お前の好きな女を連れて進めばいい」
ルイスの肩がわずかに緩んだ。
「ありがとうございます、兄上」
「だが、その代わりに決めておく」
アルバロはチャックニクの方へ顔を向け、はっきりと言った。
「チャックニクは、今夜から俺の女だ。
名目は妾にする。ここにいる者は皆、そう覚えておけ」
ルイスが一瞬だけ目を伏せ、それから静かにうなずいた。
「異存はありません。兄上の妾なら、チャックニクもきっと納得します」
イサベラも、短く息を吐いてから笑みを浮かべた。
「いいわね。それなら、私も安心して帝都に入れるわ」
アルバロはチャックニクを手招きした。
女はたき火の明かりの中へ出てきて、ルイスとアルバロを順に見た。
「今、話は聞いていたな」
「ええ」
チャックニクは、ゆっくりとスペイン語で答えた。
「私は、アルバロの行く道を案内します。
山も、湖も、町も。必要なら、皇帝の宮殿の扉まで」
その声には、悔しさも誇りも混ざっていたが、迷いはなかった。
「いいだろう」
アルバロはうなずき、たき火越しにその横顔を見つめた。
川風に頬を打たれても、チャックニクの表情は揺れなかった。焔に縁どられた瞳は、たき火ではなく、この先に続く道だけを見つめていた。
その夜、テワンテペク地峡へ送る百人隊と、帝都へ向かう本隊の役割は、はっきりと分かたれた。
同時に、チャックニクの立場もまた、兄弟の嫁から「アルバロの女」へと、誰の目にも分かる形へ固められていった。
チャンポトンの浜を離れるころ、夜明けの光はまだ海面に薄く漂っていた。
アルバロ・デ・モリーナは濡れた砂を踏みしめながら、後ろに控える女へ目を向けた。
チャックニク。
六弟ルイスの正妻である、という事実よりも、今のアルバロが重視しているのは別だった。
マヤ語とナワトル語を自在に操る女。
その舌を通してアルバロに両方の言葉を叩き込み、自分自身もスペイン語を驚く速さで身につけた女。
褐色の肌に赤い刺繍布を巻き、背筋は弓のように伸びている。
森のざわめきと海風の変化を、その目だけで読み取ってしまう。
「出発する、と皆に伝えてくれ」
声をかけると、チャックニクは短くうなずき、マヤ語とナワトル語を交えながら素早く号令を送った。
滑らかな両言語の切り替えは、既にアルバロも半分ほど理解できるようになっていた。
(この女がいなければ、俺はこの大地の音ひとつ聞き取れん)
それは事実だった。
タバスコ、テワンテペク地峡、トチテペク、そしてテノチティトラン。
アステカ圏へ通じる最短の道筋を教えたのも、ほかならぬチャックニクである。
列が動き出す直前、アルバロは一度だけ空を仰いだ。
夜と朝の境目のような薄闇の中で、彼の視線は、自然と前日の出来事へと戻っていった。
1519年3月28日 昼前 タバスコ近郊の森
列が森に入ると、チャックニクは先導役のマヤ人とナワトル語で短い会話を交わし、すぐにアルバロへ戻す。
「この先は川の匂いが強くなります。足場が変わります」
「市場までどれくらいだ」
「半日もありません。タバスコの村は、この川筋でつながっています」
説明の簡潔さは変わらない。
しかし、その裏には広い地の利が透けていた。
(言葉も、土地も、俺のものに変える能力がある)
アルバロは歩きながら判断した。
女の素質は、通訳だけに置いておくには惜しい。
◇ ◇ ◇
同じ日の昼前、グリハルバ川の湿気が近づき、風が甘い匂いを運んできた。
「カカオの香りです」とチャックニクが言う。「このあたりは良い実が採れます」
タバスコの市場に入ると、彼女は迷わずスペイン語で説明を続けた。
「羽飾りを売るのはこの一族。カカオはここの村。あの黒い実は、トチテペクの商人が持ってきたものです」
「トチテペクか」
「はい。そこから山道を越えれば、テノチティトランの盆地に入れます。コスタの道より安全で、ポチテカがよく使います」
アルバロは一瞬、チャックニクの顔を見た。
その情報は、帝国の心臓部へ向かう最短の鍵だった。
市場の喧噪と香辛料の匂いの中で、アルバロは頭の中の地図を書き換えていった。
テワンテペク地峡、トチテペク、そして帝都テノチティトラン。
チャックニクの舌が、その全てを一本の道として結び始めている。
◇ ◇ ◇
同じ日の夕刻、市場を抜けて湿地帯へ入り、川の流れが大きくなっていく。
前方の樹林が途切れ、巨大な大河が現れた。
「コアツァコアルコスです」とチャックニクが告げる。「マヤ語もナワトル語も通じます。商人の町で、ここから地峡の道が続きます」
アルバロは川面を渡る風を吸い込み、低く言った。
「この女を連れて来て正解だった」
言葉にはしなかったが、胸の底でそう認めていた。
言語。土地。道。
チャックニクが開いたものは、一つの情報に留まらず、アステカ王権の奥座敷に手を伸ばすための案内図そのものだった。
「渡るぞ」とアルバロは言った。「都まで、もう一本道だ」
チャックニクは静かにうなずいた。
川風が吹いても揺るがない横顔は、森より深く、湖より澄んで見えた。
◇ ◇ ◇
1519年3月28日 夜 コアツァコアルコスの野営地
夜になるころには、川岸の高台に野営地が形を整えていた。
たき火がいくつも並び、槍の穂先と鎧の縁が赤く光っている。川面の闇には、商人たちの小舟がゆらゆらと影を落としていた。
アルバロは、踏み固めた土の上に棒切れで簡単な地図を描いた。
コアツァコアルコスから南西へ伸びる線がテワンテペク地峡、その先で海に落ちる地点に丸印をつける。
「ここから地峡を抜け、太平洋側の道を押さえる部隊を1つ作る」
周りには五弟フランシスコ、六弟ルイスをはじめ、若い隊長格たちが円を描いて立っていた。
「部隊は100名。隊長はフランシスコ・デ・モリーナ、副隊長はルイス・デ・モリーナだ。
地峡を越えたら南へ折れ、沿岸の町と港を順に抑えろ。商人どもと話をつけながら進むんだ」
フランシスコが胸に手を当ててうなずく。
「承知しました、兄上」
ルイスも口を引き結んでうなずいたが、その目には別の決意が光っていた。
「兄上」
ひととおり命令が行き渡ったところで、ルイスが一歩前に出た。
「ひとつ、願いがあります」
「言ってみろ」
「地峡へ向かうとき、俺はチャックニクを連れて行きません。代わりに、2番目の妻イシュタを連れて行きたい」
その場の空気がわずかに揺れた。
チャックニクはたき火の少し後ろで、ほかの女たちと並んで立っている。耳は確かにこちらを向いていた。
「ルイス」
アルバロは弟の名を一度呼び、視線だけでチャックニクを示した。
「お前の正妻は、マヤ語もナワトル語も話す。地峡の道で一番役に立つのは、あの女だろう」
ルイスはすぐに言い返さなかった。
少し息を飲んでから、言葉を選ぶように口を開いた。
「兄上こそ、困るはずです」
「俺がか」
「はい。帝都を目指すのは兄上の隊です。テノチティトランの盆地で、誰の言葉も分からないままでは、話にならない。
チャックニクは、兄上にマヤ語もナワトル語も教えた女です。兄上の言い回しも、癖も、全部覚えている」
ルイスは、たき火越しにチャックニクを一度だけ振り返り、それから続けた。
「俺たちが行くのは、地峡の町と港です。商人も多いし、スペイン語も少しは通じる。
道中のやり取りなら、イシュタと俺とで足ります。
チャックニクを危ない目にあわせたくない、というのも本音です」
アルバロは弟の顔を見つめた。
甘さと打算が、同じだけ混ざった表情だった。
「つまり、お前はチャックニクを手放してでも、イシュタを連れて行きたいわけだな」
ルイスは観念したように頷いた。
「はい。兄上が良いと言ってくださるなら」
そのとき、輪の少し外側から、落ち着いた女の声がした。
「アルバロ」
イサベラだった。
薄い外套を肩にかけ、腕を組んでアルバロたちを見ている。
「私はルイスの言い分に賛成よ。
チャックニクの目と耳は、あなたのそばにあるほうがいい。帝都に入れば、言葉ひとつで立場が決まるでしょう?」
イサベラはチャックニクの方へ視線を送った。
「それに、あの女はもうあなたの働き方をよく知っている。
兄弟の嫁として囲っておくには、惜しいくらい」
アルバロは、たき火のぱちりという音を聞きながら考えた。
チャックニクが教えた道筋がなければ、今ここにも来られていない。
テノチティトランの奥へ踏み込むとき、彼女の舌と耳は、確かに自分の武器になる。
「……分かった」
やがてアルバロは決めたように顔を上げた。
「ルイス、お前はイシュタを連れて行け。
地峡を越えて南へ下る百人隊は、お前の好きな女を連れて進めばいい」
ルイスの肩がわずかに緩んだ。
「ありがとうございます、兄上」
「だが、その代わりに決めておく」
アルバロはチャックニクの方へ顔を向け、はっきりと言った。
「チャックニクは、今夜から俺の女だ。
名目は妾にする。ここにいる者は皆、そう覚えておけ」
ルイスが一瞬だけ目を伏せ、それから静かにうなずいた。
「異存はありません。兄上の妾なら、チャックニクもきっと納得します」
イサベラも、短く息を吐いてから笑みを浮かべた。
「いいわね。それなら、私も安心して帝都に入れるわ」
アルバロはチャックニクを手招きした。
女はたき火の明かりの中へ出てきて、ルイスとアルバロを順に見た。
「今、話は聞いていたな」
「ええ」
チャックニクは、ゆっくりとスペイン語で答えた。
「私は、アルバロの行く道を案内します。
山も、湖も、町も。必要なら、皇帝の宮殿の扉まで」
その声には、悔しさも誇りも混ざっていたが、迷いはなかった。
「いいだろう」
アルバロはうなずき、たき火越しにその横顔を見つめた。
川風に頬を打たれても、チャックニクの表情は揺れなかった。焔に縁どられた瞳は、たき火ではなく、この先に続く道だけを見つめていた。
その夜、テワンテペク地峡へ送る百人隊と、帝都へ向かう本隊の役割は、はっきりと分かたれた。
同時に、チャックニクの立場もまた、兄弟の嫁から「アルバロの女」へと、誰の目にも分かる形へ固められていった。
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