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第5章――「湖の鎖、石の秤」
第10話――「カカオ1億4,400万粒の夜宴」
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夕暮れの宮殿は、石の壁に残った熱がゆっくりと冷めていくところであった。中庭から吹き込む風が、焼いたとうもろこしと肉の匂い、焙じたカカオの甘い香りを運び込み、広間の空気をねっとりと満たしている。壁に掛けた松明の炎がぱちぱちと弾け、朱と金で彩られた壁画の上を揺らめきながら走った。
その晩、アルバロ〈25〉は、トイヤウア〈38〉とヤコツィン〈42〉という二人の妾に加え、テスココから連れてきた若い王妃や側室たち、王女や貴族の娘たちを、ひとり残らず夕食の宴に呼び集めていた。
黒人兵に囲まれて広間に入ってきた女たちは、まず高座の脇に並んで座る二人の姿に目を奪われた。
トイヤウアは、湖の水面を思わせる深い青の綿織りの衣をまとい、耳と首には金と翡翠が静かに光っている。ヤコツィンの肩には、赤い羽根を織り込んだショールがかけられ、指には新しい指輪がいくつもはめられていた。二人の前の卓には、温かい肉料理や香辛料の利いた豆の煮込み、泡立てたカカオの飲み物が惜しみなく並べられている。
かつての王妃や王女たちが座る場所には、淡い色の粗い黒衣と、冷めかけたトルティージャしか置かれていなかった記憶が、女たちの鼻先にまだ生々しく残っていた。それを思い出すと、今目の前にある光景は、まるで別の世界のように見えた。
(妾になれば、あれほどの扱いを受けられるのか)
若いマトラルテン〈28〉は、思わず喉を鳴らしそうになり、慌てて唇を固く閉じた。香草を散らした肉の脂の匂いが、空腹の胃を掴んでぐいと引っ張る。シウァコアトル〈24〉は、ひざの上で両手を握りしめ、指の関節に白い筋を浮かせた。トラソチトル〈19〉は喉を乾かしながら、カカオ飲料の入った椀にじっと視線を吸い寄せられている。
石板の床を踏む革靴の音が、ゆっくりと近づいてきた。アルバロが広間に現れると、空気の温度がわずかに変わった。若い征服者の身体からは、汗と革、そして薄く焚きしめた香木の匂いが立ちのぼり、それが料理の湯気と混ざり合って、女たちの喉の奥に重たい膜のように貼りつく。
アルバロは高座に腰をおろし、まずトイヤウアとヤコツィンの杯を自ら満たした。泡立つカカオの表面が、松明の光を柔らかくはね返し、甘くほろ苦い香りが広間に広がる。その香りを、ほとんどの女たちはただ嗅ぐことしかできなかった。
「よく集まったな」
アルバロの声は、石の壁に当たってほどよく響き、広間の隅々にまで届いた。
「お前たちの家族の命と立場は、すでにここにいる二人の妾が保証されている。今日はその約束を確かめるための宴だ。そしてもうひとつ、知っておきたいことがある」
彼はゆっくりと椀を持ち上げ、ひと口カカオを飲んだ。香辛料と蜂蜜の甘さが舌の上に残り、その余韻を楽しむように目を細める。
「テノチティトランでは、カカオ豆を1千万粒ほど保有していた。湖の東岸、テスココの懐も、さぞや温かかったのであろう。テスココには、どれほどのカカオがあった?」
松明の火が、女たちの顔に揺れる影を落とした。誰もすぐには口を開かなかった。息遣いと布の擦れる音だけが、広間のあちこちから聞こえる。
先に声を発したのは、トイヤウアだった。
「テスココも、テノチティトランと同じくらいは……いえ、それ以上かもしれません」
ヤコツィンが続けるように口を開いた。
「毎日の支払いに使っても、減った気がしないほどでした。この湖の東岸は、カカオの流れが太く、長く続く土地です」
アルバロは満足げにうなずき、椀を卓に戻した。二人の妾の声には、まだ王家としての誇りが固く残っている。だが、彼が耳を澄ませて待っているのは、その誇りの隙間からこぼれ落ちる、生の数字であった。
沈黙を破ったのは、マトラルテンだった。
彼女はひざの上で握りしめていた手をゆっくり解き、視線を床から上げた。娘テナミクス〈8〉と息子ネツァワルテン〈10〉の顔が、脳裏をかすめる。
「陛下」
声は震えていたが、言葉ははっきりと広間に響いた。
「桁が違います。テスココには、1千万どころか……1億粒はあるはずです。宮殿の奥の、粘土で塗り固めた大きな箱が、まだいくつも満ちております」
広間の空気が、一瞬で変わった。松明の火が小さく鳴り、椀の中の泡が静かに弾ける音までやけに大きく聞こえる。
シウァコアトルが、夫の顔を思い浮かべながら、マトラルテンの言葉に重ねるように言った。
「王家の執事長が、毎日何荷ずつ運び出しても、箱はなかなか減りませんでした。銅の板に刻まれた数字は、わたくしたちには読み切れないほど長い列をなしていました」
トラソチトルが、恐る恐る口を開いた。歌で鍛えられた高い声が、今は震えを帯びている。
「わたくしは、宴の歌をうたうとき、貯蔵庫の前を通らされました。箱は小枝を編んで作られ、内も外も粘土で塗られていましたが、隙間からこぼれる豆の匂いで、中身の多さが分かりました。……あれほどの香りが、宮殿の奥にいつも満ちていたのです」
イツクィクァウア〈18〉も、視線を下げたまま言葉を足した。
「箱のひとつひとつには、荷運び人夫が三人がかりで運ぶほどの重さの袋が、何百も詰められていました。箱の列は、わたしたちの部屋から見ても、奥が見えないほど続いています」
少し離れたところで、イシュトリルソチトルの若い妻トラウィスカリ〈18〉も、唇を噛みながらうなずいた。
「夫は、ときどき冗談めかして言っていました。『テスココのカカオは、湖が干上がってもまだ残る』と。……それほどの量です」
女たちの証言が重なるたび、アルバロの目の奥の光が、ゆっくりと鋭さを増していった。フォート・ノックスという名の金庫と、どこかの王の酒蔵を合わせたような貯蔵庫の姿が、彼の頭の中ではっきりと形を取っていく。
やがて彼は、椀を卓に叩きつけるように置いた。陶器と木の板がぶつかる鈍い音が、広間の隅までぴんと響く。
「黒衣の者たち」
アルバロの呼び声に、入口近くで控えていた黒人兵たちが、一斉に姿勢を正した。鎖帷子の金属音と、槍の石突が床を打つ音が重なる。
「今すぐ、モクテスマの宮殿とテスココ王家の二つの宮殿を洗え。粘土で塗り固めた大箱、枝を編んだ箱、穀物庫としても使えるという箱を、すべて開けろ。紐を切り、蓋を割り、豆という豆を一粒残らず運び出せ」
彼の声には、血臭ではなく、金の匂いを嗅ぎつけた男の熱が混じっていた。
「一荷は2万4,000粒だ。荷の数と箱の数を、ここに書き記して持ち帰れ」
黒人兵たちは短くうなずき、革靴の音を石の上に鳴らしながら、広間から出て行った。残された女たちは、耳の奥でまだその足音を聞きながら、黙って椀の中の泡を見つめていた。
◇ ◇ ◇
夜がすっかり落ちたころ、テノチティトランの空には星がにじみ始めていた。湖から吹き上げる風が、乾いた豆の匂いを運び、宮殿の石壁にぶつけている。
モクテスマの宮殿の奥では、黒人兵たちが松明を掲げ、巨大な箱の列の前に立っていた。箱は、小枝を密に編み、その内側と外側を粘土で厚く塗り固めてある。六人がかりでもやっと動かせる大きさで、その表面には長年の埃が灰色の皮膜となって張りついていた。
兵のひとりが、箱を縛っている太い紐に剣の刃を差し込む。きしむ音とともに紐が切れ、粘土で固められた蓋が、鈍い音を立てて割れた。
次の瞬間、乾いたざらりという音とともに、暗い豆の流れが箱の縁からあふれ出した。松明の赤い光を受けて、カカオ豆の表面がわずかに光る。火であぶられたことのない生の豆は、焙じたものとは違う青く渋い匂いを放ち、粉塵となって兵たちの鼻腔を刺した。
「ひと箱に、荷が六百」
荷を数える番の男が、木板に刻んだ印を指でなぞりながら声を上げる。袋ひとつひとつは布越しに手のひらほどの硬さと重みを見せ、締め口に縛った紐を解くと、中からまた豆が流れ出した。
「六百荷が十箱……」
別の兵が、口の中で計算を繰り返す。
「一荷は2万4,000粒。六百荷で1,440万粒。それが十箱だから……1億4,400万粒だ」
声に出した途端、その数字の重さが、豆の匂いと一緒に胸にずしりと落ちた。足元の石床には、すでにこぼれた豆が厚く広がり、踏みしめるたびに乾いた音を立てる。
兵たちは、衣の裾やマントを袋代わりにし、豆をすくっては運び出した。布地の中でこすれ合う豆の音が、夜の宮殿の中にざわざわと満ちていく。
◇ ◇ ◇
その報告がテノチティトランの広間に届いたのは、夜半を少し回ったころであった。
アルバロはすでに同じ広間に女たちを再び集めさせていた。昼間よりも松明の数は多く、炎の赤が石の柱と女たちの黒衣を濃く染めている。汗と煙、乾いた豆の香りがまざり合い、空気は昼よりも重く甘い。
黒人兵の代表が膝をつき、額に浮かんだ汗を拭おうともしないまま、報告した。
「陛下の命じられたとおり、箱を十個開けました。それぞれの箱に、2万4,000粒を一荷とする荷が600ずつ。合計1億4,400万粒にございます」
兵の声が石壁に跳ね返り、数字だけが妙に冷たく広間に残った。女たちは思わず息を呑み、胸の内でその桁をゆっくりと数え直す。自分たちが一生目にすることのない量の豆が、たった三つの箱からあふれ出したのだ。
アルバロは笑った。唇の片側だけを少し持ち上げる、いつもの癖の笑いだったが、今日のそれには、はっきりとした歓喜が混じっていた。
「よくやった。だが、これは始まりにすぎん」
彼は女たちのほうを振り向いた。炎の光がその瞳に映り込み、暗い玉のように揺れる。
「お前たちのおかげで、湖の王家が隠していた宝の匂いを、ようやく嗅ぐことができた」
視線が、マトラルテン、シウァコアトル、トラソチトル、イツクィクァウア、トラウィスカリの上を順に滑っていく。女たちは思わず背筋を伸ばし、布の下で冷えた指先を握りしめた。
「マトラルテン〈28〉」
名前を呼ばれた第一王妃は、胸の奥の恐怖を押し込めて一歩前に出た。足裏に伝わる石の冷たさが、さきほど聞いた数字の冷たさと重なる。
「シウァコアトル〈24〉、トラソチトル〈19〉、イツクィクァウア〈18〉、トラウィスカリ〈18〉」
次々に呼ばれた名に、若い女たちは互いの姿を視界の端に捉えながら、前へ進んだ。香油の甘い匂いと汗の塩辛さが、布の中でわずかに混じり合う。
「今夜から、お前たちもわたしの妾とする」
アルバロの声は静かだったが、その静けさは、牢庭で血を撒いたときの冷たさとは別の重みを持っていた。
「テスココと湖の王家の血を、わたしの寝所と食卓へ引き寄せる。命と地位は、ここにいる二人と同じく保証しよう。お前たちの子も、わたしの子として扱う」
トイヤウアとヤコツィンの位置が、広間の中で改めて際立った。二人は自分たちの席から立ち上がり、新たに名を呼ばれた女たちのほうへ視線を向けた。そこには、同情と警告と、かすかな安堵が複雑に入り混じっている。
マトラルテンは、喉の奥まで上がってきた言葉を飲み込んだ。ネツァワルテンとテナミクスの顔が頭から離れない。だが、ここでうなずけば、子どもたちの未来に細いが確かな道が一本伸びる。彼女は静かに膝を折り、額を低く垂れた。
シウァコアトルは、腕の中で震えるシパクトリの体温を思い出しながら、同じように頭を下げた。トラソチトルは、歌うときとは違う震えを喉に感じながら、唇を固く結ぶ。イツクィクァウアの胸には、恐怖と奇妙な高鳴りが同時に湧き上がっていた。トラウィスカリは、遠く牢庭で倒れた夫の姿を心の奥に押し込み、腕の中のマシュトラの重さを思い出して目を閉じた。
広間に、布の擦れる音と、膝が石に触れる乾いた音が続けざまに響いた。その音の上から、カカオの香りと焼いた肉の匂いが、相変わらず甘く鼻を刺す。
アルバロは、その匂いを深く吸い込んだ。豆の香りと、女たちの髪や肌の匂いが、ひとつの新しい獲物の匂いとして彼の中に刻まれていく。
「湖は、今夜から別の王のために実る」
若い征服者の言葉が、松明の火とともに揺れながら、石の壁に染み込んでいった。女たちの耳には、それが冷たい宣告であると同時に、生き延びるための唯一の約束の音として届いていた。
後書き
本作におけるカカオやアステカ王家の財政・貯蔵庫の描写については、
河出文庫『チョコレートの歴史』(ソフィー・D・コウ/マイケル・D・コウ著・樋口幸子訳)を参考にしています。
脚注
「運搬人夫の日給は1日当たりカカオ豆100粒と言う記述もありますので、仮に日本円で運搬人夫の日給が1日当たり2万円とすると、カカオ豆1粒が日本円で200円と言う換算になります。1億4,400万粒だと日本円で288億円となり、国家の備蓄とすれば妥当と言えるでしょう。
その晩、アルバロ〈25〉は、トイヤウア〈38〉とヤコツィン〈42〉という二人の妾に加え、テスココから連れてきた若い王妃や側室たち、王女や貴族の娘たちを、ひとり残らず夕食の宴に呼び集めていた。
黒人兵に囲まれて広間に入ってきた女たちは、まず高座の脇に並んで座る二人の姿に目を奪われた。
トイヤウアは、湖の水面を思わせる深い青の綿織りの衣をまとい、耳と首には金と翡翠が静かに光っている。ヤコツィンの肩には、赤い羽根を織り込んだショールがかけられ、指には新しい指輪がいくつもはめられていた。二人の前の卓には、温かい肉料理や香辛料の利いた豆の煮込み、泡立てたカカオの飲み物が惜しみなく並べられている。
かつての王妃や王女たちが座る場所には、淡い色の粗い黒衣と、冷めかけたトルティージャしか置かれていなかった記憶が、女たちの鼻先にまだ生々しく残っていた。それを思い出すと、今目の前にある光景は、まるで別の世界のように見えた。
(妾になれば、あれほどの扱いを受けられるのか)
若いマトラルテン〈28〉は、思わず喉を鳴らしそうになり、慌てて唇を固く閉じた。香草を散らした肉の脂の匂いが、空腹の胃を掴んでぐいと引っ張る。シウァコアトル〈24〉は、ひざの上で両手を握りしめ、指の関節に白い筋を浮かせた。トラソチトル〈19〉は喉を乾かしながら、カカオ飲料の入った椀にじっと視線を吸い寄せられている。
石板の床を踏む革靴の音が、ゆっくりと近づいてきた。アルバロが広間に現れると、空気の温度がわずかに変わった。若い征服者の身体からは、汗と革、そして薄く焚きしめた香木の匂いが立ちのぼり、それが料理の湯気と混ざり合って、女たちの喉の奥に重たい膜のように貼りつく。
アルバロは高座に腰をおろし、まずトイヤウアとヤコツィンの杯を自ら満たした。泡立つカカオの表面が、松明の光を柔らかくはね返し、甘くほろ苦い香りが広間に広がる。その香りを、ほとんどの女たちはただ嗅ぐことしかできなかった。
「よく集まったな」
アルバロの声は、石の壁に当たってほどよく響き、広間の隅々にまで届いた。
「お前たちの家族の命と立場は、すでにここにいる二人の妾が保証されている。今日はその約束を確かめるための宴だ。そしてもうひとつ、知っておきたいことがある」
彼はゆっくりと椀を持ち上げ、ひと口カカオを飲んだ。香辛料と蜂蜜の甘さが舌の上に残り、その余韻を楽しむように目を細める。
「テノチティトランでは、カカオ豆を1千万粒ほど保有していた。湖の東岸、テスココの懐も、さぞや温かかったのであろう。テスココには、どれほどのカカオがあった?」
松明の火が、女たちの顔に揺れる影を落とした。誰もすぐには口を開かなかった。息遣いと布の擦れる音だけが、広間のあちこちから聞こえる。
先に声を発したのは、トイヤウアだった。
「テスココも、テノチティトランと同じくらいは……いえ、それ以上かもしれません」
ヤコツィンが続けるように口を開いた。
「毎日の支払いに使っても、減った気がしないほどでした。この湖の東岸は、カカオの流れが太く、長く続く土地です」
アルバロは満足げにうなずき、椀を卓に戻した。二人の妾の声には、まだ王家としての誇りが固く残っている。だが、彼が耳を澄ませて待っているのは、その誇りの隙間からこぼれ落ちる、生の数字であった。
沈黙を破ったのは、マトラルテンだった。
彼女はひざの上で握りしめていた手をゆっくり解き、視線を床から上げた。娘テナミクス〈8〉と息子ネツァワルテン〈10〉の顔が、脳裏をかすめる。
「陛下」
声は震えていたが、言葉ははっきりと広間に響いた。
「桁が違います。テスココには、1千万どころか……1億粒はあるはずです。宮殿の奥の、粘土で塗り固めた大きな箱が、まだいくつも満ちております」
広間の空気が、一瞬で変わった。松明の火が小さく鳴り、椀の中の泡が静かに弾ける音までやけに大きく聞こえる。
シウァコアトルが、夫の顔を思い浮かべながら、マトラルテンの言葉に重ねるように言った。
「王家の執事長が、毎日何荷ずつ運び出しても、箱はなかなか減りませんでした。銅の板に刻まれた数字は、わたくしたちには読み切れないほど長い列をなしていました」
トラソチトルが、恐る恐る口を開いた。歌で鍛えられた高い声が、今は震えを帯びている。
「わたくしは、宴の歌をうたうとき、貯蔵庫の前を通らされました。箱は小枝を編んで作られ、内も外も粘土で塗られていましたが、隙間からこぼれる豆の匂いで、中身の多さが分かりました。……あれほどの香りが、宮殿の奥にいつも満ちていたのです」
イツクィクァウア〈18〉も、視線を下げたまま言葉を足した。
「箱のひとつひとつには、荷運び人夫が三人がかりで運ぶほどの重さの袋が、何百も詰められていました。箱の列は、わたしたちの部屋から見ても、奥が見えないほど続いています」
少し離れたところで、イシュトリルソチトルの若い妻トラウィスカリ〈18〉も、唇を噛みながらうなずいた。
「夫は、ときどき冗談めかして言っていました。『テスココのカカオは、湖が干上がってもまだ残る』と。……それほどの量です」
女たちの証言が重なるたび、アルバロの目の奥の光が、ゆっくりと鋭さを増していった。フォート・ノックスという名の金庫と、どこかの王の酒蔵を合わせたような貯蔵庫の姿が、彼の頭の中ではっきりと形を取っていく。
やがて彼は、椀を卓に叩きつけるように置いた。陶器と木の板がぶつかる鈍い音が、広間の隅までぴんと響く。
「黒衣の者たち」
アルバロの呼び声に、入口近くで控えていた黒人兵たちが、一斉に姿勢を正した。鎖帷子の金属音と、槍の石突が床を打つ音が重なる。
「今すぐ、モクテスマの宮殿とテスココ王家の二つの宮殿を洗え。粘土で塗り固めた大箱、枝を編んだ箱、穀物庫としても使えるという箱を、すべて開けろ。紐を切り、蓋を割り、豆という豆を一粒残らず運び出せ」
彼の声には、血臭ではなく、金の匂いを嗅ぎつけた男の熱が混じっていた。
「一荷は2万4,000粒だ。荷の数と箱の数を、ここに書き記して持ち帰れ」
黒人兵たちは短くうなずき、革靴の音を石の上に鳴らしながら、広間から出て行った。残された女たちは、耳の奥でまだその足音を聞きながら、黙って椀の中の泡を見つめていた。
◇ ◇ ◇
夜がすっかり落ちたころ、テノチティトランの空には星がにじみ始めていた。湖から吹き上げる風が、乾いた豆の匂いを運び、宮殿の石壁にぶつけている。
モクテスマの宮殿の奥では、黒人兵たちが松明を掲げ、巨大な箱の列の前に立っていた。箱は、小枝を密に編み、その内側と外側を粘土で厚く塗り固めてある。六人がかりでもやっと動かせる大きさで、その表面には長年の埃が灰色の皮膜となって張りついていた。
兵のひとりが、箱を縛っている太い紐に剣の刃を差し込む。きしむ音とともに紐が切れ、粘土で固められた蓋が、鈍い音を立てて割れた。
次の瞬間、乾いたざらりという音とともに、暗い豆の流れが箱の縁からあふれ出した。松明の赤い光を受けて、カカオ豆の表面がわずかに光る。火であぶられたことのない生の豆は、焙じたものとは違う青く渋い匂いを放ち、粉塵となって兵たちの鼻腔を刺した。
「ひと箱に、荷が六百」
荷を数える番の男が、木板に刻んだ印を指でなぞりながら声を上げる。袋ひとつひとつは布越しに手のひらほどの硬さと重みを見せ、締め口に縛った紐を解くと、中からまた豆が流れ出した。
「六百荷が十箱……」
別の兵が、口の中で計算を繰り返す。
「一荷は2万4,000粒。六百荷で1,440万粒。それが十箱だから……1億4,400万粒だ」
声に出した途端、その数字の重さが、豆の匂いと一緒に胸にずしりと落ちた。足元の石床には、すでにこぼれた豆が厚く広がり、踏みしめるたびに乾いた音を立てる。
兵たちは、衣の裾やマントを袋代わりにし、豆をすくっては運び出した。布地の中でこすれ合う豆の音が、夜の宮殿の中にざわざわと満ちていく。
◇ ◇ ◇
その報告がテノチティトランの広間に届いたのは、夜半を少し回ったころであった。
アルバロはすでに同じ広間に女たちを再び集めさせていた。昼間よりも松明の数は多く、炎の赤が石の柱と女たちの黒衣を濃く染めている。汗と煙、乾いた豆の香りがまざり合い、空気は昼よりも重く甘い。
黒人兵の代表が膝をつき、額に浮かんだ汗を拭おうともしないまま、報告した。
「陛下の命じられたとおり、箱を十個開けました。それぞれの箱に、2万4,000粒を一荷とする荷が600ずつ。合計1億4,400万粒にございます」
兵の声が石壁に跳ね返り、数字だけが妙に冷たく広間に残った。女たちは思わず息を呑み、胸の内でその桁をゆっくりと数え直す。自分たちが一生目にすることのない量の豆が、たった三つの箱からあふれ出したのだ。
アルバロは笑った。唇の片側だけを少し持ち上げる、いつもの癖の笑いだったが、今日のそれには、はっきりとした歓喜が混じっていた。
「よくやった。だが、これは始まりにすぎん」
彼は女たちのほうを振り向いた。炎の光がその瞳に映り込み、暗い玉のように揺れる。
「お前たちのおかげで、湖の王家が隠していた宝の匂いを、ようやく嗅ぐことができた」
視線が、マトラルテン、シウァコアトル、トラソチトル、イツクィクァウア、トラウィスカリの上を順に滑っていく。女たちは思わず背筋を伸ばし、布の下で冷えた指先を握りしめた。
「マトラルテン〈28〉」
名前を呼ばれた第一王妃は、胸の奥の恐怖を押し込めて一歩前に出た。足裏に伝わる石の冷たさが、さきほど聞いた数字の冷たさと重なる。
「シウァコアトル〈24〉、トラソチトル〈19〉、イツクィクァウア〈18〉、トラウィスカリ〈18〉」
次々に呼ばれた名に、若い女たちは互いの姿を視界の端に捉えながら、前へ進んだ。香油の甘い匂いと汗の塩辛さが、布の中でわずかに混じり合う。
「今夜から、お前たちもわたしの妾とする」
アルバロの声は静かだったが、その静けさは、牢庭で血を撒いたときの冷たさとは別の重みを持っていた。
「テスココと湖の王家の血を、わたしの寝所と食卓へ引き寄せる。命と地位は、ここにいる二人と同じく保証しよう。お前たちの子も、わたしの子として扱う」
トイヤウアとヤコツィンの位置が、広間の中で改めて際立った。二人は自分たちの席から立ち上がり、新たに名を呼ばれた女たちのほうへ視線を向けた。そこには、同情と警告と、かすかな安堵が複雑に入り混じっている。
マトラルテンは、喉の奥まで上がってきた言葉を飲み込んだ。ネツァワルテンとテナミクスの顔が頭から離れない。だが、ここでうなずけば、子どもたちの未来に細いが確かな道が一本伸びる。彼女は静かに膝を折り、額を低く垂れた。
シウァコアトルは、腕の中で震えるシパクトリの体温を思い出しながら、同じように頭を下げた。トラソチトルは、歌うときとは違う震えを喉に感じながら、唇を固く結ぶ。イツクィクァウアの胸には、恐怖と奇妙な高鳴りが同時に湧き上がっていた。トラウィスカリは、遠く牢庭で倒れた夫の姿を心の奥に押し込み、腕の中のマシュトラの重さを思い出して目を閉じた。
広間に、布の擦れる音と、膝が石に触れる乾いた音が続けざまに響いた。その音の上から、カカオの香りと焼いた肉の匂いが、相変わらず甘く鼻を刺す。
アルバロは、その匂いを深く吸い込んだ。豆の香りと、女たちの髪や肌の匂いが、ひとつの新しい獲物の匂いとして彼の中に刻まれていく。
「湖は、今夜から別の王のために実る」
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後書き
本作におけるカカオやアステカ王家の財政・貯蔵庫の描写については、
河出文庫『チョコレートの歴史』(ソフィー・D・コウ/マイケル・D・コウ著・樋口幸子訳)を参考にしています。
脚注
「運搬人夫の日給は1日当たりカカオ豆100粒と言う記述もありますので、仮に日本円で運搬人夫の日給が1日当たり2万円とすると、カカオ豆1粒が日本円で200円と言う換算になります。1億4,400万粒だと日本円で288億円となり、国家の備蓄とすれば妥当と言えるでしょう。
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斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。
一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。
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【参考資料】
「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社
「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳) KADOKAWA
東浦町観光協会ホームページ
Wikipedia
【表紙画像】
歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
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