ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ

ひまえび

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第5章――「湖の鎖、石の秤」

第16話――「血の神殿を砕く日」

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 1520年8月3日の朝、トラテロルコの市場は、もう太陽の熱でむせ返り始めていた。

 湖から吹き上がる湿った風が、干し魚と香草と焼いたとうもろこしの匂いを一緒くたに運んでくる。石畳の上には色とりどりの布が広げられ、赤い唐辛子、黒い豆、黄色いカカオ、翡翠色の羽根、塩の白い山が、目に刺さるほど鮮やかに並んでいた。人いきれと土埃で空気は重く、耳の奥では、太鼓と笛と呼び込みの声が絶え間なくぶつかり合っていた。

 アルバロ〈26〉は、テスココの若き領主イシュトリルソチトル2世〈20〉に案内されながら、その市場にほとんど毎日のように通っていた。目的は、トラテロルコのポチテカたち、すなわち長距離交易商人のギルドの幹部たちと腹を割って話し合うことだった。

 ポチテカたちは、香辛料や宝石だけでなく、遠い土地の噂や地形までも運ぶ者たちだ。メキシコ高原から海へ、海からまた別の高原へ、武装した隊商を率いて何十日も歩き続ける。市場の中央近く、布の天幕で日陰をこしらえた一角に、彼らの長老たちが輪を作って腰をおろし、その前にアルバロとイシュトリルソチトルが座っていた。

 木の卓の上には、ぬるくなったカカオの飲み物と、焼きたてのトルティージャが置かれている。カカオの表面には薄く油の膜が張り、口に運ぶと、苦味と煙の匂いが舌と鼻の奥に残った。トルティージャは指先にまだ熱く、塩気の強い豆の煮込みを包んで噛むと、歯の裏で豆の皮がかすかにきしんだ。

 この日、ポチテカたちが持ち出したのは、護衛の話だった。

 彼らはカカオの買い付けのため、ソコヌスコ地方──この世界ではショコノチュコとも呼ばれる太平洋岸の湿った森──へ隊商を送り出す。そのうえで、メキシコ湾岸の交易港シカランコへも、プトゥン人との取引のために別の隊商を派遣する。どちらも、森と山と沼地を抜ける長い道のりだ。

 盗賊や敵対部族に備えて、彼らはアルバロに願い出た。

 ショコノチュコ行きの隊商には山刀を持った兵を、シカランコ行きには弩と火縄銃を備えた兵を、それぞれ護衛として付けてほしいという要求だった。

 アルバロが差し出した条件は、単純で冷たかった。

 護衛を出す代わりに、隊商が運ぶ商品から一定の取り分をもらう。塩、カカオ豆、ケツァル鳥の羽根、黒曜石、銅、翡翠……それらを「3割」と決めてしまったのだ。

 ポチテカたちは顔を見合わせた。天幕の下の空気が、ひと呼吸ぶんだけ重くなる。だが彼らはすでに知っていた。アルバロが渡したロバ100頭とラバ200頭の価値を。あの荷駄獣たちのおかげで、隊商の運べる荷の量は倍になり、踏破できる道も増えたのだ。

 しばし囁き合ったのち、長老格のひとりが、乾いた手を卓の上に置き、首を縦に振った。

 こうして契約は結ばれた。

 その見返りとして、ポチテカたちは各地から集めた交易品を山のように積んでアルバロのもとへ運んだ。

 食料品、香りの強い酒、男女の奴隷、細かい模様を織り込んだ綿布、大粒の塩、袋に詰めたカカオ豆、収穫したばかりの綿花、ケツァル鳥の羽毛、鋭さを光らせる黒曜石、赤く鈍く光る銅、深い緑に沈んだ翡翠。

 あまりの量に、倉の床がきしむような気がした。

 そのなかで、アルバロがとくに重宝したのは、山国の者ならではの感覚で選ばれた品々だった。

 ひとつはジャガイモの種芋だ。土を払ったばかりのそれは、手に取るとしっとりと冷たく、薄皮の下に詰まった澱粉の重みが掌にずしりと乗る。もうひとつは、凍らせて乾かした保存食チューニョだった。黒く皺だらけのその塊は、一見すると役に立たない石にしか見えないが、水で戻して煮込めば、長旅の兵士の胃袋を静かに満たす。

 貴族たちの間で喜ばれたのは、言うまでもなくカカオ豆だ。小さな茶色の粒は、飲み物にも菓子にもなり、さらにこの国の細かな貨幣としても使われる。指先でつまんで耳元で振れば、乾いた心地よい音がする。

 一方、とうもろこしや隠元豆、かぼちゃ、唐辛子、マゲイ(竜舌蘭)は、テノチティトランの周囲だけでも豊富に採れた。湖の上の帝国なのだから、魚類や水草、湖藻も、日々の食卓に上る。

 カカオ豆や綿花のようにメキシコ高原では育たないものだけが、ポチテカの背中とカヌーに乗って、遠い森や海辺から運び込まれてくるのだ。

 市場の喧噪のなかで、アルバロはその仕組みを頭のどこかで数えながら、焼きとうもろこしの香りとカカオの苦味を味わっていた。

 ◇ ◇ ◇

 アルバロとポチテカたちの関係は、互いに利益を分け合う「ウィンウィン」のものになりつつあったが、その陰で歯ぎしりしている者たちがいた。

 テノチティトランの神官たちだ。

 第一の不満は、アルバロが人身御供を禁じたことだった。

 かつては大きな祭りのたびに、神殿の石段は血で濡れ、心臓の匂いが風に乗って湖を渡った。その儀礼が、一声で止められた。

 彼らはアルバロの軍事力を恐れ、直接文句を言う勇気を持たなかった。そのかわりに、別の道を探った。

 ポチテカが各地から交易で得てくる男女の奴隷を、こっそり買い取ればいい。表向きは禁止されていても、地下の神殿でなら、誰にも見つからずに生け贄を捧げられる。彼らはそう考えた。

 テノチティトランの神官副長官オメナワ〈44〉は、トラテロルコのポチテカ総督マトラリン〈54〉に接触した。

 汗と香油と焼きとうもろこしの匂いが渦巻く市場の一角で、ふたりは向き合った。

「4人だけで良いから、奴隷を売ってくれ」

 オメナワの声は、周囲に聞こえぬよう押し殺されていたが、その目には血走った渇きがあった。

「アルバロ様が人間の生け贄を禁止しているからそれは出来ない」

 マトラリンは即座に答えた。言葉は静かだが、顎の角度が揺るがない。

「砂金をたっぷりやるから何とか頼む」

 オメナワは袖の内側から小さな皮袋を取り出し、かすかに振ってみせた。中で砂金がさらさらと音を立てる。

「砂金なんかどこにある?金、銀、宝石類はすべてモクテスマ様にお渡ししたんじゃなかったのか?」

 マトラリンの言う「モクテスマ様」とは、かつて王座にあった男の旧名だった。神官たちはいまだに、その名にすがりついている。

「内緒で隠しておいた物があるんだよ」

 オメナワの額には、汗が薄く浮かんでいた。砂金の匂いよりも、彼の身体から漂う焦りの匂いのほうが強かった。

「お断りだ。あんたたちは自分では戦わないくせに生け贄だけは要求するんだな。お前たちが反乱を起こし、テノチティトランがアルバロ軍に4ヶ所から攻撃された時、我々トラテロルコの者は応戦したけどテノチティトランのメシコ族はどこにも姿を見せなかったじゃないか」

 マトラリンの声が少しだけ大きくなり、その場にいた女たちの耳にも届いた。

 市場で働いている売り子たち──多くは逞しい腕をした女たちだった──も、いつのまにか副神官長を取り囲んでいた。籠からは唐辛子とトマトの匂いが立ちのぼり、女たちの頬には汗と粉塵が薄く張りついている。

「あなたがたは戦の時そこで突っ立っているだけでしたね。恥ずかしくはないんですか?これでは、女たちもあなたがたのために化粧もしないでしょうよ」

 ひとりの女がそう言い放つと、周囲からどっと笑いが起こった。油と香料を塗りたくった神官服の匂いが、唐辛子の煙に押し流される。

 オメナワは顔を赤くし、視線のやり場を失った。足下の石畳だけが冷たく、そこからじわじわと恥の冷気が脛を登ってくるようだった。結局、彼の目論見はそこで潰えた。

 だが、ことはそれだけでは終わらなかった。

 ◇ ◇ ◇

 のちに、ポチテカ総督マトラリン〈54〉と、オメナワの若い妻シトラリ〈20〉が、そろってアルバロの前に現れた。

 宮殿の一室は、石灰で白く塗られた壁が朝の光を反射し、外の市場よりも幾分ひんやりとしていた。窓の格子からは湖の匂いと、遠くの唐辛子の煙の名残が薄く入り込んでくる。

 マトラリンは、神官たちがいまだに人身御供を行おうとしていることを訴えた。

 シトラリは、さらに別の秘密を口にした。

 ──先王イツコアトルの宮殿のどこかに、モクテスマ一世が隠した財宝が眠っている。

 それは、彼女が偶然耳にしたささやきだった。夜の寝所で、オメナワが誰に聞かせるともなく漏らした言葉。その響きが、シトラリの中でいつまでも消えなかった。

 アルバロはふたりの訴えを、黙って聞いた。

 アステカの太陽神についての自分の認識を、根本から改めざるを得ないと感じていた。

 これまでは、数ある土着の神々のひとつにすぎないと考えていた。だが実際にはもっと凶暴で、血を欲しがる仕組みそのものが宗教の形をしていると分かったのだ。

 アステカの太陽神は、夜空に輝く星々を闇の象徴だとみなす。太陽は日夜この無数の星と戦っており、その星の数ほど捕虜を得て生け贄に捧げなければならない。ひとりひとりの捕虜が、ひとつひとつの星を意味する。

 そう信じている。

 想像するだけで、皮膚の上を冷たいものが走った。

 アルバロは身震いし、この太陽神信仰を湖盆地から叩き壊すと心に決めた。

 命令は容赦がなかった。

 テノチティトランの神官たちは、一人残らず捕らえられ、処刑された。血と香料の匂いに満ちていたピラミッドの頂上の神殿は、石ごと崩され、粉々に砕かれた。石塊が地面に落ちるたび、鈍い音が胸の奥に響き、長年蓄えられてきた血の匂いが、粉塵と一緒に風へと散った。

 跡地には、子どもたちの学校が建てられた。

 まだ新しい木材の匂いと石灰の臭いのする教室から、やがて読み書きを学ぶ声や笑い声が、湖の風に乗って広場へ流れ出すことになる。その光景を思い描きながら、アルバロは、かすかに顎を引いた。

 金銀財宝にはさほど興味はなかったが、王国を築き上げるには金がかかることぐらいは理解していた。人々の腹を満たし、兵を動かし、堤を補修し、砦を築く。そのどれもが、粒と金属の形をした時間を必要とする。

 ◇ ◇ ◇

 アルバロの脳裏には、別の日の光景も蘇っていた。

 モクテスマ二世の私室に踏み込んだ、あの夕刻のことだ。

 テノチティトランは低緯度にあるが、高度は2,000m近い。暑くも寒くもない心地よい空気が、石の壁を撫でていた。毛皮のコートを着こむ必要もないその気温のなかで、モクテスマは、まるで明朝の後宮の住人のような装いで座していた。

 腰までとどく緑の羽根飾りをうしろに垂らした黄金の額飾り。これまで目にしたこともないほど典雅な織物で仕立てられたマント。

 首には宝石で縁どられた黄金の首飾りがいくつも重ねられ、手首には羽毛と紅玉でできた腕輪が巻かれている。耳には空色のトルコ石の耳飾りが揺れ、動くたびにかすかな金属音を立てた。

 腰には柔らかな木綿の腰布。その裾は長く伸び、歩けば床をかすめる。脚には黄金の房飾りのついた豪華なすね当て。肩には青いマントが、まるで水面のような光沢を放ちながら滑るように掛けられていた。

 部屋の中央には食卓がしつらえられていた。

 ちょうど夕食時だったのだろう。焼いた肉、煮込んだ豆、蒸したとうもろこし、野鳥のスープ、魚の香草焼き、果物を煮詰めた甘い皿……。30皿は優に超える料理が、円形に並べられていた。

 驚かされたのは、そのひとつひとつに小さなコンロが付いていたことだ。皿の下からは、弱い火がじんわりと熱を送り、料理をいつまでも温かいまま保っていた。肉を切るたび、香辛料と油の匂いが生ぬるい空気の中に立ちのぼる。

 モクテスマが亡くなると、アルバロは兵士たちに命じて宮殿内の戦利品を押収させた。

 そのときだった。

 ある兵士が、廊下の壁の一部に目を留めた。そこだけ漆喰の色がわずかに新しく、叩くと音が違ったのだ。

 ハンマーの一撃で壁が崩れると、冷たい空気と一緒に埃が舞い上がり、その向こうに倉庫が姿を現した。ひとつだけではなかった。細長い廊下の先に、同じような部屋がいくつも連なっていた。

 中には、おびただしい量の金と銀、宝石類が眠っていた。ランプの火が揺れるたび、金板や金杯が鈍い光を放ち、翡翠とトルコ石が水のような色で応えた。

 のちにアルバロは、その場所をシトラリに見せた。

 だが彼女は、そこで首を横に振った。

 ここではない──彼女が聞いた隠し場所は、別の宮殿だという。

(一体どれだけの財宝を、あの王は湖の下に埋めていたのか)

 アルバロはそう思いながらも、興味の半分以上は、別のところに向いていた。

 シトラリが、なぜ自分の夫を裏切ってまで口を開いたのか。その理由のほうだ。

 ◇ ◇ ◇

 シトラリは多くを語らなかったが、周囲の者たちから少しずつ事情が漏れ聞こえてきた。

 彼女はセンポアラ──ベラクルスの北方にある海辺の町──の出身だという。

 センポアラの戦士だった先夫は、アステカに捕らえられた捕虜のひとりだった。

 メソアメリカでも指折りの美貌の持ち主であったと噂される男は、祭りの日、いの一番に生け贄にされた。

 その儀式をとり仕切り、胸を裂く合図を出したのが、他ならぬ神官副長官オメナワだった。

 剣と刃が心臓を抜き取る瞬間、炎と血の匂いの中で、シトラリの内側に何かが凍りついたまま残った。

 その男の妻が、のちにオメナワの正妻となり、ついにはアルバロの前に立って彼を告発したのだ。

 アルバロは、彼女のアステカに対する憎しみの向きと深さを、ようやく理解できた気がした。

 センポアラの町をこの目で見たい。

 チチメカや他の部族が追いやられた森と違い、海から吹く風と塩の匂いのする港町。そこに住む人々の顔と、彼らがどんな思いで山の帝国を見上げているのかを。

 そして、もうひとつ。

 カカオの産地ショコノチュコ──ソコヌスコ地方──も訪ねる必要があった。チューニョやジャガイモが山の食卓を救うなら、カカオの森は王国の財布を膨らませる。

 だが、センポアラは大西洋側、ショコノチュコは太平洋側にある。

 同じ月のうちに両方へ向かうには、道が完全に逆なのは明らかだった。

 アルバロは地図の上で指を滑らせ、静かに決めた。

 センポアラへ向かう。

 湖の風が窓から吹き込み、遠くトラテロルコの市場のざわめきが微かに届いた。

 血と太陽の旧い神話のかわりに、交易と学校と畑の音で埋め尽くされた湖盆地を思い浮かべながら、アルバロは次の一手を、静かに心の中で数えていた。
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