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第5章――「湖の鎖、石の秤」
第15話――「湖の金庫、市場の香り」
しおりを挟む(1520年8月2日午前・テノチティトラン 王宮)
テノチティトランの北へ伸びる堤を、黒いカヌーが静かに滑っていった。湖の水面は午前の光を受け、細かなさざ波の一枚ごとに銀色を返している。櫂が水を掻くたび、冷えた水と濡れた木の匂いが立ちのぼり、鼻腔の奥をひやりと撫でた。
カヌーの先頭に、アルバロ・デ・モリーナが立っていた。白い綿布のマントの下には薄い鎖帷子を身につけ、首には簡素な金の輪だけを下げている。今日は征服王ではなく、湖の主が市場を見に来た、という顔を見せるつもりだった。
彼のすぐ後ろに座っているのが、前テスココ王家の第一王妃だった女、マトラルテン〈28〉だ。黒く長い髪は水鳥の羽根で編み上げられ、肩からは淡い青の綿布と薄い羽毛を織り合わせたマントが流れ落ちている。喉もとには翡翠とトルコ石を連ねた首飾りがひと筋、歩くたびに触れ合って、かすかに陶片のような音を立てた。
やがて、湖を隔てて向こう側の島が広がる。テノチティトランとは石の堤でつながれた北の島、トラテロルコである。低い丘のような土盛りの上には、市場を取り囲む建物と、その背後にいくつもの神殿の階段が重なっていた。ケツァルコアトルの神殿の白い壁、暦の神殿の赤い帯、主神殿の高い階段。その輪郭が、朝の光の中で滲んで見えた。
上陸用の桟橋に舟が横付けされると、すぐに湿った木板の匂いから、土と人と香の匂いへと空気が変わった。石段を上がる途中から、もう市場の音が押し寄せてくる。子どもの甲高い笑い声、売り手が値段を叫ぶ声、ポチテカたちが荷運び人夫に出す短い命令の声。陶器がぶつかる乾いた音と、布を広げるざらりとした音が、一つのざわめきに溶けていた。
石畳の市場広場に足を踏み入れた瞬間、マトラルテンの瞳が大きく見開かれた。
視界の端から端まで、色と形が詰め込まれていた。赤い唐辛子が紐で連ねられ、垂れ下がった束は血の幕のように揺れる。黄色いとうもろこしの穂が山になり、青と白の綿布が折り畳まれて層を成す。翡翠とトルコ石を嵌め込んだ首飾り、ケツァールの尾羽を束ねた扇、ジャガーの皮を広げた敷物。鉄と車輪以外のほとんどすべてがここにある、と言ってよかった。
アルバロが来てからは、鉄鋼以外はここで揃う。車輪も牛も豚も買える。馬と鉄鋼だけはアルバロ軍しか持っていない。
匂いもまた、層を成していた。焙煎したカカオの甘く焦げた香り、焼きとうもろこしと焼き魚の脂の匂い、石皿の上ですり潰される唐辛子の刺すような刺激臭、すり潰したトマトと緑の葉の青臭さ。そこへ、汗と土と香油が混じった人いきれが重なり、喉の奥がじわりと熱くなる。
アルバロは一歩立ち止まり、鼻から深く息を吸った。
「よく嗅いでおけ、マトラルテン。湖の金庫がどんな匂いか、だ」
彼は半ば冗談めかして言い、片目だけで彼女の反応をうかがった。
マトラルテンは唇を閉じたまま、ゆっくりとうなずいた。テスココの宮殿の中庭では決して感じることのなかった濃さだった。そこでは、選ばれた品と音だけが整えられていた。ここには、選ばれる前の世界のすべてがむき出しで積み上がっている。
彼女の前を、荷物を背負った人夫が通り過ぎていく。背中の木枠には、麻袋に詰められたカカオ豆が何袋も括りつけられ、歩くたびに中の豆がさらさらと音を立てた。近くの屋台では、売り子の若い女がカカオ豆の小さな山に手を差し入れ、指のあいだから豆を滑らせて、客の目の前で粒の揃い具合を見せている。
「あれが、今のおまえと子どもたちにくくりつけられている数だ」
アルバロは、豆の山を顎で示した。
「王家の倉には、袋詰めだけで2億粒ほど入っている。今日のために、1千万粒まで自由に使うと決めた。市場の帳簿に記すだけでよい。欲しいものは、全部指させ」
1千万粒。日雇いの人夫10万日分に当たる粒の数字が、マトラルテンにはすぐに頭の中で形になった。彼女は思わず指先を握りしめる。テスココの王妃だった頃でさえ、そんな単位で倉の中身を動かしたことはなかった。
「……本当に、何でも」
「何でもだ。おまえ個人の飾りでも、テスココの子らに渡す布でも、トラテロルコの商人の顔を立てるための酒でも、好きに選べ」
アルバロは軽く肩をすくめ、目だけは市場の全体を測っていた。どの通路が人で詰まり、どの屋台の前で行列ができ、どのポチテカが誰と囁き合っているか。女の買い物に付き合うふりをしながら、彼はこの湖の心臓の拍動を指で数えていた。
まずマトラルテンが足を止めたのは、布の区画だった。広げられた綿布に指を滑らせる。細かく撚られた糸の密度が、指先に心地よく引っかかる。テスココで織られた布より、ほんの少しだけ軽く、柔らかい。おそらくトトナカの土地から来た綿だ、と彼女は触っただけで見当をつけた。
「これと、これと……それから、その薄青のものも」
彼女が指さすたび、売り子の女が色布を手際よく畳んでいく。畳まれた布の束が、マトラルテンの腕にずしりと乗った。その重みが、現実のものとしての幸福感を肩に食い込ませる。
支払いは、アルバロと一緒に来ていた書記が担った。腰に下げた袋からカカオ豆をひと握り、ふた握りと数え、さらに市場の管理人を呼びつけて「今日一日、マトラルテン王妃の帳簿に付けろ」と命じる。市場の秤の横で、それを聞いていたポチテカの男たちが、目を見交わした。
次に二人は、宝飾と羽根飾りの通りへ足を向けた。地面には色ごとに仕分けられた羽根が並べられている。ケツァールの尾羽が深い緑で一角を占め、その横には赤いコンゴウインコ、黄色いオウムの羽根が山になっていた。羽根を束ねて作った扇をひと振りすれば、光の中で色が撥ね、ほとんど液体のように揺らめいた。
マトラルテンは、翡翠の粒を嵌め込んだ金の耳飾りを手に取った。指先に感じる金の冷たさと重さ、翡翠の表面のひんやりとした滑らかさ。耳たぶに当ててみると、彼女の褐色の肌の上で、石の緑が水のように浮かび上がる。
「似合う」
アルバロは、まだ値段を聞く前に言い切った。
「それも持って行け。耳だけでなく、手首と足首も同じ緑で縛ってやろう」
売り子は笑い、早口で「王の寵姫にふさわしい品だ」とまくしたてる。書記がその分の価格を聞き取り、また豆を数え、帳簿に印を付けた。
市場の中央付近では、粘土のかまどの上で焼けるトルティーヤの匂いが、腹の底を直接掴んで揺すぶってきた。白いとうもろこしの生地が薄く延ばされ、熱い石板の上に投げられる。反り返った縁から蒸気が立ちのぼり、小麦とは違う、とうもろこし特有の甘く青い香りが融け出す。
「一枚もらおう」
アルバロは、焼きたてのトルティーヤに、焼き魚の身と唐辛子入りのソースを挟ませた。マトラルテンにも同じものを渡す。
噛むと、薄い皮が歯に張り付くように柔らかく、内側から魚の脂と唐辛子の辛味が広がる。舌の上でじわりと汗がにじむような辛さだが、後味に残るとうもろこしの甘さが、熱を静かに鎮めていく。
「テスココの厨房では、唐辛子をここまで使わせてもらえなかった」
マトラルテンは、口の端についたソースを指で拭いながら笑った。
「兵の分が足りなくなる、といつも言われた」
「なら、ここから運ばせればいい」
アルバロは、魚を咀嚼しながら短く答える。
「湖の都市の収益の5分の1は、もうこちらに向かって流れている。香辛料をいくら増やしても、秤の片側にはちゃんと戻ってくる」
食べ終わると、喉の奥に薄く残った辛味を、カカオの飲み物で洗い流した。泡立てたチョコラトルは、砂糖など入らぬぶん、苦みと酸味がはっきりしていて、舌の側面を刺す。唐辛子と香料を混ぜたものは、喉を通る瞬間に一度だけ炎のような熱を放ち、そのあとで内臓の奥に重い甘さを残した。
マトラルテンは杯を持つ指先に、ほとんど微かな震えを感じた。それは恐怖ではなく、熱と甘さのせいだけでもなく、今、自分が「許された者」の列に立っているという実感から来るものだった。カカオを飲むことが許された階級、その一番上にいる男が、自分の隣で同じ杯を傾けている。
通りの端では、生きた七面鳥や犬、色とりどりの鳥を籠に入れて売る店が並んでいた。籠の中の鳥が羽根を震わせるたび、羽根の粉が空気に舞い、羽毛と糞の臭いが鼻を突く。その向こうからは、香の炊かれた匂いがかすかに流れてくる。神殿に捧げるための香木や樹脂の屋台が、石段のふもとに並んでいるのだ。
「鳥をいくつか選べ」
アルバロは、籠の列の前で足を止めた。
「テスココの庭に新しい声が要る。湖の音ではなく、おまえの子らだけが聞く声だ」
マトラルテンは、籠の中を覗き込み、ひときわ尾羽の長い青い鳥を指さした。鳥が首を傾げ、黒い瞳で彼女を見返す。その目の黒さが、一瞬だけ遠い湖畔の記憶を呼び起こし、すぐに現在の光景に上書きされた。
選ばれた鳥が籠ごと買われ、また豆が数えられ、帳簿が汚れていく。市場の管理人は何度も頭を下げ、「新しい王は気前がよい」とあちこちで囁いた。その囁きは、布の擦れる音や、石畳を踏む足音に紛れながらも、確実に市場全体へ広がっていった。
日が少し傾き、広場に立つ人の影が長く伸び始めた頃、マトラルテンの腕には布と羽根飾りと小箱が積み上がり、後ろに控えた従者たちの手も、籠や包みでふさがっていた。指先には新しい指輪がはまり、耳にはさきほどの翡翠の飾りが揺れている。歩くたび、金と石が軽く触れ合い、その小さな音が彼女自身の歩調を教える拍子木になっていた。
アルバロは、市場の出入り口のほうへ視線を投げた。そこでは、ポチテカの年長の男が、彼らの動きをじっと見ていた。豊かさをひけらかしすぎた者が処刑される掟を知っている目でありながら、新しい王がここでどれほどの粒を動かすかを測っている目でもあった。
「覚えておけ」
アルバロは、マトラルテンに小声で囁いた。
「今日ここで動かした粒の数は、湖の表情を変える最初の一掬いにすぎない。おまえが腕に抱えている布と鳥と石は、その証文だ」
マトラルテンは、腕の重さを少し持ち直した。布の肌触り、羽根の柔らかさ、石の冷たさ。それぞれが、テスココ王家の第一王妃だった自分と、今ここで王の寵姫として歩いている自分のあいだをつなぐ、目に見える綱だった。
湖の風が、トラテロルコの市場を横切って吹き抜けた。唐辛子の匂いとカカオの香り、汗と香油の臭いをまとめて抱え上げ、神殿の階段へ、そして遠くテスココの岸へと運んでいく。
その風の中で、アルバロは目を細めた。ここで嗅いだ匂いと聞いた声、数えた粒の数を、頭の中の石板に刻み付ける。トラテロルコの喧騒は、もう彼にとって単なる市場のざわめきではなかった。湖の王冠の、新しい歯車の音そのものだった。
※ポチテカ:アステカ帝国における武装隊商の長距離交易商人ギルドのこと。テノチティトランやトラテロルコを拠点にカカオ産地ソコヌスコなど各地を巡り、貢納品の集荷と流通、さらには新征服地の諜報も担った。車輪も家畜もない世界で荷は人夫トラママが運び、ポチテカは羽根飾りやジャガーの皮、金・翡翠・トルコ石など高級品を扱う特権階級とされたが、富を誇示しすぎると処刑と財産没収の対象となった。
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