ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ

ひまえび

文字の大きさ
72 / 137
第5章――「湖の鎖、石の秤」

第27話(前編)――「朝の杯、海の鎖」

しおりを挟む
―――――――――――――――――
 (1520年10月1日午前7時。グリハルバ川河口ポトンチャン砦)
―――――――――――――――――

 夜の湿り気がまだ石に残り、砦の中庭には潮の気配と炭火の煙が薄く漂っていた。東の空は淡く、カンペチェ湾から吹く風が、椰子酒の甘い酸味と焼いた魚の脂をいっしょに運んでくる。火のそばでは先住民の女たちが大鍋をかき回し、木杓子が鍋肌を叩く音が太鼓の低い刻みに混じっていた。蒸気の中で唐辛子が刺すように立ち、煮た豆の濃さが腹の奥へ落ちてくる。

 アルバロ〈26〉は杯を受け取り、喉へ流し込んだ。杯の縁は夜気で冷え、酒は火のそばでぬるんでいる。舌先に触れたときだけひやりとして、すぐ香草の苦みが追いかけてきた。笑い声が上がり、踊りの足が砂を蹴り、羽根飾りが擦れて乾いた音を立てる。彼はそれを見て、勝利の宴であるだけではなく、今の自分がこの土地の食い物と飲み物を動かせる位置にいるのだと、手の重さで確かめていた。

 マリア・デ・クエリャル〈27〉は、杯を持つ手を揺らさずに彼の横へ寄った。白い肌は朝の光でさらに薄く見え、汗の粒が鎖骨のくぼみに溜まり、首を動かすたびに小さく光った。花と石鹸の匂いに、椰子酒の甘さがかすかに重なる。マリアはアルバロの耳もとへ口を近づけ、吐息を落とすように言った。マリアは「今のままで満足した顔をしてはだめよ」と言った。

 アルバロは笑いかけたが、目だけは杯の縁の水滴を見ていた。水滴は指の熱で広がり、すぐ消えた。マリアはそれを見逃さず、言葉を続けた。マリアは「あなたが止まれば、スペインの王が動く。王が動けば、あなたの船が縛られる」と言った。声は低く、宴の喧噪に溶ける程度の強さだったが、中身は薄い刃のように迷いを削った。

 反対側から、カタリナ・スアレス・マルカイダ〈23〉が肩を寄せてきた。彼女は若さの熱を隠さず、頬が少し赤い。指先がアルバロの前腕をなぞり、革の袖の上からでも体温が伝わる。カタリナは「縛る鎖は、海に浮かんでいる」と言った。視線は中庭の外、まだ暗い海の方向へ向いていた。カタリナは「カリブ海を全部、あなたの海にすればいい。港も島も、潮の流れも。船の腹が通る道を、先に取るの」と言った。

 遠くで貝殻笛が鳴り、短い高音が朝の空気を裂いた。先住民の女が皿を運び、焼きとうもろこしの焦げ目が鼻をくすぐる。アルバロの胃は素直に喜び、同時に頭は別の数を数え始めた。島が1つ、港が1つ。水桶の補給、薪、帆の縫い糸、塩漬け。そこへ火薬と鉄。彼の目は宴の輪の内側を見ているのに、心は海図の上を滑っていた。

 マリアは、言葉で押すだけでは足りないと知っている顔をしていた。彼女はアルバロの膝に指を置き、ほんの一瞬だけ力を込めた。触れた場所が熱を持ち、体の芯が反応するのがわかった。マリアは「条約の線なんて、紙の上の傷よ」と言った。そこで笑みを作り、しかし目は笑わない。マリアは「トルデシリャスの線が、あなたの兵の喉を渇かせるなら、その線の向こうから水を奪えばいい」と言った。

 カタリナはそれを受け、さらに先を言葉にした。カタリナは「ブラジルも」と言った。短く言い切ってから、杯を傾ける。酒が唇を濡らし、白い歯の間に一瞬だけ光が入った。カタリナは「砂糖も木も、港もある。そこを押さえれば、カリブの島は干からびない。南の大陸を握れば、海は倉になる」と言った。

 アルバロは椅子の背に体重を預けた。木が軋み、床の砂が鳴る。汗で湿った外套の裏が背中に貼りつき、宴の熱が急に現実味を帯びた。彼はこの場で軽口を返すこともできたが、妻たちは軽口で済ませるつもりがなかった。二人は同時に黙り、彼の返事だけを待った。黙ることで、喧噪の中に小さな穴を開け、その穴に彼の意志を落とさせようとしていた。

 マリアは視線を上げ、砦の上の見張り台を見た。潮風で布がはためき、見張りの槍先が朝日に白く光る。マリアは「あなたはもう、ここだけの王じゃない」と言った。声は穏やかだったが、意味は逃げ場を塞いだ。マリアは「海の王になりなさい。海を取れば、スペインの王もポルトガルの王も、あなたの船を数えるしかなくなる」と言った。

 カタリナは笑って、しかし笑い声は立てなかった。カタリナは「アフリカも」と言った。指で自分の首筋を軽く叩き、汗を拭う仕草を見せる。そこには熱い土地の乾きが想像できた。カタリナは「人も金も、港も出る。ここで火薬を作るなら、向こうの海岸も押さえなきゃいけない。あなたの船が水と食料を取れる場所を、鎖みたいに並べるの」と言った。

 アルバロの耳に、鍋の煮え立つ音が入った。泡が弾け、油がはぜ、木皿が重なり合う乾いた音が続く。皿の上の湯気は濃く、今この場の幸福を強く主張していた。だが、二人の妻の言葉は、その幸福をそのままにせず、出航後の水桶と補給の段取りへ移し替えた。二人の白い肌は光を反射し、視線を集め、近づいた者の呼吸を乱す。それが武器だと、アルバロ自身が早くから理解していた。

 彼は杯を置いた。木の台に当たって、鈍い音がした。周囲の踊りは続き、歌は途切れない。だが、彼の前の空気だけが変わった。アルバロは二人の顔を順に見た。マリアの静かな目、カタリナの燃えるような目。その両方が、怠けたい心を許さない色をしていた。

 アルバロは「順番に取る」と言った。誰に聞かせるでもなく、しかし二人には届く強さで言った。アルバロは「カリブを鎖でつなぐ。次に南の大陸の港を押さえる。最後に、向こう岸の水と人の出る場所も取る」と言った。言い終えた瞬間、胸の内側で何かが固まる手応えがあった。宴の熱ではなく、決めた者の冷えた熱だった。

 マリアはそれを聞き、薄く息を吐いた。勝ち誇るのではなく、手を抜かなかった者の安堵として。マリアは「いい子」と言った。言葉は甘いのに、喉の奥へ刺さった。カタリナは笑い、指先でアルバロの杯を持ち上げて彼の手に戻した。カタリナは「飲んで。出航前に、あなたの身体も決意も温めておいて」と言った。

 アルバロは杯を受け、酒をひと口だけ飲んだ。香草の苦みが鼻へ抜け、波の音が砦の外で低く続いた。火の粉がひとつ跳ね、夜の名残の湿った空気の中で、すぐ消えた。宴はそのまま続く。だが、三人の中では、もう航海が始まっていた。

―――――――――――――――――
挿絵は、『アステカ王国』です。

出典は、『小学館 日本大百科全書「ニッポニカ」』です。
挿絵は、『メソアメリカ』です。

出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P10』です。
挿絵は、『17世紀初めのカリブ海地域』です。

出典は、『中公新書「物語ラテン・アメリカの歴史」増田義郎著P139』です。
挿絵は、『テノチティトラン侵攻「コルテス」』です。

出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P115』です。
挿絵は、『スペイン軍進路』です。

出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P103』です。
挿絵は、『テスココ湖周辺図』です。

出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P121』です。
挿絵は、『メソアメリカのカカオの産地』です。

出典は、『河出文庫「チョコレートの歴史」ソフィー・D・コウ:マイケル・D・コウ著。樋口幸子訳。P111』です。
挿絵は、『テノチティトラン地図』です。

出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P137」増田義郎著。P137』です。
―――――――――――――――――
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【アラウコの叫び 】第4巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日21:40投稿】 4巻は、序盤は「推理もの」、中盤から後半は「ロマンスもの」が展開されます。 ・サンティアゴで起こる「事件」と「裁き」 ・「アンデスの悪魔」として悪名を轟かせた狂気の老人カルバハルの存在感 ・ニドス家の兄妹の「行く末」 ・イネスとバルディビアとの「出逢い」と「結末」 大きく分けてこの様な展開になってます。 ------------------- 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

江戸の夕映え

大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。 「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三) そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。 同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。 しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。

楽将伝

九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語 織田信長の親衛隊は 気楽な稼業と きたもんだ(嘘) 戦国史上、最もブラックな職場 「織田信長の親衛隊」 そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた 金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか) 天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。 【登場人物】 帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。 織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。 斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。 一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。 今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。 斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。 【参考資料】 「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社 「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳)  KADOKAWA 東浦町観光協会ホームページ Wikipedia 【表紙画像】 歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

処理中です...