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第6章――「波の鎖、南の潮」
第8話(前編)――「灯の誓い、朝の当番」
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―――――――――――――――――
登場人物〈男性〉
ディエゴ〈28〉(遠征司令官、大尉) アルバロ〈27〉が遠征の際に名乗る仮名だ。アルバロは新大陸の皇帝を名乗り、新大陸からスペイン人勢力を追い出す意志を持つ。ただ、皇帝が前線へ出る格好は避けるため、現場では「ディエゴ」を名乗って軍を率いる。妻や妾、侍女、兵は真相を知らされておらず、ディエゴを高級将校だと受け取っているため、呼び方も態度もその前提で統一されている。
ペドロ・サラサル〈29〉(雇い入れ・船大工) 板の反りと釘の打ち方を知る。小舟の修理と簡単な補修を任される。
ミゲル・デ・オルティス〈16〉(雇い入れ・荷役見習い) 母と共に港へ流れ着いた。成人後は部下に取り立てる方針で、当面は荷役に回される。
―――――――――――――――――
登場人物〈女性〉
サク・ニクテ〈22〉(正妻) コスメル島出身の先住民。コスメル島部隊5,000名の隊長。上陸地の井戸と倉を先に押さえ、配給と整列で隊の崩れを防ぐ。妊娠中〈10月半ば出産予定〉だが、腹の子の動きを隠さず前に立つ。
マルタ・ロペス〈19〉(妾・新任) キューバ島の小教会にいた司祭の家で暮らしていた女性。寝具と衣類を預かり、針仕事で傷みを直してきた。祈祷文と聖歌を覚えており、人前でも声が崩れにくい。読み書きは得意ではないが、手順を守るのがうまい。過去の功績により、ディエゴの妾に抜擢された。
ドニャ・ベアトリス〈30〉(妾・新任、スペイン人) セビリア出身。夫はサンチャゴ大聖堂に属する聖職者で、説教と告解の取りまとめに関わっていた。夫は旧来の権力筋と近く、城塞の内側の噂や名簿の流れにも通じていたが、争いの後に失脚し、姿を消した。ベアトリスは生き残りのためにディエゴへ好意を示し、名と事情を取引にする形で近づく。遠征には侍女として付いてきたが、口と香りで間合いを詰める癖があり、ディエゴは情報源として手元に置いた。第4話後編で功績を上げ、妾に抜擢された。
イネス・アルバレス〈26〉(妾・スペイン人) エストレマドゥーラ出身。夫はキューバ東部の砂糖農場の経営者で、圧搾機と倉、労働者の手配まで握っていた。夫は騒乱の夜に殺され、農場は人手と道具だけが残った。イネスは農場の内側を知り、誰が怠け、誰が盗み、誰が働いたかを具体で言える。ディエゴに好意を匂わせ、遠征では侍女として衣類や寝具の手配にも回るが、利で動く言い回しが抜けず、旧勢力との結びつきも疑われている。ディエゴは現場の証言を引き出すためにそばへ置いた。
クララ・デ・アビラ〈20〉(妾・新任) サントドミンゴの司祭館で同居していた女性。台所だけでなく家計簿と支払いの控えを任され、買い物の値と銅貨の数を間違えない。表に立って働いて稼いだ経験は乏しいが、帳面と鍵の扱いで屋敷を回してきた。
レオノール・メンドーサ〈22〉(妾・新任) イスパニョーラ島の司祭館で客間と寝具を預かっていた女性。割れ物や布の扱いが丁寧で、物の置き場を覚えるのが早い。先住民の女たちの言葉を少し知っており、水場や台所の伝言役に回れる。
ドニャ・テレサ・デ・バルデス〈31〉(妾・新任) 処刑された旧支配者の妻。家の出納と帳面の付け方を知り、クララの補佐に回る。
ドニャ・アナ・デ・ラ・クルス〈28〉(妾・新任) 幼い娘を連れて忠誠を誓う。台所の段取りと保存の扱いを知り、マルタの区画に回される。娘ルシア〈6〉は母と同じ区画で寝起きする。
マリア・デ・オルティス〈38〉(妾・新任) 息子ミゲル〈16〉の母。針仕事と洗い物を請け負い、寝具と衣類の手入れを任される。ディエゴの夜伽にも応じ、サンファンにおける散策にも付き合い、互いに心を通じ合わせる。
フアナ・デ・ルナ〈21〉(妾・新任) 皿洗いが早く、細かな始末が丁寧だ。水場の手として雇われる。
エルビラ・グスマン〈18〉(妾・新任) 水瓶運びと倉の戸の扱いを覚えるのが早い。運搬と戸口の手として雇われる。ディエゴに忠実。
―――――――――――――――――
(1521年6月10日朝。サンフアン港旗艦提督室)
ここ数日、夜になるとディエゴは提督室の灯を落としていた。油皿の火が小さく揺れ、舷窓から港の湿った風が入る。帆布の酸い匂い、松脂の甘い焦げ、濡れた縄の匂いに、女の香油の匂いが重なる。狭い艦内では、匂いも足音も隠れない。
侍女たちは以前から、他の妾と同じように扱ってほしいと訴えていた。ディエゴは、そのたびに断ってきた。女同士の競り合いが増えれば、食事の席や寝具の扱いにまで影響が出る。そうなれば船の働きが鈍る。ディエゴはそれを嫌っていた。
だが最近は、通路ですれ違うたびに肩が当たった。戸口でわざと立ち止まり、視線を外さない者もいた。夜だけではない。昼の水場でも、寝具の区画でも、誘いの言葉と接触が続いた。曖昧なままにしておけば、陰で揉めるだけだ。ディエゴはそう判断し、順番に呼んで答えを出させることにした。
最初に呼ばれたのはイネス・アルバレス〈26〉だった。提督室へ入ると、イネスは膝をつき、背筋を伸ばした。頬は赤いが、目は揺れていない。生き残るために何を言うべきかを、よく分かっている顔だった。
ディエゴは机の前に座り、はっきり言った。
ディエゴはこう言った。「イネス。今夜、決める。侍女のままか。俺の妾となり、忠誠を誓うか。どちらだ」
イネスはすぐに答えた。「提督閣下、後者です。私はこの船で生き残ります。奥方様の規律にも従います」
ディエゴは念を押した。「妾になれば、夜だけの話では済まない。船の中では、サク・ニクテの命が家の命だ。お前はサク・ニクテに逆らわない。それでもいいか」
イネスは目を逸らさずに言った。「承知しております。私の立場は分かっています」
次の日はクララ・デ・アビラ〈20〉、その次はレオノール・メンドーサ〈22〉だった。2人とも新任で、声が少し震えた。クララは指先を握りしめ、レオノールは息を整えてから言葉を出した。それでも答えは同じだった。侍女のままでは立場が曖昧で、狭い船の中ではそれが危ない。だから妾になる、と。
ドニャ・テレサ・デ・バルデス〈31〉は、口調が落ち着いていた。
テレサはこう言った。「提督閣下。私は妾となることに同意いたします。ただ、船の仕事が乱れます。奥方様のご負担が増えるなら、私に管理をお任せください」
ディエゴは短く答えた。「分かった。必要になれば任せる」
ドニャ・アナ・デ・ラ・クルス〈28〉は静かに頷き、フアナ・デ・ルナ〈21〉は涙を拭ってから言い切った。「提督閣下のお側で働きたい」と。ここまで来ると、ディエゴにとっては人数の問題ではなく、船の決まりを一本にそろえる問題になっていた。
最後に呼ばれたのがエルビラ・グスマン〈18〉だった。幼さの残る顔だが、爪の間には灰が入り、指には小さな切り傷があった。水や桶を扱う手だった。
ディエゴは同じ問いを投げた。
ディエゴはこう言った。「エルビラ。侍女のままか。妾となり忠誠を誓うか。どちらだ」
エルビラは胸の前で手を重ね、まっすぐ答えた。「提督閣下。私は妾となります。私は提督閣下に誠心誠意お仕えします。嘘はつきません」
ディエゴは言葉を選んで返した。「誠心誠意は、口で言うほど簡単ではない。守る順番がある。サク・ニクテ、次に船の規律、それから俺だ」
エルビラは唇を噛み、それでも頷いた。「承知いたしました。奥方様にも従います。ただ、私は提督閣下に恥をかかせたくありません」
こうして7人は全員、妾となることに同意した。曖昧だった立場がはっきりし、守るべき決まりも形になった。ディエゴが欲しかったのは、それだった。
だが翌朝、その形は別の偏りも生んだ。正妻のサク・ニクテは声を荒げず、表情も崩さない。けれど仕事の割り振りが、少しずつ片方へ寄っていった。奥方の命令は、船の中では逆らえない。
イネスは昨夜の番を終え、早朝に起きた。顔にはまだ熱が残っているが、手は速い。厨房の入口で頭を下げた。
イネスはこう言った。「奥方様、おはようございます。今朝の準備は私が先に動きます。何を優先すればよろしいでしょうか」
サク・ニクテは火の具合を見て答えた。「鍋の湯を守って。果物は皿へ。床は濡らさない。提督閣下の席は先に整える」
イネスは「承知いたしました」と返し、すぐ動いた。周りもそれを見ている。余計な言葉は出ない。
一方、エルビラには重い仕事が続いた。灰捨て、水2桶、床拭き、樽の口の点検、鍋洗い。どれも必要だが、1人に固めれば身体が先に擦り切れる。桶の取っ手は指の骨に食い込み、湯気と灰が喉を刺す。階段は急で、船は小さく揺れる。滑れば湯をかぶる。
それでもエルビラは黙って働いた。奥方の機嫌取りより、ディエゴに正直であることを優先したからだ。だがそれが、かえって目につく。誰かの腹の底をざわつかせる。
朝食が提督室へ運ばれたとき、ディエゴはすぐ気づいた。エルビラの手首に赤い跡があり、指の関節が腫れている。袖の内側が濡れていた。湯をこぼしたのだろう。呼吸も浅かった。
ディエゴは椀を置き、落ち着いた声で尋ねた。
ディエゴはこう言った。「エルビラ。その手はどうした」
エルビラはすぐ答えられなかった。嘘はつきたくない。だが奥方の名を出せば、船の中が荒れる。その迷いが顔に出た。
ディエゴは声を荒げず、答えを絞り出す聞き方に変えた。
ディエゴはこう言った。「隠すな。転んだのか。湯をこぼしたのか。桶は何回運んだ」
エルビラは息を吸い、正直に言った。「提督閣下。桶は今朝だけで4回です。灰も捨てました。樽も見ました。私が遅いので、急ぎました」
ディエゴはそれ以上は聞かなかった。視線をサク・ニクテへ移し、確認するように言った。
ディエゴはこう言った。「サク・ニクテ。今朝の割り振りはサク・ニクテの裁量だ。だが俺の船は軍規で動く。無用に傷を増やす割り振りは許さない」
サク・ニクテは静かに返した。「提督閣下。必要な仕事をさせただけです。誰かがやらねばなりません」
ディエゴは頷いた。「その通りだ。だから1人に固めない。テレサを呼べ」
ドニャ・テレサがすぐに入ってきた。
ディエゴは命じた。「今日から朝の重い仕事は当番で回す。水と灰と床拭きは、毎朝2人で組ませろ。片方は新任、片方は経験のある者にする。エルビラは当分、桶を単独で運ぶな。手が戻るまでだ」
テレサは即座に答えた。「承知いたしました、提督閣下。組を作り、朝の始まりに私が割り振ります」
ディエゴは言い方を柔らげず、しかし責める調子にもせずに続けた。
「妾になった者は全員、サク・ニクテの規律に従う。だが規律は働く者を壊すためのものではない。壊れたら、鍋も槍も動かない」
サク・ニクテは少し顎を引いた。「分かりました、提督閣下。私も船を乱したいわけではありません」
ディエゴは深追いしなかった。代わりに、エルビラへ道を示した。
ディエゴはこう言った。「エルビラ。サク・ニクテに従え。だが身を壊す前に言え。言う先はテレサだ。テレサが取り上げない時は俺に来い」
エルビラは目を伏せ、声を震わせた。「承知いたしました、提督閣下。ありがとうございます」
テレサが一歩前に出た。
テレサはこう言った。「エルビラ、一緒に手当てをしましょう。湯で赤くなっています。布を当てて冷やします」
クララも慌てて言った。「私も手伝います。桶は私が持ちます。2人のほうが転びません」
レオノールも続けた。「階段の角は滑ります。布を敷いておきます」
提督室の空気が少し戻った。怒鳴り声はない。名指しの非難もない。だが、決まりだけははっきりした。
ディエゴは椀を取り直し、温い汁を飲んだ。喉を通って腹に落ちる。舷窓の外では帆が鳴り、船が小さく揺れている。船の中は狭い。だからこそ、揉めごとは早めに形にして抑える。それが提督の仕事だった。
朝食の席はその後も続いた。果物の甘い匂いと、塩気のある肉の匂いが混じる。皿の木目が灯に照らされる。女たちは目配せをし、仕事を回し始めた。エルビラは手当てを受け、痛みをこらえながらも、肩の力を少しだけ抜いた。旗艦の朝は、またいつもの顔に戻っていった。
―――――――――――――――――
挿絵は、『アステカ王国』です。
出典は、『小学館 日本大百科全書「ニッポニカ」』です。
挿絵は、『メソアメリカ』です。
出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P10』です。
挿絵は、『17世紀初めのカリブ海地域』です。
出典は、『中公新書「物語ラテン・アメリカの歴史」増田義郎著P139』です。
挿絵は、『テノチティトラン侵攻「コルテス」』です。
出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P115』です。
挿絵は、『スペイン軍進路』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P103』です。
挿絵は、『テスココ湖周辺図』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P121』です。
挿絵は、『メソアメリカのカカオの産地』です。
出典は、『河出文庫「チョコレートの歴史」ソフィー・D・コウ:マイケル・D・コウ著。樋口幸子訳。P111』です。
挿絵は、『テノチティトラン地図』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P137」増田義郎著。P137』です。
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登場人物〈男性〉
ディエゴ〈28〉(遠征司令官、大尉) アルバロ〈27〉が遠征の際に名乗る仮名だ。アルバロは新大陸の皇帝を名乗り、新大陸からスペイン人勢力を追い出す意志を持つ。ただ、皇帝が前線へ出る格好は避けるため、現場では「ディエゴ」を名乗って軍を率いる。妻や妾、侍女、兵は真相を知らされておらず、ディエゴを高級将校だと受け取っているため、呼び方も態度もその前提で統一されている。
ペドロ・サラサル〈29〉(雇い入れ・船大工) 板の反りと釘の打ち方を知る。小舟の修理と簡単な補修を任される。
ミゲル・デ・オルティス〈16〉(雇い入れ・荷役見習い) 母と共に港へ流れ着いた。成人後は部下に取り立てる方針で、当面は荷役に回される。
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登場人物〈女性〉
サク・ニクテ〈22〉(正妻) コスメル島出身の先住民。コスメル島部隊5,000名の隊長。上陸地の井戸と倉を先に押さえ、配給と整列で隊の崩れを防ぐ。妊娠中〈10月半ば出産予定〉だが、腹の子の動きを隠さず前に立つ。
マルタ・ロペス〈19〉(妾・新任) キューバ島の小教会にいた司祭の家で暮らしていた女性。寝具と衣類を預かり、針仕事で傷みを直してきた。祈祷文と聖歌を覚えており、人前でも声が崩れにくい。読み書きは得意ではないが、手順を守るのがうまい。過去の功績により、ディエゴの妾に抜擢された。
ドニャ・ベアトリス〈30〉(妾・新任、スペイン人) セビリア出身。夫はサンチャゴ大聖堂に属する聖職者で、説教と告解の取りまとめに関わっていた。夫は旧来の権力筋と近く、城塞の内側の噂や名簿の流れにも通じていたが、争いの後に失脚し、姿を消した。ベアトリスは生き残りのためにディエゴへ好意を示し、名と事情を取引にする形で近づく。遠征には侍女として付いてきたが、口と香りで間合いを詰める癖があり、ディエゴは情報源として手元に置いた。第4話後編で功績を上げ、妾に抜擢された。
イネス・アルバレス〈26〉(妾・スペイン人) エストレマドゥーラ出身。夫はキューバ東部の砂糖農場の経営者で、圧搾機と倉、労働者の手配まで握っていた。夫は騒乱の夜に殺され、農場は人手と道具だけが残った。イネスは農場の内側を知り、誰が怠け、誰が盗み、誰が働いたかを具体で言える。ディエゴに好意を匂わせ、遠征では侍女として衣類や寝具の手配にも回るが、利で動く言い回しが抜けず、旧勢力との結びつきも疑われている。ディエゴは現場の証言を引き出すためにそばへ置いた。
クララ・デ・アビラ〈20〉(妾・新任) サントドミンゴの司祭館で同居していた女性。台所だけでなく家計簿と支払いの控えを任され、買い物の値と銅貨の数を間違えない。表に立って働いて稼いだ経験は乏しいが、帳面と鍵の扱いで屋敷を回してきた。
レオノール・メンドーサ〈22〉(妾・新任) イスパニョーラ島の司祭館で客間と寝具を預かっていた女性。割れ物や布の扱いが丁寧で、物の置き場を覚えるのが早い。先住民の女たちの言葉を少し知っており、水場や台所の伝言役に回れる。
ドニャ・テレサ・デ・バルデス〈31〉(妾・新任) 処刑された旧支配者の妻。家の出納と帳面の付け方を知り、クララの補佐に回る。
ドニャ・アナ・デ・ラ・クルス〈28〉(妾・新任) 幼い娘を連れて忠誠を誓う。台所の段取りと保存の扱いを知り、マルタの区画に回される。娘ルシア〈6〉は母と同じ区画で寝起きする。
マリア・デ・オルティス〈38〉(妾・新任) 息子ミゲル〈16〉の母。針仕事と洗い物を請け負い、寝具と衣類の手入れを任される。ディエゴの夜伽にも応じ、サンファンにおける散策にも付き合い、互いに心を通じ合わせる。
フアナ・デ・ルナ〈21〉(妾・新任) 皿洗いが早く、細かな始末が丁寧だ。水場の手として雇われる。
エルビラ・グスマン〈18〉(妾・新任) 水瓶運びと倉の戸の扱いを覚えるのが早い。運搬と戸口の手として雇われる。ディエゴに忠実。
―――――――――――――――――
(1521年6月10日朝。サンフアン港旗艦提督室)
ここ数日、夜になるとディエゴは提督室の灯を落としていた。油皿の火が小さく揺れ、舷窓から港の湿った風が入る。帆布の酸い匂い、松脂の甘い焦げ、濡れた縄の匂いに、女の香油の匂いが重なる。狭い艦内では、匂いも足音も隠れない。
侍女たちは以前から、他の妾と同じように扱ってほしいと訴えていた。ディエゴは、そのたびに断ってきた。女同士の競り合いが増えれば、食事の席や寝具の扱いにまで影響が出る。そうなれば船の働きが鈍る。ディエゴはそれを嫌っていた。
だが最近は、通路ですれ違うたびに肩が当たった。戸口でわざと立ち止まり、視線を外さない者もいた。夜だけではない。昼の水場でも、寝具の区画でも、誘いの言葉と接触が続いた。曖昧なままにしておけば、陰で揉めるだけだ。ディエゴはそう判断し、順番に呼んで答えを出させることにした。
最初に呼ばれたのはイネス・アルバレス〈26〉だった。提督室へ入ると、イネスは膝をつき、背筋を伸ばした。頬は赤いが、目は揺れていない。生き残るために何を言うべきかを、よく分かっている顔だった。
ディエゴは机の前に座り、はっきり言った。
ディエゴはこう言った。「イネス。今夜、決める。侍女のままか。俺の妾となり、忠誠を誓うか。どちらだ」
イネスはすぐに答えた。「提督閣下、後者です。私はこの船で生き残ります。奥方様の規律にも従います」
ディエゴは念を押した。「妾になれば、夜だけの話では済まない。船の中では、サク・ニクテの命が家の命だ。お前はサク・ニクテに逆らわない。それでもいいか」
イネスは目を逸らさずに言った。「承知しております。私の立場は分かっています」
次の日はクララ・デ・アビラ〈20〉、その次はレオノール・メンドーサ〈22〉だった。2人とも新任で、声が少し震えた。クララは指先を握りしめ、レオノールは息を整えてから言葉を出した。それでも答えは同じだった。侍女のままでは立場が曖昧で、狭い船の中ではそれが危ない。だから妾になる、と。
ドニャ・テレサ・デ・バルデス〈31〉は、口調が落ち着いていた。
テレサはこう言った。「提督閣下。私は妾となることに同意いたします。ただ、船の仕事が乱れます。奥方様のご負担が増えるなら、私に管理をお任せください」
ディエゴは短く答えた。「分かった。必要になれば任せる」
ドニャ・アナ・デ・ラ・クルス〈28〉は静かに頷き、フアナ・デ・ルナ〈21〉は涙を拭ってから言い切った。「提督閣下のお側で働きたい」と。ここまで来ると、ディエゴにとっては人数の問題ではなく、船の決まりを一本にそろえる問題になっていた。
最後に呼ばれたのがエルビラ・グスマン〈18〉だった。幼さの残る顔だが、爪の間には灰が入り、指には小さな切り傷があった。水や桶を扱う手だった。
ディエゴは同じ問いを投げた。
ディエゴはこう言った。「エルビラ。侍女のままか。妾となり忠誠を誓うか。どちらだ」
エルビラは胸の前で手を重ね、まっすぐ答えた。「提督閣下。私は妾となります。私は提督閣下に誠心誠意お仕えします。嘘はつきません」
ディエゴは言葉を選んで返した。「誠心誠意は、口で言うほど簡単ではない。守る順番がある。サク・ニクテ、次に船の規律、それから俺だ」
エルビラは唇を噛み、それでも頷いた。「承知いたしました。奥方様にも従います。ただ、私は提督閣下に恥をかかせたくありません」
こうして7人は全員、妾となることに同意した。曖昧だった立場がはっきりし、守るべき決まりも形になった。ディエゴが欲しかったのは、それだった。
だが翌朝、その形は別の偏りも生んだ。正妻のサク・ニクテは声を荒げず、表情も崩さない。けれど仕事の割り振りが、少しずつ片方へ寄っていった。奥方の命令は、船の中では逆らえない。
イネスは昨夜の番を終え、早朝に起きた。顔にはまだ熱が残っているが、手は速い。厨房の入口で頭を下げた。
イネスはこう言った。「奥方様、おはようございます。今朝の準備は私が先に動きます。何を優先すればよろしいでしょうか」
サク・ニクテは火の具合を見て答えた。「鍋の湯を守って。果物は皿へ。床は濡らさない。提督閣下の席は先に整える」
イネスは「承知いたしました」と返し、すぐ動いた。周りもそれを見ている。余計な言葉は出ない。
一方、エルビラには重い仕事が続いた。灰捨て、水2桶、床拭き、樽の口の点検、鍋洗い。どれも必要だが、1人に固めれば身体が先に擦り切れる。桶の取っ手は指の骨に食い込み、湯気と灰が喉を刺す。階段は急で、船は小さく揺れる。滑れば湯をかぶる。
それでもエルビラは黙って働いた。奥方の機嫌取りより、ディエゴに正直であることを優先したからだ。だがそれが、かえって目につく。誰かの腹の底をざわつかせる。
朝食が提督室へ運ばれたとき、ディエゴはすぐ気づいた。エルビラの手首に赤い跡があり、指の関節が腫れている。袖の内側が濡れていた。湯をこぼしたのだろう。呼吸も浅かった。
ディエゴは椀を置き、落ち着いた声で尋ねた。
ディエゴはこう言った。「エルビラ。その手はどうした」
エルビラはすぐ答えられなかった。嘘はつきたくない。だが奥方の名を出せば、船の中が荒れる。その迷いが顔に出た。
ディエゴは声を荒げず、答えを絞り出す聞き方に変えた。
ディエゴはこう言った。「隠すな。転んだのか。湯をこぼしたのか。桶は何回運んだ」
エルビラは息を吸い、正直に言った。「提督閣下。桶は今朝だけで4回です。灰も捨てました。樽も見ました。私が遅いので、急ぎました」
ディエゴはそれ以上は聞かなかった。視線をサク・ニクテへ移し、確認するように言った。
ディエゴはこう言った。「サク・ニクテ。今朝の割り振りはサク・ニクテの裁量だ。だが俺の船は軍規で動く。無用に傷を増やす割り振りは許さない」
サク・ニクテは静かに返した。「提督閣下。必要な仕事をさせただけです。誰かがやらねばなりません」
ディエゴは頷いた。「その通りだ。だから1人に固めない。テレサを呼べ」
ドニャ・テレサがすぐに入ってきた。
ディエゴは命じた。「今日から朝の重い仕事は当番で回す。水と灰と床拭きは、毎朝2人で組ませろ。片方は新任、片方は経験のある者にする。エルビラは当分、桶を単独で運ぶな。手が戻るまでだ」
テレサは即座に答えた。「承知いたしました、提督閣下。組を作り、朝の始まりに私が割り振ります」
ディエゴは言い方を柔らげず、しかし責める調子にもせずに続けた。
「妾になった者は全員、サク・ニクテの規律に従う。だが規律は働く者を壊すためのものではない。壊れたら、鍋も槍も動かない」
サク・ニクテは少し顎を引いた。「分かりました、提督閣下。私も船を乱したいわけではありません」
ディエゴは深追いしなかった。代わりに、エルビラへ道を示した。
ディエゴはこう言った。「エルビラ。サク・ニクテに従え。だが身を壊す前に言え。言う先はテレサだ。テレサが取り上げない時は俺に来い」
エルビラは目を伏せ、声を震わせた。「承知いたしました、提督閣下。ありがとうございます」
テレサが一歩前に出た。
テレサはこう言った。「エルビラ、一緒に手当てをしましょう。湯で赤くなっています。布を当てて冷やします」
クララも慌てて言った。「私も手伝います。桶は私が持ちます。2人のほうが転びません」
レオノールも続けた。「階段の角は滑ります。布を敷いておきます」
提督室の空気が少し戻った。怒鳴り声はない。名指しの非難もない。だが、決まりだけははっきりした。
ディエゴは椀を取り直し、温い汁を飲んだ。喉を通って腹に落ちる。舷窓の外では帆が鳴り、船が小さく揺れている。船の中は狭い。だからこそ、揉めごとは早めに形にして抑える。それが提督の仕事だった。
朝食の席はその後も続いた。果物の甘い匂いと、塩気のある肉の匂いが混じる。皿の木目が灯に照らされる。女たちは目配せをし、仕事を回し始めた。エルビラは手当てを受け、痛みをこらえながらも、肩の力を少しだけ抜いた。旗艦の朝は、またいつもの顔に戻っていった。
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挿絵は、『アステカ王国』です。
出典は、『小学館 日本大百科全書「ニッポニカ」』です。
挿絵は、『メソアメリカ』です。
出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P10』です。
挿絵は、『17世紀初めのカリブ海地域』です。
出典は、『中公新書「物語ラテン・アメリカの歴史」増田義郎著P139』です。
挿絵は、『テノチティトラン侵攻「コルテス」』です。
出典は、『大陸書房「コルテス征略誌」モーリス・コリス著、金森誠也訳。P115』です。
挿絵は、『スペイン軍進路』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P103』です。
挿絵は、『テスココ湖周辺図』です。
出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P121』です。
挿絵は、『メソアメリカのカカオの産地』です。
出典は、『河出文庫「チョコレートの歴史」ソフィー・D・コウ:マイケル・D・コウ著。樋口幸子訳。P111』です。
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出典は、『中公新書「古代アステカ王国」増田義郎著。P137」増田義郎著。P137』です。
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フィクションも混在しています。
動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
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江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
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そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
偽夫婦お家騒動始末記
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歴史・時代
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紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
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美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。
【登場人物】
帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。
織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。
斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。
一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。
今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。
斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。
【参考資料】
「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社
「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳) KADOKAWA
東浦町観光協会ホームページ
Wikipedia
【表紙画像】
歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
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