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第七章――「黄金海岸の砦、奪われるポルトガルの旗」
第9話(前編)――「蒸れる港、3度の水、岬の待ち伏せ」
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――――――――――――――――――
登場人物
ディエゴ〈29〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈28〉の仮名)
――――――――――――――――――
(1522年12月上旬。サントメ島砦)
サントメ島の港は朝から蒸し暑かった。海は青黒く、岸の石積みは夜露をまだ吸っていて、近づくと指先が冷たくなる。船底のタールの匂い、濡れた麻縄の匂い、炊事場の豆の匂いが、風の向きに合わせて入れ替わり、鼻の奥に残った。砦の上では見張りが交代し、鐘の音が短く鳴って、港の空気を引き締めた。
ディエゴ軍の船団は、沖へ出る前の最後の確認に入っていた。甲板では樽が転がらないよう楔が打ち込まれ、帆布が畳まれて縄で縛られ、予備の滑車と鉄具が木箱に収められている。作業の声は途切れず、船大工の槌の音が規則正しく響いた。勝ち続ける船団の朝は、祝宴ではなく準備で始まる。それを全員が分かっている。
真水の樽は甲板に並び、口に布を当てて縄で締め直した。乾パンは湿気を避けて木箱に詰め、塩漬け肉は梁から吊り下げ、火薬樽は水気の少ない区画へ寄せた。予備の帆布と針、太い索具、滑車、鉄のくさびも積み込む。長い航海で足りなくなるのは、水と帆と縄だ。ここで手を抜けば、海の上で泣くことになる。
ディエゴは船の中央に士官と分隊長を集め、わざと声を荒げずに話した。聞く側が耳を寄せる調子にしたほうが、言葉は刺さるからだ。
「これからモザンビーク島へ向かう。目的は、あの島を拠点にして東岸へ手を伸ばすことだ。途中の給水と補修は3回で打ち切る。余計な停泊はしない。停まれば停まるほど、病と油断が増えるからだ」
分隊長の1人が、念のために確かめるように言った。
「給水と補修は、どこで区切りますか。船が傷んだら、増やしたくなる者が出ます」
ディエゴはうなずき、言葉を足した。
「仮に荒天で傷が増えても、基本は変えない。セントヘレナ島で1回、喜望峰近くの湾で2回、東岸の大きな湾で3回だ。そこで直せない傷は、そもそも遠出に向かない。直せる範囲で走り切る」
兵たちは笑ってうなずいた。ディエゴの言い方が、威張りではなく算段だからだ。勝ち続ける集団は、怒鳴るより先に段取りが早い。
それでも、空気が軽すぎれば崩れる。ディエゴは続けて、もっと分かりやすく言った。
「海の上で一番危ないのは、食糧が尽きる瞬間でも、砲撃でもない。水を取るために岸へ近づき、目が甘くなる瞬間だ。だから笑っていいが、目だけは閉じるな。見張りだけは、眠ることを許さない」
この言葉には、冗談を挟む者もいなかった。皆が、そういう負け方を見てきたからだ。
出航の合図が鳴った。錨鎖が滑車を鳴らし、鉄が擦れて腹に響く。帆が上がると、湿った風が布を押し、船はゆっくり港を離れた。岸の家並みが小さくなるにつれて、陸の匂いは薄れ、塩と木の匂いが強くなる。砦の石壁は陽に白く光り、やがて霧の中へ沈んだ。
最初の補給と給水、補修はセントヘレナ島で行った。島影が見えたとき、見張りがはっきりした声で報告し、甲板の空気が少しだけほどけた。上陸班は小舟で入るが、先に武装した先発が浜の左右を押さえ、危険がないことを確かめた。浜の砂は粗く、靴の中にすぐ入り込む。草の匂いは乾いていて、風は思ったより冷たかった。
水場は浅い谷にあった。岩の間から細い水が流れ、樽に落ちる音が一定に続く。兵は汗を拭きながら樽を担いだ。水は冷たく、口に含むと土の味が少ししたが、塩気に慣れた舌には十分うまい。調理係は島の果実を見つけ、数を限って持ち帰った。肉の脂と乾パンだけの航海が続けば、舌も腹も鈍る。酸味は、兵の表情を少しだけ明るくする。
補修は、その場で終える分だけに絞った。帆の縁のほつれを縫い、風に擦れる縄を交換し、滑車の軸に油を差してきしみを消す。船大工は舷側の継ぎ目を見て、緩んだところに詰め物を押し込み、槌で締める。タールを温める鍋から黒い匂いが上がり、煙が目にしみた。
作業が一段落したところで、若い兵が水樽を拭きながら笑いかけた。
「隊長、今の果実は酸っぱすぎますよ。舌が縮みます」
調理係がすぐ返した。
「縮むのは舌だけにしろ。腹が縮んだら困る」
笑いが起きたが、見張りの目は沖を外さない。ディエゴはその様子を見て、言葉を補った。
「その調子でいい。笑いは残せ。ただし、見張りの首は回し続けろ」
島を離れて南へ進むと、海は荒くなった。風は横から叩き、波は盛り上がって船腹を殴る。甲板に飛沫が走り、唇に塩が貼り付く。兵たちは濡れた縄を握り、互いに声を掛け合って帆を絞った。恐怖の叫びではない。どこを押さえ、どこを緩めるかを確かめ合う、仕事の声だった。波が強いほど、人は黙ると思われがちだが、慣れた者ほどよく話す。口を動かして状況を揃えないと、手がばらつくからだ。
2回目の補給と給水、補修は、喜望峰の近く、テーブル湾の入り口に船団を入れて行った。湾内は外海より波が弱く、船を落ち着かせられる。上陸班は小川を探し、樽を満たした。水はやや温く、草の匂いが混じっていた。兵はその場で顔を洗い、手の塩を落とした。指のひび割れが少し楽になると、それだけで働きが変わる。
補修は荒天の後の手当てが中心だった。裂けた帆布は当て布をして縫い、帆柱の金具を締め直し、索具の擦れた箇所には革を巻いて保護する。作業の音が続くあいだも、見張りは沖を睨み続けた。ここでは船を休めるだけではない。待つのである。ソファラから金を積んで帰る商船は、ここを抜けるときに一番重く、動きが鈍い。
ディエゴは海図の上で指を滑らせ、士官たちに分かるように説明した。
「ソファラから金を積んだ船は、喜望峰を回って西へ出る。途中に守ってくれる拠点はないし、急いでいるほど見張りが甘くなる。荷が重いから速くは走れない。だから、ここを抜ける船をこちらが先に見つければ、相手は逃げ切れない」
士官がうなずくと、ディエゴはさらに言った。
「ただし沈めない。沈めたら金も人も海へ落ちる。止めて、奪って、人を取る。忠誠を誓う者には仕事と飯を与える。誓わない者は船内に監禁し、後日、身代金で本国へ返す」
兵の1人が笑って言った。
「重い船は速くありません。こちらは軽いですから、追いつけます」
別の兵が鍋を叩いて冗談を返した。
「追いついたら、まず飯を奪いましょう。腹が空くと働きが落ちますから」
周りが笑った。だが笑いの中にも、目の鋭さが残っていた。勝ち戦は、待ち時間すら無駄にしない。
その夕方、沖に帆が見えた。見張りが息を切らさずに、しかし明確に叫んだ。
「北西へ抜ける船影です。大きいです。船腹が沈んでいます」
ディエゴは双眼鏡を当て、帆の形と船体の厚みを見た。ナウである。荷が重い。帰路の商船だ。
ディエゴは甲板のあちこちへ視線を配り、落ち着いた調子で命令した。
「旗は出すな。風上を取る。砲は1発だけでいい。警告として海に落とす。相手が混乱したら、次で帆柱の付け根を折る。沈めるな。止めろ」
命令が飛ぶと、兵たちは走った。火縄が整えられ、砲口が向きを変え、舵手が風を読む。帆がふくらみ、船団は静かに距離を詰めた。
射程に入ったところで、警告の砲声が海を割った。硝煙が鼻を刺し、耳がじんとする。砲弾は商船の舷側の手前に落ち、水柱を上げた。商船の甲板に人影が走り、慌てて帆を動かすが、重い船は思うように向きを変えない。荷の重さが、逃げ足の遅さとなって表に出る。
ディエゴは声を落として、砲手に言い直した。
「狙いは帆柱の付け根だ。沈めたいわけではない。こちらが欲しいのは船倉だ。だから止めて、乗り移る」
2発目が響き、木が裂ける音が遅れて届いた。商船の帆柱が一部崩れ、帆が垂れ、速度が落ちた。逃げたいが逃げられない形になる。
鉤縄が飛んだ。鉄鉤が手すりに噛み、縄が張る。接舷の衝撃で両船の木がきしむ。ディエゴ軍の先頭が跳び移り、槍と短剣を構えた。商船側も抵抗したが、動きが遅い。甲板は狭く、荷が邪魔をして足が揃わない。ディエゴ軍はそこを見逃さず、前へ出すぎる者を抑え、左右から包んで押し倒し、縄を掛けた。混乱は短時間で終わった。
「武器を捨ててください。座ってください。両手を見せてください」
通訳が叫び、兵が縄を投げた。抵抗する者には槍の柄が入る。骨を折るほどではないが、立ち上がる気を失わせるには十分だった。血の匂いは薄く、汗と煙と濡れた木の匂いが強かった。波の音が近く、甲板がかすかに上下して、捕虜たちの呼吸を乱した。
船倉を開けると、湿った空気がむっと噴き出した。灯りを入れると、木箱が積まれ、その間に皮袋が詰め込まれている。箱の蓋をこじ開けると、金粉を布で包んだ束が出た。手に取ると粉がわずかに指に移り、光が細かく散った。別の箱には小さな金の塊、象牙の切り出し、銅の品、布地が入っていた。香木も少し混じっていて、甘い匂いが鼻の奥に残った。
ディエゴは記録係を呼び、ここでも丁寧に言い含めた。
「今から数を数える。袋には印を付ける。船ごとに分けて、どこから取ったものかが後で分かるようにする。勝手に懐へ入れた者がいたら、その場で腕を折って甲板から突き落とす。分け前は後で必ず渡す。だから、今は余計なことを考えるな」
兵たちは笑いながらも、手は止めない。皮袋の数を読み上げ、縄で束ね、印木で刻む。勝ち戦ほど、手順を崩すと後で揉める。彼らはそれを知っている。
捕虜は甲板に並べられた。男も女も混じっていた。震える者もいれば、歯を食いしばって睨む者もいる。ディエゴは大声を出さず、通訳が誤解しない速度で、言葉を選んで告げた。
「あなた方の命は取らない。だが、こちらに歯向かうなら自由にはしない。忠誠を誓う者には仕事と飯を与える。誓わない者は船内に監禁する。後日、ポルトガル本国から身代金が届いたら、その時点で解放する。これは脅しではなく取り決めだ。こちらは約束を守る」
通訳が同じ内容を繰り返すと、捕虜の列にざわめきが走った。
すぐに数人が手を挙げた。航海の経験がある水夫、帆布の修繕ができる者、計算ができる者がいた。ディエゴは、雑に割り振らず、何をさせるかを言葉にして伝えた。
「君は縄と帆の班に入れ。慣れた者の横で働け。君は水の管理を担当しろ。樽の場所と配り方を覚えろ。君は炊事場へ回す。量を誤ると船が止まるから、勝手なことはするな。君は帳簿係の横につけ。字が読めるなら、それが武器になる」
指名された者は緊張しながらも肩の力を抜いた。生き残る道が、目の前にできたからだ。
誓わない者は区画ごとに分けて船内へ入れた。手は縛るが、口は塞がない。水と乾パンは渡す。看守は2人ずつ交代で付ける。身代金の相手はポルトガルである。捕虜が病で死ねば、金が減る。そこは冷静だった。
鹵獲品の積み替えが終わると、商船は必要最低限の帆と舵を直され、最低人数の水と乾パンを与えられた。沈めない。帰って身代金の話を持ち帰らせるためである。商船が離れていくと、ディエゴ軍の甲板には笑いが戻った。鍋が出て、温い豆と肉の匂いが広がった。誰かが歌を口ずさみ、別の誰かが手拍子で合わせた。勝ち戦の夜は、酒が少し回っただけで、顔つきがやわらぐ。
テーブル湾を離れ、船団は東へ回った。海はまだ荒れたが、風は前より整い、帆が素直にふくらむ。数日後、東海岸の大きな湾が見えた。デラゴア湾である。ここが3回目の給水と補修になる。
湾の内側は潮の流れが複雑で、浅瀬もある。小舟を先に出し、深い道を確かめながら船を入れた。上陸班は川の口を見つけ、水を汲んだ。水は茶色く濁るが、布で濾して煮沸すれば使える。樽を満たす音が続き、汗と泥の匂いが混じった。兵たちはここで一息つき、塩まみれの服をすすぎ、足の傷を洗い、砲の手入れをした。火縄の湿りを乾かし、銃身の錆を落とすと、金属の匂いが指に残った。
補修は喜望峰越えで痛んだ部分の総点検だった。帆柱の根元の割れを確かめ、鉄具を締め直し、縄の摩耗箇所を交換する。船底の応急点検も行い、継ぎ目に詰め物を足して槌で締める。槌の乾いた音が浜へ響き、タールの匂いが風に乗った。これで補給と給水と補修は3回で打ち切りになる。ここから先は、海の上で走り切る。
その夜、見張りが沖を指さして報告した。
「南へ向かう帆です。東岸沿いに下っています。船腹が沈んでいます」
ディエゴはすぐに理解した。ソファラからポルトガルへ向かう船は、南へ下って喜望峰を目指す。今度は行きの船である。まだ金を積んだままの可能性が高い。
ディエゴは甲板に兵を集め、さきほどよりも丁寧に状況を言葉にして揃えた。
「2度目の襲撃になる。こちらは水も補修も済ませたが、向こうはこれから岬を越える。疲れている上に、荷が重い。だから、あちらの見張りは必ず甘くなる。沈めない。止めて奪う。人も取る。忠誠を誓う者は部下にして働かせる。歯向かう者は監禁し、身代金で返す。ここまでのやり方を、同じように繰り返す」
兵の1人が明るい声で返した。
「分かりました。こちらは休めていますから、手はよく動きます」
別の兵が笑って言った。
「今夜は肉を増やしましょう。勝った日の飯は、やっぱりうまいです」
笑いが起こった。勝ち戦の笑いである。
―――――――――――――――――
挿絵は、『ポルトガル人によるアフリカ沿岸周航』です。
出典は、『講談社現代新書「新書アフリカ史」P253』です。
挿絵は、『アフリカ地図』です。
出典は、『帝国書院編集部編「地歴高等地図」P35』です。
挿絵は、『アフリカ』です。
出典は、『筑摩書房「大航海時代」ボイス・ペンローズ著。荒尾克己訳。巻末地図。』です。
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登場人物
ディエゴ〈29〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈28〉の仮名)
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(1522年12月上旬。サントメ島砦)
サントメ島の港は朝から蒸し暑かった。海は青黒く、岸の石積みは夜露をまだ吸っていて、近づくと指先が冷たくなる。船底のタールの匂い、濡れた麻縄の匂い、炊事場の豆の匂いが、風の向きに合わせて入れ替わり、鼻の奥に残った。砦の上では見張りが交代し、鐘の音が短く鳴って、港の空気を引き締めた。
ディエゴ軍の船団は、沖へ出る前の最後の確認に入っていた。甲板では樽が転がらないよう楔が打ち込まれ、帆布が畳まれて縄で縛られ、予備の滑車と鉄具が木箱に収められている。作業の声は途切れず、船大工の槌の音が規則正しく響いた。勝ち続ける船団の朝は、祝宴ではなく準備で始まる。それを全員が分かっている。
真水の樽は甲板に並び、口に布を当てて縄で締め直した。乾パンは湿気を避けて木箱に詰め、塩漬け肉は梁から吊り下げ、火薬樽は水気の少ない区画へ寄せた。予備の帆布と針、太い索具、滑車、鉄のくさびも積み込む。長い航海で足りなくなるのは、水と帆と縄だ。ここで手を抜けば、海の上で泣くことになる。
ディエゴは船の中央に士官と分隊長を集め、わざと声を荒げずに話した。聞く側が耳を寄せる調子にしたほうが、言葉は刺さるからだ。
「これからモザンビーク島へ向かう。目的は、あの島を拠点にして東岸へ手を伸ばすことだ。途中の給水と補修は3回で打ち切る。余計な停泊はしない。停まれば停まるほど、病と油断が増えるからだ」
分隊長の1人が、念のために確かめるように言った。
「給水と補修は、どこで区切りますか。船が傷んだら、増やしたくなる者が出ます」
ディエゴはうなずき、言葉を足した。
「仮に荒天で傷が増えても、基本は変えない。セントヘレナ島で1回、喜望峰近くの湾で2回、東岸の大きな湾で3回だ。そこで直せない傷は、そもそも遠出に向かない。直せる範囲で走り切る」
兵たちは笑ってうなずいた。ディエゴの言い方が、威張りではなく算段だからだ。勝ち続ける集団は、怒鳴るより先に段取りが早い。
それでも、空気が軽すぎれば崩れる。ディエゴは続けて、もっと分かりやすく言った。
「海の上で一番危ないのは、食糧が尽きる瞬間でも、砲撃でもない。水を取るために岸へ近づき、目が甘くなる瞬間だ。だから笑っていいが、目だけは閉じるな。見張りだけは、眠ることを許さない」
この言葉には、冗談を挟む者もいなかった。皆が、そういう負け方を見てきたからだ。
出航の合図が鳴った。錨鎖が滑車を鳴らし、鉄が擦れて腹に響く。帆が上がると、湿った風が布を押し、船はゆっくり港を離れた。岸の家並みが小さくなるにつれて、陸の匂いは薄れ、塩と木の匂いが強くなる。砦の石壁は陽に白く光り、やがて霧の中へ沈んだ。
最初の補給と給水、補修はセントヘレナ島で行った。島影が見えたとき、見張りがはっきりした声で報告し、甲板の空気が少しだけほどけた。上陸班は小舟で入るが、先に武装した先発が浜の左右を押さえ、危険がないことを確かめた。浜の砂は粗く、靴の中にすぐ入り込む。草の匂いは乾いていて、風は思ったより冷たかった。
水場は浅い谷にあった。岩の間から細い水が流れ、樽に落ちる音が一定に続く。兵は汗を拭きながら樽を担いだ。水は冷たく、口に含むと土の味が少ししたが、塩気に慣れた舌には十分うまい。調理係は島の果実を見つけ、数を限って持ち帰った。肉の脂と乾パンだけの航海が続けば、舌も腹も鈍る。酸味は、兵の表情を少しだけ明るくする。
補修は、その場で終える分だけに絞った。帆の縁のほつれを縫い、風に擦れる縄を交換し、滑車の軸に油を差してきしみを消す。船大工は舷側の継ぎ目を見て、緩んだところに詰め物を押し込み、槌で締める。タールを温める鍋から黒い匂いが上がり、煙が目にしみた。
作業が一段落したところで、若い兵が水樽を拭きながら笑いかけた。
「隊長、今の果実は酸っぱすぎますよ。舌が縮みます」
調理係がすぐ返した。
「縮むのは舌だけにしろ。腹が縮んだら困る」
笑いが起きたが、見張りの目は沖を外さない。ディエゴはその様子を見て、言葉を補った。
「その調子でいい。笑いは残せ。ただし、見張りの首は回し続けろ」
島を離れて南へ進むと、海は荒くなった。風は横から叩き、波は盛り上がって船腹を殴る。甲板に飛沫が走り、唇に塩が貼り付く。兵たちは濡れた縄を握り、互いに声を掛け合って帆を絞った。恐怖の叫びではない。どこを押さえ、どこを緩めるかを確かめ合う、仕事の声だった。波が強いほど、人は黙ると思われがちだが、慣れた者ほどよく話す。口を動かして状況を揃えないと、手がばらつくからだ。
2回目の補給と給水、補修は、喜望峰の近く、テーブル湾の入り口に船団を入れて行った。湾内は外海より波が弱く、船を落ち着かせられる。上陸班は小川を探し、樽を満たした。水はやや温く、草の匂いが混じっていた。兵はその場で顔を洗い、手の塩を落とした。指のひび割れが少し楽になると、それだけで働きが変わる。
補修は荒天の後の手当てが中心だった。裂けた帆布は当て布をして縫い、帆柱の金具を締め直し、索具の擦れた箇所には革を巻いて保護する。作業の音が続くあいだも、見張りは沖を睨み続けた。ここでは船を休めるだけではない。待つのである。ソファラから金を積んで帰る商船は、ここを抜けるときに一番重く、動きが鈍い。
ディエゴは海図の上で指を滑らせ、士官たちに分かるように説明した。
「ソファラから金を積んだ船は、喜望峰を回って西へ出る。途中に守ってくれる拠点はないし、急いでいるほど見張りが甘くなる。荷が重いから速くは走れない。だから、ここを抜ける船をこちらが先に見つければ、相手は逃げ切れない」
士官がうなずくと、ディエゴはさらに言った。
「ただし沈めない。沈めたら金も人も海へ落ちる。止めて、奪って、人を取る。忠誠を誓う者には仕事と飯を与える。誓わない者は船内に監禁し、後日、身代金で本国へ返す」
兵の1人が笑って言った。
「重い船は速くありません。こちらは軽いですから、追いつけます」
別の兵が鍋を叩いて冗談を返した。
「追いついたら、まず飯を奪いましょう。腹が空くと働きが落ちますから」
周りが笑った。だが笑いの中にも、目の鋭さが残っていた。勝ち戦は、待ち時間すら無駄にしない。
その夕方、沖に帆が見えた。見張りが息を切らさずに、しかし明確に叫んだ。
「北西へ抜ける船影です。大きいです。船腹が沈んでいます」
ディエゴは双眼鏡を当て、帆の形と船体の厚みを見た。ナウである。荷が重い。帰路の商船だ。
ディエゴは甲板のあちこちへ視線を配り、落ち着いた調子で命令した。
「旗は出すな。風上を取る。砲は1発だけでいい。警告として海に落とす。相手が混乱したら、次で帆柱の付け根を折る。沈めるな。止めろ」
命令が飛ぶと、兵たちは走った。火縄が整えられ、砲口が向きを変え、舵手が風を読む。帆がふくらみ、船団は静かに距離を詰めた。
射程に入ったところで、警告の砲声が海を割った。硝煙が鼻を刺し、耳がじんとする。砲弾は商船の舷側の手前に落ち、水柱を上げた。商船の甲板に人影が走り、慌てて帆を動かすが、重い船は思うように向きを変えない。荷の重さが、逃げ足の遅さとなって表に出る。
ディエゴは声を落として、砲手に言い直した。
「狙いは帆柱の付け根だ。沈めたいわけではない。こちらが欲しいのは船倉だ。だから止めて、乗り移る」
2発目が響き、木が裂ける音が遅れて届いた。商船の帆柱が一部崩れ、帆が垂れ、速度が落ちた。逃げたいが逃げられない形になる。
鉤縄が飛んだ。鉄鉤が手すりに噛み、縄が張る。接舷の衝撃で両船の木がきしむ。ディエゴ軍の先頭が跳び移り、槍と短剣を構えた。商船側も抵抗したが、動きが遅い。甲板は狭く、荷が邪魔をして足が揃わない。ディエゴ軍はそこを見逃さず、前へ出すぎる者を抑え、左右から包んで押し倒し、縄を掛けた。混乱は短時間で終わった。
「武器を捨ててください。座ってください。両手を見せてください」
通訳が叫び、兵が縄を投げた。抵抗する者には槍の柄が入る。骨を折るほどではないが、立ち上がる気を失わせるには十分だった。血の匂いは薄く、汗と煙と濡れた木の匂いが強かった。波の音が近く、甲板がかすかに上下して、捕虜たちの呼吸を乱した。
船倉を開けると、湿った空気がむっと噴き出した。灯りを入れると、木箱が積まれ、その間に皮袋が詰め込まれている。箱の蓋をこじ開けると、金粉を布で包んだ束が出た。手に取ると粉がわずかに指に移り、光が細かく散った。別の箱には小さな金の塊、象牙の切り出し、銅の品、布地が入っていた。香木も少し混じっていて、甘い匂いが鼻の奥に残った。
ディエゴは記録係を呼び、ここでも丁寧に言い含めた。
「今から数を数える。袋には印を付ける。船ごとに分けて、どこから取ったものかが後で分かるようにする。勝手に懐へ入れた者がいたら、その場で腕を折って甲板から突き落とす。分け前は後で必ず渡す。だから、今は余計なことを考えるな」
兵たちは笑いながらも、手は止めない。皮袋の数を読み上げ、縄で束ね、印木で刻む。勝ち戦ほど、手順を崩すと後で揉める。彼らはそれを知っている。
捕虜は甲板に並べられた。男も女も混じっていた。震える者もいれば、歯を食いしばって睨む者もいる。ディエゴは大声を出さず、通訳が誤解しない速度で、言葉を選んで告げた。
「あなた方の命は取らない。だが、こちらに歯向かうなら自由にはしない。忠誠を誓う者には仕事と飯を与える。誓わない者は船内に監禁する。後日、ポルトガル本国から身代金が届いたら、その時点で解放する。これは脅しではなく取り決めだ。こちらは約束を守る」
通訳が同じ内容を繰り返すと、捕虜の列にざわめきが走った。
すぐに数人が手を挙げた。航海の経験がある水夫、帆布の修繕ができる者、計算ができる者がいた。ディエゴは、雑に割り振らず、何をさせるかを言葉にして伝えた。
「君は縄と帆の班に入れ。慣れた者の横で働け。君は水の管理を担当しろ。樽の場所と配り方を覚えろ。君は炊事場へ回す。量を誤ると船が止まるから、勝手なことはするな。君は帳簿係の横につけ。字が読めるなら、それが武器になる」
指名された者は緊張しながらも肩の力を抜いた。生き残る道が、目の前にできたからだ。
誓わない者は区画ごとに分けて船内へ入れた。手は縛るが、口は塞がない。水と乾パンは渡す。看守は2人ずつ交代で付ける。身代金の相手はポルトガルである。捕虜が病で死ねば、金が減る。そこは冷静だった。
鹵獲品の積み替えが終わると、商船は必要最低限の帆と舵を直され、最低人数の水と乾パンを与えられた。沈めない。帰って身代金の話を持ち帰らせるためである。商船が離れていくと、ディエゴ軍の甲板には笑いが戻った。鍋が出て、温い豆と肉の匂いが広がった。誰かが歌を口ずさみ、別の誰かが手拍子で合わせた。勝ち戦の夜は、酒が少し回っただけで、顔つきがやわらぐ。
テーブル湾を離れ、船団は東へ回った。海はまだ荒れたが、風は前より整い、帆が素直にふくらむ。数日後、東海岸の大きな湾が見えた。デラゴア湾である。ここが3回目の給水と補修になる。
湾の内側は潮の流れが複雑で、浅瀬もある。小舟を先に出し、深い道を確かめながら船を入れた。上陸班は川の口を見つけ、水を汲んだ。水は茶色く濁るが、布で濾して煮沸すれば使える。樽を満たす音が続き、汗と泥の匂いが混じった。兵たちはここで一息つき、塩まみれの服をすすぎ、足の傷を洗い、砲の手入れをした。火縄の湿りを乾かし、銃身の錆を落とすと、金属の匂いが指に残った。
補修は喜望峰越えで痛んだ部分の総点検だった。帆柱の根元の割れを確かめ、鉄具を締め直し、縄の摩耗箇所を交換する。船底の応急点検も行い、継ぎ目に詰め物を足して槌で締める。槌の乾いた音が浜へ響き、タールの匂いが風に乗った。これで補給と給水と補修は3回で打ち切りになる。ここから先は、海の上で走り切る。
その夜、見張りが沖を指さして報告した。
「南へ向かう帆です。東岸沿いに下っています。船腹が沈んでいます」
ディエゴはすぐに理解した。ソファラからポルトガルへ向かう船は、南へ下って喜望峰を目指す。今度は行きの船である。まだ金を積んだままの可能性が高い。
ディエゴは甲板に兵を集め、さきほどよりも丁寧に状況を言葉にして揃えた。
「2度目の襲撃になる。こちらは水も補修も済ませたが、向こうはこれから岬を越える。疲れている上に、荷が重い。だから、あちらの見張りは必ず甘くなる。沈めない。止めて奪う。人も取る。忠誠を誓う者は部下にして働かせる。歯向かう者は監禁し、身代金で返す。ここまでのやり方を、同じように繰り返す」
兵の1人が明るい声で返した。
「分かりました。こちらは休めていますから、手はよく動きます」
別の兵が笑って言った。
「今夜は肉を増やしましょう。勝った日の飯は、やっぱりうまいです」
笑いが起こった。勝ち戦の笑いである。
―――――――――――――――――
挿絵は、『ポルトガル人によるアフリカ沿岸周航』です。
出典は、『講談社現代新書「新書アフリカ史」P253』です。
挿絵は、『アフリカ地図』です。
出典は、『帝国書院編集部編「地歴高等地図」P35』です。
挿絵は、『アフリカ』です。
出典は、『筑摩書房「大航海時代」ボイス・ペンローズ著。荒尾克己訳。巻末地図。』です。
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スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
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tiktok:herohero_agency
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
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3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
偽夫婦お家騒動始末記
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紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
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美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。
【登場人物】
帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。
織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。
斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。
一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。
今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。
斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。
【参考資料】
「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社
「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳) KADOKAWA
東浦町観光協会ホームページ
Wikipedia
【表紙画像】
歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
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