128 / 137
第七章――「黄金海岸の砦、奪われるポルトガルの旗」
第10話(中編)――「砂州の綱、排水溝の穴」
しおりを挟む
――――――――――――――――――
登場人物
ディエゴ〈30〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈29〉の仮名)
――――――――――――――――――
側女
1人目 ルジア・ロドリゲス〈26〉
リスボンの川沿いの町で育った。父は港の小役人で、船荷の数え方と、帳面の付け方を娘に叩き込んだ。読み書きができることが唯一の持ち物で、結婚相手は船の会計係だったが、海外の熱病で死んだ。未亡人として本国へ戻る途中、ソファラ帰りの船に乗せてもらっていたが、襲撃で捕虜になった。戻っても家はなく、親戚は「厄介者」として扱うと分かっている。
2人目 カタリーナ・デ・アゼヴェード〈32〉
内陸の小さな貴族家の出だが、家は傾いていた。若いころに「体面のため」の縁組で、海外の砦に関わる文書仕事の男に嫁いだ。夫は家に金を入れるが、妻には関心が薄く、彼女は屋敷で「書類の置き場」のように扱われてきた。砦と教会の往復で、署名、印章、通行証、寄付の名簿といった紙の扱いだけは身につけた。今回の航海も、夫の都合で帰国に同乗させられただけで、帰っても夫の家には居場所がない。
3人目 マダレーナ・フェレイラ〈38〉
南部の海辺の町で育ち、若いころから船乗り相手の宿の台所と洗濯場で働いてきた。嫁いだ男は航海の副官だったが、遠征続きで家にいない。彼女は港で暮らしを回し、怪我人の手当、塩漬け肉の管理、真水の配り方まで現場で覚えた。年齢の分だけ、男の虚勢にも、泣き落としにも動かない。今回の船でも、女の客ではなく、船内の食と水の段取りを実際に動かす側にいた。襲撃で夫と縁が切れ、戻っても「敗走の家族」として冷たい目が待つだけだと見ている。
――――――――――――――――――
(1523年1月下旬。モザンビーク島)
夜明け前の空は、低い雲が腹を引きずっていた。潮はぬるく、鼻の奥に残るような生臭さがある。濡れた木の匂い、焦げた松脂の匂い、汗の匂いが、甲板の板目に染み込んでいた。寝不足の兵は目をこすり、舌で唇の塩をなめた。海は静かな顔をしているのに、空気だけが重い。
ディエゴは灯りの届かない甲板の端で、地図を広げた。紙の角に塩が噛んでいて、触ると指先がざらつく。湿気で紙がふにゃりと波打つたびに、島の匂いが混じった風が吹き込んだ。
ルジアは小さな石を置き、紙が飛ばぬよう押さえた。カタリーナは炭で川筋の曲がりをなぞり、河口の浅瀬に短い線を何本も引いた。そこが砂州で、船が腹を擦る場所だと分かる印だった。
マダレーナは黙って水樽の栓を叩いた。乾いた音がした樽だけを指差し、濡れた樽は脇へ避けさせた。次に彼女は火薬箱の縄を触り、ゆるい結び目を見つけると容赦なく解かせ、布を二重にかけて縛り直させた。火薬は湿れば固まり、燃えなくなる。火縄銃も小砲も、撃てない鉄くずに変わる。それだけは起こさせない、という顔である。
ディエゴは皆の顔を見回して言った。
「よく聞け。浅瀬に乗り上げたら船は傾く。傾けば水が入る。水が入れば、真っ先にだめになるのは火薬だ。火薬が使えなくなったら、砦に近づいたところで撃ち返せない。だから火薬を濡らすな。守る順番を間違えるな。人を捨てると言っているんじゃない。勝てる形で助けるために、先に火薬を守れ」
兵の1人が苦笑して、誰かが小声で言った。
「蚊はその前に血を取りますよ」
ディエゴは肩をすくめた。
「なら蚊に税を払う前に終わらせる。ソファラの壁に取りつく前に、舟を沈めるな。腹を擦るな。綱の位置は決めておけ」
昼前、船団は南へ向けて帆を上げた。風は弱く、帆布がだらりと垂れている。日が上がるにつれ、海面は鉛のように鈍く光り、遠い岸は熱で揺れて見えた。喉は乾き、唇に塩が残る。汗はすぐ乾かず、背に貼りついた麻布が気持ち悪い。
2日目の夕方、空が急に暗くなった。雨粒が大きく、叩かれると木板が痛むように鳴った。波が短く立ち、船が横に揺すられる。濡れた帆は重くなり、滑車が甲高く呻いた。海と空の境目が消え、世界が灰色の布で覆われたようになった。
そのとき、先頭の小舟が砂州に吸い込まれた。舟底が泥に触れた音は鈍く、次の瞬間、櫂が空を掻いた。潮が引き、舟が動かない。舟が止まると後ろも止まる。狭い水路で詰まれば、雨の中で身動きが取れなくなる。
敵の砦が視界に入る前に、ここで止まれば終わりだった。砦の見張りに気づかれる。砲を向けられる。火薬が濡れていたら、撃ち返すこともできない。
ディエゴは歯を見せて笑い、腰まで海に下りた。水はぬるいが、底の泥は冷たく、足が抜けない。泥が脛を引っ張り、靴が脱げそうになる。兵が続き、息が荒くなる。雨が目に入り、まばたきのたびに視界が白く滲んだ。
ディエゴは舟の舳先を叩き、兵に言った。
「綱だ。綱を渡せ。今ここで引き剥がす。砦の灯りが見える場所で足踏みはしない」
怒鳴らない声が雨音に混じって通った。綱が投げられ、濡れた麻が掌に食い込む。手の皮が削れ、塩水が染みた。
全員が綱を引いた。泥が鳴り、舟底がぐぐっと持ち上がる。もう少しで抜けるというところで、綱が一度、手の中を滑った。誰かが呻き声を漏らし、綱がびしりと跳ねた。切れたら終わる。舟が戻り、腹を擦り、火薬箱が揺れて水を吸う。
ルジアが濡れた髪のまま、甲板から叫んだ。
「火薬箱が揺れています。今の衝撃で縄がずれました。縛り直します。濡れた布は替えます」
カタリーナは兵の背を叩くように言った。
「縄が緩い。切れたら火薬が終わる。火薬が終わったら、私たちが終わる。手を抜くな」
舟は最後にもう一度大きく軋んで、泥から抜けた。水が跳ね、誰かが笑いとも咳ともつかぬ声を漏らした。ディエゴは泥の中で息を吐き、顔を上げた。雨の向こうに暗い影がある。河口の曲がりの先に、石の角が覗いていた。サン・カエタノ要塞だった。
夜、雨は弱まり、代わりに湿った熱が押し寄せた。岸に近い空気は重く、息を吸うと胸の奥がぬるくなる。マングローブの匂いが濃く、腐った葉と泥の匂いが混ざっていた。耳の周りで虫が鳴き、皮膚の上を針が走るように刺した。汗は乾かず、首筋にたまって不快に流れた。
上陸は静かに始まった。小舟の舷側が泥に触れ、ぬちゃりと音を立てた。足を下ろすと沈む。泥が足首を抱え、引き抜くたびに吸い付く音がした。兵は声を殺し、歯を食いしばって一歩ずつ進んだ。武器も濡れて重い。息が荒くなると、それだけで気づかれそうだった。
見張り台の灯りが揺れ、ポルトガル語が飛んだ。聞き慣れた調子の怒鳴り声である。次の瞬間、火縄銃の火花が闇を裂いた。火薬の匂いが鼻を刺し、煙が舌に苦い。乾いた破裂音が続き、湿地の空気が震えた。
砦から小砲が鳴った。腹に響く音だった。鉄が飛び、泥と水をまとめて跳ね上げる。細かい砂が頬に当たり、目が痛む。視界が一瞬で白くなり、次に暗くなった。
ディエゴは前へ出た。泥の上で足を滑らせ、膝を突いた。立ち上がる瞬間、頭の横で木片が爆ぜた。肩に熱い痛みが走った。火縄銃の弾が袖を裂って擦っていったのだ。皮膚がひりつき、汗がしみた。
背後の兵が息を呑んだ。
「提督、下がれ。そこで撃たれたら終わる」
ディエゴは泥を払う暇もなく言った。
「下がっても湿地だ。隠れる木も壁もない。ここで伏せたまま撃たれ続けるより、門に取りつく。門を開ければ勝ち筋ができる。行くぞ」
門は石の壁に食い込み、木の扉が湿気で膨れていた。内側で鉄の鎖が鳴り、太い声が命令を飛ばす。矢ではなく鉛が飛ぶ戦いだった。火花と煙が、夜の闇をところどころ白く塗った。
梯子が1本、壁に掛かった。上った兵が途中で止まった。上から熱い液体が落ちてきた。油ではない。煮えた湯だった。蒸気が鼻を刺し、皮膚が焼けたように痛む。兵が声を上げて落ちた。落ちた体が泥に沈み、助ける手が絡み合う。梯子の周りは一瞬で地獄の匂いになった。濡れた布が焼ける匂い、焦げた皮膚の匂い、火薬の匂いが混ざった。
ここで押し返されたら、湿地に釘付けにされる。砦の中から撃たれ続け、こちらの火薬が尽きたところで終わる。
ディエゴは壁際の暗がりへ走り、門の脇の排水溝へ身を滑らせた。そこは人1人がやっと潜れる穴で、泥水が膝まであった。息を吸うと腐った水の匂いが喉を焼いた。口の中に苦味が広がり、吐きそうになる。
中から若い兵の声が震えて聞こえた。
「無理だ、通れない。石が詰まってる」
ディエゴは声を落として返した。
「通れないなら、通れる形にする。ここで止まったら外が持たない。手を貸せ。短剣で泥を掻け。石の角を探せ」
兵が短剣で泥を掻き、ディエゴは肩で石を押した。石が動いた瞬間、内側の空気が流れ込んできた。煙と汗と獣脂の匂いが混じる、砦の匂いだった。外の湿地の匂いより乾いていて、火と人の匂いがした。
穴の向こうは倉の裏だった。木箱が積まれ、縄が乱れている。番兵の背中が見えた。彼は火縄銃を持ち、何かをぶつぶつ言っていた。疲れているのか、肩が落ちている。
ディエゴは泥まみれのまま立ち上がり、兵に目で合図した。声に出さず、息だけで言う。急ぐな、と。
だが番兵が振り向いた。驚きで目が開いた。その一瞬が勝負だった。ディエゴ側の兵が飛びつき、口を塞ぎ、腕を背中に回してねじった。番兵は短く呻いたが、叫びにはならなかった。縄で縛ると、番兵の体から汗が噴き、獣脂の匂いが強くなった。
鎖が落ちる音が乾いて響いた。遠くで誰かが気づいて叫んだ。もう隠れられない。砦の中の足音が増え、火が動く気配がした。
ディエゴは倉の扉を蹴り開け、内側から門へ走った。石の床は濡れて滑り、足裏が冷たい。廊下に火縄銃の煙が溜まり、息が苦しい。咳をしたら終わる、と喉が言う。だから歯を食いしばり、鼻で浅く息をした。
門の内側では守備兵が鎖を握り、扉を押さえていた。彼らは外の騒ぎを聞き、内側を固めている。そこへディエゴが飛び込んだ。彼は守備兵の目を見て言った。
「その鎖を握っていれば助かると思うな。今助かりたいなら、剣を捨てろ。働けるなら生かす」
返事は銃声だった。音が耳を叩き、粉煙が目を塞いだ。至近距離の火花が頬を焦がし、皮膚がひりつく。ディエゴは身を捻り、銃口を払い、壁へ押しつけた。火縄が落ち、じゅっと濡れた石に消えた。
守備兵が体当たりしてきた。ディエゴは壁に背を打ち、息が詰まった。視界が白くなる。鉄の匂いがした。血の匂いも混じる。口の中に金属の味が広がった。
その瞬間、外側から大砲が鳴った。
砦の外で、こちらの小砲が火を噴いたのだ。狙いは門そのものではない。門の上の銃眼と壁の角である。石片が門の内側へ降り、守備兵が反射的に身をすくめた。怖いのは弾より石だ。顔を覆う、その動きが一瞬の穴になる。
ディエゴはその一瞬を逃さなかった。
「今だ。鎖だ。切れ」
味方の兵が鎖へ飛びつき、引き切った。木の扉が湿気を含んだ唸り声を上げて開く。外の湿った夜気が流れ込み、潮の匂いが戻った。外の闇に、味方の火が点々と揺れていた。
―――――――――――――――――
挿絵は、『ポルトガル人によるアフリカ沿岸周航』です。
出典は、『講談社現代新書「新書アフリカ史」P253』です。
挿絵は、『アフリカ』です。
出典は、『筑摩書房「大航海時代」ボイス・ペンローズ著。荒尾克己訳。巻末地図。』です。
挿絵は、『アフリカ地図』です。
出典は、『帝国書院編集部編「地歴高等地図」P35』です。
挿絵は、『東アフリカ』です。
出典は、『帝国書院編集部編「地歴高等地図」P40』です。
―――――――――――――――――
登場人物
ディエゴ〈30〉(新大陸皇帝アルバロ・デ・モリーナ〈29〉の仮名)
――――――――――――――――――
側女
1人目 ルジア・ロドリゲス〈26〉
リスボンの川沿いの町で育った。父は港の小役人で、船荷の数え方と、帳面の付け方を娘に叩き込んだ。読み書きができることが唯一の持ち物で、結婚相手は船の会計係だったが、海外の熱病で死んだ。未亡人として本国へ戻る途中、ソファラ帰りの船に乗せてもらっていたが、襲撃で捕虜になった。戻っても家はなく、親戚は「厄介者」として扱うと分かっている。
2人目 カタリーナ・デ・アゼヴェード〈32〉
内陸の小さな貴族家の出だが、家は傾いていた。若いころに「体面のため」の縁組で、海外の砦に関わる文書仕事の男に嫁いだ。夫は家に金を入れるが、妻には関心が薄く、彼女は屋敷で「書類の置き場」のように扱われてきた。砦と教会の往復で、署名、印章、通行証、寄付の名簿といった紙の扱いだけは身につけた。今回の航海も、夫の都合で帰国に同乗させられただけで、帰っても夫の家には居場所がない。
3人目 マダレーナ・フェレイラ〈38〉
南部の海辺の町で育ち、若いころから船乗り相手の宿の台所と洗濯場で働いてきた。嫁いだ男は航海の副官だったが、遠征続きで家にいない。彼女は港で暮らしを回し、怪我人の手当、塩漬け肉の管理、真水の配り方まで現場で覚えた。年齢の分だけ、男の虚勢にも、泣き落としにも動かない。今回の船でも、女の客ではなく、船内の食と水の段取りを実際に動かす側にいた。襲撃で夫と縁が切れ、戻っても「敗走の家族」として冷たい目が待つだけだと見ている。
――――――――――――――――――
(1523年1月下旬。モザンビーク島)
夜明け前の空は、低い雲が腹を引きずっていた。潮はぬるく、鼻の奥に残るような生臭さがある。濡れた木の匂い、焦げた松脂の匂い、汗の匂いが、甲板の板目に染み込んでいた。寝不足の兵は目をこすり、舌で唇の塩をなめた。海は静かな顔をしているのに、空気だけが重い。
ディエゴは灯りの届かない甲板の端で、地図を広げた。紙の角に塩が噛んでいて、触ると指先がざらつく。湿気で紙がふにゃりと波打つたびに、島の匂いが混じった風が吹き込んだ。
ルジアは小さな石を置き、紙が飛ばぬよう押さえた。カタリーナは炭で川筋の曲がりをなぞり、河口の浅瀬に短い線を何本も引いた。そこが砂州で、船が腹を擦る場所だと分かる印だった。
マダレーナは黙って水樽の栓を叩いた。乾いた音がした樽だけを指差し、濡れた樽は脇へ避けさせた。次に彼女は火薬箱の縄を触り、ゆるい結び目を見つけると容赦なく解かせ、布を二重にかけて縛り直させた。火薬は湿れば固まり、燃えなくなる。火縄銃も小砲も、撃てない鉄くずに変わる。それだけは起こさせない、という顔である。
ディエゴは皆の顔を見回して言った。
「よく聞け。浅瀬に乗り上げたら船は傾く。傾けば水が入る。水が入れば、真っ先にだめになるのは火薬だ。火薬が使えなくなったら、砦に近づいたところで撃ち返せない。だから火薬を濡らすな。守る順番を間違えるな。人を捨てると言っているんじゃない。勝てる形で助けるために、先に火薬を守れ」
兵の1人が苦笑して、誰かが小声で言った。
「蚊はその前に血を取りますよ」
ディエゴは肩をすくめた。
「なら蚊に税を払う前に終わらせる。ソファラの壁に取りつく前に、舟を沈めるな。腹を擦るな。綱の位置は決めておけ」
昼前、船団は南へ向けて帆を上げた。風は弱く、帆布がだらりと垂れている。日が上がるにつれ、海面は鉛のように鈍く光り、遠い岸は熱で揺れて見えた。喉は乾き、唇に塩が残る。汗はすぐ乾かず、背に貼りついた麻布が気持ち悪い。
2日目の夕方、空が急に暗くなった。雨粒が大きく、叩かれると木板が痛むように鳴った。波が短く立ち、船が横に揺すられる。濡れた帆は重くなり、滑車が甲高く呻いた。海と空の境目が消え、世界が灰色の布で覆われたようになった。
そのとき、先頭の小舟が砂州に吸い込まれた。舟底が泥に触れた音は鈍く、次の瞬間、櫂が空を掻いた。潮が引き、舟が動かない。舟が止まると後ろも止まる。狭い水路で詰まれば、雨の中で身動きが取れなくなる。
敵の砦が視界に入る前に、ここで止まれば終わりだった。砦の見張りに気づかれる。砲を向けられる。火薬が濡れていたら、撃ち返すこともできない。
ディエゴは歯を見せて笑い、腰まで海に下りた。水はぬるいが、底の泥は冷たく、足が抜けない。泥が脛を引っ張り、靴が脱げそうになる。兵が続き、息が荒くなる。雨が目に入り、まばたきのたびに視界が白く滲んだ。
ディエゴは舟の舳先を叩き、兵に言った。
「綱だ。綱を渡せ。今ここで引き剥がす。砦の灯りが見える場所で足踏みはしない」
怒鳴らない声が雨音に混じって通った。綱が投げられ、濡れた麻が掌に食い込む。手の皮が削れ、塩水が染みた。
全員が綱を引いた。泥が鳴り、舟底がぐぐっと持ち上がる。もう少しで抜けるというところで、綱が一度、手の中を滑った。誰かが呻き声を漏らし、綱がびしりと跳ねた。切れたら終わる。舟が戻り、腹を擦り、火薬箱が揺れて水を吸う。
ルジアが濡れた髪のまま、甲板から叫んだ。
「火薬箱が揺れています。今の衝撃で縄がずれました。縛り直します。濡れた布は替えます」
カタリーナは兵の背を叩くように言った。
「縄が緩い。切れたら火薬が終わる。火薬が終わったら、私たちが終わる。手を抜くな」
舟は最後にもう一度大きく軋んで、泥から抜けた。水が跳ね、誰かが笑いとも咳ともつかぬ声を漏らした。ディエゴは泥の中で息を吐き、顔を上げた。雨の向こうに暗い影がある。河口の曲がりの先に、石の角が覗いていた。サン・カエタノ要塞だった。
夜、雨は弱まり、代わりに湿った熱が押し寄せた。岸に近い空気は重く、息を吸うと胸の奥がぬるくなる。マングローブの匂いが濃く、腐った葉と泥の匂いが混ざっていた。耳の周りで虫が鳴き、皮膚の上を針が走るように刺した。汗は乾かず、首筋にたまって不快に流れた。
上陸は静かに始まった。小舟の舷側が泥に触れ、ぬちゃりと音を立てた。足を下ろすと沈む。泥が足首を抱え、引き抜くたびに吸い付く音がした。兵は声を殺し、歯を食いしばって一歩ずつ進んだ。武器も濡れて重い。息が荒くなると、それだけで気づかれそうだった。
見張り台の灯りが揺れ、ポルトガル語が飛んだ。聞き慣れた調子の怒鳴り声である。次の瞬間、火縄銃の火花が闇を裂いた。火薬の匂いが鼻を刺し、煙が舌に苦い。乾いた破裂音が続き、湿地の空気が震えた。
砦から小砲が鳴った。腹に響く音だった。鉄が飛び、泥と水をまとめて跳ね上げる。細かい砂が頬に当たり、目が痛む。視界が一瞬で白くなり、次に暗くなった。
ディエゴは前へ出た。泥の上で足を滑らせ、膝を突いた。立ち上がる瞬間、頭の横で木片が爆ぜた。肩に熱い痛みが走った。火縄銃の弾が袖を裂って擦っていったのだ。皮膚がひりつき、汗がしみた。
背後の兵が息を呑んだ。
「提督、下がれ。そこで撃たれたら終わる」
ディエゴは泥を払う暇もなく言った。
「下がっても湿地だ。隠れる木も壁もない。ここで伏せたまま撃たれ続けるより、門に取りつく。門を開ければ勝ち筋ができる。行くぞ」
門は石の壁に食い込み、木の扉が湿気で膨れていた。内側で鉄の鎖が鳴り、太い声が命令を飛ばす。矢ではなく鉛が飛ぶ戦いだった。火花と煙が、夜の闇をところどころ白く塗った。
梯子が1本、壁に掛かった。上った兵が途中で止まった。上から熱い液体が落ちてきた。油ではない。煮えた湯だった。蒸気が鼻を刺し、皮膚が焼けたように痛む。兵が声を上げて落ちた。落ちた体が泥に沈み、助ける手が絡み合う。梯子の周りは一瞬で地獄の匂いになった。濡れた布が焼ける匂い、焦げた皮膚の匂い、火薬の匂いが混ざった。
ここで押し返されたら、湿地に釘付けにされる。砦の中から撃たれ続け、こちらの火薬が尽きたところで終わる。
ディエゴは壁際の暗がりへ走り、門の脇の排水溝へ身を滑らせた。そこは人1人がやっと潜れる穴で、泥水が膝まであった。息を吸うと腐った水の匂いが喉を焼いた。口の中に苦味が広がり、吐きそうになる。
中から若い兵の声が震えて聞こえた。
「無理だ、通れない。石が詰まってる」
ディエゴは声を落として返した。
「通れないなら、通れる形にする。ここで止まったら外が持たない。手を貸せ。短剣で泥を掻け。石の角を探せ」
兵が短剣で泥を掻き、ディエゴは肩で石を押した。石が動いた瞬間、内側の空気が流れ込んできた。煙と汗と獣脂の匂いが混じる、砦の匂いだった。外の湿地の匂いより乾いていて、火と人の匂いがした。
穴の向こうは倉の裏だった。木箱が積まれ、縄が乱れている。番兵の背中が見えた。彼は火縄銃を持ち、何かをぶつぶつ言っていた。疲れているのか、肩が落ちている。
ディエゴは泥まみれのまま立ち上がり、兵に目で合図した。声に出さず、息だけで言う。急ぐな、と。
だが番兵が振り向いた。驚きで目が開いた。その一瞬が勝負だった。ディエゴ側の兵が飛びつき、口を塞ぎ、腕を背中に回してねじった。番兵は短く呻いたが、叫びにはならなかった。縄で縛ると、番兵の体から汗が噴き、獣脂の匂いが強くなった。
鎖が落ちる音が乾いて響いた。遠くで誰かが気づいて叫んだ。もう隠れられない。砦の中の足音が増え、火が動く気配がした。
ディエゴは倉の扉を蹴り開け、内側から門へ走った。石の床は濡れて滑り、足裏が冷たい。廊下に火縄銃の煙が溜まり、息が苦しい。咳をしたら終わる、と喉が言う。だから歯を食いしばり、鼻で浅く息をした。
門の内側では守備兵が鎖を握り、扉を押さえていた。彼らは外の騒ぎを聞き、内側を固めている。そこへディエゴが飛び込んだ。彼は守備兵の目を見て言った。
「その鎖を握っていれば助かると思うな。今助かりたいなら、剣を捨てろ。働けるなら生かす」
返事は銃声だった。音が耳を叩き、粉煙が目を塞いだ。至近距離の火花が頬を焦がし、皮膚がひりつく。ディエゴは身を捻り、銃口を払い、壁へ押しつけた。火縄が落ち、じゅっと濡れた石に消えた。
守備兵が体当たりしてきた。ディエゴは壁に背を打ち、息が詰まった。視界が白くなる。鉄の匂いがした。血の匂いも混じる。口の中に金属の味が広がった。
その瞬間、外側から大砲が鳴った。
砦の外で、こちらの小砲が火を噴いたのだ。狙いは門そのものではない。門の上の銃眼と壁の角である。石片が門の内側へ降り、守備兵が反射的に身をすくめた。怖いのは弾より石だ。顔を覆う、その動きが一瞬の穴になる。
ディエゴはその一瞬を逃さなかった。
「今だ。鎖だ。切れ」
味方の兵が鎖へ飛びつき、引き切った。木の扉が湿気を含んだ唸り声を上げて開く。外の湿った夜気が流れ込み、潮の匂いが戻った。外の闇に、味方の火が点々と揺れていた。
―――――――――――――――――
挿絵は、『ポルトガル人によるアフリカ沿岸周航』です。
出典は、『講談社現代新書「新書アフリカ史」P253』です。
挿絵は、『アフリカ』です。
出典は、『筑摩書房「大航海時代」ボイス・ペンローズ著。荒尾克己訳。巻末地図。』です。
挿絵は、『アフリカ地図』です。
出典は、『帝国書院編集部編「地歴高等地図」P35』です。
挿絵は、『東アフリカ』です。
出典は、『帝国書院編集部編「地歴高等地図」P40』です。
―――――――――――――――――
0
あなたにおすすめの小説
【アラウコの叫び 】第4巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日21:40投稿】
4巻は、序盤は「推理もの」、中盤から後半は「ロマンスもの」が展開されます。
・サンティアゴで起こる「事件」と「裁き」
・「アンデスの悪魔」として悪名を轟かせた狂気の老人カルバハルの存在感
・ニドス家の兄妹の「行く末」
・イネスとバルディビアとの「出逢い」と「結末」
大きく分けてこの様な展開になってます。
-------------------
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。
【登場人物】
帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。
織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。
斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。
一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。
今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。
斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。
【参考資料】
「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社
「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳) KADOKAWA
東浦町観光協会ホームページ
Wikipedia
【表紙画像】
歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる



