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第一章 孤児院の少女
5 とうとう十二歳になりますわ
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中央大陸歴八一二年六月――。
アリツェは間もなく、十二歳の誕生日を迎えようとしていた。
王国では十二歳の誕生日をもって、一つの区切りを迎える。準成人になるのだ。
準成人になると、一人である程度の契約締結や、職人や商人の下への正式な弟子入りが可能になる。仮免許状態ではあるが、一人の大人として見てもらえるようになるのだ。十五歳で本格的に成人するまでの期間に、準成人たちは大人として必要な素養を身につけていく。
アリツェはいよいよ、身の振り方を本格的に考えなければならない時期に差し掛かっていた。
プリンツ子爵家との関係が変わっていない以上、貴族社会へ戻る案は、非現実的だった。両親から将来の道筋のあっせんを受けられる可能性は、皆無に等しい。
本来であれば、領主マルティンの一人娘であるアリツェは、婿を取ってプリンツ子爵家を継ぐはずであった。この準成人の期間は、領主になるための勉強に充てられてしかるべきであった。
二年経っても領館に戻れない現状に、アリツェはもはや、両親との関係改善をあきらめていた。このまま一庶民として過ごそうと、固く決意をしていた。
アリツェの考えを聞いた院長は、二つの道を示した。
一つは、孤児院にとどまり、院長からの教えを受けて教師を目指す案。
もう一つは、精霊教の教会に入り、聖職者を目指す案。
院長自身は、二つ目の聖職者を目指す案を強く推していた。高濃度の『霊素』を保有しているアリツェは、精霊教の聖職者になれば、将来、教会内部で大出世も目指せると、院長は力説した。
精霊教自体も、ゆっくりとではあったが確実に、王国一帯へ広がりを見せていた。特に、魔獣の被害の多い農村地域では、世界再生教をしのぐ信仰を集め始めている。将来的にはかなりの力を持つであろうことは、状況に聡いものには明らかであった。もはや、新興宗教と揶揄されるような組織ではなくなっていた。
しかし、アリツェ自身は教師の道に興味があった。
孤児院で過ごした二年間、年下の子供たち相手に教師のまねごとをしてきた経験から、人にものを教える楽しさをアリツェは知った。それに、ペスとこれからも一緒にいるためには、教会に入るよりも在野で教師をしたほうがよいのではないかとの思いもあった。
孤児院に与えられたアリツェの自室。準成人を間近に控え、アリツェは院長から一人部屋を割り当てられていた。
にぎやかだった今までの四人部屋とは違い、アリツェのたてるわずかな生活音以外は、静寂が支配をしている。ゆっくりと物事を考えるためには、都合がよい。
なかなかこれと決めきれなかったアリツェは、ここ数日、部屋に籠りっきりになり、悩んでいた。
この日も朝から考え込んでいたが、結論が出ない。
アリツェはいったん思索をあきらめて、ベッドに横になった。近づいてきたペスを抱きあげ、たわむれる。気晴らしをしなければ、思考の渦の中にからめとられて潰されてしまう、と。
主人が悩んでいる様子を感じ取ったのか、ペスも積極的に気分転換へ協力をした。主人の気持ちを汲む能力に、ペスは殊の外長けていた。
しばらくペスと一緒に、ベッドの上をゴロゴロと転がった。ペスも嬉しそうにアリツェに甘える。ふかふかの毛皮に顔をうずめ、アリツェは幸福感に浸った。千々に乱れた思考の糸が、ほぐされていく感覚……。
ペスとのじゃれあいに満足すると、アリツェは気合を入れなおした。目の前の難題に、再び取り組む。教師か、それとも、聖職者か、と。
「教師を目指して、わたくしは後悔をしないでしょうか」
今は教師の道に心が傾いている。だが、決めきれない。せっかくの持って生まれた『霊素』という才能を、生かす道も捨てきれない。
「聖職者になって『霊素』の扱いを研究していく道も、面白そうといえば面白そうですわ。それに、『霊素』を深く理解できれば、もっとペスと分かり合える気もします」
アリツェはペスを抱き上げ、その瞳をじっと見つめた。
初めてペスと出会って以来、断続的に襲う不思議な感覚――記憶を共有しているのではないかと思うペスの行動と、体験してきたかのような明瞭な夢。どこか深いところで、ペスと繋がっているような気がする。それも、『霊素』を媒介にして。
ペスと触れ合えば触れ合うほど、湧き上がる『霊素』への興味も、抑えきれなくなっていた。
「院長先生と、もう一度じっくりお話をしたほうが、よいのかもしれませんわね」
思い立つと、アリツェはベッドから起き出した。
――コンコンッ
部屋の入口に向かおうとするや、タイミングよく部屋の扉がノックされた。アリツェが「どうぞ」と声をかけると、扉が開かれた。
「アリツェ、こんにちは。悩んでいる様子だったので、様子を見に来ました」
入ってきたのは院長だった。絶妙のタイミングだ。
「ちょうどよかったですわ、院長先生。今向かおうと思っていたところでしたの」
アリツェは院長に椅子をすすめると、自身はベッドサイドに腰を下ろした。
「それは好都合でしたね。では、少し話をしましょうか」
アリツェは一つに決めきれない理由を院長に話した。教育の道に進みたい気持ちが強いが、『霊素』の研究にも興味がある、と。
「もし聖職者になっても、説教といった形で他者への教育の機会は持てます。あなたの教育欲も、十分に満たせると思います」
「ということは、聖職者の道を選んたとしても、どなたかに何かをお教しえする機会はあるのですね」
院長は頷いた。
「ただ、あまりに出世をしてしまうと、現場から離れなければならなくなります。アリツェなら、聖職者になれば出世は間違いないでしょうから、少し悩ましいですね」
現場に出られないのは困る。どちらかと言えば、教育により興味があるのだから。
「ですが、もし、説教を求めて出世を望まないのであれば、神官ではなく伝道師を目指すのも、良いかもしれませんね」
伝道師――どこかで聞いた気がしたが、アリツェはすぐには思い出せなかった。
「神官と伝道師では、何が違うのです?」
アリツェは首をかしげつつ、質問した。
「神官は、基本的にはその街の教会に所属し、街の外へ出ることはありません。その街の住民に布教し、悩みを聞き、冠婚葬祭を執り行う。やがては出世し、地域の神官を取りまとめる司教、国内全体を統括する大司教となっていきます」
アリツェも持つ、一般的な聖職者のイメージだった。
「一方、伝道師は、布教の進んでいない地域に自ら出向きます。異教徒や宗教を持たない人たちに、『精霊』のつかさどる世の理を説き、布教を行い、信者を増やすことが役目です。教会がまだ建てられておらず、学校もないような辺境では、子供たちに簡単な読み書きを教えたりもします。特定の教会には所属せず、出世もしませんので、最後まで現場に立ち続けられますよ」
教育に力点を置くのであれば、伝道師のほうがよさそうだった。しかし――。
「国中をあちこち飛び回ることになるのですよね? それでは、『霊素』や『精霊』の研究は、無理なのではないですか?」
霊素の研究ができないのであれば、素直に教師になるほうがわかりやすいと、アリツェは思う。
「もちろん、空き時間に霊素の研究はできます。各地の教会のバックアップも受けられます。それに、神官たちが研究した最新の精霊に関する知識も、優先的に学ぶことができます。市井の教師とは比較にならない程度に、精霊の知識は得られるはずです」
精霊や霊素の深い知識に基づいた布教を行う必要があるため、伝道師も常に最新の精霊情報に触れていなければならない、との教会側の考えもあるそうだ。
「お話を伺いますと、どうやらわたくしには、伝道師が向いていそうですわね」
市井の教師を選択する必然性が、院長の話を聞いて消滅した。もう、伝道師以外の選択肢は選べない。
「では、伝道師を目指す方向で、お話を進めていただけますか?」
アリツェは深々と頭を下げた。
「わかりました。あなたの意志は、教会の司祭に伝えておきます」
院長は優しく微笑むと、軽くアリツェの頭を撫でた。
「あなたのこの選択が、より良い未来につながることを、私もエマも祈っています」
そう言い残すと、院長は部屋を後にした。
はしたないとは思いつつも、うれしさのあまりアリツェは布団に飛び込んだ。ここ数日の悩みが解決し、心が軽くなったように感じた。
「ウフフッ、伝道師ですわよ、ペス」
院長のいる間、床にお座りをしていたペスも、ベッドに飛び乗ってきた。
「国中を旅するのですわ。わたくし、外の世界をまったく知らないので、楽しみでたまりませんわ!」
うつ伏せに寝、枕に顔を押し付けながら、左右の足をぶらぶらと交互に振った。
「ペス、あなたも、わたくしと一緒に来てくださいますわよね」
返事を期待するでもなく、ペスに話しかけた。すると――。
『もちろんだワンッ! どこまでも、お供するワンッ!』
突然、アリツェの脳内に何者かの声らしきものが、響き渡った。
「え? え?」
アリツェは戸惑い、あたふたと周囲を見渡した。誰かいるのか、と。
(――だれも、いませんわよね)
部屋にはアリツェ以外、誰もいなかった。物陰に隠れている様子もない――そもそも、最低限の家具しかなく、隠れるような場所もないのだが――。
(確かに、声が聞こえましたわ。空耳では、ないはずですわ……)
改めて部屋を見回す。
誰もいない。アリツェと……、ペス以外には――。
(もしかして……。でも、ありえないですわ)
脳裏に浮かんだ考えを、ばかげた妄想だと一蹴した。犬が人語をしゃべるなど、ありえない。
だが、それでもペスならば、と思う自分も、確かにいるとアリツェは感じていた。
「ペス、あなた今、何かおっしゃいましたか?」
ペスは首をかしげた。ただ、それだけだ。何も語りかけては、こなかった。
しばらくペスの顔を凝視したが、ペスがしゃべりかけてくることは、なかった。
(気のせい、だったのかしら……)
アリツェはぶんぶんと大きく頭を左右に振った。悩みすぎて疲れたのだろう、あれは『空耳』だと、アリツェは無理やり結論付けた。
アリツェは間もなく、十二歳の誕生日を迎えようとしていた。
王国では十二歳の誕生日をもって、一つの区切りを迎える。準成人になるのだ。
準成人になると、一人である程度の契約締結や、職人や商人の下への正式な弟子入りが可能になる。仮免許状態ではあるが、一人の大人として見てもらえるようになるのだ。十五歳で本格的に成人するまでの期間に、準成人たちは大人として必要な素養を身につけていく。
アリツェはいよいよ、身の振り方を本格的に考えなければならない時期に差し掛かっていた。
プリンツ子爵家との関係が変わっていない以上、貴族社会へ戻る案は、非現実的だった。両親から将来の道筋のあっせんを受けられる可能性は、皆無に等しい。
本来であれば、領主マルティンの一人娘であるアリツェは、婿を取ってプリンツ子爵家を継ぐはずであった。この準成人の期間は、領主になるための勉強に充てられてしかるべきであった。
二年経っても領館に戻れない現状に、アリツェはもはや、両親との関係改善をあきらめていた。このまま一庶民として過ごそうと、固く決意をしていた。
アリツェの考えを聞いた院長は、二つの道を示した。
一つは、孤児院にとどまり、院長からの教えを受けて教師を目指す案。
もう一つは、精霊教の教会に入り、聖職者を目指す案。
院長自身は、二つ目の聖職者を目指す案を強く推していた。高濃度の『霊素』を保有しているアリツェは、精霊教の聖職者になれば、将来、教会内部で大出世も目指せると、院長は力説した。
精霊教自体も、ゆっくりとではあったが確実に、王国一帯へ広がりを見せていた。特に、魔獣の被害の多い農村地域では、世界再生教をしのぐ信仰を集め始めている。将来的にはかなりの力を持つであろうことは、状況に聡いものには明らかであった。もはや、新興宗教と揶揄されるような組織ではなくなっていた。
しかし、アリツェ自身は教師の道に興味があった。
孤児院で過ごした二年間、年下の子供たち相手に教師のまねごとをしてきた経験から、人にものを教える楽しさをアリツェは知った。それに、ペスとこれからも一緒にいるためには、教会に入るよりも在野で教師をしたほうがよいのではないかとの思いもあった。
孤児院に与えられたアリツェの自室。準成人を間近に控え、アリツェは院長から一人部屋を割り当てられていた。
にぎやかだった今までの四人部屋とは違い、アリツェのたてるわずかな生活音以外は、静寂が支配をしている。ゆっくりと物事を考えるためには、都合がよい。
なかなかこれと決めきれなかったアリツェは、ここ数日、部屋に籠りっきりになり、悩んでいた。
この日も朝から考え込んでいたが、結論が出ない。
アリツェはいったん思索をあきらめて、ベッドに横になった。近づいてきたペスを抱きあげ、たわむれる。気晴らしをしなければ、思考の渦の中にからめとられて潰されてしまう、と。
主人が悩んでいる様子を感じ取ったのか、ペスも積極的に気分転換へ協力をした。主人の気持ちを汲む能力に、ペスは殊の外長けていた。
しばらくペスと一緒に、ベッドの上をゴロゴロと転がった。ペスも嬉しそうにアリツェに甘える。ふかふかの毛皮に顔をうずめ、アリツェは幸福感に浸った。千々に乱れた思考の糸が、ほぐされていく感覚……。
ペスとのじゃれあいに満足すると、アリツェは気合を入れなおした。目の前の難題に、再び取り組む。教師か、それとも、聖職者か、と。
「教師を目指して、わたくしは後悔をしないでしょうか」
今は教師の道に心が傾いている。だが、決めきれない。せっかくの持って生まれた『霊素』という才能を、生かす道も捨てきれない。
「聖職者になって『霊素』の扱いを研究していく道も、面白そうといえば面白そうですわ。それに、『霊素』を深く理解できれば、もっとペスと分かり合える気もします」
アリツェはペスを抱き上げ、その瞳をじっと見つめた。
初めてペスと出会って以来、断続的に襲う不思議な感覚――記憶を共有しているのではないかと思うペスの行動と、体験してきたかのような明瞭な夢。どこか深いところで、ペスと繋がっているような気がする。それも、『霊素』を媒介にして。
ペスと触れ合えば触れ合うほど、湧き上がる『霊素』への興味も、抑えきれなくなっていた。
「院長先生と、もう一度じっくりお話をしたほうが、よいのかもしれませんわね」
思い立つと、アリツェはベッドから起き出した。
――コンコンッ
部屋の入口に向かおうとするや、タイミングよく部屋の扉がノックされた。アリツェが「どうぞ」と声をかけると、扉が開かれた。
「アリツェ、こんにちは。悩んでいる様子だったので、様子を見に来ました」
入ってきたのは院長だった。絶妙のタイミングだ。
「ちょうどよかったですわ、院長先生。今向かおうと思っていたところでしたの」
アリツェは院長に椅子をすすめると、自身はベッドサイドに腰を下ろした。
「それは好都合でしたね。では、少し話をしましょうか」
アリツェは一つに決めきれない理由を院長に話した。教育の道に進みたい気持ちが強いが、『霊素』の研究にも興味がある、と。
「もし聖職者になっても、説教といった形で他者への教育の機会は持てます。あなたの教育欲も、十分に満たせると思います」
「ということは、聖職者の道を選んたとしても、どなたかに何かをお教しえする機会はあるのですね」
院長は頷いた。
「ただ、あまりに出世をしてしまうと、現場から離れなければならなくなります。アリツェなら、聖職者になれば出世は間違いないでしょうから、少し悩ましいですね」
現場に出られないのは困る。どちらかと言えば、教育により興味があるのだから。
「ですが、もし、説教を求めて出世を望まないのであれば、神官ではなく伝道師を目指すのも、良いかもしれませんね」
伝道師――どこかで聞いた気がしたが、アリツェはすぐには思い出せなかった。
「神官と伝道師では、何が違うのです?」
アリツェは首をかしげつつ、質問した。
「神官は、基本的にはその街の教会に所属し、街の外へ出ることはありません。その街の住民に布教し、悩みを聞き、冠婚葬祭を執り行う。やがては出世し、地域の神官を取りまとめる司教、国内全体を統括する大司教となっていきます」
アリツェも持つ、一般的な聖職者のイメージだった。
「一方、伝道師は、布教の進んでいない地域に自ら出向きます。異教徒や宗教を持たない人たちに、『精霊』のつかさどる世の理を説き、布教を行い、信者を増やすことが役目です。教会がまだ建てられておらず、学校もないような辺境では、子供たちに簡単な読み書きを教えたりもします。特定の教会には所属せず、出世もしませんので、最後まで現場に立ち続けられますよ」
教育に力点を置くのであれば、伝道師のほうがよさそうだった。しかし――。
「国中をあちこち飛び回ることになるのですよね? それでは、『霊素』や『精霊』の研究は、無理なのではないですか?」
霊素の研究ができないのであれば、素直に教師になるほうがわかりやすいと、アリツェは思う。
「もちろん、空き時間に霊素の研究はできます。各地の教会のバックアップも受けられます。それに、神官たちが研究した最新の精霊に関する知識も、優先的に学ぶことができます。市井の教師とは比較にならない程度に、精霊の知識は得られるはずです」
精霊や霊素の深い知識に基づいた布教を行う必要があるため、伝道師も常に最新の精霊情報に触れていなければならない、との教会側の考えもあるそうだ。
「お話を伺いますと、どうやらわたくしには、伝道師が向いていそうですわね」
市井の教師を選択する必然性が、院長の話を聞いて消滅した。もう、伝道師以外の選択肢は選べない。
「では、伝道師を目指す方向で、お話を進めていただけますか?」
アリツェは深々と頭を下げた。
「わかりました。あなたの意志は、教会の司祭に伝えておきます」
院長は優しく微笑むと、軽くアリツェの頭を撫でた。
「あなたのこの選択が、より良い未来につながることを、私もエマも祈っています」
そう言い残すと、院長は部屋を後にした。
はしたないとは思いつつも、うれしさのあまりアリツェは布団に飛び込んだ。ここ数日の悩みが解決し、心が軽くなったように感じた。
「ウフフッ、伝道師ですわよ、ペス」
院長のいる間、床にお座りをしていたペスも、ベッドに飛び乗ってきた。
「国中を旅するのですわ。わたくし、外の世界をまったく知らないので、楽しみでたまりませんわ!」
うつ伏せに寝、枕に顔を押し付けながら、左右の足をぶらぶらと交互に振った。
「ペス、あなたも、わたくしと一緒に来てくださいますわよね」
返事を期待するでもなく、ペスに話しかけた。すると――。
『もちろんだワンッ! どこまでも、お供するワンッ!』
突然、アリツェの脳内に何者かの声らしきものが、響き渡った。
「え? え?」
アリツェは戸惑い、あたふたと周囲を見渡した。誰かいるのか、と。
(――だれも、いませんわよね)
部屋にはアリツェ以外、誰もいなかった。物陰に隠れている様子もない――そもそも、最低限の家具しかなく、隠れるような場所もないのだが――。
(確かに、声が聞こえましたわ。空耳では、ないはずですわ……)
改めて部屋を見回す。
誰もいない。アリツェと……、ペス以外には――。
(もしかして……。でも、ありえないですわ)
脳裏に浮かんだ考えを、ばかげた妄想だと一蹴した。犬が人語をしゃべるなど、ありえない。
だが、それでもペスならば、と思う自分も、確かにいるとアリツェは感じていた。
「ペス、あなた今、何かおっしゃいましたか?」
ペスは首をかしげた。ただ、それだけだ。何も語りかけては、こなかった。
しばらくペスの顔を凝視したが、ペスがしゃべりかけてくることは、なかった。
(気のせい、だったのかしら……)
アリツェはぶんぶんと大きく頭を左右に振った。悩みすぎて疲れたのだろう、あれは『空耳』だと、アリツェは無理やり結論付けた。
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