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第二十一章 隠れアジトにて

2-2 いよいよ婚礼の儀ですわ~後編~

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 婚礼の儀を翌日に控えた夜――。

 アリツェはドミニクと二人、アリツェの私室で最後の打ち合わせをしていた。

 打ち合わせとはいっても、準備はすべて王室側が行っている。ただ単に、国王らから指示された式の進行や誓いの言葉を、改めて確認し合うだけのものだった。

 一通りの確認作業を終え、今は二人、言葉を交わすことなく静かに紅茶をたしなんでいた。

 婚礼の儀は、アリツェが領主になってから建てられた精霊教の教会で執り行われる。官僚や子爵邸の使用人の一部は、最終調整のためにその教会へと出払っており、子爵邸内はいつも以上に静寂に包まれていた。アリツェの私室も、陶器製のティーカップが時折たてるカタカタという音以外、まったくの無音だった。

 アリツェたちはお互いに見つめ合い、ゆっくりとティーカップを口元に運ぶ。無響の中、アリツェはこれまで歩んできたドミニクとの思い出を脳裏に浮かべつつ、目を閉じた。

 マリエの策略に破れ、一人グリューンの街に取り残されたアリツェを助け出したのは、ドミニクだった。以後、ドミニクはアリツェの指導伝道師として、常に傍に寄り添った。グリューンからの逃避行、叔父である辺境伯との面会、対帝国戦争、そして、エウロペ山での大司教追討作戦――。

 そのさなか、二人は正式な婚約者となった。クリスティーナの出現で、アリツェは一時、悪役を演じることでドミニクとの結婚をあきらめかけたが、最終的には元の鞘へと戻った。ドミニクと出会って三年、とうとう明日、正式に婚姻を結ぶ。ドミニクの妻となる。

「いよいよ、いよいよ明日ですわ、ドミニク」

 アリツェは目を開くと、正面に座るドミニクの顔を見つめた。

「婚約からここまで、長かったねぇ」

 ドミニクは感慨深げにふぅっと息を継ぎ、天井を見上げた。

「この夜を最後に、わたくしはプリンツ家から離れ、新たにヴェチェレク家の人間になります。……なんだか、不思議な感じがしますわ」

 個人として子爵位は保持し続けるものの、表向きは貴族最上位の公爵の夫人となる。今後はドミニクが主となり、アリツェは補佐に回る予定だ。ドミニクは最初、アリツェの領主としての地位を奪う形になる点を、酷く気に病んでいた。

 だが、アリツェとしては地位をドミニクに譲ることに、利点も多かった。領主のままでは、自由に動き回るだけの時間を確保するのに難儀する。現に、今がそうなっていた。

 しかし、アリツェの人生の目的の一つ、世界への精霊術の教育と普及には、どうしても多くの時間が必要となる。領主でなくなれば、その時間が確保しやすくなるはずだった。アリツェにとっては、新たなドミニクとの関係はまさに、願ったりかなったりでもあった。

「素晴らしい家庭を、二人で協力して作り上げよう」

 ドミニクは視線をアリツェに戻し、じっと凝視した。

「えぇ、もちろんですわ。王国一の最高の家庭を、必ず作ってみせましょう!」

 アリツェはうなずき、ドミニクの手を取り握りしめた。

 アリツェは思う。ドミニクと作る家族であれば、きっと素敵な物になると。アリツェは誓う。子供たちには、決して幼少期の自分のようなみじめな思いはさせないと。

「独身時代最後の夜だ。お互い、それぞれの家族とゆっくり語り合おう」

 ドミニクはそう口にすると、静かに立ち上がった。

「はい……。また、明日」

 アリツェも首肯し、ソファーから立ち上がる。とその時――。

「アリツェ!」

「きゃっ!」

 ドミニクが突然抱き付いてきた。アリツェは目を白黒させながら、されるがままに身を任せる。

「明日は、最高の式にしよう」

 ドミニクはアリツェの耳元でつぶやいた。

「はい……」

 アリツェは同意の声を返した。

 ドミニクの心臓の鼓動が感じられる。早鐘を打っているのは、アリツェを抱き締めているためだろうか、はたまた、明日の式を思い、緊張をしているためだろうか。

 アリツェもまた、自分の胸が締め付けられる感覚を抱いていた。待ちに待った婚礼の儀。冷静にいられるはずもなかった――。






 教会の天窓から、真夏の強い日差しが降り注ぐ。ステンドグラスにより色付いた光が、アリツェの纏う純白の衣裳を、複雑に、また、艶やかに色づけた。

 アリツェはちらりと背後に視線を遣った。幾重にも並べられた木製の長椅子に、多数の列席者の姿がある。最前列にはフェルディナントやクリスティーナが座り、目を細めながらアリツェの姿を見守っていた。

 アリツェは再び目線を正面に戻す。眼前には、先ほどから祈りの言葉をつぶやいている精霊教の司祭の姿。アリツェと縁が深いという理由で、精霊教グリューン支部の司祭が、そのまま今回の婚礼の儀の立ち合いを受け持っていた。祭壇の前に立ち、司祭はよどみなく祝詞を上げている。

 祭壇には、金で作られた巨大な龍――『精霊王』が置かれている。まばゆいばかりの陽光を浴び、『精霊王』はその身をキラキラと光り輝かせた。アリツェはその御身を見つめながら、この幸せな日を迎えられた僥倖について、『精霊王』へと深く感謝をした。

 司祭の祝詞が終わった。アリツェは事前に伝えられた進行どおりに、横に立つドミニクへと向き直った。ドミニクもアリツェへと身体を向け、相対する形になる。ここからは、近年確立された、精霊教形式による結婚の誓いだ。

 一瞬の沈黙ののち、ドミニクは口を開いた。

「私、フェイシア王国第二王子ドミニク・ルホツキーは、今日この時をもって、フェイシア王国子爵アリツェ・プリンツォヴァを妻とすることを誓います」

 ドミニクは右手を差し出し、アリツェの左の手を静かに取った。懐から取り出した、龍の意匠が施されたモルダバイトの指輪を、アリツェの薬指にそっとはめた。以前誕生日の贈り物としてもらった指輪よりも装飾が細やかで、また、宝玉部分も一回りほど大きい見事な代物だった。

 アリツェは恍惚として、ドミニクの手の動きを見つめた。指輪をはめ終え、ドミニクの手がゆっくりと離れていく。表情を窺えば、いつものドミニクらしくなく、硬い。さすがに緊張をしているのだろう。指輪をはめる手も、かすかに震えていたのにアリツェは気が付いていた。

 ドミニクが手を戻し終えたのを確認し、アリツェも口を開く。

「わたくし、フェイシア王国子爵アリツェ・プリンツォヴァは、フェイシア王国第二王子ドミニク・ルホツキーを、生涯の伴侶とすることを誓います」

 アリツェはドミニクの左手を取り、同様に薬指へ指輪をはめた。アリツェが受け取った指輪とおそろいの、龍が彫刻されたモルダバイトの指輪だ。ただし、台座部分に少しだけ違いがある。ドミニクがアリツェの指にはめたものは、曲線を多用したデザインになっている。一方で、アリツェがドミニクの指にはめたものは、直線的なデザインだった。

 誓いの言葉と指輪の交換を終え、アリツェは直立姿勢に戻った。

 ドミニクと見つめ合う――。

 一瞬の後、ドミニクはアリツェの顔にかかるヴェールを手に取り、そっと持ち上げた。その動きに合わせ、アリツェも少し顎を上げる。

 再び、ドミニクと視線が交錯する――。

 ドミニクはアリツェの両肩に手を添えると、ゆっくりと少しずつ、アリツェに顔を近づけた。アリツェはそのまま目をつむる。

 刹那、唇に熱を感じた。心臓が激しく鼓動し、胸が高鳴った。全身に、熱い血液が駆け巡る。

 ドミニクが離れたのを合図に、アリツェは瞼を開いた。ドミニクの姿が、少しぼやけて見える。感極まって、自然と目に涙がたまった。

 口づけによって、ドミニクの緊張もほぐれたのだろう。今は優しく微笑みながら、アリツェを見つめている。アリツェも応えるように、満面の笑みを返した。

 今ここに、結婚の誓いが交わされた。アリツェ・プリンツォヴァは、公爵夫人アリツェ・ヴェチェルコヴァとして、新たな人生のスタートを切る――。






 婚礼の儀に引き続き、同じ場でドミニクの臣籍降下の儀も執り行われた。

 祭壇の前には、司祭に変わり、今はフェイシア国王が立っている。今は王としての正装をしており、頭上に輝く黄金の王冠が、背後の『精霊王』の像と同様に、煌びやかに輝いていた。手に持つ錫杖も黄金製で、国王が振るうたびに、煌めく光の筋が見えるかのようだった。

 国王は一つ大きく咳ばらいをし、ドミニクに語り掛けた。

「我が子、ドミニクよ。婚礼の儀をもって、そなたを王籍から抹消する。以後、フェイシア王国公爵ドミニク・ヴェチェレクとして、妻アリツェとともに、王国へ大いに貢献することを望む」

 重苦しく威厳のある声が、教会内に響き渡った。

「拝命いたします。私、ドミニク・ルホツキーは、ただいまをもって臣籍降下をし、以後、ヴェチェレク公爵として、この国のより一層の発展に寄与することを、ここに誓います」

 ドミニクはひざまずき、誓いの言葉を口にした。

 アリツェもドミニクに倣い、ひざまずいて誓いを奏上する。

「わたくしアリツェ・ヴェチェルコヴァは、以後、ヴェチェレク公爵夫人として、夫ドミニクとともに公爵領、そして王国を、ますます繁栄させていくことを、ここに誓います」

 誓いの言葉を述べ終えると、アリツェはドミニクとともに深く頭を垂れた。そのまましばらく、国王によるいくつかの宣言が読み上げられる。

 この臣籍降下の儀は、今後のドミニクの立場や子爵領改め公爵領の取り扱いに関して等を、この場に列席している貴族に対して布告する意味もある。

 一通りの宣言が終わると、国王はアリツェたちに立ち上がるよう指示をした。

 国王は一歩前に進むと、アリツェとドミニクに振り向くよう促し、列席者側を向かせた。そのままアリツェたちの背に軽く手を添えると、ひときわ大きく、通る声で叫んだ。

「若き二人の新たな門出だ! 皆、大いに祝福しようではないか!」

 国王の言葉を合図に、列席者から大きな歓声が沸きおこった。と同時に、教会の二階から多数の花びらが放たれ、アリツェたちの眼前に舞い落ちてくる。ひらひらと空中を踊る花弁は、ステンドグラスから入り込む様々な色の光を受け、まるで七色に輝いているかのようだった。

 アリツェはドミニクへと寄り添い、しばしその幻想的な光景を目に焼き付けた。これほどまでの幸福感は、アリツェの十五年の人生の中で、初めてだった。これからの人生でも、もうないかもしれない。そう思えばこそ、アリツェはこの情景を、生涯にわたり決して忘れまいと、硬く心に誓った。

「さあ、民の前に姿を見せ、新たな領主の顔をしかと示すのだ。民衆は、今か今かと待っておる。ドミニクとアリツェの登場を!」

 国王は声を張り上げると、アリツェたちの背を押し、教会の外へ向かうよう促した。

 アリツェはドミニクとうなずきあうと、列席者に見守られながら、教会を後にした。






 その夜――。

 婚礼の儀は無事に最後まで終わった。アリツェはドミニクとともに、二人のためにと用意した新たな私室へ入った。子爵邸改め公爵邸のなかでも最も広い客間を、アリツェたちのための新たな私室として改装したものだった。今までの個人用の私室と比べて、四倍ほどの広さがある。今後家族が増えても、全員でゆったりとくつろげるだけの余裕があった。

 アリツェは少々殺風景な部屋の内装を眺めた。今はまだ、元の客間用のありふれた調度品しかない。これからドミニクと二人、どこか寂しいこの部屋の景色を、一緒に素敵な色に染めていければいいなと思う。

「終わり、ましたわね……」

 アリツェは真新しいソファーの背もたれを撫でつつ、つぶやいた。

 思えばあっという間の儀式だった。だが、最後に見た煌びやかに花の舞う幻想的な光景は、いまだにアリツェの瞳に焼き付いて離れない。

 儀式中は、終始ふわふわとした感覚に抱かれ、まるで夢の中にいるかのようだった。だが、左手薬指にはめられた指輪の重みが、夢ではなかったのだと実感させる。

 本当に、素敵な、素敵な式だった。アリツェは心から思う。

「終わったね……」

 ドミニクはうなずきながら、アリツェの脇に立った。

「ドミニク……」

 アリツェは見上げて、ドミニクの顔を覗き込んだ。

「アリツェ……」

 ドミニクはアリツェの名を呼び、微笑を浮かべる。

 今日から夫婦。昨日までの関係から、大きく変わる。

 また、同時にアリツェは十五歳の成人も迎えていた。まさに、この日が人生の一大転機となるのだろう。アリツェはそう予感をしていた。

「不束者ではございますが、これからもどうかよろしくお願いいたしますわ」

 アリツェはソファーから手を離すと、スカートの裾をつまみ、深々と一礼をした。

「こちらこそ、至らない点もたくさんあるかと思うけれど、そんなときは、遠慮なくボクの尻を叩いてほしい」

 ドミニクも礼を返し、その後、アリツェとドミニクは頭をあげ、お互いの顔を見合わせる。

「うふふっ」

「はははっ」

 そのままにこやかに笑いあい、お互いがお互い、新たな人生の門出を祝福しあった。

 逃走する大司教一派、領の資金不足の問題、母ユリナとの和解……。まだまだアリツェを取り巻く環境は、問題が山積みだった。だが、この日だけは、すべてを忘れて存分に幸福感を味わってもいいではないか。

 アリツェはドミニクに抱き締められながら、うっとりと目を閉じた――。
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