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 その翌日、私の体調は一時的に良くなった。三日ほど続いたあの苦しみは、いつしかふっと消えたみたいに何の症状も出なかった。
 だから気兼ねなく、あの教会に行ってピアノを弾いた。涼は今日もバスケをしに行っているみたいだった。
 教会に行く前に、看護師さんから楽譜をもらった。
 きちんと練習するのは、正直面倒にも思った。だけど思っていたよりも全然楽しかった。
 看護師さんから楽譜をもらったとき、
「これはあくまで楽譜。この曲をどう弾くか、どういう曲にしたいかは香夜ちゃん次第」
 そう言われた。本当は「曲の解釈」ということをするのが普通らしいけど、私は歴史とかには興味が湧かない。それに曲の解釈はコンクールに出る際は必要かもしれないけれど、今の私には必要ない。
 楽譜の通りに弾くも、私の好きに弾くも、私の自由なんだ。
 私は、音がきれいに響くように、少しでも長く余韻に浸れるような音色を出すよう指を動かす。


 はっと息を深く吸うと、教会の入り口付近がざわざわしていた。
 全く気が付かなかった。もう弾き始めて随分と時が流れていた。
 同じくらいの年の子たちが、じっとこっちを見ていた。

──見られていた?

 そう意識すると頬がカッと熱くなった。
 慌てて楽譜をたたんでピアノから離れる。教会の出口は入り口と一緒。つまりあの子たちの横を通らなければならないのだ。気まずい。
 下を向いて早足で横をすり抜けようとすると、「ねえ」と声をかけられた。
 無視しておけばいいのに、馬鹿正直に「はい」と足を止める。
「ピアノ、すっごく上手なんだね」
 可愛らしい女の子が、頬を少し赤らめながら言った。
「ときどき綺麗な演奏が聞こえるよねって、私たち話してたの。ねえ、もう終わり?もうちょっと聞きたいんだけど……」
 その女の子の言葉に、教会を取り囲むように列を作っていた子どもたちもうなずいた。
 その光景に、胸がざわっと震えた。嬉しくて、ちょっと照れくさくて、誇らしくて。
「……聞いてくれる人がいると嬉しい」
 彼は今日は一緒じゃなかった。だから少し、ほんの少しだけ寂しく感じていたようだ。
 女の子たちは嬉しそうにピアノも周りに集まった。
 そして私は、彼女たちのために鍵盤を叩いた。
 きらきらした視線に吸い込まれるように、夢中で指を動かした。


***


 気がつくともう夕方で、みんな慌てて帰っていった。
 私も帰ろうとすると、入り口に影が一つ伸びていた。
 まさか、と思いながら覗くと、涼が壁にもたれかかるようにして立っていた。
「なんでいるの」
 びっくりした私は、ちょっと誤解されるような言い方をしてしまった。
「いちゃ悪いのか」
 ぶっきらぼうにそう返され、彼は先に歩き出す。慌ててその影を追いながら、
「だって今日は会えないかと思ってたから」
 と言い訳を口にすると、彼はニッと笑いながら振り返った。
「ほー?会えなかったってことは?会いたいと思っていたと?ほー?」
 からかうような彼の口調に、私の頬はやっぱり熱くなる。
「ち、違う。そんなこと思ってない。勝手に解釈しないでよ」
 はいはい、というように、彼は鷹揚おうように手を振った。


 病室に戻るのを見届けてから、涼は「じゃあな」といつものように窓から出ていこうとする。
 その背中が、夕日のせいで輝いて見えた。
 風に吹かれた彼の黄色に染まったシャツを、気がつけば掴んでいた。
「え、どうした。具合悪いのか」
 と背中をさすられる。
「……嘘」
「は?」
「さっき、違うって言ったけど」
 恥ずかしすぎて顔が見れない。……いや、眩しいから。そう、眩しいから彼のことを見れないだけ。
 そう自分に言い聞かせながら、言葉をゆっくりと紡ぐ。
「私、涼に会いたかった」
 たぶん私の顔は、夕日のせいで真っ赤だった。
 彼は何の反応もしなかった。
 引かれてたらどうしよう、真顔だったらどうしよう、とマイナスな考えが頭に浮かぶ。
 そっと視線を上げると、彼はそっぽむいて口に手を当てていた。
 逆光で彼の顔はよく見えない。
「……そんなこと知ってるっての」
 涼は怒ったような口調で呟いた。
 だけどその言葉を聴き取れなくて眉を寄せると、ぺシ、と頭を軽くはたかれた。
「なんでもねぇよ!」
 じゃあな、と彼は窓から姿を消す。
 夕日はいつの間にか姿を消して、空には夕日色の月と赤い星が光っていた。
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