1 / 1
水の記憶
しおりを挟む
ガラスのコップに氷を落とす音が、静寂を小さく割った。六月の午後、陽子は一人、キッチンに立っている。窓から差し込む光が、氷の角を虹色に染めて、それはまるで小さな宝石のように見えた。
麦茶を注ぐ。琥珀色の液体が氷にあたって、かすかな音を立てる。陽子は三十四歳になったばかりで、この音を聞くたびに、夏がもうそこまで来ていることを実感する。
リビングの窓際に置いた紫陽花が、淡い青から薄紫へと色を変え始めていた。一週間前に花屋で見つけたとき、まだ緑がかった白だったのに。花は嘘をつかない。時間だけが、確実に過ぎていく。
ソファに座って麦茶を口に運ぶ。冷たさが喉を通って、胸の奥まで沁みていく。エアコンはつけていない。初夏の風が、レースのカーテンを静かに揺らしている。
本を開こうとして、陽子は手を止めた。
ページに挟まれた栞が、小さく床に落ちたのだった。それは紙の栞ではなく、押し花を透明なフィルムで挟んだもの。白い小さな花。名前を思い出せない。
拾い上げて、指先で触れる。五年前、誰かがくれたものだった。
「これ、君に似てるから」
そう言ったのは誰だったか。記憶の中で、男性の声が遠くから聞こえてくる。声の主の顔は、もうぼんやりとしている。でも、その時感じた胸の高鳴りだけは、鮮明に覚えている。
陽子は栞を本に戻した。また読み始めようとしたけれど、文字が頭に入ってこない。
立ち上がって、キッチンに向かう。冷蔵庫を開けて、何かを探すふりをする。実際には何も欲しいものはない。ただ、動いていないと、記憶に捕まってしまいそうだった。
冷蔵庫の中で、レモンが黄色く輝いている。先週買ったものが、まだ一個残っている。陽子はそれを手に取った。表面はつるりとして、少し硬い。爪を立てると、香りが弾けた。
レモンの香り。
突然、五年前の夏の記憶が鮮やかに蘇った。
彼と一緒に作ったレモネード。彼の手が陽子の手に重なって、一緒にレモンを絞った。彼の手は大きくて、少しざらざらしていて、でも優しかった。
「美味しい?」
彼が聞いた。陽子は頷いて、グラスを口に運んだ。甘酸っぱくて、夏の味がした。
「また作ろうか、今度」
彼は言った。でも、今度はなかった。秋が来る前に、彼は去っていった。転勤ではなく、ただ、気持ちが変わったのだと言って。
陽子はレモンを冷蔵庫に戻した。記憶を戻すように、静かに扉を閉める。
もう一度、リビングに戻る。紫陽花が風に揺れて、花びらが一枚、白い床に落ちた。陽子はそれを拾い上げる。薄くて、透けるような花びら。まだ水分を含んでいて、指に涼しい感触を残した。
窓の外では、近所の子どもが自転車に乗る練習をしている。転んでは起き上がり、また漕ぎ始める。その繰り返し。陽子は微笑んだ。子どもは諦めることを知らない。
夕方が近づいて、光の角度が変わった。部屋の中に、長い影が伸びている。陽子は再び麦茶を飲んだ。氷はもう小さくなって、音も控えめになっていた。
台所で夕食の準備を始める。一人分の食材を切りながら、陽子は窓の外を見た。向かいのマンションの窓に、明かりが一つずつ灯っていく。それぞれの窓に、それぞれの生活がある。家族の笑い声が聞こえる窓もあれば、静寂に包まれた窓もある。
陽子の窓も、その中の一つ。特別でもなく、平凡でもない。ただ、そこにある。
食事を終えて、陽子は紅茶を淹れた。アールグレイではなく、今夜はダージリン。茶葉をそっと温めたポットに入れて、お湯を注ぐ。立ち上る湯気が、一日の疲れを少しずつ溶かしていく。
ティーカップは、透明なガラス製。紅茶の琥珀色が美しく透けて見える。陽子はそれを両手で包むようにして持った。温かい。
ベランダに出て、夜空を見上げる。街の明かりで星は見えないけれど、月だけがぼんやりと浮かんでいた。風が頬を撫でていく。もう夏の風だった。
彼のことを思い出すのは、もう痛くない。寂しくもない。ただ、懐かしい。遠い国の美しい風景を思い出すように、静かで、少し温かい気持ちになる。
陽子は紅茶を飲み干して、部屋に戻った。紫陽花の前を通るとき、もう一枚、花びらが落ちているのに気づいた。今度は拾わずに、そのままにしておいた。
花は散るもの。記憶も色あせるもの。でも、その瞬間の美しさは、心の奥深くに残っている。
陽子は電気を消して、ベッドに向かった。明日もまた、新しい一日が始まる。きっと何も特別なことは起こらない。でも、それでいい。
静かな夜が、陽子を包んでいく。遠くで時計の音がしている。規則正しく、優しく、時を刻んでいる。
窓の外では、風が木々を揺らしている。葉っぱがささやき合うような音。それは子守歌のようで、陽子はゆっくりと眠りに落ちていった。
夢の中で、誰かがレモネードを作っている。甘酸っぱい香りが、記憶の中を静かに流れていく。
麦茶を注ぐ。琥珀色の液体が氷にあたって、かすかな音を立てる。陽子は三十四歳になったばかりで、この音を聞くたびに、夏がもうそこまで来ていることを実感する。
リビングの窓際に置いた紫陽花が、淡い青から薄紫へと色を変え始めていた。一週間前に花屋で見つけたとき、まだ緑がかった白だったのに。花は嘘をつかない。時間だけが、確実に過ぎていく。
ソファに座って麦茶を口に運ぶ。冷たさが喉を通って、胸の奥まで沁みていく。エアコンはつけていない。初夏の風が、レースのカーテンを静かに揺らしている。
本を開こうとして、陽子は手を止めた。
ページに挟まれた栞が、小さく床に落ちたのだった。それは紙の栞ではなく、押し花を透明なフィルムで挟んだもの。白い小さな花。名前を思い出せない。
拾い上げて、指先で触れる。五年前、誰かがくれたものだった。
「これ、君に似てるから」
そう言ったのは誰だったか。記憶の中で、男性の声が遠くから聞こえてくる。声の主の顔は、もうぼんやりとしている。でも、その時感じた胸の高鳴りだけは、鮮明に覚えている。
陽子は栞を本に戻した。また読み始めようとしたけれど、文字が頭に入ってこない。
立ち上がって、キッチンに向かう。冷蔵庫を開けて、何かを探すふりをする。実際には何も欲しいものはない。ただ、動いていないと、記憶に捕まってしまいそうだった。
冷蔵庫の中で、レモンが黄色く輝いている。先週買ったものが、まだ一個残っている。陽子はそれを手に取った。表面はつるりとして、少し硬い。爪を立てると、香りが弾けた。
レモンの香り。
突然、五年前の夏の記憶が鮮やかに蘇った。
彼と一緒に作ったレモネード。彼の手が陽子の手に重なって、一緒にレモンを絞った。彼の手は大きくて、少しざらざらしていて、でも優しかった。
「美味しい?」
彼が聞いた。陽子は頷いて、グラスを口に運んだ。甘酸っぱくて、夏の味がした。
「また作ろうか、今度」
彼は言った。でも、今度はなかった。秋が来る前に、彼は去っていった。転勤ではなく、ただ、気持ちが変わったのだと言って。
陽子はレモンを冷蔵庫に戻した。記憶を戻すように、静かに扉を閉める。
もう一度、リビングに戻る。紫陽花が風に揺れて、花びらが一枚、白い床に落ちた。陽子はそれを拾い上げる。薄くて、透けるような花びら。まだ水分を含んでいて、指に涼しい感触を残した。
窓の外では、近所の子どもが自転車に乗る練習をしている。転んでは起き上がり、また漕ぎ始める。その繰り返し。陽子は微笑んだ。子どもは諦めることを知らない。
夕方が近づいて、光の角度が変わった。部屋の中に、長い影が伸びている。陽子は再び麦茶を飲んだ。氷はもう小さくなって、音も控えめになっていた。
台所で夕食の準備を始める。一人分の食材を切りながら、陽子は窓の外を見た。向かいのマンションの窓に、明かりが一つずつ灯っていく。それぞれの窓に、それぞれの生活がある。家族の笑い声が聞こえる窓もあれば、静寂に包まれた窓もある。
陽子の窓も、その中の一つ。特別でもなく、平凡でもない。ただ、そこにある。
食事を終えて、陽子は紅茶を淹れた。アールグレイではなく、今夜はダージリン。茶葉をそっと温めたポットに入れて、お湯を注ぐ。立ち上る湯気が、一日の疲れを少しずつ溶かしていく。
ティーカップは、透明なガラス製。紅茶の琥珀色が美しく透けて見える。陽子はそれを両手で包むようにして持った。温かい。
ベランダに出て、夜空を見上げる。街の明かりで星は見えないけれど、月だけがぼんやりと浮かんでいた。風が頬を撫でていく。もう夏の風だった。
彼のことを思い出すのは、もう痛くない。寂しくもない。ただ、懐かしい。遠い国の美しい風景を思い出すように、静かで、少し温かい気持ちになる。
陽子は紅茶を飲み干して、部屋に戻った。紫陽花の前を通るとき、もう一枚、花びらが落ちているのに気づいた。今度は拾わずに、そのままにしておいた。
花は散るもの。記憶も色あせるもの。でも、その瞬間の美しさは、心の奥深くに残っている。
陽子は電気を消して、ベッドに向かった。明日もまた、新しい一日が始まる。きっと何も特別なことは起こらない。でも、それでいい。
静かな夜が、陽子を包んでいく。遠くで時計の音がしている。規則正しく、優しく、時を刻んでいる。
窓の外では、風が木々を揺らしている。葉っぱがささやき合うような音。それは子守歌のようで、陽子はゆっくりと眠りに落ちていった。
夢の中で、誰かがレモネードを作っている。甘酸っぱい香りが、記憶の中を静かに流れていく。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる