水の記憶

霧島 海

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水の記憶

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ガラスのコップに氷を落とす音が、静寂を小さく割った。六月の午後、陽子は一人、キッチンに立っている。窓から差し込む光が、氷の角を虹色に染めて、それはまるで小さな宝石のように見えた。

麦茶を注ぐ。琥珀色の液体が氷にあたって、かすかな音を立てる。陽子は三十四歳になったばかりで、この音を聞くたびに、夏がもうそこまで来ていることを実感する。

リビングの窓際に置いた紫陽花が、淡い青から薄紫へと色を変え始めていた。一週間前に花屋で見つけたとき、まだ緑がかった白だったのに。花は嘘をつかない。時間だけが、確実に過ぎていく。

ソファに座って麦茶を口に運ぶ。冷たさが喉を通って、胸の奥まで沁みていく。エアコンはつけていない。初夏の風が、レースのカーテンを静かに揺らしている。

本を開こうとして、陽子は手を止めた。

ページに挟まれた栞が、小さく床に落ちたのだった。それは紙の栞ではなく、押し花を透明なフィルムで挟んだもの。白い小さな花。名前を思い出せない。

拾い上げて、指先で触れる。五年前、誰かがくれたものだった。

「これ、君に似てるから」

そう言ったのは誰だったか。記憶の中で、男性の声が遠くから聞こえてくる。声の主の顔は、もうぼんやりとしている。でも、その時感じた胸の高鳴りだけは、鮮明に覚えている。

陽子は栞を本に戻した。また読み始めようとしたけれど、文字が頭に入ってこない。

立ち上がって、キッチンに向かう。冷蔵庫を開けて、何かを探すふりをする。実際には何も欲しいものはない。ただ、動いていないと、記憶に捕まってしまいそうだった。

冷蔵庫の中で、レモンが黄色く輝いている。先週買ったものが、まだ一個残っている。陽子はそれを手に取った。表面はつるりとして、少し硬い。爪を立てると、香りが弾けた。

レモンの香り。

突然、五年前の夏の記憶が鮮やかに蘇った。

彼と一緒に作ったレモネード。彼の手が陽子の手に重なって、一緒にレモンを絞った。彼の手は大きくて、少しざらざらしていて、でも優しかった。

「美味しい?」

彼が聞いた。陽子は頷いて、グラスを口に運んだ。甘酸っぱくて、夏の味がした。

「また作ろうか、今度」

彼は言った。でも、今度はなかった。秋が来る前に、彼は去っていった。転勤ではなく、ただ、気持ちが変わったのだと言って。

陽子はレモンを冷蔵庫に戻した。記憶を戻すように、静かに扉を閉める。

もう一度、リビングに戻る。紫陽花が風に揺れて、花びらが一枚、白い床に落ちた。陽子はそれを拾い上げる。薄くて、透けるような花びら。まだ水分を含んでいて、指に涼しい感触を残した。

窓の外では、近所の子どもが自転車に乗る練習をしている。転んでは起き上がり、また漕ぎ始める。その繰り返し。陽子は微笑んだ。子どもは諦めることを知らない。

夕方が近づいて、光の角度が変わった。部屋の中に、長い影が伸びている。陽子は再び麦茶を飲んだ。氷はもう小さくなって、音も控えめになっていた。

台所で夕食の準備を始める。一人分の食材を切りながら、陽子は窓の外を見た。向かいのマンションの窓に、明かりが一つずつ灯っていく。それぞれの窓に、それぞれの生活がある。家族の笑い声が聞こえる窓もあれば、静寂に包まれた窓もある。

陽子の窓も、その中の一つ。特別でもなく、平凡でもない。ただ、そこにある。

食事を終えて、陽子は紅茶を淹れた。アールグレイではなく、今夜はダージリン。茶葉をそっと温めたポットに入れて、お湯を注ぐ。立ち上る湯気が、一日の疲れを少しずつ溶かしていく。

ティーカップは、透明なガラス製。紅茶の琥珀色が美しく透けて見える。陽子はそれを両手で包むようにして持った。温かい。

ベランダに出て、夜空を見上げる。街の明かりで星は見えないけれど、月だけがぼんやりと浮かんでいた。風が頬を撫でていく。もう夏の風だった。

彼のことを思い出すのは、もう痛くない。寂しくもない。ただ、懐かしい。遠い国の美しい風景を思い出すように、静かで、少し温かい気持ちになる。

陽子は紅茶を飲み干して、部屋に戻った。紫陽花の前を通るとき、もう一枚、花びらが落ちているのに気づいた。今度は拾わずに、そのままにしておいた。

花は散るもの。記憶も色あせるもの。でも、その瞬間の美しさは、心の奥深くに残っている。

陽子は電気を消して、ベッドに向かった。明日もまた、新しい一日が始まる。きっと何も特別なことは起こらない。でも、それでいい。

静かな夜が、陽子を包んでいく。遠くで時計の音がしている。規則正しく、優しく、時を刻んでいる。

窓の外では、風が木々を揺らしている。葉っぱがささやき合うような音。それは子守歌のようで、陽子はゆっくりと眠りに落ちていった。

夢の中で、誰かがレモネードを作っている。甘酸っぱい香りが、記憶の中を静かに流れていく。
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