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1章

0.はたと気づけば異世界転生?

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 ギシリと音を立てるオシャレなカフェの椅子。背もたれに回された腕が、私の逃げ場を問答無用で奪い取る。

 息遣いや身体の熱さえも伝わりそうなその距離に、私の頭は一瞬で真っ白になった。

 男性にしては細い体躯や首筋は、けれど私のそれとは違うことをしっかりと感じさせる。

 金色の絹のような髪、物語の王子様さながらの美しい顔。それを魅せる蒼い瞳に、甘く香るいい匂い。

「……ぁ……っ……あの……っ……!」

 何とか押し出した声は大した効力は持たずに消え去る。

「……ハンナちゃんは、何者かな?」

 至近距離でニコリと向けられた笑顔に、私は凍りつく。

 ドッドッドッと速る鼓動とは裏腹に、血の気がザーっと引く音を他人事のように聞いていた。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。婚約破棄がしたかっただけなのに。ただそれだけなのに、ストーカーや変質者で突き出されたらどうしよう……っ!?

 火照るんだか引くんだか安定しないグルグル回る頭で、私は半泣きになって目の前の美しい顔を眺めるほかなかったーー……。


 事の始まりは数日前。

 雨の中、私の前に立ちはだかる、その背中ーー。

 ハッとして、目を覚ます。その瞬間は、唐突に訪れた。

 ぴちゃーんと響き渡る水音。滑らかな白い肌を滑り落ちる水滴。タオルでまとめ上げた栗色の艶やかな長い髪に、鏡越しにエメラルドグリーンのようにきらめく大きな瞳の少女。

 朝の洗顔途中、両掌に溜めた水の存在も忘れて私――ハンナはまじまじと鏡に映る自分を観察した。

 ハンナ・ルーウェン。御年13歳。片田舎の領主――ルーウェン家の一人娘。兄弟は兄が2人に弟1人。父は一人娘の私をたいそう溺愛し、母は美しく優しい自慢の家族。

 鏡に映る幼いハンナのことは手に取るようにわかる。なぜなら私はハンナとして間違いなく13年生きてきているから。そして、それと同時に突如として起こった不可解な事象に戸惑っている。

 私には、前世の記憶がある。というより一部を今猛烈に思い出したという方が正しい。

 人に自慢できるようなものでもないが、前世では可愛いわが子を2人も腕に抱くことができ、可愛い孫にもおばあちゃんと呼ばれ、それなりに往生した。

 とはいえ思い出しても波乱万丈な人生だった。前世での夫は「お金とお酒と女と自分」にとにかく甘く、詳しくは割愛するがとにかく思い出しても歴代彼氏から男運がないと断言できる。

 自分で選んだ相手ではあるものの、こどもと孫たちには会いたいが元夫には会いたくないほどには苦労したといっておく。

 鏡に映る齢13歳の少女が到底考える内容ではないが、思い出した前世の内容で嫌そうに顔をしかめる自分を眺めながら不思議な感覚に陥る。

 前世の記憶を思い出した私は、けれど確かに13年を生きたハンナだ。

「……私……そうだったんだ……」

 忘れていた両手の水は隙間から零れてなくなり、腕を伝った水を両手でそれぞれ拭いながら、改めて鏡に映る自分をしげしげと見入る。

 白くて陶器のようにキメの細かい肌。栗色の艶やかに潤う長い髪。エメラルドグリーンに輝く大きな瞳。鼻筋は通り、唇も愛らしい。ほっそりとした首筋に細くて長い手足。光沢のあるネグリジェ風の夜具がよく似合う。

「……そうとすれば、悠長になんてしてられない」

 ぱしゃんと勢いよく顔を洗い、髪をまとめたタオルを勢いよくはずし、ふわりと広がった髪を手ぐしでざっくりとまとめる。

「この見てくれに、この家柄でこの若さなのに、今世まで男に苦労させられるのはもうたくさん。この異世界転生を優雅に謳歌するために、好きでもない相手と婚約なんてしてられない……っ」

 鏡に向かいにやりと悪い笑みを浮かべ、到底その年に見合わぬ言葉を一人で紡ぎながら足早に身支度に取り掛かる。

「こうしちゃいられない。まずは婚約破棄と自立の準備をしなくちゃ。やることは山積みよ」

 一人娘の溺愛ぶりがよくわかる、大きな衣装棚の大量のドレスを新鮮な気持ちで探りながら、私は清々しい気持ちで胸を高鳴らせていた。
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