うら寂しい人々の日々

藤田はじめ

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春先

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 重たくなった荷物を玄関に置くと家族が「忘れ物はない?」と言った。
「あったら送ってもらうから、別にもうええよ」と答える。
 少しあきれたようにため息を吐いて「そんなんで一人暮らしして大丈夫なんか?」とだけ言う。
 今日、僕は家を出る。生まれてからずっと過ごしていた街を出ていく。そうだというのにいつも通り、何も変わらない。
 それがもの寂しくて、玄関口に座ったまま何をするでもなくぼんやりとしていた。
 木造のよく揺れる家だった。寝坊しそうになってずかずかと階段を降りると、その音が響く。階段から落ちたこともあったと玄関横にある階段を見ながら思い出す。
 特別な思い出があるわけでもないのに離れるとなると急に寂しくなるのはなんだ。
 この気持ちを自分の中で上手くカテゴライズできないでいる。どうせまた年末には帰ってくるだろうというのに、やけに寂しい。
 しばらくしてバスの時間にもまだ早いのに家族に「そろそろ行くわ」と言って荷物を取った。
「もう行くん? 夕飯食べんでええの?」
「外でなんか食べるわ、多分年末には戻るから、その時はよろしく」
 家族は外で食べると言ったことについて何か言うでもなく、いつになく優しい顔をして「頑張ってな、無理せずになんかあったら帰ってくるねんで」とだけ言って僕を見送る。
「じゃあ」
 それだけ言って、振り返りもせずに家を出た。
 これっきり一年ほどは戻らないのかと思いながら昔から歩いてきた街並みを見る。得に変わりない。昨日までと何も変わらない。それなのに特別なものに映る。
 親元を離れて、地元を離れていくというのは複雑な気持ちだ。家を出て自立したいという気持ちが前々からあったというのに、いざ離れてみると家を出て数分しか経たないものの、こっちで過ごしていても良かったんじゃないかと思う自分がいる。
 電車に乗るにはバスに乗らないといけない不便さも、学校までは二十分ほど歩かないといけないことも、帰りには厳しい登坂があることも、ほかの土地と比べて冬はおろしが吹いて寒くて、夏は熱がこもって暑いことも、いつも嫌だ嫌だと言っていたのに悪くなかったように感じてしまう。
 それでも離れていくのかと思いながら歩いていく。夜行バスにはまだ早いので、バスに乗って駅に向かう。
 バスの車窓から見える景色はいつも見ている風景だった。


 夜行バスを降りて知らない街に来た。自分のことを知る人はきっと、誰も居ないだろう。
 身体の節々が痛むなかで軽く伸びをして、これからこの街で生きていくのか、なんてことを思いながらあたりを見ていた。初めてきた土地は何一つ勝手がわからなくてバスを降りて歩いていく人に混じって歩いていく。
 今までいた街では考えられない大きさの駅で、これが都会かと思いながら見上げる。
 ビルが立ち並ぶその風景は圧巻で同じ国なのにこうも違うのかと思う。どこにも山が見えないのが、本当に知らない場所に来たのだとわかる。北を見ているのか南を見ているのか、まるでわからない。朝だというのにどこか騒がしいような気さえした。信号の耳障りな機械音が遠くで鳴っている。
 駅の中は大層なことで朝一番なのでシャッターは閉まっているが弁当屋やら土産屋がずらずらとある。地元では、あってせいぜいコンビニぐらいだったのに、こうも色々と揃っているとつい目を向けてしまう。
 どこから乗ればいいのかわからなくて、ケータイを頼りにホームに上がって電車に乗っていく。揺れる電車の窓から見えるのは建物ばかり。
 地元で見えた海や山なんてものはどこにもない。電車のアナウンスも英語を喋りだす。本当に自分が居るのは同じ国なのかと疑わしくなる。今、信じることができるのはケータイの画面と出入り口付近にあるモニターに表示される駅名だけだった。
 朝方の電車を降りていく人もまちまちで、それなりの人がまだ乗っている。目的の駅に着くと多くの人が立ち上がった。その人の群れに混ざって自分も電車を降りて、ぞろぞろと降りていく人に混じって改札を出る。
 駅から出ると桜が咲いている通りが目についた。
 もう少しで四月なのだと、否が応でも感じざるを得ない。家族から離れて、友人から離れて、これまで育ってきた街から離れて過ごしていく。新しい季節を迎えるのにこれまでにない不安ばかりだ。
 四月になれば、冬が終わって春が来て、新しい出会いがあってというのがこれまでは普通だった。春というのは出会いの季節だった。それが今ではもう孤独に感じてしまう。孤独の季節というには似つかわしくない桃色をした桜の花を見ていると、不意に呻きのような音を立てて風が吹いた。寒さに片手をポケットに入れる。
 新しい家がどこにあるのかもわからない。住所ぐらいしか知らない家の場所をケータイで調べる。駅から歩いて五分ほどの距離にある家に向かって、ケータイを頼りに歩き始めた。
 ポケットに入ったカギをぎゅっと握りしめて、見慣れない通りを横目に見る。この街は、以前住んでいた街よりも発展しているけれでも都心ほどではなかった。落ち着いた時間が流れている。行きかう車の音もどこか静かだった。誰かと喋ることができるのだろうかと不安になるほどの静けさで心細さが増していく。
 駅前から離れて住宅街に入ると、本当に静かだった。閑静な住宅街と聞いていたが、本当にその通りだ。時折通る車や自転車の音だけがこだまする。人の賑わいとは無縁で、寂れているのではないかとも思うけれどもアパートのベランダに洗濯物が干してあったり、バイクや自転車が停めてあることから人が住んでいることはうかがい知れる。
 けれどもシャッターが閉まっている飲食店がちらほら見えて、少なくとも一昔前より寂れているようだった。
 新しい自分の家も、以前見た通りで小綺麗な小さなアパートだ。十年ほど前に経ったということで壁も白いままで気になることはない。
 まだ何もない部屋に入って荷物を置いて、真っ白いフローリングに大の字で寝転がった。
 電気もついていない部屋の、薄暗い天井が嫌でも目に入った。
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