29 / 56
6【:sink】
6-4
しおりを挟む堪え切れずに走り出して、辿り着いた先に自分でも笑えてくる。
「ホント、発想が乏しいな……」
それでもこの場所は特別らしい。
見上げたビルは、あの日、俺を蔑むように見下した空き家のように、暗く大きく俺を見下ろしてくるはずだった。
それなのに、そこはまるで俺が来ることを知っていたかのように待ち構えていた。
直ぐ側のビルには温かなオレンジ色の明かりが灯り、後ろを振り返って眼を凝らせば、慌ただしい喧騒がまだ行きかっている。
冷え切っている外階段を上がると、いつもよりも心許無い音が情けなく響いていた。
煩い街並みからその場所を守るような扉を押し開く。手の届きそうな所まで迫ってきている分厚い雲からは、払い落されたような雪が舞っていた。
「シン?」
乾いて尖った風を浴びながら、聞きなれた名前が呼ばれた気がする。
寒さに負けて入った眉間の力を抜くと、途端に視界は濃くなり、その輪郭をハッキリと浮き立たせてくれた。
いつもの場所には、いつもの姿が既に立っている。
あの時のまま、季節の方を置き去りにして来たようなソラは、相変わらず首からカメラをさげていた。あんなにも会いたかったはずなのに、かけるべき言葉が見つからない。
それが自分のプライドを守る為なのか、溢れ出しそうな想いが上手く纏められないだけなのかわからない。瞬きを忘れた両目が冷えて痛かった。
「シンも、写真……撮りに来たの?」
「……おう」
「そっか……今日は寒いね」
察したようなソラがぎこちなく笑う。直ぐに逸らされてしまった視線は胸元のカメラを見つめなおし、いつか俺らが二人で見つめていた方へと向き直っていた。
気味の悪い緊張感を悟られない様にソラの隣に並ぶ。二人の間にできた距離が、この数ヵ月間を凝縮しているみたいだった。
沈黙はただ流れるだけで、ソラの息遣いさえ聞こえないこの場所では、再びカメラを構える事を戸惑う。震えそうになる手元に気が付いて欲しかった。
見上げればすぐ側まで迫る雲と、埃みたいに白く舞い落ちる雪しか見えない。もう一度ファインダーを覗き込んでしまえば、今までの思い出も、ソラと過ごした時間も、みんな消えてしまう様な不安と予感がする。躊躇とは、自分を守るためにあったのだ。それに気が付いたとしても、このままソラに笑いかけられる程の勇気を俺は持っていなかった。
「哀れだな……」
その時、聞き覚えのあるようなその声に、馬鹿にされたような気がした。
気が付けば、良く冷えたカメラを頬に当てていた。
一思いに、片目は閉じたまま、その小さな穴を覗き込まなければいけない。
大丈夫。ただ灰色の雲が見えるだけ──それだけだ。
*
ファインダー越しに、見覚えのある景色と、全く見た事も無い風景が重なっていた。
上手く息が出来なくて、虹雲の群れを目に焼き付けていた時を思い出す。合うはずの無い世界は一度捉えてしまうともう揺らぐことはなく、二つの世界をしっかりと重ねたままでピントを合わせている。
冬の空気に満たされていたはずなのに、水槽の中に放り込まれたような感覚に陥る。肺呼吸の仕方を忘れ、エラ呼吸の仕方が思い出せない。自分の吐き出している空気は泡の様に湧き出して、小さな粒を連ねながら上へと昇ってゆく。舞い落ちて来ていたはずの雪は、スノードームの中で揺れる偽物の雪みたいに浮かんでいた。
ただの乱層雲は、雲ではなくなり、質量を増して浮かんでいる灰色の壁のようだった。そして、遥か先にはあのギョロギョロとした目玉が見える。足元は屋上の縁を踏みつけたままなのに、浮き上がってゆく気配もなく、その場所で溺れてしまいそうだった。
「……っく」
息を呑んだだけで沈んでゆくような感覚になる。もうここから逃げてしまいたくて、カメラにくっついたままの視線を開放する。それでも呼吸は楽にならない。口を開いたまま、思わず縋るようにソラを見た。
俺のその様子に気付いたソラと目が合う。良かった、ソラにはきっと、この光景が見えていない。遠のいてゆく意識の中で、ソラが駆け寄って来るのがわかった。その口元が「どうして」と動いたように見える。ああ、そうだ。どうして……
こんなに大事なことを忘れたままでいられたのだろう?
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件
こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。
神楽囃子の夜
紫音みけ🐾新刊2月中旬発売!
ライト文芸
※第6回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
地元の夏祭りを訪れていた少年・狭野笙悟(さのしょうご)は、そこで見かけた幽霊の少女に一目惚れしてしまう。彼女が現れるのは年に一度、祭りの夜だけであり、その姿を見ることができるのは狭野ただ一人だけだった。
年を重ねるごとに想いを募らせていく狭野は、やがて彼女に秘められた意外な真実にたどり着く……。
四人の男女の半生を描く、時を越えた現代ファンタジー。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
隣人はクールな同期でした。
氷萌
恋愛
それなりに有名な出版会社に入社して早6年。
30歳を前にして
未婚で恋人もいないけれど。
マンションの隣に住む同期の男と
酒を酌み交わす日々。
心許すアイツとは
”同期以上、恋人未満―――”
1度は愛した元カレと再会し心を搔き乱され
恋敵の幼馴染には刃を向けられる。
広報部所属
●七星 セツナ●-Setuna Nanase-(29歳)
編集部所属 副編集長
●煌月 ジン●-Jin Kouduki-(29歳)
本当に好きな人は…誰?
己の気持ちに向き合う最後の恋。
“ただの恋愛物語”ってだけじゃない
命と、人との
向き合うという事。
現実に、なさそうな
だけどちょっとあり得るかもしれない
複雑に絡み合う人間模様を描いた
等身大のラブストーリー。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる