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最終章
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あの8月8日。
逢坂夏樹と櫓木正巳。彼らの人生において選ぶことができた選択肢は1つだけではなかった。
正巳は何度も「警察へ相談しよう」と言ったが、夏樹が選んだのは「依頼者」に直接会って脅しをかけることだった。夏樹は「お前が逃げる気なら俺だけで行く」と言ったが、正巳が選んだのは夏樹と一緒にあの沼工場で「依頼者」を待つことだった。
沼工場に着いた後も、正巳は夏樹の苛立ちのとばっちりが自分に向かないように黙っていた。夏樹はここに来るまでの道のりでも、散々毒づいていたからだ。
――くそ、誰だ、誰なんだよ、何が目的なんだよ、ただ女をマワしただけじゃねえか、そんなことで俺の弱みを握った気になってんのか、隠し撮りまでしやがって、キモイんだよ、変態が、ブッ殺してやる――
夏樹が蹴飛ばしたコンクリートの欠片がカラカラと音を立てて転がっていった。
正巳はそれを見て思う。
――万が一、激高した夏樹が「依頼者」を半殺しや、最悪の場合殺してしまうかもしれない。それを俺は絶対に止めなければ……いや、そもそも俺に夏樹を止めることができるのか? あれ? なんか、俺、同じこと繰り返してねえか?
工場の表道路を行きかう車と裏を流れる川の音がやけに大きく聞こえてきた。そうだ、あの日もそうだった、と正巳は思わず呻いてしまった。
「正巳、どうかしたか?」
「いや、あの子が、我妻佐保がまだここにいるような気がして……」
「……お前、なんかクスリでもやってんのか?」
「そんなわけないだろ。ただ……」
「もう、あの女の話はやめろ。これ以上、イラつかせんなって」
確かに我妻佐保はここから逃げ出すことができた。だが、彼女が受けた恐怖、苦しみや屈辱がまだこの場所に漂っているような息苦しさを正巳は感じていた。あの日、自分が我妻佐保を見捨てて逃げたことは、自分の心にも深く刺された決して抜けない錆びついた楔であったのだ。
俯いた正巳であったが、工場の入り口に見えた影にハッと顔を上げた。
――誰かがあそこにいる。もしかして、あれが「依頼者」か?
その一つの影は男の骨格をしていた。そして、その影は正巳たちのいるところに悠然と歩いてくる。
やがて、その男の顔が正巳たちにもはっきりと見えてきた。20代後半から30代前半くらいに見える男。その男は、正巳の知らない男だった。正巳の傍らにいる夏樹も知らない男なのだろう。夏樹の表情がそれを物語っていた。
「君たち、ここで何をしているんだ?」
男は落ち着いた声で正巳たちに問う。
「おっさんにゃ、関係ねえよ。人、待ってんだよ。出てけよ」
正巳は小声で「夏樹」と、敵意を剥き出しかけ始めた彼をたしなめた。
――この男は「依頼者」じゃないのか? もしかしたら、この工場の関係者なのかも……
「誰を待ってるんだ?」と、男は夏樹の様子も全く意に介さず、優しく諭すように言った。
「しつけーぞ、おっさん! おっさんにゃ、用なんてねえんだよ! 失せろよ!」
「あ、あの、俺たち、本当に人を待ってるんです。その人が来たら、すぐに帰りますんで……」
男は正巳の言葉が終わらないうちに、ポケットから携帯を取り出した。
――まさか、不法侵入として俺たちを警察に通報するつもりなのか?
夏樹が舌打ちをした時、男は口元に笑みをうかべ、その携帯の画面をこっちに向けた。
「ガキのくせに、随分と立派なモン持ってんだな」
携帯に映っていたのは、ズボンを下ろした夏樹の姿であった。
「!」
――こいつだ! こいつが……
正巳の足元の感覚が一瞬なくなりかけた。
男はニタリと気味の悪い笑顔を見せる。男の綺麗に生えそろった白い歯が余計に不気味さを際立たせていた。
「佐保ちゃんの拉致を依頼したのは俺だよ。別に佐保ちゃんに恨みがあったわけじゃないんだけど。俺、佐保ちゃんみたいに大人しくて控えめで守りたくなるような感じでいて、芯の強い女の子が本当はタイプなんだ。もうすぐ、別れる予定の彼女は真逆のタイプでね。まあ、あいつと話はわりと合ったし、一緒にいて楽しかったんだけど……」
――何を……何を言っているんだ? あの子がタイプだったのか? 「好き」ってことなのか? なら、どうして、こんな……
男は再び口元を歪ませ、唾液で濡れた白い歯を見せた。
「あ、俺、こういう性癖なんだよ。何らかの事件の被害者になった女に対して一番欲情するんだ。今回、君たちが加害者となった事件では、普通に真面目に生きていた家族思いの一人の少女が……彼女自身には何の落ち度もないのに、思春期を迎えて盛っている雄ガキの身勝手な欲望の犠牲となってしまう。その後、少女は決して癒えぬ傷を抱えながら、事件が起きる前の自分に戻りたいと願いながらも、戻れることなどできない人生をこれからも生きていく……俺は我妻佐保ちゃんをヒロインにした事件を作って、それをすぐ近くで見ていたかったんだ。ネットで網を張っていたら、君たちが加害者として自らひっかかってくれただけのことだよ」
「この変態野郎が」
夏樹の唇がワナワナと震え始めていた。男は夏樹にチラリと視線をやって、クスッと笑った。
「君に言われたくないね。君こそ、変態だろ。嫌がる女の子に無理やりなんてさ……何も俺が強制してやらせたわけじゃない。そこにいる櫓木くんみたいに何もしないという選択肢もあったのに」
完全に足元がガクガクと震え出した正巳は、夏樹がズボンの尻ポケットにそっと手を入れたことには気がつかなかった。
夏樹は鋭い眼光で、なおも男を睨み付けて言った。
「……うれしそうにベラベラと喋るおっさんだな。次は俺らに何をさせようっていうんだ? また別の女マワさせようってのか?」
「ざーんねん。もう気持ちのいい思いはできないよ。童貞のまま、死んじゃう男だっているのに、18かそこらかで同年代の可愛い女の子に強制中出しできたんだから、良しとしようじゃないか。今日は、俺は君たちに罰を下しにきたんだ」
「ふざけんじゃねえ! 誰がてめえなんかにやられるか!」
夏樹が尻ポケットより、バッと折り畳みナイフを取り出し、構えた。
「よせっ! やめろ!」
今にも男に飛びかからんとする夏樹を、正巳は後ろから押さえようとした。
――駄目だ! 夏樹、こいつの挑発に乗っちゃ駄目だ! 逃げよう、この男はおかしいんだ!
「おいおい、次は殺人未遂か? これから先、碌な人生送りそうにないな」
「何んだとおお!」
「やめろ! やめろって!」
夏樹を後ろから押さえつけていた正巳であったが、腕を振り回し暴れる夏樹に肘で強く突かれ、地面にドッと倒れ込んでしまった。
上体を起こした正巳の前で、男と夏樹は一直線に立ち、睨み合っていた。いや、男の方は依然として、あの不気味な笑顔を浮かべたままであった。
「俺が直接自分の手で罰を下すことはしたくないんだ。君たちごときにさ。だから、あいつに頼んだんだ」
男はこの沼工場の中心部に位置している水たまり――腐りきった水をなみなみと貯えて続けているこの工場の名前の由来となっている「沼」の箇所をスッと指さした。
「あそこに誰がいるってンだよ? 死体でも沈めてンのか?」
依然、男に向かって鋭い眼光を光らせている夏樹が顎をしゃくり、ケッと吐き捨てた。彼の手のナイフが再びパチンと音を発した。
「……夏樹、やめろ……」
「お前は黙ってろ! うるせーんだよ!」
正巳が再び夏樹を止めようと、立ち上がったその時だった。男が先ほど指差したあの場所から、水が立てるチャプという音を正巳は聞いたのだ。
窓から月明かりが差し込む青白い工場の中で、その水面がゆらゆらと重たげに揺れていた。
そして、ヌウッと何かが姿を見せ始めた。
――何だよ、あれ……
目を開けたまま見る悪夢が、正巳たちの前で始まろうとしていた。
正巳は、沼からあがってくる”あれ”を見てはいけない、と頭では理解していたも、彼の体はその理解を実行に移すことができなかった。
人のようなシルエットの”あれ”は、動いていた。
薄汚れたセーラー服を弾き飛ばしそうなほどに、膨張しパンパンに膨れ上がっていた。そして、その皮膚は完全に死人の色をしていた。気のせいか腐り始めた人間の臭いまでも、正巳たちのいる方向に流れてくる。
――なんで、死体が動いて……
正巳の鼻はヒクッとし、ゴクリと飲み込んだ唾は乾いた喉へと落ちていった。
目の前で起こりゆくこの世のものとも思えぬ背筋を戦慄させるこの光景に、夏樹ですらしばらく動くことができなかった。
だが、彼は素早く手の内のナイフを握り直し、再び身構えた。
「ちくしょう! てめえら、ぶっ殺してやる!!」
夏樹が、まずは目の前の男に向かって、ナイフを振り上げ――
「!!」
瞬間、正巳は目をつぶった。
夏樹がついに人を刺してしまった、殺ってしまった――と、恐る恐る目をあけた正巳であったが、男は平然と立っているままであった。
夏樹はいなくなっていた。
正巳は工場内を見回す。いつのまにか、あの悪夢の産物であるかのような死体も消えていた。彼の心臓が立てるドッドッドッという嫌な音は徐々に大きくなっていく。
「夏樹? 夏樹!」
「外だよ。さっき、連れていかれたからさ」
男が工場の入り口を長い指で指さした。
夏樹、と震え続ける足のまま、入り口に向かって走る正巳の目に映ったのは、工場の表にある道路に倒れていた夏樹の姿だった。
逢坂夏樹が上体を起こした時、彼は眩しい光にその視界をつぶされた。
その光である車のヘッドライトは、運転手に道路に腰を下ろしたままの夏樹の姿を認識させた。
夏樹と運転手は同時に驚愕の叫び声をあげ、急ブレーキの音がそれに混じり合い――
弧を描きながら夏樹の体は対向車線へと飛んだ。だが、対向車線においても、鈍い衝突音とともにまたしても夏樹の体は弧を描き、歩道の草の上に落下した。
夏樹を轢いてしまった不運な運転手たちは車を止め、走り出てきた。怒号とも思える悲鳴が正巳たちのところまで届いた。
正巳と同じく、離れたところではあるも、夏樹の死の一部始終を見ていた男はフッと鼻から息を吐き出した。
「あの状況じゃ、轢いた人の方が気の毒だよな」
「何、他人事みたいに言ってんだよ! あんたがやらせたんじゃないか!」
「逢坂くんはナイフを持ってたんだし、正当防衛だよ。ナイフを持ち歩いている未成年なんて、碌なもんじゃなんだろ」
自分に掴みかからんばかりの正巳を軽くあしらう男の目には全く光がなかった。
その男の瞳。正巳は、まるで深淵を見ているようだった。
――俺が深淵を見ているのか、それとも深淵が俺を見ているのか……確か、これとよく似た格言みたいなのを前に姉ちゃんに教えてもらった……
目の前で友人の死の一部始終を見せられた正巳の思考は、一種の防衛本能であるのか自分の身に迫ってくる危険より徐々に逸れていっていた。
そんな正巳に気づいたのか、男は軽い咳払いをした。
「櫓木くん、今さらだけどこんなことになる前に、友達に背を向ける勇気や危険なことには近づかない判断力も君には必要だったと思うよ。俺は君だけは見逃すつもりだったんだけど……本当に友達はよく選ぶべきだったね」
――まさか、俺も夏樹と同じように死ぬ? いや、殺される!
冷や水を全身にドッと浴びせかけれたごとく、今、自分の身に迫りくる危険に意識の焦点が戻った正巳は工場の入り口に向かってダッと駆けだした。
けれども、入り口まであと数歩のところで、あの死体がヌッと正巳の眼前に現れたのだ。
「わああああっ!」
正巳はドンっと尻餅をつき、汚れた床の上で後ずさった。もう少しでお互いの鼻が触れそうなほど、近距離で死体の顔をモロに見てしまった正巳は、その場で嘔吐しそうにもなった。正巳は口を押えながら、自分の後ろで平然と自分の様子をながめている男に振り返った。
「あ、あ、あんたら、一体何なんだよ?」
「そこまでは教えられないよ。それに君はもうすぐ死ぬんだから、知ったって”もう”どうしようもないだろう?」
男はニヤリと笑って、死体に手で合図をした。死体は床をなめらかに滑るように、正巳に迫ってきた。死体から滴り落ちる水滴が、床に蛇のような道を残していく――
「自分の欲望によって、人を傷つけ血を流させるような者は、後に自分自身もそれ以上の血を流すことになるんだよ。俺は君たちに正義の鉄槌を下すんだ」
男は勝ち誇ったように台詞をならべた。
――そもそも、あんたが企んだことじゃないか。あんたが夏樹たちをそそのかしたんじゃないか。
けれども、入り口とは逆方向に逃げるしかできない正巳の口から出てくるのは、喉が鳴る乾いた音ばかりだった。
恐怖と後悔。正巳のなかでグチャグチャに入り混じっている感情は、この2つしか今はなかった。
――嫌だ、嫌だ、来るな。こっちに来るな。助けて。助けてくれ。頼む、誰か気づいてくれ。夏樹と一緒にここに来なければよかった。あの日、夏樹や照彦にボコボコにされてでも、我妻佐保を助ければよかった。いや、そもそも最初からあんな計画自体、どんなことをしてでも止めるべきだった。俺は犯罪という深淵を覗いてしまった。だから、深淵から俺たちを覗き、網を張っていた奴につかまったんだ――
唯一の希望の光を放っている入り口からは、どんどんと遠ざかっていった。
ついに、正巳は工場の壁につたう今にも崩れ落ちそうな梯に手をかけるしかなくなった。剥がれ落ちるのを待っていたような塗料が正巳の手にボロボロと引っ付いてくる。
正巳は分かっていた。これ以上、上には逃げ場がないということを。
――なんだよ、俺、わざと悪い方にばっかり逃げているじゃないか。まるで、俺の生き方みたいだ……
大粒の涙がこぼれ始めた正巳の脳裏で、いろんな顔が浮かんでは消えていった。
両親、夏樹、照彦、佐保、そして――
ついに梯の1番上に手をかけた正巳は、自分の後ろにいる死体の気配と臭いに振り返ってしまった。
死体はすぐ後ろにいた。正巳の背中にひっつくように、宙に浮かんでいた。濁った白い2つの目が正巳をじいっと見ていた。
「うわあああああっ!」
梯から足を踏み外し落下する正巳の脳裏に最後に浮かんだのは、やはり麗子の顔だった。
――姉ちゃん。俺、どうなったのかな。死んじまうのかな。最初から姉ちゃんにきちんと話せばよかったな。そうしたら、姉ちゃんの待っている家に帰れたのに。今さら虫が良すぎるよな。姉ちゃん、ごめん。姉ちゃんはきっと、私に謝るより、あの子にきちんと謝れっていうだろうな。こんな弟で本当にごめんな。なんだか、俺、謝ってばっかりだな。姉ちゃん、姉ちゃ……
床に叩きつけられた、櫓木正巳の瞼はゆっくりと閉じられていった。
損傷した頭部から流れる彼の血は、徐々に広がっていく。まるで彼はその血だまりに頭を浸しているかのようであった。
――まさか、あの櫓木正巳がここまで持ちこたえていたとは。
男は――いや宵川斗紀夫は思い出す。
自分の目の前で梯子から落下した櫓木正巳の姿を確認した斗紀夫は、A子に戻るように合図をして、自分は工場の裏口から外へと出た。
今は工場の表では皆、”事故”で死亡した逢坂夏樹に気をとられている。現場に駆け付けた救急隊員もしくは警察が、この工場の中を調べるかもしれない。その時まであの彼は持つか? いや、案外誰にも気づかれず、この暑い季節に腐乱死体で発見されるかもな……と考えながら家路を急いだことを。
正巳のいる病室に背を向け、松葉づえとともに歩き始めた斗紀夫であったが、谷辺千奈津に負わされた足の傷に痛みが走り、顔を歪めて立ち止まった。
――千奈津さん……随分と酷い置き土産を残してくれたな。千奈津さんは教師としての評判は結構良かったらしいけど、やはり千郷の姉だけあって激高するとこんなふうに信じられないことするし。妹の千郷も千郷で、一見自分をサバサバした自立した女に見せかけていたけど、ああいうのに限って依存心が強くてあんなにしつこいなんて、ほんと困ったよ。まあ、俺は自分の中にあるこの陰(いや、性癖か?)を覆い隠すために、陽の役割を果たしてくれそうな千郷を恋人として選んだんだけど、見込み違いだったか。まさか、あの馬鹿姉妹、佐保ちゃんの身代金殺人を企んでいたなんて……佐保ちゃんには生きていてほしいに。それにあいつら、俺たちを殺そうとして緊迫しているあの状況で、あんな出来の悪いコントみたいなヒステリックな姉妹喧嘩よくできたよな。これだから、女ってのは……
斗紀夫は、谷辺千奈津が自分の喉から赤い血を噴き出す前に言った言葉を思い出す。
「……そうよね、千郷。私たちは確かに許されないことをしたわ……でも、あんたをこんなにも苦しめたこの男はこれからも平然と生きていくのよね。この異常者は……そんなのって許せる? ………………させたのだって、斗紀夫さんなのに」
「千郷の苦しみを知るべきよ! 千郷はあんたのことを全て”分かっていた”のよ!」
千郷は俺のこの性癖に気づいていたんだろうな。まあ、あいつとは5年ぐらいの付き合っていたし、心底俺に惚れて俺のことをよく見ていたからな。千郷は俺の性癖についての推測も千奈津さんに話したんだろう。
あの時、精神が向こう側に行きかけていた千奈津さんがブツブツ言っていたことはよく聞き取れなかったけど、彼女はきっと「我妻さんを男たちにレイプさせたのだって、斗紀夫さんなのに」と言っていたのか?
そのうえ、千郷は自分の考えが単なる推測か、それとも真実であるか、あの場ではっきりさせようとした。だから、あの時、矢追くんに佐保ちゃんを強姦させようとした。単に佐保ちゃんが憎いって理由もあったろうけど、佐保ちゃんが俺の目の前で再び性犯罪にあうのを見て、俺が理性を押えきれなくなるところを確認したかったのかもしれない。
でも、あの矢追くんはナイフを突きつけられても、千郷の言うことを聞かなかった。だから、千郷の奴、今度は矢追くんを辱めようとした……あいつ、男が女に凌辱されるのを見ても、俺が性的に興奮するとでも思っていたんだろうか? 矢追くんがいくら綺麗な顔をしていても、悲惨な事件の被害者であっても、俺は男なんかに興味はないよ。千郷はそこまでは見抜けず「私があんたの見たいものを見せてあげるわよ!」」と矢追くんに迫り、彼に触れてしまった結果、A子に殺されてしまったし。
俺はA子に、佐保ちゃんを襲った2人の不良少年たちの殺害も頼める立場にいた。不良少年たちの身元を調べ、まずはネットで最初に俺とコンタクトをとった桐田照彦のところに行ってもらった。金持ちの家の末っ子で見るからに甘やかされて育ったに違いない彼はA子の風貌に驚いたのか(まあ、確かに美しさなんて微塵もない外見に変わり果てているけど)病院に入院し、一時帰宅をしていた時に、また自宅に向かわせたA子から逃れようとして、勝手にベランダから落ちて死んでしまった。
逢坂夏樹に至っては、俺のお気に入りの写真付きの手紙で呼び出した。佐保ちゃんの初めての相手だし、一度ちゃんと顔をこの目で見たかったって理由もあったんだが。彼はあの肝の座り方や度胸を社会的にマイナスの方向に向けて育ってしまった人間だった。外見だって、俺が今までに見た10代少年のなかでは矢追くんの次点(矢追くんとは方向性の違う美形ではあるけど)ぐらいで、モデルになれそうな長身でもあったのに。まあ、逢坂夏樹は、近い将来に100%に近い確率で警察のお縄になる少年だと思うし、彼をA子に殺させたことについては俺は社会貢献したと考えよう。
そして、最後の少年である櫓木正巳。彼については運が悪かったとしか言えない。人間、生きていくうえで選べないこともあるけど、友達は選べるもんだと俺は思う。だから、彼自身がこの結末を招いたため、自業自得であるけど。しかし、実際に佐保ちゃんに危害を加えた2人の少年はあっさりと死に、唯一正義の片鱗を見せた1人の少年がいつ終わるともしれぬ苦しみの中にいるなんて、運命は残酷で無慈悲なもんだ。
そう、運命と言えば、矢追くんは本当に命拾いした。俺はA子に逢坂夏樹と桐田照彦の殺害の報酬に矢追くんと二人きりにさせてあげると約束していた。だから、あの講演会の日、学校帰りの矢追くんを沼工場に連れてきたんだけど……偶然ってほんと怖いもんだ。ちょうど同日に、千郷たちが佐保ちゃんの身代金殺人計画を企てていて、その実行場所に沼工場を選んでいたとは。馬鹿姉妹のせいで、俺の計画は大幅に狂い、A子は矢追くんを連れて逝くことはできなかった。
A子は今度こそ本当に死んでしまった。矢追くんへの執着心(本人は純粋な愛と思い込んでいたみたいだが)で、死体となってもなおこの世にとどまり、ストーカーをしていた自己中極まりない少女。あの優しくて穏やかな性格で、女に手をあげるなんて到底思えない矢追くんに刺されるなんて、それだけのことを自分はしたんだって、A子は自分で理解して死んだのかな? それともA子は「なぜ?」と思いながら、死んでいったのだろうか? それに、矢追くんはほんと女難な人生送ってる子だよな。お母さんたちを殺されただけでなく、悪臭漂う水死体A子に粘着ストーカーされ、年増女に唇を奪われるとか……
空が急激に曇り始めたため、鈍い艶を出す灰色に色を変えた病院の廊下の床で斗紀夫は松葉づえを突き直した。そして、彼は思い出す。
A子のように人でありながらも人でない矛盾した存在が、今のこの日本に何人もいることを知り、彼の狂気に灯があかあかとともされた日のことを――
逢坂夏樹と櫓木正巳。彼らの人生において選ぶことができた選択肢は1つだけではなかった。
正巳は何度も「警察へ相談しよう」と言ったが、夏樹が選んだのは「依頼者」に直接会って脅しをかけることだった。夏樹は「お前が逃げる気なら俺だけで行く」と言ったが、正巳が選んだのは夏樹と一緒にあの沼工場で「依頼者」を待つことだった。
沼工場に着いた後も、正巳は夏樹の苛立ちのとばっちりが自分に向かないように黙っていた。夏樹はここに来るまでの道のりでも、散々毒づいていたからだ。
――くそ、誰だ、誰なんだよ、何が目的なんだよ、ただ女をマワしただけじゃねえか、そんなことで俺の弱みを握った気になってんのか、隠し撮りまでしやがって、キモイんだよ、変態が、ブッ殺してやる――
夏樹が蹴飛ばしたコンクリートの欠片がカラカラと音を立てて転がっていった。
正巳はそれを見て思う。
――万が一、激高した夏樹が「依頼者」を半殺しや、最悪の場合殺してしまうかもしれない。それを俺は絶対に止めなければ……いや、そもそも俺に夏樹を止めることができるのか? あれ? なんか、俺、同じこと繰り返してねえか?
工場の表道路を行きかう車と裏を流れる川の音がやけに大きく聞こえてきた。そうだ、あの日もそうだった、と正巳は思わず呻いてしまった。
「正巳、どうかしたか?」
「いや、あの子が、我妻佐保がまだここにいるような気がして……」
「……お前、なんかクスリでもやってんのか?」
「そんなわけないだろ。ただ……」
「もう、あの女の話はやめろ。これ以上、イラつかせんなって」
確かに我妻佐保はここから逃げ出すことができた。だが、彼女が受けた恐怖、苦しみや屈辱がまだこの場所に漂っているような息苦しさを正巳は感じていた。あの日、自分が我妻佐保を見捨てて逃げたことは、自分の心にも深く刺された決して抜けない錆びついた楔であったのだ。
俯いた正巳であったが、工場の入り口に見えた影にハッと顔を上げた。
――誰かがあそこにいる。もしかして、あれが「依頼者」か?
その一つの影は男の骨格をしていた。そして、その影は正巳たちのいるところに悠然と歩いてくる。
やがて、その男の顔が正巳たちにもはっきりと見えてきた。20代後半から30代前半くらいに見える男。その男は、正巳の知らない男だった。正巳の傍らにいる夏樹も知らない男なのだろう。夏樹の表情がそれを物語っていた。
「君たち、ここで何をしているんだ?」
男は落ち着いた声で正巳たちに問う。
「おっさんにゃ、関係ねえよ。人、待ってんだよ。出てけよ」
正巳は小声で「夏樹」と、敵意を剥き出しかけ始めた彼をたしなめた。
――この男は「依頼者」じゃないのか? もしかしたら、この工場の関係者なのかも……
「誰を待ってるんだ?」と、男は夏樹の様子も全く意に介さず、優しく諭すように言った。
「しつけーぞ、おっさん! おっさんにゃ、用なんてねえんだよ! 失せろよ!」
「あ、あの、俺たち、本当に人を待ってるんです。その人が来たら、すぐに帰りますんで……」
男は正巳の言葉が終わらないうちに、ポケットから携帯を取り出した。
――まさか、不法侵入として俺たちを警察に通報するつもりなのか?
夏樹が舌打ちをした時、男は口元に笑みをうかべ、その携帯の画面をこっちに向けた。
「ガキのくせに、随分と立派なモン持ってんだな」
携帯に映っていたのは、ズボンを下ろした夏樹の姿であった。
「!」
――こいつだ! こいつが……
正巳の足元の感覚が一瞬なくなりかけた。
男はニタリと気味の悪い笑顔を見せる。男の綺麗に生えそろった白い歯が余計に不気味さを際立たせていた。
「佐保ちゃんの拉致を依頼したのは俺だよ。別に佐保ちゃんに恨みがあったわけじゃないんだけど。俺、佐保ちゃんみたいに大人しくて控えめで守りたくなるような感じでいて、芯の強い女の子が本当はタイプなんだ。もうすぐ、別れる予定の彼女は真逆のタイプでね。まあ、あいつと話はわりと合ったし、一緒にいて楽しかったんだけど……」
――何を……何を言っているんだ? あの子がタイプだったのか? 「好き」ってことなのか? なら、どうして、こんな……
男は再び口元を歪ませ、唾液で濡れた白い歯を見せた。
「あ、俺、こういう性癖なんだよ。何らかの事件の被害者になった女に対して一番欲情するんだ。今回、君たちが加害者となった事件では、普通に真面目に生きていた家族思いの一人の少女が……彼女自身には何の落ち度もないのに、思春期を迎えて盛っている雄ガキの身勝手な欲望の犠牲となってしまう。その後、少女は決して癒えぬ傷を抱えながら、事件が起きる前の自分に戻りたいと願いながらも、戻れることなどできない人生をこれからも生きていく……俺は我妻佐保ちゃんをヒロインにした事件を作って、それをすぐ近くで見ていたかったんだ。ネットで網を張っていたら、君たちが加害者として自らひっかかってくれただけのことだよ」
「この変態野郎が」
夏樹の唇がワナワナと震え始めていた。男は夏樹にチラリと視線をやって、クスッと笑った。
「君に言われたくないね。君こそ、変態だろ。嫌がる女の子に無理やりなんてさ……何も俺が強制してやらせたわけじゃない。そこにいる櫓木くんみたいに何もしないという選択肢もあったのに」
完全に足元がガクガクと震え出した正巳は、夏樹がズボンの尻ポケットにそっと手を入れたことには気がつかなかった。
夏樹は鋭い眼光で、なおも男を睨み付けて言った。
「……うれしそうにベラベラと喋るおっさんだな。次は俺らに何をさせようっていうんだ? また別の女マワさせようってのか?」
「ざーんねん。もう気持ちのいい思いはできないよ。童貞のまま、死んじゃう男だっているのに、18かそこらかで同年代の可愛い女の子に強制中出しできたんだから、良しとしようじゃないか。今日は、俺は君たちに罰を下しにきたんだ」
「ふざけんじゃねえ! 誰がてめえなんかにやられるか!」
夏樹が尻ポケットより、バッと折り畳みナイフを取り出し、構えた。
「よせっ! やめろ!」
今にも男に飛びかからんとする夏樹を、正巳は後ろから押さえようとした。
――駄目だ! 夏樹、こいつの挑発に乗っちゃ駄目だ! 逃げよう、この男はおかしいんだ!
「おいおい、次は殺人未遂か? これから先、碌な人生送りそうにないな」
「何んだとおお!」
「やめろ! やめろって!」
夏樹を後ろから押さえつけていた正巳であったが、腕を振り回し暴れる夏樹に肘で強く突かれ、地面にドッと倒れ込んでしまった。
上体を起こした正巳の前で、男と夏樹は一直線に立ち、睨み合っていた。いや、男の方は依然として、あの不気味な笑顔を浮かべたままであった。
「俺が直接自分の手で罰を下すことはしたくないんだ。君たちごときにさ。だから、あいつに頼んだんだ」
男はこの沼工場の中心部に位置している水たまり――腐りきった水をなみなみと貯えて続けているこの工場の名前の由来となっている「沼」の箇所をスッと指さした。
「あそこに誰がいるってンだよ? 死体でも沈めてンのか?」
依然、男に向かって鋭い眼光を光らせている夏樹が顎をしゃくり、ケッと吐き捨てた。彼の手のナイフが再びパチンと音を発した。
「……夏樹、やめろ……」
「お前は黙ってろ! うるせーんだよ!」
正巳が再び夏樹を止めようと、立ち上がったその時だった。男が先ほど指差したあの場所から、水が立てるチャプという音を正巳は聞いたのだ。
窓から月明かりが差し込む青白い工場の中で、その水面がゆらゆらと重たげに揺れていた。
そして、ヌウッと何かが姿を見せ始めた。
――何だよ、あれ……
目を開けたまま見る悪夢が、正巳たちの前で始まろうとしていた。
正巳は、沼からあがってくる”あれ”を見てはいけない、と頭では理解していたも、彼の体はその理解を実行に移すことができなかった。
人のようなシルエットの”あれ”は、動いていた。
薄汚れたセーラー服を弾き飛ばしそうなほどに、膨張しパンパンに膨れ上がっていた。そして、その皮膚は完全に死人の色をしていた。気のせいか腐り始めた人間の臭いまでも、正巳たちのいる方向に流れてくる。
――なんで、死体が動いて……
正巳の鼻はヒクッとし、ゴクリと飲み込んだ唾は乾いた喉へと落ちていった。
目の前で起こりゆくこの世のものとも思えぬ背筋を戦慄させるこの光景に、夏樹ですらしばらく動くことができなかった。
だが、彼は素早く手の内のナイフを握り直し、再び身構えた。
「ちくしょう! てめえら、ぶっ殺してやる!!」
夏樹が、まずは目の前の男に向かって、ナイフを振り上げ――
「!!」
瞬間、正巳は目をつぶった。
夏樹がついに人を刺してしまった、殺ってしまった――と、恐る恐る目をあけた正巳であったが、男は平然と立っているままであった。
夏樹はいなくなっていた。
正巳は工場内を見回す。いつのまにか、あの悪夢の産物であるかのような死体も消えていた。彼の心臓が立てるドッドッドッという嫌な音は徐々に大きくなっていく。
「夏樹? 夏樹!」
「外だよ。さっき、連れていかれたからさ」
男が工場の入り口を長い指で指さした。
夏樹、と震え続ける足のまま、入り口に向かって走る正巳の目に映ったのは、工場の表にある道路に倒れていた夏樹の姿だった。
逢坂夏樹が上体を起こした時、彼は眩しい光にその視界をつぶされた。
その光である車のヘッドライトは、運転手に道路に腰を下ろしたままの夏樹の姿を認識させた。
夏樹と運転手は同時に驚愕の叫び声をあげ、急ブレーキの音がそれに混じり合い――
弧を描きながら夏樹の体は対向車線へと飛んだ。だが、対向車線においても、鈍い衝突音とともにまたしても夏樹の体は弧を描き、歩道の草の上に落下した。
夏樹を轢いてしまった不運な運転手たちは車を止め、走り出てきた。怒号とも思える悲鳴が正巳たちのところまで届いた。
正巳と同じく、離れたところではあるも、夏樹の死の一部始終を見ていた男はフッと鼻から息を吐き出した。
「あの状況じゃ、轢いた人の方が気の毒だよな」
「何、他人事みたいに言ってんだよ! あんたがやらせたんじゃないか!」
「逢坂くんはナイフを持ってたんだし、正当防衛だよ。ナイフを持ち歩いている未成年なんて、碌なもんじゃなんだろ」
自分に掴みかからんばかりの正巳を軽くあしらう男の目には全く光がなかった。
その男の瞳。正巳は、まるで深淵を見ているようだった。
――俺が深淵を見ているのか、それとも深淵が俺を見ているのか……確か、これとよく似た格言みたいなのを前に姉ちゃんに教えてもらった……
目の前で友人の死の一部始終を見せられた正巳の思考は、一種の防衛本能であるのか自分の身に迫ってくる危険より徐々に逸れていっていた。
そんな正巳に気づいたのか、男は軽い咳払いをした。
「櫓木くん、今さらだけどこんなことになる前に、友達に背を向ける勇気や危険なことには近づかない判断力も君には必要だったと思うよ。俺は君だけは見逃すつもりだったんだけど……本当に友達はよく選ぶべきだったね」
――まさか、俺も夏樹と同じように死ぬ? いや、殺される!
冷や水を全身にドッと浴びせかけれたごとく、今、自分の身に迫りくる危険に意識の焦点が戻った正巳は工場の入り口に向かってダッと駆けだした。
けれども、入り口まであと数歩のところで、あの死体がヌッと正巳の眼前に現れたのだ。
「わああああっ!」
正巳はドンっと尻餅をつき、汚れた床の上で後ずさった。もう少しでお互いの鼻が触れそうなほど、近距離で死体の顔をモロに見てしまった正巳は、その場で嘔吐しそうにもなった。正巳は口を押えながら、自分の後ろで平然と自分の様子をながめている男に振り返った。
「あ、あ、あんたら、一体何なんだよ?」
「そこまでは教えられないよ。それに君はもうすぐ死ぬんだから、知ったって”もう”どうしようもないだろう?」
男はニヤリと笑って、死体に手で合図をした。死体は床をなめらかに滑るように、正巳に迫ってきた。死体から滴り落ちる水滴が、床に蛇のような道を残していく――
「自分の欲望によって、人を傷つけ血を流させるような者は、後に自分自身もそれ以上の血を流すことになるんだよ。俺は君たちに正義の鉄槌を下すんだ」
男は勝ち誇ったように台詞をならべた。
――そもそも、あんたが企んだことじゃないか。あんたが夏樹たちをそそのかしたんじゃないか。
けれども、入り口とは逆方向に逃げるしかできない正巳の口から出てくるのは、喉が鳴る乾いた音ばかりだった。
恐怖と後悔。正巳のなかでグチャグチャに入り混じっている感情は、この2つしか今はなかった。
――嫌だ、嫌だ、来るな。こっちに来るな。助けて。助けてくれ。頼む、誰か気づいてくれ。夏樹と一緒にここに来なければよかった。あの日、夏樹や照彦にボコボコにされてでも、我妻佐保を助ければよかった。いや、そもそも最初からあんな計画自体、どんなことをしてでも止めるべきだった。俺は犯罪という深淵を覗いてしまった。だから、深淵から俺たちを覗き、網を張っていた奴につかまったんだ――
唯一の希望の光を放っている入り口からは、どんどんと遠ざかっていった。
ついに、正巳は工場の壁につたう今にも崩れ落ちそうな梯に手をかけるしかなくなった。剥がれ落ちるのを待っていたような塗料が正巳の手にボロボロと引っ付いてくる。
正巳は分かっていた。これ以上、上には逃げ場がないということを。
――なんだよ、俺、わざと悪い方にばっかり逃げているじゃないか。まるで、俺の生き方みたいだ……
大粒の涙がこぼれ始めた正巳の脳裏で、いろんな顔が浮かんでは消えていった。
両親、夏樹、照彦、佐保、そして――
ついに梯の1番上に手をかけた正巳は、自分の後ろにいる死体の気配と臭いに振り返ってしまった。
死体はすぐ後ろにいた。正巳の背中にひっつくように、宙に浮かんでいた。濁った白い2つの目が正巳をじいっと見ていた。
「うわあああああっ!」
梯から足を踏み外し落下する正巳の脳裏に最後に浮かんだのは、やはり麗子の顔だった。
――姉ちゃん。俺、どうなったのかな。死んじまうのかな。最初から姉ちゃんにきちんと話せばよかったな。そうしたら、姉ちゃんの待っている家に帰れたのに。今さら虫が良すぎるよな。姉ちゃん、ごめん。姉ちゃんはきっと、私に謝るより、あの子にきちんと謝れっていうだろうな。こんな弟で本当にごめんな。なんだか、俺、謝ってばっかりだな。姉ちゃん、姉ちゃ……
床に叩きつけられた、櫓木正巳の瞼はゆっくりと閉じられていった。
損傷した頭部から流れる彼の血は、徐々に広がっていく。まるで彼はその血だまりに頭を浸しているかのようであった。
――まさか、あの櫓木正巳がここまで持ちこたえていたとは。
男は――いや宵川斗紀夫は思い出す。
自分の目の前で梯子から落下した櫓木正巳の姿を確認した斗紀夫は、A子に戻るように合図をして、自分は工場の裏口から外へと出た。
今は工場の表では皆、”事故”で死亡した逢坂夏樹に気をとられている。現場に駆け付けた救急隊員もしくは警察が、この工場の中を調べるかもしれない。その時まであの彼は持つか? いや、案外誰にも気づかれず、この暑い季節に腐乱死体で発見されるかもな……と考えながら家路を急いだことを。
正巳のいる病室に背を向け、松葉づえとともに歩き始めた斗紀夫であったが、谷辺千奈津に負わされた足の傷に痛みが走り、顔を歪めて立ち止まった。
――千奈津さん……随分と酷い置き土産を残してくれたな。千奈津さんは教師としての評判は結構良かったらしいけど、やはり千郷の姉だけあって激高するとこんなふうに信じられないことするし。妹の千郷も千郷で、一見自分をサバサバした自立した女に見せかけていたけど、ああいうのに限って依存心が強くてあんなにしつこいなんて、ほんと困ったよ。まあ、俺は自分の中にあるこの陰(いや、性癖か?)を覆い隠すために、陽の役割を果たしてくれそうな千郷を恋人として選んだんだけど、見込み違いだったか。まさか、あの馬鹿姉妹、佐保ちゃんの身代金殺人を企んでいたなんて……佐保ちゃんには生きていてほしいに。それにあいつら、俺たちを殺そうとして緊迫しているあの状況で、あんな出来の悪いコントみたいなヒステリックな姉妹喧嘩よくできたよな。これだから、女ってのは……
斗紀夫は、谷辺千奈津が自分の喉から赤い血を噴き出す前に言った言葉を思い出す。
「……そうよね、千郷。私たちは確かに許されないことをしたわ……でも、あんたをこんなにも苦しめたこの男はこれからも平然と生きていくのよね。この異常者は……そんなのって許せる? ………………させたのだって、斗紀夫さんなのに」
「千郷の苦しみを知るべきよ! 千郷はあんたのことを全て”分かっていた”のよ!」
千郷は俺のこの性癖に気づいていたんだろうな。まあ、あいつとは5年ぐらいの付き合っていたし、心底俺に惚れて俺のことをよく見ていたからな。千郷は俺の性癖についての推測も千奈津さんに話したんだろう。
あの時、精神が向こう側に行きかけていた千奈津さんがブツブツ言っていたことはよく聞き取れなかったけど、彼女はきっと「我妻さんを男たちにレイプさせたのだって、斗紀夫さんなのに」と言っていたのか?
そのうえ、千郷は自分の考えが単なる推測か、それとも真実であるか、あの場ではっきりさせようとした。だから、あの時、矢追くんに佐保ちゃんを強姦させようとした。単に佐保ちゃんが憎いって理由もあったろうけど、佐保ちゃんが俺の目の前で再び性犯罪にあうのを見て、俺が理性を押えきれなくなるところを確認したかったのかもしれない。
でも、あの矢追くんはナイフを突きつけられても、千郷の言うことを聞かなかった。だから、千郷の奴、今度は矢追くんを辱めようとした……あいつ、男が女に凌辱されるのを見ても、俺が性的に興奮するとでも思っていたんだろうか? 矢追くんがいくら綺麗な顔をしていても、悲惨な事件の被害者であっても、俺は男なんかに興味はないよ。千郷はそこまでは見抜けず「私があんたの見たいものを見せてあげるわよ!」」と矢追くんに迫り、彼に触れてしまった結果、A子に殺されてしまったし。
俺はA子に、佐保ちゃんを襲った2人の不良少年たちの殺害も頼める立場にいた。不良少年たちの身元を調べ、まずはネットで最初に俺とコンタクトをとった桐田照彦のところに行ってもらった。金持ちの家の末っ子で見るからに甘やかされて育ったに違いない彼はA子の風貌に驚いたのか(まあ、確かに美しさなんて微塵もない外見に変わり果てているけど)病院に入院し、一時帰宅をしていた時に、また自宅に向かわせたA子から逃れようとして、勝手にベランダから落ちて死んでしまった。
逢坂夏樹に至っては、俺のお気に入りの写真付きの手紙で呼び出した。佐保ちゃんの初めての相手だし、一度ちゃんと顔をこの目で見たかったって理由もあったんだが。彼はあの肝の座り方や度胸を社会的にマイナスの方向に向けて育ってしまった人間だった。外見だって、俺が今までに見た10代少年のなかでは矢追くんの次点(矢追くんとは方向性の違う美形ではあるけど)ぐらいで、モデルになれそうな長身でもあったのに。まあ、逢坂夏樹は、近い将来に100%に近い確率で警察のお縄になる少年だと思うし、彼をA子に殺させたことについては俺は社会貢献したと考えよう。
そして、最後の少年である櫓木正巳。彼については運が悪かったとしか言えない。人間、生きていくうえで選べないこともあるけど、友達は選べるもんだと俺は思う。だから、彼自身がこの結末を招いたため、自業自得であるけど。しかし、実際に佐保ちゃんに危害を加えた2人の少年はあっさりと死に、唯一正義の片鱗を見せた1人の少年がいつ終わるともしれぬ苦しみの中にいるなんて、運命は残酷で無慈悲なもんだ。
そう、運命と言えば、矢追くんは本当に命拾いした。俺はA子に逢坂夏樹と桐田照彦の殺害の報酬に矢追くんと二人きりにさせてあげると約束していた。だから、あの講演会の日、学校帰りの矢追くんを沼工場に連れてきたんだけど……偶然ってほんと怖いもんだ。ちょうど同日に、千郷たちが佐保ちゃんの身代金殺人計画を企てていて、その実行場所に沼工場を選んでいたとは。馬鹿姉妹のせいで、俺の計画は大幅に狂い、A子は矢追くんを連れて逝くことはできなかった。
A子は今度こそ本当に死んでしまった。矢追くんへの執着心(本人は純粋な愛と思い込んでいたみたいだが)で、死体となってもなおこの世にとどまり、ストーカーをしていた自己中極まりない少女。あの優しくて穏やかな性格で、女に手をあげるなんて到底思えない矢追くんに刺されるなんて、それだけのことを自分はしたんだって、A子は自分で理解して死んだのかな? それともA子は「なぜ?」と思いながら、死んでいったのだろうか? それに、矢追くんはほんと女難な人生送ってる子だよな。お母さんたちを殺されただけでなく、悪臭漂う水死体A子に粘着ストーカーされ、年増女に唇を奪われるとか……
空が急激に曇り始めたため、鈍い艶を出す灰色に色を変えた病院の廊下の床で斗紀夫は松葉づえを突き直した。そして、彼は思い出す。
A子のように人でありながらも人でない矛盾した存在が、今のこの日本に何人もいることを知り、彼の狂気に灯があかあかとともされた日のことを――
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