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第2章 ~8月の死者たち~

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 客の要望の食事を作りながら、要領よく明日の下ごしらえをしていた多賀准一は、笹山之浩の姿が見えないことに気づいた。
――笹山くんはどこにいったんだ? つい、さっきまでここにいたはずなのに……
「ねえ、き……深田さん、笹山くんはどこに行ったんだい?」
――いけない、あうやく季実子と呼ぶところだった。今日はお嬢様2人と白鳥さんもいるっていうのに、気をつけないと。
 准一の問いに深田季実子はキョトンとして、首を左右にグイグイと動かし、周りを見渡した。
「あらあ、どこに行ったんでしょうね? さっきまで、そこらへんにいたように思うんですけど……」
 由真も真理恵も、笹山之浩の不在という事実に顔を見合わせた。彼女たちの近くにいた白鳥学が准一に歩み出て、静かに告げた。
「先ほど、確か……15分ぐらい前だと思います。懐中電灯を持って、外に出ていくのを見ましたよ」

 之浩を探すために厨房を季実子に任せ外に出た准一を、夏の蒸し暑い風が撫で上げた。寒さなど微塵も感じられないその風であったが、准一は思わずゾクリと身震いをしてしまった。それは、風の中にわずかに血なまぐさい臭いが含まれていたからだ。
――笹山くんは外で一体何をしているんだろう? 自分の部屋に戻るなら戻るってきちんと言うはずだし……もう暗くなってしまった外に15分以上もいるような用事はないはずだ。具合が悪くなって倒れているか、まさか裏で足を踏み外して崖下まで転げ落ちているんじゃ……
 季実子が心配そうな顔で自分を見つめていたことを准一は思い出す。白鳥学が「僕が笹山さんを探しに行きましょうか?」と言ったが、客(それも将来の社長候補)にそんなことはさせられないと思った准一は、丁重に学の申し出を断った。
 准一は再び自分の身を撫で上げっていった夜風に目を細めた。彼の手の内にある懐中電灯は妙に汗ばんでいた。
 その時だった。彼の懐中電灯は、自分から5メートルほど離れた地面に這いつくばっている人影を照らし出したのだ。
――あれは……!
「笹山くん!」
 即座にその人影――笹山之浩に駆け寄った准一は、彼の顔の、主に下半分が血を塗りたくられたように真っ赤になっていることが分かった。いや、それだけではなかった。之浩の水色のシャツやベージュのズボンのいたるところが、真新しい血で赤く染まっていた。何より之浩の両膝の裏側が一塩、真紅に濡れていた。
「どうしたんだ? 一体、何があったんだ?」
――野犬にでも襲われたのか? それとも誰かに……
 之浩は涙をボロボロと流し続け、准一に向かって口をパクパクと動かした。准一への返事の代わりに、之浩の口からは「うー」「あー」と呻き声と血が滴り落ちた。真っ白だった之浩の歯も今や、口の中に溢れている血に浸されピンク色に染まっていた。
――舌が千切られている? 舌が――!
 准一の全身に、地獄から立ち上がってきたような戦慄が駆け巡った。
「動いちゃだめだ! すぐに救急車を呼ぶからな!」
 准一はガクガクと震え始めた自身の手を、ズボンのポケットに入れた。だが、彼の冷たい手先がそこにあるはずの携帯電話に触れることはなかった。
――くそ、厨房に置いてきたんだ! なんだって、こんな時に限って――!
「すぐに戻ってくるからな! 待っていろよ!」
 だが、ペンションへと走り始めた准一の首にゾッとする冷たさの ”何か” が触れた。次の瞬間、准一の体は宙にぐわっと浮かんだ。
「!!!」
 手の懐中電灯は乾いた土の上にボトリと落ちた。准一はその”何か”に首を掴まれてしまっていた。彼の足裏は今や地面から50cm以上は離れていた。
――何、何なんだ?! 一体、何が起こって…いや、誰が俺を?!
 准一の心の中の問いを理解したかのように、彼の首を掴んでいる手の主は、パッとその手を離した。
 ドサリと土の上に落ちた准一は、ゲホゲホとせき込みながら、自分の首を掴み上げていたその手の主を振り返った。まだ全身に残る息苦しさのなか、何重にも重なり合い焦点が定まらない視界の中で、彼は夜空に煌々と輝く満月が照らし上げていく”その者”を見た――
「……化け物」
 これが多賀准一の最期の言葉であった。

 笹山之浩は涙で滲む目で全てを見ていた。
 右手で多賀さんの首を持ち上げたそいつは、左手には誰の腕だか知らないが人間の太い腕を持っていた。多賀さんが足をばたつかせ苦しんでいるのを見たそいつは、パッと手を離した。
――もしかして、多賀さんは見逃すつもりなのか? お前は暗闇からいきなり出てきて、俺の両脚のひざ裏をひっかいたっていうのに、俺の舌を弄ぶように引きちぎったっていうのに。ああ、痛え、痛え、助けてくれ。多賀さん、助けてくれ、早く救急車を呼んでくれ……
「……化け物」
――多賀さん、そんなことわざわざ言わなくたって見りゃ分かるだろ。あんたら、俺のことウスノロだって馬鹿にしてたろ。あんたと深田さん、いい年したおっさんとおばはんがコソコソ乳繰り合ってるの、俺はちゃんと知ってるんだぞ。いや、そんなことより、早く早く助けを呼んでくれ。このままじゃ俺は死んじまう。死ぬのは嫌だ、死にたくねえ。苦しい、苦しい。助からないなら、いっそとどめをしてくれ。嫌だ、俺はもっと生きたいんだ。だれか、この苦しみから救ってくれ。こんなところで虫けらのように死んでたまるか。母ちゃん、早く俺を迎えに来てくれ――
 生と死、両方への渇望に揺れ動く之浩の目からは、また新しい涙が溢れ出した。
 之浩を嬲り傷つけた化け物は、いまや次の獲物である准一に狙いを定めていた。腰をかがめ、枯れ木のように細長い右腕を准一の首へと伸ばした。再度、やすやすと宙へと持ち上げられた准一の両脚が之浩の頭上でバタバタともがき始めた。
 之浩の聴覚は一切の支障をきたしていなかったため、准一が息の根を止められるブチブチという嫌な音が聞こえた。今や全身を苦痛と恐怖に支配された之浩が握りしめていた草の上に、そして彼の頭髪や背中に、頭上の多賀准一の口や切断されたその首から流れる血がボタボタと大粒の雨のごとく降り注いでいった。

 深田季実子は外で最愛の者の命が強制的に断たれたのも知らず、明日に向けての食事の下ごしらえをしていた。外に出ていく准一の後ろ姿を思い出した季実子は、まるで少女のように胸を再度ときめかせた。
――率先して笹山さんを探しに行くなんて、なんて男らしい人。前の夫とは大違い。まあ、優柔不断でおまけにマザコンのふにゃふにゃした男だったけど、息子と娘1人ずつ授けてくれた事だけには感謝してるわ。
 季実子の息子も娘も、今はそれぞれ家庭を持っていた。どちらも20そこそこのうちに子供ができてからの結婚だった。けれども、時代は変わり始めているし、今の時代はそれがきっかけの一つだと、季実子は理解のあるところを見せた。幸いにも季実子が知る限り、息子の家庭も娘の家庭も円満にいっているらしい。結末として、幸せになればそれでいい。人生、終わり良ければ総て良しだと。
 季実子は傍らで皿を拭いている真理恵にチラリと目をやった。
 自身の恋愛や家族のこと以外に、季実子が興味あるのは、八窪真理恵のことであった。
 仕事が終わった後、自分の部屋で季実子が携帯でこっそり見ているドラマのような展開が、虚構ではない自分の身近な現実の世界で繰り広げられている。
 物心ついた頃に病弱な母は亡くなり、経営能力はあるも女癖の悪い父親を持ち、思春期に腹違いの妹をいきなり家に引き取る事態になったにも関わらず、ぐれずに真っ当に美しく成長した(地方の中小企業レベルだけど一応)社長令嬢。父親の反対を押し切り、愛を貫いて結婚をしたものの、選んだ夫はどうやら父親とよく似たタイプであったらしく、3年もしないうちに離婚。だが今日、その元夫がもう一度やり直したいと、このペンションにまでやってきた。まるで、ドラマのように。
 日焼けした肌と男らしい肉体で、ワイルドな魅力を溢れ出させている元夫。だが、その彼の前に立ちはだかっているのは、父の部下である白鳥学だ。今はラフな格好だが、スーツ姿が惚れ惚れするほど似合い、折り目正しく毛並みの良さを感じさせる、元夫とは全く正反対のオーラを放つ男。
 季実子は気づかれないように、真理恵と学を交互に見た。今日の昼間のことには暴力沙汰になるんではないかとハラハラしていたが、それと同時にどこかワクワクもしていた。
――白鳥さんは超絶美形ってわけじゃないけど、彼の放つ雰囲気や立ち振る舞いで3割増し程、かっこよく見えるんでしょうね。会社の女の子たちにも人気ありそう。私が真理恵お嬢様の立場に立たされたら、どっちを選ぶかしら? 迷っちゃうな(笑) 白鳥さんも素敵だけど、やっぱり元夫との間に重ねた時間や思い出を、真理恵お嬢様は捨てることができないかもしれない。でも、あの社長が愛娘と彼女を傷つけた元夫の再婚を許すとは到底思えないし……もし、近い将来に白鳥さんの方が真理恵お嬢様と結婚することになったら、彼は婿養子に入るのかしら。白鳥さんの親は一体、どんな顔をするんだろう? でも正直、白鳥さんなら20代前半の初婚の女の子にだって需要はありそうな気はするけどね。それとも、真理恵お嬢様の運命の人は、もしかしたら彼らのどちらでもないかもしれないわ。まだ、20代ならこれからたくさんの出会いもあると思うし。私だって、運命の人(つまりは准さん)に出会ったのは、40過ぎてからだったもの……
 夢見る少女のように瞳を輝かせた季実子の妄想のなかでは、彼女は自分が一番美しかった頃の姿に戻っていた。そして、自分を抱きとめるように両手を広げている多賀准一も20代の姿になっていた。ただ、その准一の姿は季実子の想像のよるものであり、実際の彼の20代の姿より3割増し程美化されてはいたものの、季実子は甘くてくすぐったい妄想に全身を支配されつつあった。

「深田さん、私、外の冷蔵庫から飲物補充してきますね」
 飲物のストックが少なくなっていることに気づいた真理恵が、季実子を振り返った。
「あ、あら、すいません」
 季実子は自分の頭の中での、身勝手でしかも強烈に恥ずかしい妄想を真理恵に見抜かれたような気がして、思わず顔を伏せた。自分の頬が熱を持ち、ほんのりと染まっていくのが季実子は分かった。
 外へと向かおうとする真理恵に、学がすかさず声をかけた。
「もう暗いですし、僕も一緒に行きますよ」
 即座に由真が振り帰る。由真と学の視線は交差した。
――白鳥さん……姉さんと2人きりになることを狙っているの? 義兄さんや白鳥さんみたいな男の人って、本気で手に入れたいと思った女には、本気で向かっていくのよね。
「白鳥さん、私が1人で行ってきますよ。そんなに重いものを運ぶわけでもないですし……姉さんもここにいて」
 今の言葉は姉・真理恵を狙う白鳥学に対する由真なりの防御であった。今、この食堂には、従業員の季実子だけでなく、宿泊客だっている。よって、学も真理恵にあからさまな求愛アピールはしないはずだと。
 由真の言葉(と彼女は隠せたと思っている姉に近づく男を牽制する視線)に、学は一瞬だけ渋い表情(彼も隠せたと思っている邪魔されたことに対する苛立ち)を浮かべたが、すぐに互いに元の表情を取り繕った。
 由真はスニーカーの紐を意味もなく締め直し、つま先を床でトンと叩いた。そして、彼女は懐中電灯を取ろうと食器棚の上へと手を伸ばした。だが……
――そうか、ここにあった懐中電灯は、さっき多賀さんが笹山さんを探しに行くってことで持って行ったんだ。そういや、2人ともやけに戻ってくるのが遅くないかしら? 一体、2人は外で何をしているんだろう?

 もうかれこれ10分も一言も喋っていない駒川汐里の前で、並んで座っている滝正志と鈴木梨緒は変わらず笑い声をあげ、いちゃついていた。
 汐里は思う。
――私が正志を思うほど、私が梨緒を思うほど、2人は私のことを思ってくれていない。それはちゃんと分かっている。頑張れ。この旅行が終わるまでの辛抱だ。明日には家に帰るんだもの……私、こんなにも夜が終わって朝日が昇るのを待ち望んだの生まれて初めてかもしれないな……
 こぼすまいと思っていた涙をこらえるために、ツンとし始めた鼻を押さえ、汐里はガラス張りの外へと顔を向けた。
 瞬間、汐里の口からは鋭い悲鳴が発せられた。
 今、まさに玄関より外に出ていこうとしていた由真も汐里の悲鳴に飛びあがり、食堂を振り返った。由真の頭上で、玄関に備え付けられている鈴がかすかにチリンと音を立てた。
 静まり返った食堂にいる誰もが、真っ青な顔でガクガクと震える汐里を見ていた。
 汐里の悲鳴に尋常ではない何かを感じた由真は、食堂へと引き返す。驚いてその場に固まっている真理恵と目が合った。
「……おい、ビックリするじゃねえか」
「何なの? そんなにまでして、正志の気を引きたいの?」
 汐里の様子を見た梨緒と正志が顔を見合わせて、プッと噴き出した。
「違う! 違うの! 外に……」
 汐里の顔の血の気は、いまや完全になくなっていた。外を決して見るまいと顔を背けたままの汐里は、震えの止まらぬ指で外のある一点を指さした。
 近くの席で夕食を食べ終え、紙ナプキンでゴシゴシを口元を拭いていた肥後史彰が椅子から腰を浮かせ、彼女の指さすその先を見ようとした瞬間、彼は「うわっ!!」と叫び、椅子を倒し床にドシンと尻餅を付いた。
 史彰の顔からも汐里と同じく、完全に血の気は引いてしまっていた。
「……なんなんだよ、あれ……」
 呟いた史彰は自分の喉が苦し気な音を立て始めていることが分かった。そして、先ほど食べたばかりの夕食が逆流し始めたような気がしていたが、彼は口元を手で押えることもできなかった。

 いまや、食堂にいる他の者たちの目は全て、ガラス張りの食堂からわずか5メートルほど離れたところに立っている”者”に釘づけとなっていた。
 外に立っていたのは、手に肌色っぽい棒を持っている全裸の女だった。だが、「女」ではあったが、決して”人間の女”ではなかった。
 優に2メートルは超えている細長い棒のような体躯。それは美しさを微塵も感じさせない気味の悪い青色の皮膚で包まれていた。まるで藁のような艶のないバサバサの髪の毛。萎びて垂れ下がった大きな乳房の両の乳首は、まるで耳にまで届くほど裂けた唇と同じく、生臭さを感じさせる赤っぽい色であった。そして、下腹部の陰毛は髪の毛とは全く違う漆黒の存在感を青の皮膚の上で示していた――

 20×6年8月4日に発生、通称「Y市連続殺人事件」の犯人、『殺戮者』が ”8月の死者たち” に姿を現した瞬間であった。

 『殺戮者』はゆっくりと顔を上げた。獲物を定めたかのように爛々と黄色く輝く、ギョロギョロとした両の瞳。赤い唇は上に向かってめくり上げるかのように動いた。『殺戮者』は笑っているのだ。
 ”先の3人”だけではなく、これから自分が行う殺戮行為に対して舌なめずりをするかのように――

 新田野夫妻の妻、唯の手からワイングラスが滑り、床で砕け散った。食堂内は、誰の口から出たのか分からない悲鳴が協奏曲を奏で、瞬く間に伝染していった。

 外にいる『殺戮者』は、その状況にさらに火を注ぎ入れるかのように、手にある肌色の棒を食堂に向かって投げた。

 すさまじい音でガラスは砕き散らばらせたその肌色の棒は、壁にバウンドした後、白いテーブルクロスの上に着地した。
 その白いテーブルクロスの上で、その肌色の棒――切断された人間の手はまるで助けを求めるかのように宙を掴んでいた。

 切断面には人体の赤っぽい組織がグチャグチャに付着していた。そして、切断面からまだわずかに滲み出ている血は、白いテーブルクロスにまるでガーゼのように浸み込んでいき始め――
 
 さらに大きくなる悲鳴の協奏曲のなか、自身でも気丈だとこの日までは信じていた由真ですら、目の前のこの光景に自分と同じくガクガクと震えている真理恵と抱き合い、声にならない声をあげ続けずにはいられなかった。
 だが、自身の叫び声を押さえようと、唇をギュっと結んだ由真はハッと気づいた。
――あ、あの手の薬指にある指輪は……まさか――!
「いやああっ!」
 由真の腕の中で悲痛な叫び声をあげた真理恵も、その指輪、いやその小麦色に焼け血管の浮き出た逞しい左腕の持ち主が誰であったのかがすぐに分かったのだろう。ここにいる誰よりも彼女はその腕の持ち主を知っていたのだから。
「姉さん!」
「お嬢さん!」
 その場に崩れ落ちそうになった真理恵の元に、白鳥学が駆け付けた。
「姉さん、しっかりして!」
「そんな、そんな、嫌よ、嫌よぉっ……」
――やっぱり”あれ”は義兄さんのだ。義兄さんの腕だ。義兄さんは殺されたんだ!
 由真は今にも気を失いそうな真理恵を抱き止め、支えた。だが由真自身も誰かに支えてもらわないと、いや誰かに、自分が体感しているこの光景が「悪夢の中の出来事」であると言ってもらわなければ、今にも倒れてしまいそうであった。
 けれども、自分の身に伝わる真理恵の震えと、自分が真理恵の身に伝えている震えが、この光景が現実のものであるとの何よりの証明であった。

 外にいる女――『殺戮者』は、自分が引き起こした阿鼻叫喚の図に満足したように再び口の端を耳へと近づけた。そして踵を返し、駆けていった。満月の夜の暗闇の中に、『殺戮者』の全身を包んでいる青の皮膚は溶けゆき、やがて見えなくなった。

 駒川汐里と鈴木梨緒の泣き叫ぶ声、テーブルの上に滝正志の吐瀉物が落ちる音。肥後史彰は口をパクパクとさせ、先ほどと同じ体勢のまま床に尻餅をついていた。腰が抜けて立てなかった。深田季実子は「准さん! 准さん! どこにいるの?!」と、多賀准一の名を呼びながら厨房から飛び出した。新田野道行と新田野唯は、互いの手を取って椅子から立ち上がった。
「皆さん! 落ち着いてください! 今、警察を呼びます! 落ち着いてください!」と、この場を少しでも沈めようとする白鳥学の声すら裏返っていた。
「警察なんかよりも、銃か何かは置いてないのか?」
「ここはアメリカじゃないんだ! あるわけないだろ!」
「嫌よ! 何なの、あれ!」
 正志、道行、梨緒の声が、大きく食堂に響いた。
 呼吸を整えた史彰がよろよろと立ち上がろうとしたが、白いテーブルクロスから生えている腕を見て、再び腰を抜かしズデンと尻餅を着いた。彼の股間は縮み、わずかに濡れた。新田野道行は財布と携帯だけを手に「唯! 早く!」と妻の手を引っ張り、一目散に玄関へと駆けていく。
「お客様! 外は危険です!」
 学の声に道行が振り返って、吠えるように叫んだ。
「”あれ”がこのペンションの中に入ってきたら、どうなるんだ?! こんなぼろいペンションなんて、すぐに破られるぞ! ”あれ”が姿を消した今なら、車で町まで逃げられる!」
「あんなの、人間じゃないわよ!」
 唯が泣き声で、喚いた。足元をふらつかせた唯の肩を道行が抱いた。彼らの言葉に我に返ったかのように、正志、梨緒、汐里も玄関へと駆けていく。彼女たちの後ろには、季実子も「准さん! 准さん!」と叫びながら続いた。
 
 道行は玄関付近に備え付けらえていた消火器を握りしめた。
 今から、この玄関を開けて、今自分に続いている全員で一斉に外へと出る。自分は緊張状態には強いと子供の頃より思っていた道行であったが、かつてないくらい心臓のリズムは早くなり、口の中は一気にカラカラになっていた。
 道行の後ろより、唯が「……道行」と不安げな声を出し、彼の背中に手を置いた。唯のその手が震えていることが、道行には痛いくらい分かった。道行は振り返り、「心配するな」と声には出さずに唯を安心させるためにゆっくりと頷いた。
 振り返った際、彼の視界には唯だけでなく、恐怖で極限まで引き攣った顔の3人の大学生と、呪文のように「准さん、准さん」と呟き続けている、厨房にいた中年女性、そして足元をよろつかせながらこちらに駆けてくる、1人で食事をしていた30半ばぐらいの中背中肉の男性客の姿が映った。
 道行に顔を近づけた唯が声を絞り出すように言った。
「……私が玄関を開けるわ……道行だけに危険なことなんてさせられない……」

 深く長い深呼吸をした新田野唯が思い切って玄関の扉を開け、新田野道行が手の消火器を外に向かってブンッと勢いよく振り回した。玄関の上に備え付けられた鈴の音が、この時ばかりは鳴らさなくてもいい忌々しい音を立てた。
 だが、満月だけが照らしている外の闇にはあの化け物はいなかった。緊張と恐怖がもたらした静寂の中で虫の音ばかりが響いていた。
「行くぞ!」
 消火器を投げ捨てた道行の声を合図としたかのように、皆、外にダッと駆けていく。
 汐里も、痙攣し感覚が分からなくなっている脚で何とか、自分が運転してきた車の近くまでたどり着いた。
 梨緒の「汐里、早く!」という声に、汐里は車のキーを入れているポケットに手を入れた。だが、彼女の手は狭いポケットの中でチグハグにもどかしく動いた。なんとか、車のキーを取り出した汐里であったが、汗ばみ震える手からそれは地面へと落下した。
――やだっ、なんでこんな時に!
 即座に地面にしゃがみこみ、両手を使い手探りで探す汐里であったが、まるで車のキーは地面に飲み込まれた如く、彼女の手は地面の上を虚しく滑り続けるだけであった。
「何やってんのよ!」
「早くしろよ!」
 梨緒と正志の苛立ちと焦り、そして何よりも恐怖を含んだ罵声が、汐里の頭上で飛び交う。
――私だって、頑張ってるのよ! 責めないでよ!
 汐里はしゃくりあげながら、乾いた地面に、両手をもう一度滑らした。その時、近くに止めていた新田野夫妻の車のエンジンがかかった音が聞こえた。
 梨緒と正志が即座に振り返った。そして、2人は手をつなぎあい、汐里のことなど振り返りもせず、そちらへ駆けて行ったのだ。
「俺たちもそっちに乗せてください!」
「分かった! 早く乗れ!」
 道行が正志たちに手で合図をした。そして、無情にもバタンとドアが閉まる音。
 鍵を探し続けていた汐里の手は止まった。地面に尻を落とし俯きしゃくりあげる、汐里の涙がボタボタと地面に落ちていった。
――もう、このまま死んじゃった方が楽かもしれない……
 自分の前で、しかも命の危機が猛烈に迫っているこの時に、自分の恋人と親友の裏切りを(ずっと前から分かってはいたものの)目の当たりにした。そのうえ、彼らは自分のことを置いて逃げた。
 「生きる」ことを諦めかけた汐里であったが、車のキーを目の前にかざされた。
「ほら、見つかったぞ! 早く車に乗って逃げよう!」
 肥後史彰だった。史彰は汐里の背中を叩いた。史彰は、虚ろな目で「准さん、准さん」とフラフラしている深田季実子に向かって叫んだ。
「おばさん! おばさんも早くこの車に……」
 よろめいていた季実子の足が突如、ピタリと止まった。そして、彼女の口からは甲高く長い絶叫が発せられた。
 季実子の視線の先にあったのは、首と胴体を千切られた多賀准一とうつ伏せの状態で血だらけとなって地面に倒れ伏している笹山之浩であった。
 酸鼻を極めるその光景に、史彰も汐里も「ヒイッ!」と喉を鳴らし、目を逸らした。
「准さん! 准さんん! 准さんんん!」
 季実子の悲痛な叫び。血まみれの准一に駆け寄った季実子は、彼の首を抱き上げ「わあああ――」と絶叫し、史彰が「おばさん!」と呼ぶ声にも振り返らず、先ほどあの『殺戮者』が姿を消した闇の中へと走っていった。
「……もう……駄目だ……」
 史彰が声を絞り出すように言った。だが、その時だった。かすかな呻き声が聞こえた。
 笹山之浩の血に染まった頭部がわずかに動いた。之浩はまだ生きていたのだ。
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