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第3章

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 事件から、6年。
――なぜ”あの時”、俺たちは殺されなかったんだ?
 肥後史彰は毎日、確かに今ここに生きている自分の両手を見て考えていた。彼のかさついた骨の太い手は、6年の月日を刻んでいた。
 史彰はあの夜のことは、昨日のことどころか、わずか数時間前のことのようにはっきりと思い出せる。
 あの時、あの道路にて、あの化け物『殺戮者』は、史彰が運転する車に向かって身構えていた。逆走するためにブレーキをかけることもおそらく間に合わない距離であり、そして『殺戮者』を跳ね飛ばすために、アクセルを踏むとカーブを曲がり切れず間違いなく崖下に真っ逆さまとなるという、究極の選択を迫られる事態であった。
 だが、車に乗っているのは自分1人ではない。怯えきっている1人の女の子と明らかに生死にかかわる重傷を負っている男性もりう。呻きながら血を吐き続ける男性を病院へ運び、残る人々を助けるために警察に通報しなければならない。
 吹き出ている汗でヌルヌルと滑るハンドルを握った史彰は決断し、脚を”ブレーキ”の上に乗せた。”あの化け物がこの車の上に乗っかってきたら、ハンドルをさばいて振り落としてやる、逃げることよりも病院へと後ろの人を運ぶことを――!”と、かつてないほど苦く不快感のある唾を飲み込んだ史彰の運転する車は徐々に『殺戮者』へと近づいていった。車のヘッドライトに照らされる『殺戮者』の不気味で醜い肢体に、史彰も喉から声になっていない悲鳴を発し、後部座席の汐里も迫りくる「死」に泣き叫んだ。
 だが――
 『殺戮者』は思いもよらぬ行動を見せたのだ。自分に突進してくる車をよけるように右へとカーブを描いた。そして、車の中をチラリと一瞥したのち、まっすぐに道路を駆け上がっていった。そう、「ぺんしょん えくぼ」へと向かって。
「なぜだ?」
 バッグミラーでその姿を確認した史彰は思わず、呟いていた。後部座席の汐里もしゃくりあげながら手の甲で涙をぬぐい、小さくなっていく化け物の後ろ姿を見ていた。自分たちに向かってくると思っていた『殺戮者』は、自分たちには興味を示さなかった。
 笹山之浩の苦し気な呻き声に、史彰は我に返ってアクセルを踏んだ。
――この人を早く、病院へと運ぼう。それに……ペンションにはまだ人が残っているんだ……あの化け物はその人たちを襲う気だ……助けを呼ばなければ……! 
 史彰と汐里は、『殺戮者』の死の刃から逃れ、病院へ之浩を運んだ。そして、史彰と汐里が2人で病院関係者や警察に化け物が現れたという事実を必死で説明し、数台のパトカーがペンションへと救助に向かった。その夜の11時半を過ぎた頃、救命中であった笹山之浩の死亡を聞かされた。彼の死因は出血性ショック死であったとのことだった。 
 そして、数台のパトカーが救助へ向かったものの、ペンション内にて生きて残っていた八窪由真、八窪真理恵、白鳥学、根室ルイの4人のうち、命が助かったのはただ1人八窪由真だけであった。厨房の男性――多賀准一の頭部を抱えて闇の中へと消えていった女性、深田季実子も、他殺体で発見された。そして、自分たちより先に逃げた1台目の車に乗っていた新田野道行、新田野唯、滝正志、鈴木梨緒は『殺戮者』に襲撃され、全員死亡している。
 あの夜から6年もたった今も、史彰はあの夜に響いた悲鳴、崖下に落ち炎上する車の炎を背景に立つ『殺戮者』、そして車の後部座席で呻いていた笹山之浩のことは、ことさら忘れることはできなかった。
 史彰は自分の両手を再び見つめ、ギュっと目をつぶった。
――俺は生きている。俺は今、確かに生きている……だが、あの山道の道路で、あの化け物は、確かに俺たちを見ていた。あの不気味な目でしっかりと俺たちを見ていた。気が付かなかったことなんて、あり得ない。俺たちのことはきちんと認識していたはずだ。なぜ、襲い掛かってこなかったんだ?
 『殺戮者』が慈悲によって、自分たちを見逃したわけでないことは理解できた。史彰の中に重く沈殿して残り続けていたのは、自分は助かったという罪悪感と、『殺戮者』により与えられた生涯消えることのない恐怖とこの疑問であった。

 事件後、乱雑なアパートを引き払い、両親の住む実家に戻った史彰は、がむしゃらに働いた。事件前は「正社員」にこだわり、求職活動をしていたが、アルバイトでもパートでも時間を埋めるために、すなわち事件のことを思い出す時間を少しでも少なくするために働きつづけた。10才以上年下のアルバイトにこき使われたり、パートの女性間の人間関係がギスギスしている職場だってあった。仕事で精神も肉体も疲労させれば、事件の夜のことを思い出さずにすむ、夜も眠る前に悪夢の再生をしなくてもすむ、こうして彼は事件の日から月日を積み重ねていった。
 だが、夜中に見る悪夢は決まってあの事件ものであった。夢の中の史彰は、あの時と同じく車のハンドルを握っていた。だが、あの時のように車は動かせなかった。まるでパンクでもしているかのように……そして、”あいつ”は舌なめずりをしながら近づいてくる……!
 夜中に悲鳴をあげて、飛び起きたことは一度や二度ではなかった。その度、60過ぎた母親が自分の部屋のドアを開け、とうに30を過ぎた息子の頭を撫でてくれた。
――なんでだよ、なんで俺はこんな目に遭わなきゃいけないんだ。リストラされ、求職活動の息抜きに”ただ偶然”行き先に選んだペンションであんな事件に巻き込まれるなんて、泣きっ面に蜂どころか、泣きっ面に毒蛇にでも噛まれたようなもんだよ。その毒蛇の毒は体内に完全に回り、俺が死ぬまで消えやしないんだ……俺が一体、何をしたっていうんだ……!
 史彰は頭を掻き毟った。あの『殺戮者』の顔も、犠牲者たちの顔も生々しく蘇ってくるのだ。あの事件に巻き込まれなければ、史彰はペンションで出会った人達の顔などとうに忘れ、名前を知る機会もなかっただろう。

 肥後史彰とは対照的に、駒川汐里は旧知の仲であった人物を2人失った。鈴木梨緒と滝正志。”表向き”は、彼女の親友と恋人であった。一緒に旅行に行った親友と彼氏が死んだのに、自分一人だけが生き残った。
 梨緒と正志を見捨てて逃げたんじゃないか、自分1人だけ助かろうとしたんじゃないか、という心無い噂が学内で流れ、汐里の耳にも飛び込んできた。また、梨緒と正志の秘められた関係を知っていた者は、汐里が思っていたよりも多く「きっと自分の苦しみを思い知らせるために復讐のつもりで見捨てたんだよ」という者もいたらしかった。だが、汐里をかばってくれる学生もいた。「その場にいたわけでもないのに、推測でものを言うなって」「汐里がそんな子じゃないの分かってるでしょ」と。
 必要な事務手続きがあり、マスクで顔を隠し人目を避けるように大学の事務棟に行った時、あの日、愛犬の突然の死により、1人だけ先に帰った桜井朋貴に会った。彼の「あの、駒川さん……俺、一体なんて言っていいのか……」という言葉にも、汐里はマスクの下で力ない笑みを返し、何も言わずにその場を逃げるように去るしかできなかった。
 汐里は1・2回生の時に集中して単位を取得していたのと、卒論の準備も早めにし事件前には80パーセントほどは完成していたため、なんとか大学を卒業することはできた。だが、卒業式には出席しなかった。内定をもらっていた第一志望の会社にも辞退を申し出て、四国の実家へと戻った。
――なんで、私、生き残っちゃったんだろう……
 汐里は懐かしい匂いのする実家の部屋にかかっている鏡に映る自分の顔を見つめて考えた。まるで死人のような顔色をしている自分の顔を。
 梨緒と正志は自分のことを裏切り続けていた。そして、2人が自分を見捨てて逃げた。だからといって、汐里は2人の死をいい気味などと思えるわけがなかった。
 1人でポツンとしていた自分に声をかけてくれた梨緒の人懐っこい笑顔、正志に告白された時の胸の高鳴りや、彼女たちと一緒に参加した数々のイベントでの楽しい思い出もたくさんあった。正志が自分と別れ、梨緒と付き合いだしたとしても、生きていれば……全員が生きてさえいれば、何十年かたったのち、そんなこともあったわね、と青春時代に刻まれた”浅い”傷として思い出せることができたかもしれない。
 実家へと帰った汐里も、史彰と同じく、事件のことを考える時間を少しでも持たないために家の近所のディスカウントストアでアルバイトをしていた。けれども、周りの者たちは汐里を放っておいてくれなかった。
 汐里と史彰の実名は、ニュースにて報道されていなかった。22才女性と32才男性との報道だけであった。だが、ネットで大学名で立っていた掲示板のスレッドに自分のことが書かれていたらしい。実名こそ書かれていないが、知っている人が見たら明らかに特定ができる書き込みだったそうだ。
 それからの汐里がどんな目で世間から見られるようになったのかは思い出したくもない。ついに汐里だけでなく、家族全員でその町を離れることとなった。父親は定年間近だった仕事を退職した。まだ、学生だった弟と妹も、転校することになった。引っ越しの日、家族全員に謝る汐里であったが、母親は何も言わず、ただ汐里を抱きしめてくれた。
 家族全員で新たな土地で再出発を――と思っていた汐里であったが、偶然越してきた町のスーパーマーケットで肥後史彰とすれ違った。汐里だけでなく、史彰も息が止まるほど驚いていた。
 同じ事件の生存者として、汐里は史彰と連絡を取り合うようになった。
 そして――


 今日、20▲2年8月3日。
 6年前は「Y市連続殺人事件」の被害者たちも皆、生きていた8月3日という日。
 由真の自宅の八窪真理恵の霊前に、肥後史彰と駒川汐里が手を合わせている。史彰は38才に、汐里は28才になっていた。
 今日の昼間、レストランを訪ねてきた彼らは、真理恵の霊前に手を合わせたいと由真に申し出た。
 真理恵の霊前で、彼らは長い間、黙ったまま目を閉じ、手を合わせていた。
 由真は思う。
――あの夜、「死者」と「生者」に運命は別れてしまった……あの化け物に嬲られるように痛めつけられた自分とは違って、この人達はほぼ無傷で助かったと聞いているわ。でも、この人達も私と同じく「生者」ではあるけど「死者」でもあるんだわ。あの8月4日、確かに生き残った私たち。そして、今も生きている。でも、きっと、心は殺されてしまったんだ……
 長い沈黙の後、史彰が由真に振り返った。
「お忙しいなか……それも、お仕事中に訪ねて申し訳ございませんでした。近くのレストランで働いていらっしゃるという情報をネットで見ましたので、思い切って訪ねたんです」
 史彰はまっすぐに由真の目を見ていた。彼の傍らでは、同じく振り返った汐里が目頭を押さえていた。
「……いいえ、わざわざご足労いただき、こうして、手を合わせてもらえるなんて、姉もきっと喜んでいるはずです」
 由真の言葉に口元をほんの少しだけゆるませた史彰は続ける。
「正直、僕たちは何度も事件のことを忘れようとしました。生き残ったんだ、とそう思って……でも、目をそらしては生きてはいけない。僕たち2人も事件を背負い続けて、これからずっと生きていくつもりです」
 汐里も史彰の隣で頷いた。
 肥後史彰にとって、事件の犠牲者たちは単なる現実逃避のつもりで訪れた先で出会った、事件が起こらなければ二度と出会うことのない人であったろう。駒川汐里にとって、犠牲者のうちの2人は旧知の知り合いであり、自分だけ生き残ったことで、彼女は故郷と大学の友人の大半を失ってもいた。
 スーパーマーケットで偶然出会った彼らは、互いに知らぬ振りもできず、連絡先を交換し、時々会っていた。それは互いの生存報告であったのかもしれない。あの夜、同じ車に乗っていて生き残った者同士としての。
 今、史彰と汐里のそれぞれの左手の薬指に同じ指輪を身に着けている。彼らは互いに外見は異性として好みというわけではなかったし、普通の恋人同士にあるような甘い時間なども持たなかった、いや持てなかった。男女の愛による結びつきではないかもしれない。ただ、これから先の、”長過ぎる”人生をともに重きものを背負って歩んでいけるのは、彼女(彼)しかいない”と、互いにそう思ったのであった。
 史彰たちは約2週間前より、アパートで暮らし始めており、結婚式は挙げず、来月に入籍だけを行う予定となっていた。肥後史彰も”肥後”汐里もこれから先の人生、日本の片隅でひっそりと暮らし、静かに時を重ねていくのだ。
 だが、あの夜、なぜ自分たちが助かったのかという疑問は、解決することはない。彼らがそれぞれつらい境遇の中にいたことや、他者を思いやることができる性格であったことや、その日頃の心がけなどは命が助かったことには何も関係はなかった。ただ、彼らが乗っていたあの車の中には『殺戮者』の真の狙いであった人物は乗っていなかった。『殺戮者』の殺意を惹きつけることのない「安全地帯」にいたというだけで自分たちの命は助かったということを、彼らは知ることはないのだ。


 玄関先で、由真は史彰と汐里の後ろ姿をずっと見つめていた。彼らは何も言わなかったが、彼らの左手の薬指にある揃いの指輪には、由真は気づいていた。彼らに会うのもこれでおそらく最後だろうとも思っていた。
 突如、彼らは同時に振り返り、由真に頭を下げた。由真も彼らに向かって、深々と頭を下げた。

 家の中に戻った由真は、真理恵の遺影をそっと手にとった。やわらかな微笑みを浮かべている真理恵の遺影の隣には、真理恵と瓜二つともいえる彼女の産みの母・鈴恵の写真が時代を感じさせる色味を持って、そこにあった。
 由真がこの家に引き取られた時分に、鈴恵の遺影はそこにあった。
 彼女の娘である真理恵でなく愛人の娘であった自分が助かったこと。そのことを思うと、由真はもう20年以上前に、鬼籍に入った八窪鈴恵に謝りたおしたくなってくる。
――ごめんなさい……
 由真はその場に座り込み、顔を覆った。先ほどまで、この家にいた肥後史彰と駒川汐里の、自分と同じく6年の月日を刻んだ顔を思い出す。
 そして……今日見たあの夢。
 由真は仰向けで川の中を流れていた。息苦しさは全く感じず、川岸の光景は鮮明ありありとに見えていた。そう、川岸に立っている人々がいたことも、しっかりと。
 夢の中では由真はその人々の足元しか見えなかった。けれども、今こうして、涙に濡れる瞳の中では、由真は全員の顔まで見えるような気がした。多賀准一、鈴木梨緒、滝正志、新田野道行、新田野唯、深田季実子、根室ルイ、白鳥学、笹山之浩、そして……真理恵。
 これから不吉なことが起こる前触れのような夢だと、目が覚めた時は感じていたが、今はあの夢を思い出し、苦しみしか感じなかった。
 由真が苦しんでいるのと同じく、同じ生存者である肥後史彰と駒川汐里も、犠牲者たちの遺族や親しい人々も、愛する者を悲惨な事件で亡くしたということに、その心の時は止まり、ずっとずっと苦しんでいるのだ。
 それに、あの夜、由真の父・卓蔵も脳出血を起こし倒れ、きっと由真のことすらもう分からないまま、ずっと病院のベッドの上にいる。卓蔵と一緒にいた彼の部下・仲吉浩太は事件後、すぐに退社し、今は県内の別の会社(Y市より遠く離れた)に勤務している。白鳥学と同い年の彼は、今年34才になる。半年に1回くらい、卓蔵の見舞いに浩太は訪れてくれていた。彼も警察の事情聴取に由真や史彰、汐里たちと同じく、信じろという方が無理かもしれないが『殺戮者』のことを伝えていた。しかも、彼はその『殺戮者』を連れていったと思われる、不審な車のことまで警察に伝えていたらしかった。
 だが、悪夢の産物であるかのような、あの『殺戮者』につながる重要な手がかりは6年たった今も何もつかめていないのだ。幽霊などではなく、あいつは確かに存在しており、10人もの人間をその手に殺め、または死に追いやったのに。
 得体のしれない恐怖と謎につつまれたこの事件は、あの8月の死者たちへの興味と謎、そして残酷さだけが、今もなお世間に残り続けている。
 由真は涙をぬぐい、パンツにいつも忍ばせているナイフを手にとった。こんな小さなナイフで、しかも小柄な自分が、あの化け物に勝つことなどは誰が見ても不可能だと思うかもしれない。
――でも、今なら”あいつ”を殺せるかもしれない、姉さんの仇を打てるかもしれない」と、悲しみと苦しみから生まれる怒りで手を震わせてる、今なら……!
 由真はナイフをパチンと鳴らした。
――そう、そう思っているのは、きっと私だけじゃない……きっと、”あの人”も……


 由真が仏壇の前で座り込んでいたちょうど、その頃――
 客足が途絶えたレストランのスタッフルームで、富士野七海は椅子に座り、休憩時間と称し、今朝コンビニで買ったチョコレートバーにかぶりついていた。その彼女の姿を見た、高藤永吾がクスッと笑った。 
「富士野さんって、休憩時間、いっつも何か食べてるよね」
 永吾の言葉に七海は顔を赤くした。そして、太さを気にしている白いふくらはぎを隠すかのように手で押さえた。
「動いたら、おなかがすくんです! 生命維持のために食べているです!」と永吾にふくれてみせた。生理中なんで甘いもの欲しいんです、とはさすがに異性である彼には言わなかった。
 七海は肥満体ではないが、スレンダーな由真と並ぶと、七海の方が身長が高いことを差し引いても、1.2倍くらいに見えた。大学のキャンパスを歩くスリムな女の子たちや、引き締まった由真の体つきを見るたび、七海は「ダイエットしなきゃ」と決意していたが、その意志を継続させることは難しかった。親元を離れ一人暮らしを始めてから、何かを埋めるかのように、暇があれば甘いものを口に運んでいることが増えていた。
 つい先ほども永吾に指摘され、恥ずかしい思いをしたが、七海は目の前のチョコレートバーを我慢できず、再びかぶりついた。
「そういえば」という永吾の声に、七海は口の端にチョコをつけたまま顔を上げた。
「店長のところに来たあの人達って、あの事件で生き残った人たちなんだってね」
 七海は頷く。
「そうですよね。ビックリしちゃいました。一番ビックリしていたのは、店長だったと思いますけど……」
 七海は思い出す。やや骨太な印象を与える男性と、その男性とそう背の変わらぬ瓜実顔の女性。あの2人の姿を見た由真が、トレイの上にあった食器を全て落とすほど動揺していたことを。慌ててかがみこみ、砕け散った食器を片づけようとしていた由真の手は震えていた。彼女の姿を見た七海は、「私が片づけておきますから」と由真に伝えたのだった。
 おそらくあの後、由真はあの2人を自分の自宅へと連れていったのだと七海は推測していた。
「店長のお姉さん、殺されたんですよね。あの夏、私まだ中学1年生でしたよ」
「俺は通っていた大学であの事件が話題になってたこと覚えてるよ。蘇った山姥に殺されたんじゃないかって、馬鹿なこと言ってる奴もいたなあ。まあ、人間の手ではありえない殺され方だったらしいけど……6年たった今も犯人が捕まってないなんて、遺族の人たちは毎日たまらないだろうね」
「……お姉さん、綺麗な人でしたね」
 ここのアルバイトに採用された時、七海はつい興味本位で事件をネットで検索した。そこで、真理恵の写真ならびに他の被害者たちの写真を見た。そして、事件の詳しい概要(殺されたらしい順番と遺体の惨状)も読んでしまった。
 七海のその言葉に永吾は首をかしげた。
「うーん、どうかな。年上だったし好みのタイプじゃなかったから、当時も写真を見ても何とも思わなかったな。他の殺された人たちに至っては、顔も名前ももう覚えていないし。生前に関わりがあったわけじゃないからね」
「……まあ、そうですよね。殺人事件なんて、毎日起こってるし、よっぽど自分にとって忘れられない事件でなかったり、自分が被害者にならない限りは忘れてしまいますよね……」
 自分の言葉に自分で頷いた七海は、チョコレートバーをもう一口サクッと齧った。
「あのう、高藤さんにとって忘れられない事件ってありますか?」
「……そうだね。確か7年か、8年くらい前にX市で起こったストーカーの高校生が同級生の家族を殺した事件かな」
「え……なにそれ、怖い。そんな事件あったんですか? 男子高生が女子高生の家族を殺しちゃったんですか?」
 永吾は顔の前で手をヒラヒラと振った。
「いやいや、違う、逆だよ。女子高生が男子高生のお母さんと2人の弟を殺したんだよ」
 黙ったままの七海に永吾がX市で起こった、その殺人事件のさわりをサラッと説明した。
「追い詰められた女子高生は、地元の人とかが見ている前で川に飛び込んだけど、遺体は発見されなかった。でも、1年以上たってから、その飛び込んだ川で女子高生の溺死体が発見されたんだよ。いろいろと謎があり過ぎる事件だけど、俺は正直加害者よりも被害者に興味が湧いたよ。殺された2人の弟たち、目線入りの写真が流されていた兄ほどじゃあなさそうだったけど、結構可愛かったし。生きていたら2人とも小学生だったろうね。兄の引き起こしたトラブルでとばっちりを受けて殺されたなんて、本当にかわいそうだったよ」
 七海の食欲が急速に下がっていった。そんな七海に気づかず、永吾はなおも話を続けた。
「事件の引き金となった男子高生なんだけど、転校先でまた事件に巻き込まれたって噂もネット上にあってさ……高校教師が自分の妹とともに、自分のクラスの金持ちの女子高生の身代金殺人を企てていて、その監禁現場に知り合いの作家だか漫画家だかと鉢合せたそうだし」
「うわあ……悲惨。何か事件を引き寄せる体質というか、事件に魅入られてますね……」
 七海は手の内のチョコレートバーが、自分の手の熱で柔らかくなりかけていることを感じていたが、自分の知らなかった事件を永吾から聞かされ、真夏なのに足元からスウッと冷えていき始めていた。そして、つい頓珍漢な言葉をチョコのついた唇から出してしまった。
「……この世って、もしかしたら怖いところなのかも? ネガティブすぎる考えだと思いますけど、この世に生まれたってことは、すでに様々な危険をはらんでいる地帯に足を踏み入れたことになるんじゃ……」
「確かに、まあ怖いところだよね。善も悪も、幸運も不運も、いつ何時、表が裏に、裏が表になるとは限らないよね。一見、見た目や人当りはよくても、異常な性癖を持っていたり、人の皮をかぶった悪魔みたいな奴もいると思うし」
 七海はその永吾の考えに、ほんの少しだけ反論するかのように言う。
「そんなサイコパスみたいな奴は、見た目好青年風でも、ヤバいシグナルっていうか、雰囲気を発しているじゃないですか。私は結構、女の勘が鋭い方なんで、そんな奴には最初から近寄らないようにしますよ」
「女の勘ねえ……」
 永吾がクスッと笑った。
「本当ですよ。だって、最近、このあたりをウロウロしているホームレスいるじゃないですか? 夏なのに腕を隠すように長袖着ている、あのホームレス。あの人、見るからに目つきがヤバいですもん……何か、人でも殺しかねないくらいギンギンに光ってますし……それに時々、レストランの中を覗きこんでるんですよ。襲われたらどうしよう……」
 七海は自分を守るように、両手で自分の両腕をギュっと抱きしめた。永吾は今度はアハハと笑った。七海の顔はカアッと赤くなる。
「分かってますよ。自意識過剰だって。それに、店長と私とが並んでいたら、男の人は店長の方を選ぶってことも。店長の方が美人だし、スタイルいいし……」
 またしても、永吾は手を顔の前でヒラヒラさせながら言った。
「……いやいや、そういう意味で笑ったんじゃないって……まあ、用心するにこしたことないと思うよ。女も男もね……」
 そして、永吾は「厨房の手伝いをしてくる」と七海の前を離れた。またしても、シクシクと痛み出した下腹部を押さえた七海は、「店長はいつぐらいに戻ってくるんだろう?」と考えながら、エプロンに食べかけのチョコレートバーをしまい、椅子から立ち上がった。
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