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Episode8 閲覧注意! Gにまつわるオムニバス”女子”ホラー3品
Episode8-A 本は大切にしよう
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1
もともと嫌いな同僚を、さらに嫌いになってしまったのは、とある朝の事件がきっかけであった。
朝、会社の女子ロッカー室で制服に着替え終えたばかりの魚住陽南(うおずみひな)は、隣接する給湯室からのただならぬ悲鳴を聞いた。
いったい何事?
同じく着替え終えたばかりの二才年上の同僚・滝沢夏南(たきざわかな)と顔を見合わせ、給湯室へと駆けつける。
陽南と滝沢さんが見た光景。
それはなんてことない”あいつ”だった。
床の上をシャカシャカと這いまわるゴキブリに、キャーキャーキャーと悲鳴をあげて数人の女子社員が逃げまどっていた。
女子とは言っても、全員二十歳はとっくに超え、四十路をも超えていた者だって中にはいたも、皆、恐怖に引き攣った顔で逃げまどっていた。
だが、陽南と傍らの滝沢さんは「なんだ、ゴキブリか」と至って冷静だ。
それよりも、結構なビックサイズとはいえ、たかがゴキブリ一匹によって生じたうるさい悲鳴の方が朝っぱらから公害だと陽南は思わずにはいられない。
倉庫から廃新聞紙を持ってきた陽南は、それを筒状に丸め、振り下ろした。
パァンと一撃。
一切、手加減はしない。
タイミングを逃すことなく、一発で潰す。
それは奴らに対する慈悲でもあった。
しかし、いくら奴らが平気な陽南とはいえ、さすがにその死骸を素手で掴むことには躊躇せざるを得ない。
いつも気を利かせてくれる滝沢さんが、幾枚かのいらないビニール袋を持ってきてくれた。
陽南はそのビニール袋を手袋代わりにし、ゴキブリの死骸を新聞紙にくるんだ。
これにて、ひとまず駆除完了。
ギスギスしているうえ気分屋のお局様からも「ありがとう。勇気あるのね」と労いの言葉が、そして今年入社したばかりのピチピチの新人ちゃんからも「すごいです、魚住さん。かっこいい」との賞賛の言葉をもらった陽南。
しかし、たった一人だけ違う反応を示す者がいた。
「なんで? なんで、魚住さんはゴキブリが平気なんですか?」
同期入社の根本(ねもと)さんだけが目を丸くしていた。
「……単なるゴキブリだし。私、こういうことには慣れているから」
それは事実だ。
陽南が小学校四年生の時に両親は離婚し、陽南は父親に引き取られた。
家政婦を雇う金銭的余裕などあるわけもなく、料理含めた家事はまだ子供だった陽南が受け持つことに。家の中で、ゴキブリ出現率が最も高いであろうキッチンは、陽南の領域となった。
清潔にしていても、忘れた頃にどこからか這い出てくるあいつらの駆除は、仕事から帰ってくる父を待ってお願いするなんて、悠長な対応をしている場合じゃないのだ。
遭遇した時に仕留める、それが鉄則だ。
けれども、根本さんは陽南の「慣れているから」という言葉だけを受け取り、それに尾びれ背びれを付けて、ピーチクパーチクと他部署の人たちにも広め始めたのだ。
「朝、給湯室に物凄い大きなゴキブリが出没して……私たち女の子は皆、怖くて動けなかったんだけど、魚住さんだけは平気な顔で退治していたんですよ。聞いたら、魚住さんはゴキブリに慣れているって……魚住さんの家には、どれだけゴキブリがたくさん出るんでしょうね(笑)」
ゴキブリ退治が平気で慣れている。
ということは、ゴキブリに頻繁に遭遇する。
結論、魚住陽南はゴキブリだらけの家に住んでいる。
事実無根だ。
陽南が高校卒業後に父が再婚したため、現在は一人暮らしであるも、家事能力のみならず整理整頓能力も上げざるを得なかった陽南の家は汚部屋などでは断じてない。
幸運にも、話を聞かされた周りの者たちは大人な対応をしてくれているらしかった。
「え? 一人でゴキブリ退治できる女って頼もしいじゃん」と言った他部署の男性社員もいたらしい。
そして、陽南と同じ部署で一番仲が良い滝沢さんも「私、魚住さんの家に行ったことあるけど、綺麗に片付いてたし。汚部屋なんかじゃなかったけど」などと加勢してくれた。
「でもぉ、ゴキブリが平気だなんて、魚住さんはおかしいですよ。しかも、女なのに。だって、ゴキブリですよ。ゴ・キ・ブ・リ(笑)」
陽南は、根本さんのこういうところが前から嫌いだった。
はた迷惑なお喋り雀であるだけでなく、幼稚というか、視野が狭いというか、柔軟性に欠けるというか、自分と違う感じ方や考え方の者をガンとして認めないのだ。
ゴキブリのことだけでない。
根本さんは、今年、結成十周年を迎えた五人組の男性アイドルグループ『渦巻』(うずまき)の大ファンだ。
我が部署の最年長女子(?)で独身のお局様・春日(かすが)さんも彼らのコアなファンで、昼休みにはよく彼らの話で盛り上がっている。
「『渦巻』が嫌いな人、興味ない人がいるなんて信じられませんよね。まさに人類史上、最強のアイドルグループといっても過言ではないですよ!」
確かに『渦巻』は、アイドルなんてものに全く興味のない陽南ですら、五人全員の顔と名前が一致するぐらいだから、知名度は相当なものだろう。
けれども、どれほどの人気グループにもファンもいればアンチもいるし、何の興味も抱くことがない人だっているというのに。
ゴキブリの件も合わさり、陽南はますます根本さんが嫌いになっていった。
2
件のゴキブリ騒ぎから、二週間ほど経過した朝のことだ。
またしても給湯室から、ただならぬ声が響いてきた。
今度は悲鳴ではない。
女たちが罵り合い、怒鳴り合う声なのだ。
あの朝と同じく、陽南は女子ロッカー室内にいた滝沢さんと顔を見合わせ、給湯室へと走った。
そこでは、根本さんと春日さんが大バトル中であった。
二人とも顔を真っ赤にして、泣きじゃくっている。
構図としては、怒り狂う春日さんが根本さんに詰め寄り、根本さんは必死で何かを否定している。
ヒステリックにも程がある先輩社員たちの争いを止めることなどできるはずがない新人ちゃんが、手に布巾を握りしめたまま”助けてください”と陽南と滝沢さんに目で訴えてきた。
陽南たちは新人ちゃんよりバトルの概要を聞いた。
春日さんは根本さんに『渦巻』の写真集を貸していた。その写真集は、昨日、根本さんの手元に返却されたも、ページにゴキブリの死骸が挟まっていたというのだ。
特に春日さん推しの三ノ宮くんの笑顔がアップとなっているページに、それはそれは大きなゴキブリがペチャンコになっていたと。
さらに、沈みゆく夕陽をバッグにした海辺での五人全員集合ショットにも、やや小ぶりなゴキブリが……
「私が春日さんに写真集を返す時には、絶対にゴキブリなんて挟まってなかったです! 春日さんの家の中で、ゴキブリが挟まったんじゃないですか?!」
「ンなわけないでしょ! 私の大切な写真集によくもゴキブリを! しかも二匹も! あんたって、人のことは……魚住さんのことは憶測であれこれ言ってたけど、あんたこそ、いったいどんな汚部屋に住んでるのよ!!」
グァバグァバと滝のように涙を流す春日さん。
それはまるで、愛する人を傷つけられたうえに失ってしまったかのようであった。
「あの写真集はもう絶版でプレミアだってついてるのよ! 大事な本だったけど、あんたを信用していたからこそ貸してやったのに! ゴキブリサンド状態で返すなんて恩を仇で返すようなものじゃない! それだけじゃない! 私があんたに今まで貸してやった『渦巻』のDVDにムック、全部消毒して欲しいぐらいだわ! ううん、全部、未使用の新品を揃えて返しなさいよ! このゴキブリ女!!」
陽南も、滝沢さんも彼女たちを止めることができなかった。
彼女たちのバトルはなんと始業時刻を過ぎても治まることなく、ますますヒートアップしていく。
ついには我が部署の部長が彼女たちを止めるために、給湯室に呆れ顔でやってきた。
「君たちは会社に仕事をしにきているのではないのかね? まあ……人に借りたものを汚したのはいけないと思うが、たかが本だろう? 春日くん、君はそろそろ落ち着きを持たなければならないね。自分の子供であってもおかしくない年齢のうえに手の届くはずもない男性アイドルに入れ込むのは、これを機に卒業したらどうかね?」
言ってはならないことを言ってしまった部長。
春日さんは、過呼吸を起こさんばかりに息を乱し始めた。
そして今度は物凄い形相で部長に食ってかかった。部長がビクッと飛び上がり後ずさるほどの形相で。
「部長は誰かを心から愛したことはないんですか?! 太陽のごとき存在に出会ったことはないんですか?! 私にとっては『渦巻』の五人は、中でも三ノ宮くんは単なるアイドルなんかじゃありません! 私の生きがいなんです!! 私の命そのものなんです!!」
3
二度目のゴキブリ騒ぎから、三週間ほど経過した。
陽南は自宅で、遊びに来た滝沢さんと一緒に夕飯を食べている。
彼女たちの話題はどうしても、会社のことになってしまう。
それもそのはず、ここ三週間のうちに部署内はすっかり変わってしまったのだから。
真に「ゴキブリ女」とのレッテルを貼られることとなった根本さんは翌日、退職してしまった。
春日さんから請求されているであろう賠償についてはどうしたのかは自分たちの所まで話が届いてこないので分からないが、陽南の大嫌いでムカつくお喋り雀は会社から消えた。
春日さんは、在職中である。
しかし、彼女はテレビなどで爽やかな三ノ宮くんの顔を見るたびに、ペチャンコにプレスされたゴキブリを反射的に思い出してしまうまでになったらしく、心療内科に通っているという噂まで聞いている。
まあ、いずれにせよ、めっきり大人しく口数も少なくなってしまい、彼女ももうすぐ退職間近のような空気が流れているのだ。
「まさか、たかがゴキブリでこんなことにまでなるとは思わなかったし。さすがゴキブリっていったところだよね」
食事時に「ゴキブリ」という悍ましいワードを口にした陽南。しかし、彼女の箸のペースは一切落ちることはなかった。
「そうよね、予測していた以上の効果が出るなんて、やっぱりゴキブリって、大多数の人にとっては最凶最悪の生物なのよね」
同じく箸のペースを一切落とすことのない滝沢さんも頷いた。
「ちょっとやり過ぎかと思ったけど、まあ結果オーライ……かな?」
「そうよ。あの二人の普段の行いがそもそもの原因だし。あの二人が蒔いた種ってこと……それに、私たちに全く疑いがかからなかったのは良かったわよ。まあ、同じ部署とはいえ、陽南自身は春日さんとはそれほど絡みはなかったもんね」
そう、あの二度目のゴキブリ騒ぎは、陽南と滝沢さんの利害関係の一致によって進められた計画的犯行であった。
陽南は根本さんが一番嫌いで、痛い目に遭わせたかった。
滝沢さんは春日さんが一番嫌いで、痛い目に遭わせたかった。
業務内容的に春日さんとペアになることが多かった滝沢さん。
ギスギスしているうえに気分屋の春日さんは、機嫌が悪い時は挨拶すら碌に返さなかった。逆に機嫌が良い時は、アイドルグループ『渦巻』の魅力を、特に推しである三ノ宮くんの魅力について延々と喋り続ける。
芸能人などに何の興味もない滝沢さんにとって、そのマシンガントークはプチ拷問でしかない。
そのうえ『渦巻』のDVDを見て”元気を充電”したいからと、自分の分の仕事を滝沢さんに押し付けて、定時で帰ってしまうことも一度や二度でなかった。
そんな春日さんは、同じく『渦巻』の大ファンである根本さんと時折、DVDや本の貸し借りをしていたことは、陽南たちも知っていた。
あの日の前日、根本さんは自身のロッカー内に滝沢さんに借りていた例の写真集――大判のため通勤鞄に入りきらず紙袋に入れていた写真集――を保管していた。おそらく帰社時に、手渡す予定なのだろう。
各ロッカーには鍵はかかっていない。
長く見積もっても一分以内には終わらせなければ。
滝沢さんはロッカー室の見張りに立った。
そして、陽南はゴム手袋をスチャッと装着して、根本さんのロッカーを開け、自分のロッカー内の紅茶の空き缶に入れて用意していたゴキブリの死骸二匹を、写真集の適当なページに挟み込み、パタンと閉じる。
何も知らない根本さんは、ゴキブリ二匹がプレスされた写真集を紙袋ごと春日さんに返す。
ゴキブリが平気な陽南と滝沢さんの二人だからこそ出来た犯行だ。
さらに言うなら、本を大切にする心など皆無で、芸能人に夢中になる人の気持ちなんて全く分からないし、分かろうともしない彼女たちだからこそ……
「陽南、私たちがただの同僚同士だったら、今回のことは出来なかったよね。他人だったら、仮に問い詰められた時、どっちかが自分可愛さにゲロって罪をなすりつけ合う可能性が高いなんてもんじゃないもの」
食事中に「ゲロ」という言葉をも平然と口にした滝沢さんに、陽南も笑顔を返す。
「うん、本当にそうだよね。私たちには会社の人たちが知らない秘密があるもんね、滝沢さん。ううん、”お姉ちゃん”」
滝沢さん――滝沢夏南――の出生時から小学校六年生の時までの名前は、魚住夏南であった。
陽南は父親に引き取られ、滝沢さんは母親に引き取られたも、彼女たちは同じ父と母を持つ姉妹である。
会社では姉妹ということは隠し、互いに「滝沢さん」「魚住さん」と意識して呼び合っていた。
身辺調査をされたら姉妹であることはすぐに判明していたと思うが、採用時に身辺調査をするような規模の会社ではない。
さらに幸運にもいうべきか、彼女たちの顔も声も全く似ていないため、彼女たちが仲のいい同僚以上の関係であることを知る者は会社にはいないであろう。
大人たちの事情で失ってしまった子供時代の時間を取り戻すかのように、この姉妹は頻繁に夕飯を共にし、いろいろなことを話し、そして時には今回のような犯行の計画をも練っていた。
「お姉ちゃん、ゴキブリって、チャバネゴキブリとかクロゴキブリとか、オオゴキブリとか色んな種類がいるけど、ムカつく女にも色んな種類があるよね。根本さんと春日さんって、どっちも嫌な女だったけど、その嫌さの種類はちょっと違っていたし(笑)」
「ホントよね。まあ、あの害虫女たちを、割と少ない労力で一気に潰すことできてよかったじゃない。絶好のタイミングを逃すことなくね(笑)」
顔を見合わせて、姉妹は笑った。
――fin――
もともと嫌いな同僚を、さらに嫌いになってしまったのは、とある朝の事件がきっかけであった。
朝、会社の女子ロッカー室で制服に着替え終えたばかりの魚住陽南(うおずみひな)は、隣接する給湯室からのただならぬ悲鳴を聞いた。
いったい何事?
同じく着替え終えたばかりの二才年上の同僚・滝沢夏南(たきざわかな)と顔を見合わせ、給湯室へと駆けつける。
陽南と滝沢さんが見た光景。
それはなんてことない”あいつ”だった。
床の上をシャカシャカと這いまわるゴキブリに、キャーキャーキャーと悲鳴をあげて数人の女子社員が逃げまどっていた。
女子とは言っても、全員二十歳はとっくに超え、四十路をも超えていた者だって中にはいたも、皆、恐怖に引き攣った顔で逃げまどっていた。
だが、陽南と傍らの滝沢さんは「なんだ、ゴキブリか」と至って冷静だ。
それよりも、結構なビックサイズとはいえ、たかがゴキブリ一匹によって生じたうるさい悲鳴の方が朝っぱらから公害だと陽南は思わずにはいられない。
倉庫から廃新聞紙を持ってきた陽南は、それを筒状に丸め、振り下ろした。
パァンと一撃。
一切、手加減はしない。
タイミングを逃すことなく、一発で潰す。
それは奴らに対する慈悲でもあった。
しかし、いくら奴らが平気な陽南とはいえ、さすがにその死骸を素手で掴むことには躊躇せざるを得ない。
いつも気を利かせてくれる滝沢さんが、幾枚かのいらないビニール袋を持ってきてくれた。
陽南はそのビニール袋を手袋代わりにし、ゴキブリの死骸を新聞紙にくるんだ。
これにて、ひとまず駆除完了。
ギスギスしているうえ気分屋のお局様からも「ありがとう。勇気あるのね」と労いの言葉が、そして今年入社したばかりのピチピチの新人ちゃんからも「すごいです、魚住さん。かっこいい」との賞賛の言葉をもらった陽南。
しかし、たった一人だけ違う反応を示す者がいた。
「なんで? なんで、魚住さんはゴキブリが平気なんですか?」
同期入社の根本(ねもと)さんだけが目を丸くしていた。
「……単なるゴキブリだし。私、こういうことには慣れているから」
それは事実だ。
陽南が小学校四年生の時に両親は離婚し、陽南は父親に引き取られた。
家政婦を雇う金銭的余裕などあるわけもなく、料理含めた家事はまだ子供だった陽南が受け持つことに。家の中で、ゴキブリ出現率が最も高いであろうキッチンは、陽南の領域となった。
清潔にしていても、忘れた頃にどこからか這い出てくるあいつらの駆除は、仕事から帰ってくる父を待ってお願いするなんて、悠長な対応をしている場合じゃないのだ。
遭遇した時に仕留める、それが鉄則だ。
けれども、根本さんは陽南の「慣れているから」という言葉だけを受け取り、それに尾びれ背びれを付けて、ピーチクパーチクと他部署の人たちにも広め始めたのだ。
「朝、給湯室に物凄い大きなゴキブリが出没して……私たち女の子は皆、怖くて動けなかったんだけど、魚住さんだけは平気な顔で退治していたんですよ。聞いたら、魚住さんはゴキブリに慣れているって……魚住さんの家には、どれだけゴキブリがたくさん出るんでしょうね(笑)」
ゴキブリ退治が平気で慣れている。
ということは、ゴキブリに頻繁に遭遇する。
結論、魚住陽南はゴキブリだらけの家に住んでいる。
事実無根だ。
陽南が高校卒業後に父が再婚したため、現在は一人暮らしであるも、家事能力のみならず整理整頓能力も上げざるを得なかった陽南の家は汚部屋などでは断じてない。
幸運にも、話を聞かされた周りの者たちは大人な対応をしてくれているらしかった。
「え? 一人でゴキブリ退治できる女って頼もしいじゃん」と言った他部署の男性社員もいたらしい。
そして、陽南と同じ部署で一番仲が良い滝沢さんも「私、魚住さんの家に行ったことあるけど、綺麗に片付いてたし。汚部屋なんかじゃなかったけど」などと加勢してくれた。
「でもぉ、ゴキブリが平気だなんて、魚住さんはおかしいですよ。しかも、女なのに。だって、ゴキブリですよ。ゴ・キ・ブ・リ(笑)」
陽南は、根本さんのこういうところが前から嫌いだった。
はた迷惑なお喋り雀であるだけでなく、幼稚というか、視野が狭いというか、柔軟性に欠けるというか、自分と違う感じ方や考え方の者をガンとして認めないのだ。
ゴキブリのことだけでない。
根本さんは、今年、結成十周年を迎えた五人組の男性アイドルグループ『渦巻』(うずまき)の大ファンだ。
我が部署の最年長女子(?)で独身のお局様・春日(かすが)さんも彼らのコアなファンで、昼休みにはよく彼らの話で盛り上がっている。
「『渦巻』が嫌いな人、興味ない人がいるなんて信じられませんよね。まさに人類史上、最強のアイドルグループといっても過言ではないですよ!」
確かに『渦巻』は、アイドルなんてものに全く興味のない陽南ですら、五人全員の顔と名前が一致するぐらいだから、知名度は相当なものだろう。
けれども、どれほどの人気グループにもファンもいればアンチもいるし、何の興味も抱くことがない人だっているというのに。
ゴキブリの件も合わさり、陽南はますます根本さんが嫌いになっていった。
2
件のゴキブリ騒ぎから、二週間ほど経過した朝のことだ。
またしても給湯室から、ただならぬ声が響いてきた。
今度は悲鳴ではない。
女たちが罵り合い、怒鳴り合う声なのだ。
あの朝と同じく、陽南は女子ロッカー室内にいた滝沢さんと顔を見合わせ、給湯室へと走った。
そこでは、根本さんと春日さんが大バトル中であった。
二人とも顔を真っ赤にして、泣きじゃくっている。
構図としては、怒り狂う春日さんが根本さんに詰め寄り、根本さんは必死で何かを否定している。
ヒステリックにも程がある先輩社員たちの争いを止めることなどできるはずがない新人ちゃんが、手に布巾を握りしめたまま”助けてください”と陽南と滝沢さんに目で訴えてきた。
陽南たちは新人ちゃんよりバトルの概要を聞いた。
春日さんは根本さんに『渦巻』の写真集を貸していた。その写真集は、昨日、根本さんの手元に返却されたも、ページにゴキブリの死骸が挟まっていたというのだ。
特に春日さん推しの三ノ宮くんの笑顔がアップとなっているページに、それはそれは大きなゴキブリがペチャンコになっていたと。
さらに、沈みゆく夕陽をバッグにした海辺での五人全員集合ショットにも、やや小ぶりなゴキブリが……
「私が春日さんに写真集を返す時には、絶対にゴキブリなんて挟まってなかったです! 春日さんの家の中で、ゴキブリが挟まったんじゃないですか?!」
「ンなわけないでしょ! 私の大切な写真集によくもゴキブリを! しかも二匹も! あんたって、人のことは……魚住さんのことは憶測であれこれ言ってたけど、あんたこそ、いったいどんな汚部屋に住んでるのよ!!」
グァバグァバと滝のように涙を流す春日さん。
それはまるで、愛する人を傷つけられたうえに失ってしまったかのようであった。
「あの写真集はもう絶版でプレミアだってついてるのよ! 大事な本だったけど、あんたを信用していたからこそ貸してやったのに! ゴキブリサンド状態で返すなんて恩を仇で返すようなものじゃない! それだけじゃない! 私があんたに今まで貸してやった『渦巻』のDVDにムック、全部消毒して欲しいぐらいだわ! ううん、全部、未使用の新品を揃えて返しなさいよ! このゴキブリ女!!」
陽南も、滝沢さんも彼女たちを止めることができなかった。
彼女たちのバトルはなんと始業時刻を過ぎても治まることなく、ますますヒートアップしていく。
ついには我が部署の部長が彼女たちを止めるために、給湯室に呆れ顔でやってきた。
「君たちは会社に仕事をしにきているのではないのかね? まあ……人に借りたものを汚したのはいけないと思うが、たかが本だろう? 春日くん、君はそろそろ落ち着きを持たなければならないね。自分の子供であってもおかしくない年齢のうえに手の届くはずもない男性アイドルに入れ込むのは、これを機に卒業したらどうかね?」
言ってはならないことを言ってしまった部長。
春日さんは、過呼吸を起こさんばかりに息を乱し始めた。
そして今度は物凄い形相で部長に食ってかかった。部長がビクッと飛び上がり後ずさるほどの形相で。
「部長は誰かを心から愛したことはないんですか?! 太陽のごとき存在に出会ったことはないんですか?! 私にとっては『渦巻』の五人は、中でも三ノ宮くんは単なるアイドルなんかじゃありません! 私の生きがいなんです!! 私の命そのものなんです!!」
3
二度目のゴキブリ騒ぎから、三週間ほど経過した。
陽南は自宅で、遊びに来た滝沢さんと一緒に夕飯を食べている。
彼女たちの話題はどうしても、会社のことになってしまう。
それもそのはず、ここ三週間のうちに部署内はすっかり変わってしまったのだから。
真に「ゴキブリ女」とのレッテルを貼られることとなった根本さんは翌日、退職してしまった。
春日さんから請求されているであろう賠償についてはどうしたのかは自分たちの所まで話が届いてこないので分からないが、陽南の大嫌いでムカつくお喋り雀は会社から消えた。
春日さんは、在職中である。
しかし、彼女はテレビなどで爽やかな三ノ宮くんの顔を見るたびに、ペチャンコにプレスされたゴキブリを反射的に思い出してしまうまでになったらしく、心療内科に通っているという噂まで聞いている。
まあ、いずれにせよ、めっきり大人しく口数も少なくなってしまい、彼女ももうすぐ退職間近のような空気が流れているのだ。
「まさか、たかがゴキブリでこんなことにまでなるとは思わなかったし。さすがゴキブリっていったところだよね」
食事時に「ゴキブリ」という悍ましいワードを口にした陽南。しかし、彼女の箸のペースは一切落ちることはなかった。
「そうよね、予測していた以上の効果が出るなんて、やっぱりゴキブリって、大多数の人にとっては最凶最悪の生物なのよね」
同じく箸のペースを一切落とすことのない滝沢さんも頷いた。
「ちょっとやり過ぎかと思ったけど、まあ結果オーライ……かな?」
「そうよ。あの二人の普段の行いがそもそもの原因だし。あの二人が蒔いた種ってこと……それに、私たちに全く疑いがかからなかったのは良かったわよ。まあ、同じ部署とはいえ、陽南自身は春日さんとはそれほど絡みはなかったもんね」
そう、あの二度目のゴキブリ騒ぎは、陽南と滝沢さんの利害関係の一致によって進められた計画的犯行であった。
陽南は根本さんが一番嫌いで、痛い目に遭わせたかった。
滝沢さんは春日さんが一番嫌いで、痛い目に遭わせたかった。
業務内容的に春日さんとペアになることが多かった滝沢さん。
ギスギスしているうえに気分屋の春日さんは、機嫌が悪い時は挨拶すら碌に返さなかった。逆に機嫌が良い時は、アイドルグループ『渦巻』の魅力を、特に推しである三ノ宮くんの魅力について延々と喋り続ける。
芸能人などに何の興味もない滝沢さんにとって、そのマシンガントークはプチ拷問でしかない。
そのうえ『渦巻』のDVDを見て”元気を充電”したいからと、自分の分の仕事を滝沢さんに押し付けて、定時で帰ってしまうことも一度や二度でなかった。
そんな春日さんは、同じく『渦巻』の大ファンである根本さんと時折、DVDや本の貸し借りをしていたことは、陽南たちも知っていた。
あの日の前日、根本さんは自身のロッカー内に滝沢さんに借りていた例の写真集――大判のため通勤鞄に入りきらず紙袋に入れていた写真集――を保管していた。おそらく帰社時に、手渡す予定なのだろう。
各ロッカーには鍵はかかっていない。
長く見積もっても一分以内には終わらせなければ。
滝沢さんはロッカー室の見張りに立った。
そして、陽南はゴム手袋をスチャッと装着して、根本さんのロッカーを開け、自分のロッカー内の紅茶の空き缶に入れて用意していたゴキブリの死骸二匹を、写真集の適当なページに挟み込み、パタンと閉じる。
何も知らない根本さんは、ゴキブリ二匹がプレスされた写真集を紙袋ごと春日さんに返す。
ゴキブリが平気な陽南と滝沢さんの二人だからこそ出来た犯行だ。
さらに言うなら、本を大切にする心など皆無で、芸能人に夢中になる人の気持ちなんて全く分からないし、分かろうともしない彼女たちだからこそ……
「陽南、私たちがただの同僚同士だったら、今回のことは出来なかったよね。他人だったら、仮に問い詰められた時、どっちかが自分可愛さにゲロって罪をなすりつけ合う可能性が高いなんてもんじゃないもの」
食事中に「ゲロ」という言葉をも平然と口にした滝沢さんに、陽南も笑顔を返す。
「うん、本当にそうだよね。私たちには会社の人たちが知らない秘密があるもんね、滝沢さん。ううん、”お姉ちゃん”」
滝沢さん――滝沢夏南――の出生時から小学校六年生の時までの名前は、魚住夏南であった。
陽南は父親に引き取られ、滝沢さんは母親に引き取られたも、彼女たちは同じ父と母を持つ姉妹である。
会社では姉妹ということは隠し、互いに「滝沢さん」「魚住さん」と意識して呼び合っていた。
身辺調査をされたら姉妹であることはすぐに判明していたと思うが、採用時に身辺調査をするような規模の会社ではない。
さらに幸運にもいうべきか、彼女たちの顔も声も全く似ていないため、彼女たちが仲のいい同僚以上の関係であることを知る者は会社にはいないであろう。
大人たちの事情で失ってしまった子供時代の時間を取り戻すかのように、この姉妹は頻繁に夕飯を共にし、いろいろなことを話し、そして時には今回のような犯行の計画をも練っていた。
「お姉ちゃん、ゴキブリって、チャバネゴキブリとかクロゴキブリとか、オオゴキブリとか色んな種類がいるけど、ムカつく女にも色んな種類があるよね。根本さんと春日さんって、どっちも嫌な女だったけど、その嫌さの種類はちょっと違っていたし(笑)」
「ホントよね。まあ、あの害虫女たちを、割と少ない労力で一気に潰すことできてよかったじゃない。絶好のタイミングを逃すことなくね(笑)」
顔を見合わせて、姉妹は笑った。
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しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
《完結》当て馬悪役令息のツッコミ属性が強すぎて、物語の仕事を全くしないんですが?!
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ユーディリア・エアトルは母親からの折檻を受け、そのまま意識を失った。
そして夢をみた。
日本で暮らし、平々凡々な日々の中、友人が命を捧げるんじゃないかと思うほどハマっている漫画の推しの顔。
その顔を見て目が覚めた。
なんと自分はこのまま行けば破滅まっしぐらな友人の最推し、当て馬悪役令息であるエミリオ・エアトルの双子の妹ユーディリア・エアトルである事に気がついたのだった。
数ある作品の中から、読んでいただきありがとうございます。
幼少期、最初はツラい状況が続きます。
作者都合のゆるふわご都合設定です。
日曜日以外、1日1話更新目指してます。
エール、お気に入り登録、いいね、コメント、しおり、とても励みになります。
お楽しみ頂けたら幸いです。
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2024年6月25日 お気に入り登録100人達成 ありがとうございます!
100人になるまで見捨てずに居て下さった99人の皆様にも感謝を!!
2024年9月9日 お気に入り登録200人達成 感謝感謝でございます!
200人になるまで見捨てずに居て下さった皆様にもこれからも見守っていただける物語を!!
2025年1月6日 お気に入り登録300人達成 感涙に咽び泣いております!
ここまで見捨てずに読んで下さった皆様、頑張って書ききる所存でございます!これからもどうぞよろしくお願いいたします!
2025年3月17日 お気に入り登録400人達成 驚愕し若干焦っております!
こんなにも多くの方に呼んでいただけるとか、本当に感謝感謝でございます。こんなにも長くなった物語でも、ここまで見捨てずに居てくださる皆様、ありがとうございます!!
2025年6月10日 お気に入り登録500人達成 ひょえぇぇ?!
なんですと?!完結してからも登録してくださる方が?!ありがとうございます、ありがとうございます!!
こんなに多くの方にお読み頂けて幸せでございます。
どうしよう、欲が出て来た?
…ショートショートとか書いてみようかな?
2025年7月8日 お気に入り登録600人達成?! うそぉん?!
欲が…欲が…ック!……うん。減った…皆様ごめんなさい、欲は出しちゃいけないらしい…
2025年9月21日 お気に入り登録700人達成?!
どうしよう、どうしよう、何をどう感謝してお返ししたら良いのだろう…
第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。
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