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ハルカカナタ
しおりを挟む長州に士官して以降、蔵六の自宅と学塾は藩邸内に移転した。
或る夜、蔵六は新しく与えられた自室で教材の翻訳をしていたが、なにやらにわかに廊下の先が騒がしくなった。
酔声と制止の声、足音が響く。そのうち芝居かなにかのように派手な音を立て、部屋の襖が左右に開かれると、立っていたのは顔に薄あばたの跡を残した若い男であった。
「君が村田蔵六君か」
お初にお目にかかる、自分は高杉晋作という者、お近づきのしるしに今夜は一献捧げに参った次第、と言葉だけは丁寧である。
が、態度はというと、蔵六がなにか言う前にどっかりとその場に尻を据え、杯と酒壺を乱暴に放り出した。すでに微醺が漂っている。
蔵六も酒が嫌いではないが、必要以上に過ごす性質ではない。仕事が残っているので今宵はもう結構、しかしこの場で勝手に呑まれる分にはお好きになされるが良い。自分はこのまま仕事を続けながらお話は承る、と蔵六が言うと、さすがに高杉は珍妙な顔をした。
よく見れば襖の影に伊藤が控えている。高杉を制止していたのは彼か。
最初は申し訳なさそうな気配だったが、蔵六の言い様を聞いて苦笑を噛み殺している。蔵六にしてみれば、ことさら高杉を拒絶する理由もなし、合理的な提案をしているだけなのだが、周囲からは妙な反応をされることが多いのが時に若干心外ではある。
しかし高杉も、あまり気にした様子はなかった。
では勝手にやらせていただくと宣言し、杯に酒をそそぎはじめた。伊藤は馬鹿馬鹿しくなったようで、それでは拙者はこれにてと言い残して去っていった。
もうそろそろ日付も変わろうかという時刻である。
高杉はすでに一度何処かに繰り出して、珍しく早目に帰って来た後であるらしい。手酌で勝手にやりながら、昨今の若手藩士なら誰でも似たような事を言いそうな政治談義を、これも勝手に大声で語りはじめた。
蔵六は、どうにもその種の話に慣れぬ。
そもそも既に若いと言うような年齢でもないから、桂の評ではないが、あまり物事に熱狂する気にもなれぬ。人前で自分を強く主張するような性分でもない(その割に変人すぎて何故か悪目立ちするのだが)。桂は、その種の血気盛んな若手藩士たちから兄貴株として立てられる立場だが、蔵六の性格を良く知っているから、殊更に彼らと社交を強いてくるようなことはなかった。
結果的に蔵六は、なにやら得体の知れぬ変な新入りとして遠巻きにされている。
桂や伊藤の他に積極的に接触してくる者はこれまで居なかった。高杉とやら言う若者が何を思って蔵六のところに押しかけて来たのか知らないが、蘭学を学びたいと言う様子でもなし、ただ政治談義をしたいだけなのなら蔵六ほど不適切な相手はおるまいに、物好きな話ではある。
が。
「君は、なぜ桂さんを抱かぬのだ」
一体何を思ったか、そんなことを唐突に聞いてきた。
「それが、なにか問題がありますか」
正体を知らぬまま、最初の一夜を過ごしたきり、その後は一度も閨を共にしていないのは事実であった。
診察はすでに何度かしたが、渡した薬は順調に効いている。その結果、房事は敢えて必要なかろうと判断した。
桂も蔵六自身も、暇な身体ではない。桂は常にあちこちを走り回っているし、蔵六も国元に蘭学塾をつくれと命じられていて、近々長州に戻らねばならぬ。定期的に逢わねばならないとなると結構な負担である。
蔵六は、手を止めない。明日までに仕上げてしまわねばならぬ翻訳がまだだいぶ残っている。作業を続けながらそういうことを説明して聞かせると、高杉は酒臭い溜息を吐き出して、
「呆れた朴念仁だな君は。定期的に逢えぬのはしかたがないが、牽牛織女の泪雨でもあるまいに、逢える時は逢えるのだからその時に抱いていかんと言う訳でもあるまい」
「それはそうですが、桂殿からは御自身の事は良いから職務に精励してくれと言われておりますので」
日中は早朝から塾で講義をするか、幕府講武所もしくは蕃書調所に出仕する。帰宅後は洋書の翻訳、教材の作成。塾生は毎日のように増え続け、最近では幕府や宇和島藩以外からも書物の翻訳依頼が来るようになり、蔵六は文字通り汝に休息なしの日々を送っている。
杯を重ねつつ、高杉は一応黙って聞いていたが、
「では、桂さんの前の番のことをどれほど知っている」
と、今度はこれまた唐突な方向に話を変えた。
蔵六は、前の番のことは全く知らない。あまり興味も湧かなかった。
「吉田松陰先生だ」
さすがに蔵六の手が止まった。
「ただし、こちらはこちらで番の契りを交わした時ですら、一切房事を行なっておらぬと聞く」
桂さん本人から直接聞いたから確かな話だ、とは高杉の言。
番の契りはアルファがオメガの首筋に噛み跡を残すことで成立する。番を成立させるだけなら、実は必ずしも情交は必要なかった。しかし、現実に一切なにもせずに番の契りだけで済ました例など寡聞にして知らぬ。
常識的に考えるなら、発情期の体香を放つオメガを前にしたアルファがそれに抗えるはずもないのである。事実ならばむしろ医者として興味を惹かれる話である。蔵六も、さすがに抱くだけは抱いた上で噛み跡を残した。
何となく、蔵六は自分の過去を思い出す。
もうだいぶ昔の話だが、十代の中頃であったか、或る日突然叔父に色街へ連れていかれた事があった。俗に言うところの筆下ろしであるが、このときにあてがわれた敵娼は後頭部のあたりまで覆うごつい革の首輪を巻いていた。この敵娼は、オメガである。
男女問わずオメガは受胎率が高い。従って、通常は売春婦には向かぬ。が、どんな小さな色街であっても必ずひとりふたりはオメガの妓が居た。
後の世には血液検査という便利な手段が開発されるが、この時代まだそんな技術はない。従って、アルファであるかベータであるかそれともオメガかの判別は実地、すなわち閨でするほかなかった。その体香に対する反応次第で属性を見分ける最終判断はオメガの妓本人が下す。そのため責任は重大かつ重要な存在で、廓社会の中でも一種独特の高い地位を持つのが普通だが、当然ながら当人は番を持つ事は出来ない。閨を共にした客のアルファに首筋を噛まれては困るため、そういうものを着けるしきたりがあった。
そんなこんなで蔵六は無事アルファと判断された。父母はずいぶん喜んだようで、すぐに某医学塾への入門手続を決めてきた。アルファとなれば息子の将来に期待するのは当然のことである。もっとも蔵六自身はアルファに相応しい能力こそ持っていたものの、性格はどうにも手のつけようがない変人で、あまり出世欲のある方でもなく、ここまで来るのにだいぶ時間がかかっている。
(それでも、かのお人の方が変人ぶりでは上を行かれるだろう)
と、蔵六ですらそう思うのが、元長州藩軍学師範・吉田寅次郎、松陰と号した青年であった。
もっとも蔵六は故人の生前に直接の面識はない。ひとから話を聞くばかりであったが、藩の軍学師範に任じられたのが僅か8歳の時であると言うから、優秀なアルファであったのは間違いないだろう。
しかし、逸話の数々を聞くだに、これほど強烈な奇人はそうおるまいと思われる。
脱藩、米国密航未遂、幕府老中襲撃計画、等々。挙げればきりがないが、跳ねっ返りの下級藩士でもあるまいに、軍学師範という要職にあってこれだけの過激行動に走ったあたりが凄まじい。その上何が凄いと言って、この種の過激行動の話を、松陰は誰に対しても一切隠そうとしなかった。幕府での取調べの白洲の上でさえ、むしろ進んで語ったと言うから畏れ入る。
結果、その命は刑場の露と消えた。
ただ、人からはずいぶん好かれる性質であったようで、その若い晩年に主宰した小さな学塾松下村塾の塾生達からは神のように崇め慕われていたと言う。
そこは私とはだいぶ違いますな、と蔵六が言うと、高杉は当たり前だと不快げに返した。高杉はまさしく元松下村塾生である。蔵六の如き得体の知れぬ新入りと自分の師を比べるなど言語道断も甚だしと言わぬばかりの顔である。
「桂さんもお気の毒に、どうにも番に恵まれぬお人よ」
自分の師としては兎も角も、桂の番としての松陰の事はあまり評価していないようだ。
故松陰が一体なぜ、どうやって桂を一度も抱かずにいたのか。
高杉も、さすがにそこまで立ち入った事情は知らぬと言う。ただ故松陰は国事に奔走するあまり、三十を過ぎるまでは妻帯をふくむ一切の色欲を断つと称していたという。つい先頃処刑された時には29歳であった。結果的に、生涯不犯を貫いたことになる。
「それはそれとして、僕が気になっているのは」
高杉はやおら姿勢を正すと、酒臭い顔をぐいと近づけ、
―――桂さんの身体は大丈夫なのか。
と、訊いた。
本来ならば当人の許可なく、親しいとはいえ他人に病状を医者が漏らすのは好ましからざる事ではある。が、だからと言って高杉がなにも聞かずにおとなしく引っ込むはずもない。
「正直に申し上げまして、あまり宜しくは御座りませぬ」
現在目立った不調の様子が見られないのはお若さ故の体力の賜物、薬を替えたからと言ってこれまで蓄積されたものが消えてなくなるものにはあらず、いまはよくても将来お年を召した時には余程お辛いことになるかと診立て奉り候。
高杉は、それを聞くと、
「それは仕方があるまいよ。そもそも、我々のような奔走人が老後の心配などしても詮無き事」
明日にもそのへんで莫迦共に斬られて無惨な骸を晒すかも知れぬ。そんな事は初めから覚悟の前、爺になるまで生きていたいなどとはもとより思わぬ。それよりも、
―――桂さんには子が産めるのか。
声をさらに低めて、そんなことを聞く。
「それは、オメガでいらっしゃいますから、可能かどうかというだけでしたら、不可能なわけではございますまいが」
実際に腹に子がいる状態でもないいま現在、確実に語れる事は少ない。
そこを敢えて無理矢理語るならば、まず難産になる可能性、生まれた子の健康状態、母体の産後の肥立ち、流産や死産、その他諸々、妊娠出産にまつわるあらゆる健康問題が、通常の妊産婦よりも遥かに危険度が高かろうと思われる。
「…まあ良い。いますぐどうこうと言う話ではない」
いまはまだ桂さんにはやって貰わねばならぬ仕事が山程ある、全ては先の話だ、などと言いつつ高杉はまた杯をあおり始めた。
どうも意味がよくわからない。桂のような、オメガと言っても特殊な立場の者にこの種の心配が必要なのだろうか。
「察しの悪い男だな君は。周布翁から事情はきかされておるのだろうが。桂さんの番の候補が自分一人であったなどと思いあがられては困る」
はばかりながら僕も候補であった者の一人よ、何なら今からでも実力行使でもって彼を君から奪っても良いのだ、と高杉は蔵六を睨め付けた。
物騒な話である。
番の居るオメガを「奪う」となれば、つまりは蔵六を殺すという意味である。何をしでかすかわからぬ放れ駒の異名を持つ高杉であるから、実際にやりかねない。
「まあ今はやらんさ、やれば桂さんに激怒されよう。君を殺せば藩の洋式化が遅れる」
しかし本音を言うなら、僕は故松陰先生さえ時々斬り殺してやりたい衝動に駆られたものだ、不可能を承知で言うが、あの人がもし常に桂さんの側に居られる立場なら、抑制剤の濫用などせずに済んだはずだ。
「それは、その通りですが、むしろこれは個人の落度ではなく一種の構造問題と言うべきかと」
繰り返しになるが、癸丑以前ならばまだしも、現在のような国難の時代にあって、物の役に立つ者が暇であろう筈がないのである。それこそ桂などオメガだてらに藩の名を背負って東奔西走の毎日である。いわんやアルファにおいてをや。
「解っているさ。だからこそ、新薬ひとつで当面の問題のほとんどを解決してのけた君には僕とても一目置いているつもりだ。それに免じて当分の間、その首は預けておこう」
邪魔をした、精々職務に精励して呉れ賜え、と勝手な事を言い残して立ち上がると、来た時同様突風のように足音高く高杉は去った。
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