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絶望の果ての追放
第6話:「あなたの匂いは、とても悲しい」
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離宮の夜は、王都のそれよりも遥かに深く、沈黙に支配されていた。
私が調香した「夜明けの残り香」は、ジークヴァルト様の寝室の冷気を僅かに和らげたけれど、彼の体から溢れ出す本源的な呪いを完全に封じるには至らない。
私は、彼が眠りにつくまでの間、その傍らで静かに香炉を焚き続けていた。
ふと、ジークヴァルト様が、目隠しをされたまま顔を私の方へ向けた。
「エルゼ……お前は、なぜそこまで献身的なのだ。俺がこの国から疎まれ、死を待つだけの男だと知っているはずだろう。俺に味方しても、お前には何の得もない」
その声は、氷の結晶が擦れ合うような、硬く乾いた響きをしていた。
私は香炉の火を見つめながら、静かに口を開いた。
「得があるから、しているわけではありません。……私はただ、あなたの放つその匂いが、あまりにも悲しいから、ここにいたいと思ったのです」
「悲しい……? この俺の、腐った死臭がか」
「はい。普通の人は、それを『不快な匂い』だと断じて逃げ出すでしょう。けれど、私には分かります。それは、あなたがこれまで一人で戦い、守ってきた人々の代わりに飲み込んできた、『痛み』の蓄積なのだと」
ジークヴァルト様の指先が、シーツの上で僅かに動いた。
私は、彼の傍らにそっと膝をつき、言葉を重ねた。
「王宮で瘴気を浄化していた時、私はいつも感じていました。誰かの悪意を代わりに吸い込む時、私の心は少しずつ削られ、泥のような匂いに変わっていきました。……あなたも、そうだったのでしょう? この国の北端を凍てつく災厄から守るために、その身に冷気を宿し、一人で孤独に凍え続けてきた。その匂いは、あなたという一人の男性が流してきた、凍った涙の匂いなんです」
ジークヴァルト様は、長い間沈黙を守っていた。
やがて、彼は重い口調で、自身の過去を語り始めた。
「……元は、これほど酷くはなかった。ただの、氷を操る騎士に過ぎなかった。だが、五年前に北の山脈で魔神の心臓を封印した際、その呪いを右目に受けた。それからだ。視界は闇に消え、俺の周囲の時間は、腐敗と氷結だけが支配するようになった。……王も、かつての部下も、皆俺の傍から去った。唯一残ったのは、老いたセバスと、この死臭だけだ」
彼の手が、顔に巻かれた目隠しに触れる。
「この目隠しの下にあるのは、醜く焼け爛れ、魔力が漏れ出す傷口だ。エルゼ、お前は言ったな。俺の匂いが美しいと。だが、この傷を見ても同じことが言えるか? 正体を知れば、お前もきっと、絶望して逃げ出すに違いない」
「……逃げません」
私は迷いなく、彼の手に自分の手を重ねた。
彼の肌からは、今も絶え間なく、他者の命を奪うほどの冷気が噴き出している。触れている私の指先は、すでに感覚を失い、青白く変色し始めていた。けれど、私はその手を離さなかった。
「傷があるなら、それを癒やす香りを考えればいいだけのことです。醜いと思うなら、私がそれ以上に美しい香りで、あなたを包み込みます。……ジークヴァルト様。私を信じてください。私は、カイル様のように、あなたの表面だけを見て判断するようなことはいたしません」
ジークヴァルト様が、ハッとしたように息を呑んだ。
彼はそのまま、私の手を力強く引き寄せた。勢い余って、私は彼の広い胸の中に倒れ込む形になる。
「熱いな……。お前の体温は、どうしてこれほどまで……」
彼は私の肩に顔を埋め、深く、深く、私の匂いを吸い込んだ。
今の私からは、王宮の瘴気と、ジークヴァルト様の呪い、そして私が調香した薬草の香りが混じり合った、複雑で不思議な匂いがしているはずだ。
「……泥の中に咲く、小さな花の匂いがする。お前は……本当に、不思議な娘だ」
ジークヴァルト様の吐息が、私の首筋に触れる。
それは今まで感じたどの匂いよりも、人間らしく、温かいものだった。
私は彼の広い背中に手を回し、優しく叩いた。
まるで、泣きじゃくる子供をあやす母親のように。あるいは、傷ついた獣を癒やす飼い主のように。
「辛かったですね。……お一人で、よく耐えてこられました」
その言葉を口にした瞬間、ジークヴァルト様の体が、微かに震えた。
彼は私の背中に腕を回し、壊れ物を抱きしめるような、切実な力で私を拘束した。
死を待つだけの離宮で、私たちは互いの「欠落」を確認し合う。
私は、彼という器の中にある「絶望」を香りで満たすことを誓い、彼は、私の「献身」という光に縋ることを選んだ。
やがて、ジークヴァルト様の呼吸が安定し、深い眠りに落ちたのを確認して、私はそっと彼をベッドに横たえた。
私は自分の指先を見つめた。
彼の魔力に当てられた指は凍傷のように赤紫色に腫れ、鈍い痛みを放っている。
けれど、私の心は、王宮にいた時よりもずっと、清々しい喜びに満ちていた。
「……見ていてください、カイル様、イザベル。私は、捨てられたことで、本当の『浄化』の意味を知りました」
私は調香室へと戻り、新たな瓶を手に取った。
次は、彼の右目の傷を直接癒やすための、特別な「聖女の香油」を完成させなければならない。
離宮の外では、いつの間にか雨が止み、薄い月明かりが雪のような冷光を放っていた。
けれど、私の胸の中には、消えることのない情熱の炎が、赤々と燃え盛っていた。
私の香りは、もう誰にも、泥の匂いだなんて言わせない。
それは、愛する人を絶望から救い出すための、世界で唯一の、救済の香りなのだから。
私が調香した「夜明けの残り香」は、ジークヴァルト様の寝室の冷気を僅かに和らげたけれど、彼の体から溢れ出す本源的な呪いを完全に封じるには至らない。
私は、彼が眠りにつくまでの間、その傍らで静かに香炉を焚き続けていた。
ふと、ジークヴァルト様が、目隠しをされたまま顔を私の方へ向けた。
「エルゼ……お前は、なぜそこまで献身的なのだ。俺がこの国から疎まれ、死を待つだけの男だと知っているはずだろう。俺に味方しても、お前には何の得もない」
その声は、氷の結晶が擦れ合うような、硬く乾いた響きをしていた。
私は香炉の火を見つめながら、静かに口を開いた。
「得があるから、しているわけではありません。……私はただ、あなたの放つその匂いが、あまりにも悲しいから、ここにいたいと思ったのです」
「悲しい……? この俺の、腐った死臭がか」
「はい。普通の人は、それを『不快な匂い』だと断じて逃げ出すでしょう。けれど、私には分かります。それは、あなたがこれまで一人で戦い、守ってきた人々の代わりに飲み込んできた、『痛み』の蓄積なのだと」
ジークヴァルト様の指先が、シーツの上で僅かに動いた。
私は、彼の傍らにそっと膝をつき、言葉を重ねた。
「王宮で瘴気を浄化していた時、私はいつも感じていました。誰かの悪意を代わりに吸い込む時、私の心は少しずつ削られ、泥のような匂いに変わっていきました。……あなたも、そうだったのでしょう? この国の北端を凍てつく災厄から守るために、その身に冷気を宿し、一人で孤独に凍え続けてきた。その匂いは、あなたという一人の男性が流してきた、凍った涙の匂いなんです」
ジークヴァルト様は、長い間沈黙を守っていた。
やがて、彼は重い口調で、自身の過去を語り始めた。
「……元は、これほど酷くはなかった。ただの、氷を操る騎士に過ぎなかった。だが、五年前に北の山脈で魔神の心臓を封印した際、その呪いを右目に受けた。それからだ。視界は闇に消え、俺の周囲の時間は、腐敗と氷結だけが支配するようになった。……王も、かつての部下も、皆俺の傍から去った。唯一残ったのは、老いたセバスと、この死臭だけだ」
彼の手が、顔に巻かれた目隠しに触れる。
「この目隠しの下にあるのは、醜く焼け爛れ、魔力が漏れ出す傷口だ。エルゼ、お前は言ったな。俺の匂いが美しいと。だが、この傷を見ても同じことが言えるか? 正体を知れば、お前もきっと、絶望して逃げ出すに違いない」
「……逃げません」
私は迷いなく、彼の手に自分の手を重ねた。
彼の肌からは、今も絶え間なく、他者の命を奪うほどの冷気が噴き出している。触れている私の指先は、すでに感覚を失い、青白く変色し始めていた。けれど、私はその手を離さなかった。
「傷があるなら、それを癒やす香りを考えればいいだけのことです。醜いと思うなら、私がそれ以上に美しい香りで、あなたを包み込みます。……ジークヴァルト様。私を信じてください。私は、カイル様のように、あなたの表面だけを見て判断するようなことはいたしません」
ジークヴァルト様が、ハッとしたように息を呑んだ。
彼はそのまま、私の手を力強く引き寄せた。勢い余って、私は彼の広い胸の中に倒れ込む形になる。
「熱いな……。お前の体温は、どうしてこれほどまで……」
彼は私の肩に顔を埋め、深く、深く、私の匂いを吸い込んだ。
今の私からは、王宮の瘴気と、ジークヴァルト様の呪い、そして私が調香した薬草の香りが混じり合った、複雑で不思議な匂いがしているはずだ。
「……泥の中に咲く、小さな花の匂いがする。お前は……本当に、不思議な娘だ」
ジークヴァルト様の吐息が、私の首筋に触れる。
それは今まで感じたどの匂いよりも、人間らしく、温かいものだった。
私は彼の広い背中に手を回し、優しく叩いた。
まるで、泣きじゃくる子供をあやす母親のように。あるいは、傷ついた獣を癒やす飼い主のように。
「辛かったですね。……お一人で、よく耐えてこられました」
その言葉を口にした瞬間、ジークヴァルト様の体が、微かに震えた。
彼は私の背中に腕を回し、壊れ物を抱きしめるような、切実な力で私を拘束した。
死を待つだけの離宮で、私たちは互いの「欠落」を確認し合う。
私は、彼という器の中にある「絶望」を香りで満たすことを誓い、彼は、私の「献身」という光に縋ることを選んだ。
やがて、ジークヴァルト様の呼吸が安定し、深い眠りに落ちたのを確認して、私はそっと彼をベッドに横たえた。
私は自分の指先を見つめた。
彼の魔力に当てられた指は凍傷のように赤紫色に腫れ、鈍い痛みを放っている。
けれど、私の心は、王宮にいた時よりもずっと、清々しい喜びに満ちていた。
「……見ていてください、カイル様、イザベル。私は、捨てられたことで、本当の『浄化』の意味を知りました」
私は調香室へと戻り、新たな瓶を手に取った。
次は、彼の右目の傷を直接癒やすための、特別な「聖女の香油」を完成させなければならない。
離宮の外では、いつの間にか雨が止み、薄い月明かりが雪のような冷光を放っていた。
けれど、私の胸の中には、消えることのない情熱の炎が、赤々と燃え盛っていた。
私の香りは、もう誰にも、泥の匂いだなんて言わせない。
それは、愛する人を絶望から救い出すための、世界で唯一の、救済の香りなのだから。
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