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王都の崩壊
第16話:「お姉様の代わりなんて、簡単よ」
王宮の調香室は、かつてエルゼがいた頃の「静謐な聖域」の面影を失っていた。
床には高価なスパイスや花の精油がぶちまけられ、イザベルが投げ散らかしたフラスコの破片が、毒々しい光を反射している。
「はぁ、はぁ……っ。どうしてよ……! なんで上手くいかないの!?」
イザベルの絶叫が室内に響く。
彼女は、エルゼが残していった「秘伝のレシピ」を完璧に再現したはずだった。分量も、手順も、火加減も、すべて書き置き通りに。
しかし、出来上がった液体は、エルゼが作るような黄金色の輝きを放つことはなかった。それは、どろりとした赤黒い、まるで凝固した血のような不気味な塊だった。
「お姉様の代わりなんて、簡単よ。あんな、愛想も美貌もない女にできて、この私にできないはずがない……!」
イザベルは焦っていた。
カイルの目は日に日に冷たくなり、侍女たちは彼女を避けるようになっている。何より、彼女自身の肌に広がる「瘴気の痣」が、刻一刻と彼女の美しさを蝕んでいた。
「……そうだわ。お姉様はいつも、調合の最後に『何か』を注いでいた。……あれは、魔力じゃない。もっと、ドロドロとした執念よ。私だって、それくらいの覚悟は見せてやるわ!」
追い詰められたイザベルは、禁忌の手段に手を伸ばした。
彼女は鋭いナイフを取り出すと、自らの手のひらを迷いなく切り裂いた。
かつてエルゼは、自らの生命力を香りに込めていた。しかし、それは「国を救いたい」という無私の祈りだった。対してイザベルが注いだのは、「他者を踏みつけ、自分が輝きたい」という濁った欲望と、自分をこの状況に追い込んだ周囲への憎悪だった。
「さあ……咲きなさい! 私の、私だけの最高傑作!」
鮮血が沸騰する鍋の中に滴り落ちた、その瞬間。
調合室の空気が、ピシリ、と凍りついた。
ボコッ、ボコボコッ!
鍋の中から、この世のものとは思えない異音が響き渡る。
黄金の光ではなく、真っ黒な煙が蛇のように鎌首をもたげ、天井を這い回った。それはイザベルが無理やりねじ込んだ血と魔力に、王宮内に充満していた瘴気が共鳴し、最悪の化学反応を起こした結果だった。
「……あ、あはっ。できた……できたわ! ほら、なんて強い香り……っ、げほっ、ごほっ!」
イザベルは歓喜の声を上げようとしたが、肺に吸い込んだその「香り」に、即座に喉を焼かれた。
それはもはや、香りと呼べる代物ではなかった。
死体、腐敗した汚泥、そして灼熱の硫黄を混ぜ合わせ、千倍に凝縮したような――吸い込んだ者の五感を麻痺させ、意識を刈り取る「悪臭の暴力」だった。
「ひ……ひぎぃっ……く、苦しい……っ」
イザベルは喉を掻きむしり、その場に転倒した。
彼女が作り出した「究極の香り」は、開け放たれた調香室の扉から、王宮の廊下へと一気に溢れ出した。
◇◇◇
「……なんだ、この臭いは!?」
食堂で夕食を摂ろうとしていたカイルが、思わず銀のフォークを落とした。
次の瞬間、彼は猛烈な吐き気に襲われ、その場に膝をつく。
廊下からは、悲鳴と、何かが倒れる鈍い音が次々と響いてきた。
「助けて……! 鼻が、鼻がもげる……っ!」
「目が……目が焼けるようだ! 誰か、窓を閉めろ!」
衛兵も侍女も、誰もが鼻と口を抑えてのたうち回る。
王宮全体が、物理的な「臭いの監獄」と化したのだ。
イザベルの未熟な調律と、邪悪な魔力が生み出したその悪臭は、吸い込んだ者の思考を奪い、ただひたすらに「死」を予感させるものだった。
カイルはハンカチを三枚重ねて顔を覆い、フラフラと立ち上がった。
目の前の廊下は、イザベルが放出した黒い霧で視界が遮られ、壁にはびっしりと黒いカビのようなものが繁殖し始めている。
「イザベル……! あの馬鹿女、何を……何をした!?」
カイルは、かつて自分がエルゼに放った言葉を思い出していた。
『お前の代わりなど、いくらでもいる』
その言葉が、今、猛毒となって自分に突き刺さっている。
代わりなど、いなかった。
この悪夢のような腐敗と、魂を削る悪臭から自分たちを守っていた唯一の防壁を、自分たちは笑いながら捨てたのだ。
「……う、うわあああああ!」
カイルは発狂したように叫びながら、窓を突き破って外の空気を求めた。
だが、窓の外の庭園からも、もはや救いの匂いはしなかった。
シュトラール王宮は、この日をもって「死の館」へとその名を書き換えられた。
かつて「無価値な置物」が守っていた平和は、二度と戻らない。
床には高価なスパイスや花の精油がぶちまけられ、イザベルが投げ散らかしたフラスコの破片が、毒々しい光を反射している。
「はぁ、はぁ……っ。どうしてよ……! なんで上手くいかないの!?」
イザベルの絶叫が室内に響く。
彼女は、エルゼが残していった「秘伝のレシピ」を完璧に再現したはずだった。分量も、手順も、火加減も、すべて書き置き通りに。
しかし、出来上がった液体は、エルゼが作るような黄金色の輝きを放つことはなかった。それは、どろりとした赤黒い、まるで凝固した血のような不気味な塊だった。
「お姉様の代わりなんて、簡単よ。あんな、愛想も美貌もない女にできて、この私にできないはずがない……!」
イザベルは焦っていた。
カイルの目は日に日に冷たくなり、侍女たちは彼女を避けるようになっている。何より、彼女自身の肌に広がる「瘴気の痣」が、刻一刻と彼女の美しさを蝕んでいた。
「……そうだわ。お姉様はいつも、調合の最後に『何か』を注いでいた。……あれは、魔力じゃない。もっと、ドロドロとした執念よ。私だって、それくらいの覚悟は見せてやるわ!」
追い詰められたイザベルは、禁忌の手段に手を伸ばした。
彼女は鋭いナイフを取り出すと、自らの手のひらを迷いなく切り裂いた。
かつてエルゼは、自らの生命力を香りに込めていた。しかし、それは「国を救いたい」という無私の祈りだった。対してイザベルが注いだのは、「他者を踏みつけ、自分が輝きたい」という濁った欲望と、自分をこの状況に追い込んだ周囲への憎悪だった。
「さあ……咲きなさい! 私の、私だけの最高傑作!」
鮮血が沸騰する鍋の中に滴り落ちた、その瞬間。
調合室の空気が、ピシリ、と凍りついた。
ボコッ、ボコボコッ!
鍋の中から、この世のものとは思えない異音が響き渡る。
黄金の光ではなく、真っ黒な煙が蛇のように鎌首をもたげ、天井を這い回った。それはイザベルが無理やりねじ込んだ血と魔力に、王宮内に充満していた瘴気が共鳴し、最悪の化学反応を起こした結果だった。
「……あ、あはっ。できた……できたわ! ほら、なんて強い香り……っ、げほっ、ごほっ!」
イザベルは歓喜の声を上げようとしたが、肺に吸い込んだその「香り」に、即座に喉を焼かれた。
それはもはや、香りと呼べる代物ではなかった。
死体、腐敗した汚泥、そして灼熱の硫黄を混ぜ合わせ、千倍に凝縮したような――吸い込んだ者の五感を麻痺させ、意識を刈り取る「悪臭の暴力」だった。
「ひ……ひぎぃっ……く、苦しい……っ」
イザベルは喉を掻きむしり、その場に転倒した。
彼女が作り出した「究極の香り」は、開け放たれた調香室の扉から、王宮の廊下へと一気に溢れ出した。
◇◇◇
「……なんだ、この臭いは!?」
食堂で夕食を摂ろうとしていたカイルが、思わず銀のフォークを落とした。
次の瞬間、彼は猛烈な吐き気に襲われ、その場に膝をつく。
廊下からは、悲鳴と、何かが倒れる鈍い音が次々と響いてきた。
「助けて……! 鼻が、鼻がもげる……っ!」
「目が……目が焼けるようだ! 誰か、窓を閉めろ!」
衛兵も侍女も、誰もが鼻と口を抑えてのたうち回る。
王宮全体が、物理的な「臭いの監獄」と化したのだ。
イザベルの未熟な調律と、邪悪な魔力が生み出したその悪臭は、吸い込んだ者の思考を奪い、ただひたすらに「死」を予感させるものだった。
カイルはハンカチを三枚重ねて顔を覆い、フラフラと立ち上がった。
目の前の廊下は、イザベルが放出した黒い霧で視界が遮られ、壁にはびっしりと黒いカビのようなものが繁殖し始めている。
「イザベル……! あの馬鹿女、何を……何をした!?」
カイルは、かつて自分がエルゼに放った言葉を思い出していた。
『お前の代わりなど、いくらでもいる』
その言葉が、今、猛毒となって自分に突き刺さっている。
代わりなど、いなかった。
この悪夢のような腐敗と、魂を削る悪臭から自分たちを守っていた唯一の防壁を、自分たちは笑いながら捨てたのだ。
「……う、うわあああああ!」
カイルは発狂したように叫びながら、窓を突き破って外の空気を求めた。
だが、窓の外の庭園からも、もはや救いの匂いはしなかった。
シュトラール王宮は、この日をもって「死の館」へとその名を書き換えられた。
かつて「無価値な置物」が守っていた平和は、二度と戻らない。
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