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第1話:氷の誓約
窓の外では、吹き荒れる吹雪が重厚な石造りの壁を叩いている。
帝国北端、冬告げの領地と呼ばれる公爵領の夜は、すべてを拒絶するように冷たい。
婚礼の儀を終えたばかりのエリスは、私邸の一室で独り、背筋を伸ばして座っていた。
身に纏っているのは、最高級のシルクで仕立てられた純白のドレスだ。
しかし、鏡に映る自身の姿は、美しき花嫁というよりも、棺に横たわるのを待つ亡骸のように血の気が失せている。
エリスは静かに口元を抑えた。
込み上げてくる鉄の味を、手の中の絹のハンカチに吸い込ませる。
純白の布地に、どす黒い赤が不吉な紋章のように広がった。
彼女はそれを手早く畳み、ドレスの隠しポケットの奥深くに押し込む。
「……まだ、今は、バレるわけにはいかないわ」
喉の奥で震える声は、風の音にかき消された。
彼女の命は、持ってあと数ヶ月。
この結婚は、没落寸前の実家を救うための「売買」であり、彼女にとっては人生の「終着駅」だった。
扉が開く。
冷気と共に部屋に入ってきたのは、この領地の主であり、今日から彼女の夫となった男――アルベルト・フォン・アイゼンベルク公爵だった。
彼は礼装のまま、エリスから数歩離れた位置で足を止める。
琥珀色の瞳は鋭く、そこには新妻への情愛など微塵も存在しなかった。
ただ、冬の湖面のような硬質な拒絶だけが漂っている。
「……エリス嬢。形式上の挨拶は不要だろう」
アルベルトの声は低く、部屋の温度をさらに数度下げたように感じられた。
エリスは椅子から立ち上がり、淑女の礼を執る。
「はい、閣下。お望みのままに」
その従順な態度が気に入らなかったのか、アルベルトは不機嫌そうに眉を寄せた。
彼は部屋の中央にある暖炉にも目を向けず、吐き捨てるように言葉を継いだ。
「最初に断っておく。俺は君を愛することはない。この結婚に求めたのは、公爵家としての体裁と、君の家系が持つ魔力耐性の血筋だけだ」
エリスはその言葉を、正面から静かに受け止めた。
普通の女性であれば、絶望に打ちひしがれ、涙を流す場面かもしれない。
だが、エリスの胸に去来したのは、震えるほどの安堵だった。
(ああ、よかった……。愛されないのであれば、私は安心して死ねる)
もし彼が慈悲深く、彼女を愛してしまったら。
彼女が死にゆく際、彼に「取り返しのつかない傷」を負わせてしまう。
それは、彼を愛しているエリスにとって、何よりも避けたい悲劇だった。
「承知いたしました、閣下。私も、あなた様に愛を乞うような真似はいたしません。ただ、この命がある限り、公爵夫人の務めだけは果たさせていただきます」
エリスは微笑んだ。
それは、死を覚悟した者だけが浮かべられる、清廉で空虚な微笑だった。
アルベルトはその表情に一瞬だけ微かな違和感を覚えたようだが、すぐに冷徹な仮面を取り戻す。
「賢明だな。君にはこの離宮を与える。生活に必要なものはすべて用意させるが、俺の執務室や本邸へ無断で立ち入ることは禁ずる。週に一度の食事会以外で、顔を合わせることもないだろう」
「はい。十分すぎるお心遣いです」
「それと……」
アルベルトが言葉を切る。
彼の視線が、エリスの細すぎる手首や、不自然に白い肌に向けられた。
彼は忌々しげに目を逸らし、背を向ける。
「この家には、古くからの呪いがある。俺に近づきすぎれば、君もその毒れに当てられる。独りでいることが、君の身を守ることにもなる。……わかったら、さっさと寝るがいい」
彼はそれだけ言い残すと、一度も振り返ることなく部屋を去った。
バタン、という重い扉の音が、二人の関係を決定づける断絶の合図のように響いた。
静寂が戻った部屋で、エリスは膝から崩れ落ちた。
再び激しい咳が彼女を襲う。
今度は隠す必要もなく、彼女の手のひらは鮮血で真っ赤に染まった。
「……痛い。でも、これでいいの」
彼女は床にこぼれた血を、震える手で拭い去る。
魔力とは、この世界において「魂の燃え滓」だと言われている。
強すぎる魔力を持つ公爵家は、その魂を燃やし尽くす過程で、正気を失うか、最愛の者を失う絶望で覚醒する。
彼女の体内で暴れる魔力は、すでに彼女の臓器を焼き尽くそうとしていた。
愛されず、疎まれ、忘れ去られること。
それが、エリスが愛するアルベルトへ捧げられる、最後で最大の献身だった。
暗い部屋の中、エリスは窓の外の吹雪を見つめながら、静かに眠りについた。
明日から始まる、誰にも看取られない死へのカウントダウンを想いながら。
帝国北端、冬告げの領地と呼ばれる公爵領の夜は、すべてを拒絶するように冷たい。
婚礼の儀を終えたばかりのエリスは、私邸の一室で独り、背筋を伸ばして座っていた。
身に纏っているのは、最高級のシルクで仕立てられた純白のドレスだ。
しかし、鏡に映る自身の姿は、美しき花嫁というよりも、棺に横たわるのを待つ亡骸のように血の気が失せている。
エリスは静かに口元を抑えた。
込み上げてくる鉄の味を、手の中の絹のハンカチに吸い込ませる。
純白の布地に、どす黒い赤が不吉な紋章のように広がった。
彼女はそれを手早く畳み、ドレスの隠しポケットの奥深くに押し込む。
「……まだ、今は、バレるわけにはいかないわ」
喉の奥で震える声は、風の音にかき消された。
彼女の命は、持ってあと数ヶ月。
この結婚は、没落寸前の実家を救うための「売買」であり、彼女にとっては人生の「終着駅」だった。
扉が開く。
冷気と共に部屋に入ってきたのは、この領地の主であり、今日から彼女の夫となった男――アルベルト・フォン・アイゼンベルク公爵だった。
彼は礼装のまま、エリスから数歩離れた位置で足を止める。
琥珀色の瞳は鋭く、そこには新妻への情愛など微塵も存在しなかった。
ただ、冬の湖面のような硬質な拒絶だけが漂っている。
「……エリス嬢。形式上の挨拶は不要だろう」
アルベルトの声は低く、部屋の温度をさらに数度下げたように感じられた。
エリスは椅子から立ち上がり、淑女の礼を執る。
「はい、閣下。お望みのままに」
その従順な態度が気に入らなかったのか、アルベルトは不機嫌そうに眉を寄せた。
彼は部屋の中央にある暖炉にも目を向けず、吐き捨てるように言葉を継いだ。
「最初に断っておく。俺は君を愛することはない。この結婚に求めたのは、公爵家としての体裁と、君の家系が持つ魔力耐性の血筋だけだ」
エリスはその言葉を、正面から静かに受け止めた。
普通の女性であれば、絶望に打ちひしがれ、涙を流す場面かもしれない。
だが、エリスの胸に去来したのは、震えるほどの安堵だった。
(ああ、よかった……。愛されないのであれば、私は安心して死ねる)
もし彼が慈悲深く、彼女を愛してしまったら。
彼女が死にゆく際、彼に「取り返しのつかない傷」を負わせてしまう。
それは、彼を愛しているエリスにとって、何よりも避けたい悲劇だった。
「承知いたしました、閣下。私も、あなた様に愛を乞うような真似はいたしません。ただ、この命がある限り、公爵夫人の務めだけは果たさせていただきます」
エリスは微笑んだ。
それは、死を覚悟した者だけが浮かべられる、清廉で空虚な微笑だった。
アルベルトはその表情に一瞬だけ微かな違和感を覚えたようだが、すぐに冷徹な仮面を取り戻す。
「賢明だな。君にはこの離宮を与える。生活に必要なものはすべて用意させるが、俺の執務室や本邸へ無断で立ち入ることは禁ずる。週に一度の食事会以外で、顔を合わせることもないだろう」
「はい。十分すぎるお心遣いです」
「それと……」
アルベルトが言葉を切る。
彼の視線が、エリスの細すぎる手首や、不自然に白い肌に向けられた。
彼は忌々しげに目を逸らし、背を向ける。
「この家には、古くからの呪いがある。俺に近づきすぎれば、君もその毒れに当てられる。独りでいることが、君の身を守ることにもなる。……わかったら、さっさと寝るがいい」
彼はそれだけ言い残すと、一度も振り返ることなく部屋を去った。
バタン、という重い扉の音が、二人の関係を決定づける断絶の合図のように響いた。
静寂が戻った部屋で、エリスは膝から崩れ落ちた。
再び激しい咳が彼女を襲う。
今度は隠す必要もなく、彼女の手のひらは鮮血で真っ赤に染まった。
「……痛い。でも、これでいいの」
彼女は床にこぼれた血を、震える手で拭い去る。
魔力とは、この世界において「魂の燃え滓」だと言われている。
強すぎる魔力を持つ公爵家は、その魂を燃やし尽くす過程で、正気を失うか、最愛の者を失う絶望で覚醒する。
彼女の体内で暴れる魔力は、すでに彼女の臓器を焼き尽くそうとしていた。
愛されず、疎まれ、忘れ去られること。
それが、エリスが愛するアルベルトへ捧げられる、最後で最大の献身だった。
暗い部屋の中、エリスは窓の外の吹雪を見つめながら、静かに眠りについた。
明日から始まる、誰にも看取られない死へのカウントダウンを想いながら。
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