忘れて幸せになってください。〜冷酷な妻として追い出せれましたが、貴方の呪いは私が肩代わりしていました〜

しょくぱん

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第8話:崩れる平穏

馬車の揺れは規則正しく、窓の外を流れる公爵領の景色は、あの大爆発があったとは思えないほどに穏やかな陽光に包まれていた。
だが、車内の空気は、薄氷を履むような危うい静寂せいじゃくに支配されている。
アルフレートは、向かいの席に座るエルゼを、盗み見るように視線を向けた。
彼女は、膝の上に置いた自分の手をじっと見つめている。以前のように、彼と目が合って頬を染めることもなければ、彼の体調を案じて甲斐甲斐しく毛布をかけ直すこともない。
「……エルゼ。もうすぐだ。覚えているか?ここは、俺たちが初めて出会った……」
「いいえ。何も」
遮るような言葉に、アルフレートの胸がきしむ。
エルゼは窓の外を見やり、まるで初対面の案内人の説明を聞くような、事務的な口調で続けた。
「記録にはあります。八歳の春、建国記念祭の折、迷子になった私を閣下が助けてくださったと。ですが、その時の風の冷たさも、閣下の差し出した手の温もりも……今の私には、ただの文字情報でしかありません」
感情の欠落とは、かくも残酷なものか。
彼女の中から、彼と積み上げてきた十数年の時間が、色彩を失った抜け殻ぬけがらとなって剥がれ落ちていた。
馬車が止まったのは、領地の外れにある小高い丘――『始まりの丘』だ。
そこには、かつて二人が婚約を誓い合った際、共に植えた一本の若木があった。
今や立派な大樹となったその木の根元に、ガストンが予言した『感情の残滓』が滞留しているという。
「……待っていてくれ、エルゼ」
アルフレートは馬車を降り、丘の頂上へと歩き出した。
背後に付き従う騎士たちを遠ざけ、彼は一人、大樹の前に立つ。
見れば、木の根元付近の空間が、陽炎のようにゆらゆらと歪んでいた。
そこには、どす黒い紫色の霧が、まるで澱みのように溜まっている。
(これが……エルゼが捨てた、痛みの一部か)
アルフレートがその霧に手を触れようとした瞬間、背後でガストンの声が響いた。
いつの間にか現れた隠者は、木陰でパイプを燻らせている。
「忠告しておくぞ、公爵。それは彼女が『初めて、お前に忘れられた日』の絶望だ。愛する男に他人を見るような目を向けられ、それでも笑って『大丈夫です』と嘘をついた、あの日の慟哭どうこくだ。……並の男なら、心が折れるぞ」
「……構わん。俺が、彼女に強いたものだ」
アルフレートは、迷わずその霧の中へ右手を突き入れた。
刹那。
「――っ、あ、あぁああああああああッ!!」
凄まじい衝撃しょうげきがアルフレートの脳を直撃した。
視界が真っ白に染まり、全身の血管に氷水を流し込まれたような錯覚に陥る。
『……だれ、だ……?』
脳裏に、自分自身の冷酷な声が響く。
三年前、戦場で目覚めたばかりの自分が、エルゼに向けて放った最初の一言。
その瞬間、エルゼの胸がどれほど鋭く切り裂かれたか。
張り付いた笑顔の裏側で、どれほどの血を流し、どれほど深い暗闇に突き落とされたか。
「……は、あ……っ、ごふっ!!」
アルフレートは膝をつき、大量の血を吐き出した。
肉体的な傷ではない。心が、彼女の味わった孤独こどくという猛毒に耐えきれず、悲鳴を上げているのだ。
(これほど……これほどの寒さの中で、お前は……一人で立っていたのか……!)
視界が歪む。涙が止まらない。
それはアルフレート自身の涙ではなく、彼が引き受けた、エルゼの『あの日流せなかった涙』だった。
絶望が、彼の魂を蝕んでいく。
「俺を知らない」と言われる恐怖。
「貴様など知らない」と言い放つ自分。
その板挟みの中で、壊れそうになりながらも、ただ彼の命を繋ぐためにを払い続けた少女の、報われない愛。
「……エル……ゼ……すまない……すまない……!!」
アルフレートは泥にまみれ、何度もその名を呼んだ。
霧が徐々に、彼の右腕へと吸い込まれていく。
感情の回収。それは、彼女の記憶を戻すことではなく、彼女が失った『重み』を彼が代わりに背負うという儀式。
一方、丘の下でその様子を眺めていたエルゼの胸に、一瞬だけ、鋭いうずきが走った。
(……何、かしら。この、嫌な感じは)
彼女は無意識に、胸元を押さえた。
感情はないはずなのに、目の前で泥にまみれて泣き叫ぶ男の姿が、どうしようもなく「正しくない」と感じられる。
まるで、パズルのピースが一つだけ、無理やり嵌め込まれたような違和感。
やがて霧が完全に消え去ると、アルフレートは、幽霊のような足取りでエルゼのもとへと戻ってきた。
彼の髪は一瞬で白髪が混じり、瞳には耐え難いほどの疲労が色濃く刻まれている。
「……エルゼ」
彼は、震える手で彼女の肩に触れた。
今度は、呪いの反動はない。
代わりに、アルフレートの指先から、冷気がエルゼへと伝わった。
「……閣下。お怪我は?」
「……大丈夫だ。ただ……少しだけ、思い出したんだ。貴様が、あの日……どんなに寒かったかを」
アルフレートの瞳から、一筋の涙が零れ落ち、エルゼの頬に触れた。
その瞬間、エルゼの瞳に、微かな色彩が戻った。
「……あ」
彼女の脳裏に、古い映像がフラッシュバックする。
八歳の春。迷子になった自分を、大きな手が救ってくれたこと。
その手の温もり。
今、アルフレートの涙が触れた場所が、熱い。
理屈ではない。ただ、懐かしくて、胸が締め付けられるような、名もなき感覚。
「……閣下、私は……」
エルゼが言葉を発しようとした、その時。
丘の向こう側、公爵領の中心街から、赤黒い不気味な煙が立ち昇った。
「なっ……あれは……!」
騎士たちが叫ぶ。
それは、かつてリリアーヌが操っていた魔力の残滓に似ていたが、より禍々まがまがしく、より巨大なを孕んでいた。
「……回収した感情が、引き金を引いたか」
ガストンが冷たく告げた。
「いいか、公爵。お前が彼女の『痛み』を引き受ければ引き受けるほど、この土地に眠っていた魔王の残滓ざんしもまた、その負の感情に引き寄せられて活性化する。……平穏な時間は、もう終わりだ」
アルフレートは、エルゼを自身の背後に隠すように立ちはだかった。
彼の体温は、先ほどの回収の影響で、氷のように冷え切っている。
だが、その内側に燃える意志だけは、誰にも消せないほどに強かった。
「……行くぞ。エルゼ。……俺が、必ず、貴様を元の場所へ戻す」
エルゼは、彼の広い背中を見つめていた。
まだ、彼を「愛している」という言葉の意味は分からない。
けれど、この冷え切った彼の手を、離してはならないということだけは、本能が告げていた。
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