死ぬ瞬間にだけ、愛してほしい

しょくぱん

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第1話:身代わりの聖女は、夜にだけ咲く

 熱い。右腕が、溶けた鉄を流し込まれたかのように熱い。
 エルゼは奥歯を噛み締め、声にならない悲鳴を喉の奥で押し殺した。薄暗い天蓋付きの寝台、その豪奢なカーテンの裏側に潜み、震える指先を姉・リリアーヌの背中に押し当てる。

「……っ、ふ、ぅ……」

 血管を逆流するような魔力の奔流。それは「癒やし」などという生易しいものではない。
 王太子アルベルトの右腕を深く裂いた魔獣の毒、砕かれた骨、削げ落ちた肉――そのすべてを、リリアーヌという『媒介』を通じて、エルゼ自身の肉体へと引き受ける儀式だ。

「ああ、アルベルト様……なんて酷いお怪我……」

 カーテンの向こう側で、リリアーヌがうっとりとするような甘い声を上げた。
 彼女はアルベルトの傷口に白く細い手を添えているだけだ。実際に魔力を編み、命を削っているのはエルゼだというのに。

 エルゼの視界が、火花の散るような白光に染まる。
 視覚が奪われ、代わりに嗅覚が鋭敏になった。鼻を突くのは、アルベルトの鎧に染み付いた血の匂いと、リリアーヌが振り撒く安っぽい薔薇の香水の香り。そして、自分自身の皮膚が焼ける、生臭い鉄の匂いだ。

 ぴしゃり、と床に何かが滴る音がした。
 エルゼの右腕の袖が、じわりと赤黒く染まっていく。
 アルベルトの傷が塞がるたび、エルゼの肌には同じ形の裂傷が刻まれ、骨が軋みながら形を変えていく。肺から空気が漏れ、心臓が爆ぜるような衝撃に襲われた。

(……あ、……あ、さま……)

 心の中で、愛しい人の名を呼ぶ。
 彼が無事であればいい。彼が明日も剣を振るえるのなら、この腕の一本や二本、安いものだ。
 やがて、アルベルトの荒かった呼吸が整い、静かな寝息へと変わる。

「終わったわ。下がっていいわよ、エルゼ」

 リリアーヌの冷淡な声が響いた。
 エルゼは、もつれる足取りでカーテンの影から這い出した。右腕は感覚を失い、だらりと力なく垂れ下がっている。激痛のあまり、視界は霞み、冷や汗が滝のように頬を伝った。

「……お、お姉様……。殿下は、ご無事、で……」
「見てわからないの? 私の……いいえ、『聖女』である私の力で完璧に癒えたわ。あなたの不気味な魔力も、少しは役に立ったようね」

 リリアーヌは勝ち誇ったように笑い、アルベルトの寝顔を見つめる。
 その時、アルベルトの瞼が微かに動いた。

「……ん、……リリア、ーヌ……?」
「ええ、殿下。ここに居りますわ。私が、お救いいたしました」

 アルベルトがゆっくりと上体を起こす。その瞳には、献身的に自分を救ってくれた(と信じている)美しい婚約者への、深い信頼と慈しみが宿っていた。
 エルゼは、その光景を視界の端に入れながら、部屋の隅へと退こうとした。
 だが、床に滴り落ちた自分の血に足を滑らせ、派手な音を立てて転倒してしまう。

「が、はっ……!」

 床に打ち付けた右腕に、再び狂ったような激痛が走った。
 アルベルトの冷徹な視線が、床に這いつくばるエルゼへと向けられる。先ほどリリアーヌに向けられていた温もりは、一瞬で氷点下まで凍りついた。

「……何をしている、エルゼ」
「あ……で、殿下。申し訳、ございませ……っ」
「相変わらず不気味な女だ。そんなところで何を汚らしく撒き散らしている」

 アルベルトの視線が、エルゼの血で汚れた床と、痣だらけの首筋を射抜く。
 彼は知らない。その血も、その痣も、すべて今しがたまで彼を苦しめていた傷そのものであることを。

「殿下、この子はいつもこうなんです。あなたの快癒を祝う席にも、このような陰気な顔で現れるのでしょうね」
「ふん……。リリアーヌ、君のような清浄な光のそばに、この女を置くのは間違いだったな。エルゼ、さっさと消えろ。私の視界を汚すな」

 突き放すような言葉。
 それは、今も彼を救った代償で脈打つエルゼの傷口を、直接抉られるよりも痛かった。

「……失礼、いたしまし……た……」

 エルゼは震える膝を突き、這うようにして部屋を出た。
 廊下を歩く間も、壁を伝わなければ立っていられない。右腕の傷口から溢れる血が、豪奢な絨毯に点々と赤い花を咲かせていく。

 ようやく辿り着いた、屋敷の隅にある物置のような自室。
 エルゼは鍵を閉めると、そのまま床に崩れ落ちた。
 震える手で鏡を見る。
 そこには、痛みに歪み、青白く、生気を失った十九歳の少女がいた。
 ふと、鏡の中の自分に違和感を覚える。

「……あ……」

 一房。
 漆黒だったはずの自分の髪が、根本から雪のように白く染まっていた。
 命を削り、寿命を譲渡した証。

 エルゼは、感覚のない右腕を左手で抱きしめた。
 彼には蔑まれ、姉には利用されるだけの日々。
 けれど、右腕に残るこの激痛こそが、アルベルトが生きている証拠。彼が明日も、その健やかな腕で誰かを守れるという証なのだ。

「嬉しい……」

 掠れた声が、暗い部屋に溶ける。
 エルゼは、白くなった髪を愛おしそうになぞりながら、血に濡れた唇で、誰にも届かない微笑を浮かべた。

「あなたが……生きていてくれるなら。私は、何度でも……」

 窓の外、夜にだけ咲くという月見草が、静かに露に濡れていた。
 それはまるで、報われることのない、彼女の涙のように見えた。
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