死ぬ瞬間にだけ、愛してほしい

しょくぱん

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第2話:思い出の欠片、誰がために

 翌朝、王宮の回廊は眩いばかりの陽光に満ちていた。
 エルゼは、麻痺したように重い右腕を厚い包帯で巻き、ゆったりとした長袖の掃除着で隠して、一人床を磨いていた。昨夜、アルベルトから引き受けた傷は、まだ生々しく肉を裂いたままだ。一拭きするごとに、傷口が衣類と擦れ、焼けるような痛みが脳を揺らす。

「あぁ、やはりこの守り袋は私の命を救ってくれる。君が込めてくれた祈りのおかげだ、リリアーヌ」

 聞き慣れた、けれど自分には決して向けられない慈愛に満ちた声。
 エルゼの手が止まる。視線を上げると、回廊の先からアルベルトとリリアーヌが親密に歩み寄ってくるのが見えた。

 アルベルトの腰元には、古びて糸がほつれた、不釣り合いなほど質素な守り袋がぶら下がっている。
 それを見た瞬間、エルゼの胸の奥が、右腕の傷以上に激しく疼いた。

(……あ。まだ、持ってくださっている……)

 それは十年前、森で迷い、魔獣に襲われかけた彼を助けた際、エルゼが渡したものだ。当時、庶子として虐げられていた彼女が、自分の服の裏地を裂き、不格好に縫い合わせて作った、たった一つの宝物。
 中には、彼の無事を祈ってエルゼが指先を針で刺し、血で綴った秘められた魔術の護符が入っている。

「ふふ、殿下ったら。そんなに昔のことを……。私、あの時は必死でしたのよ?」

 リリアーヌが、さも自分が作ったかのような顔で、優雅に微笑む。
 アルベルトは愛おしげにその守り袋を指でなぞった。

「あの時、君が私を見つけてくれなければ、今の私はない。この不格好な刺繍を見るたび、私は君の献身を思い出すんだ」

 違う。
 その刺繍の、少し歪んだ星の形は、エルゼが凍える指先で彼を想いながら縫ったものだ。
 彼を見つけ、泥だらけになって安全な場所まで運んだのは、リリアーヌではない。

 エルゼは、溢れそうになる言葉を飲み込み、深く頭を垂れた。床に這いつくばる彼女の視界に、二人の豪華な靴が入り込む。

「……っ」

 不意に、激痛が走る右腕に力が入り、エルゼの手から雑巾が滑り落ちた。それは不運にも、アルベルトの磨き上げられた長靴を汚してしまう。

「……なっ! 何をするのよ、この泥女!」

 リリアーヌの鋭い声。アルベルトの視線が、冷ややかにエルゼを見下ろした。

「またお前か、エルゼ。……昨夜と言い、今日と言い、君はリリアーヌの品位を汚すことしかできないのか?」
「も、申し訳ございません……殿下……」

 エルゼは震える手で靴を拭こうとした。だが、その指先が、彼の腰に下がる守り袋に触れそうになった瞬間。
 アルベルトは嫌悪感を露わにし、彼女の手を荒々しく振り払った。

「触るな! お前のような薄汚い執着を持つ女が、この神聖な思い出に触れていいはずがない」
「あ……」
「これはリリアーヌが私にくれた、至高の愛の証だ。呪いのような視線でこれを見るな。お前の存在そのものが、私たちの思い出を汚しているんだ」

 至高の愛。
 それは、エルゼが彼に捧げ続けてきた人生そのものだった。
 それを、本人の目の前で「お前が汚している」と断じられる。

 アルベルトは、守り袋を庇うようにしてリリアーヌの肩を抱き、去っていった。
 リリアーヌが去り際、振り返ってエルゼにだけ見えるように、歪んだ嘲笑を浮かべる。

「……う、あ……」

 一人残された回廊。エルゼは血の滲む包帯を床に押し付け、声を殺して泣いた。
 彼が守り袋を大切にしてくれている。それだけで、死んでもいいほど幸せだったはずなのに。
 彼がそれを大切に想えば想うほど、彼はリリアーヌを深く愛し、真の持ち主であるエルゼを、深く、深く、憎んでいく。

 エルゼはふと、自分の左手の指先を見た。
 昨夜の治癒の代償だろうか。指先の感覚が、少しずつ、氷のように冷たく麻痺し始めている。

(いつか、この手も動かなくなる……。そしたらもう、あなたに新しいお守りを作ってあげることも、できないのね……)

 自分の愛が、自分の手から、一秒ごとに零れ落ちていく。
 それでもエルゼは、彼が去っていった無人の廊下に向かって、深く、深く、祈るように頭を下げ続けた。
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