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第6話:毒の抱擁
その晩餐は、アルベルトの魔獣討伐からの完全復帰を祝うための、ごく内輪の席だった。
だが、エルゼの濁った視界には、卓上に並ぶ銀食器も、揺らめく蝋燭の火も、すべてが不吉な影に見えた。
「――殿下、こちらのワインを。わたくしが選びましたの」
リリアーヌが、給仕の手からボトルを奪い、自慢げにアルベルトの杯を満たす。
その瞬間だった。
エルゼの鼻腔を、かすかな違和感が突いた。熟成された葡萄の香りの裏側に隠れた、腐った林檎のような、甘く冷たい死の匂い。
(……毒。それも、即効性の腐食毒……!)
心臓が跳ねた。叫ぼうとしたが、冷雨に打たれた喉は、掠れた吐息を漏らすことしかできない。
アルベルトが、無防備にその杯を唇へ運ぼうとした。
「……ッ、だめ……っ!」
エルゼは足をもつれさせながら、給仕の列を飛び出した。
ガシャァァン! と耳障りな音を立てて、彼女はアルベルトの腕を突き飛ばした。
「なっ……!?」
アルベルトが驚愕に目を見開く。
エルゼは床に落ちる前の杯を空中で奪い取ると、そのまま、中の液体を一気に飲み干した。
「ごふっ、……ぁ、ああぁぁッ!!」
喉を通った瞬間、火のついた炭を飲み込んだような激痛が走った。
食道が焼け、胃が裏返るような衝撃。視界が真っ赤に染まり、膝から崩れ落ちそうになる。
だが、まだ終われない。彼の唇には、毒液が数滴、付着したままだ。
「エルゼ! 何を狂った真似を……っ」
憤怒の声を上げるアルベルトの胸ぐらを、エルゼは必死に掴んだ。
そして、己の焼ける唇を、彼の唇へと力任せに押し当てた。
「――!?!?!?」
アルベルトの体が、凍りついたように硬直する。
エルゼは残された魔力をすべて使い、彼の粘膜に付着した毒を一滴残らず、己の口内へと吸い出した。
熱い。痛い。
舌が痺れ、喉の奥からせり上がる血の味が、彼の体温とともに混ざり合う。
吸い出し終えた瞬間、エルゼは力なく突き飛ばされた。
「……貴様、……貴様ッ!!」
アルベルトは、信じられないものを見る目で、自分の唇を乱暴に拭った。
その顔は、屈辱と激しい怒りで真っ赤に染まっている。
「衆目の中で、姉の婚約者に……! この私に、こんな……卑劣な、破廉恥な真似を!!」
「あ、……っ、げほっ……!」
床に這いつくばったエルゼの口から、どろりとどす黒い血が溢れた。
毒で喉の粘膜が焼け落ち、肉が溶け始めている。声にならない悲鳴が、ただの不気味な風切り音となって漏れる。
「殿下! 大丈夫ですか!?」
リリアーヌが駆け寄り、アルベルトを庇うようにエルゼを睨みつけた。
「なんて卑しい女……! 私への嫉妬が狂気になったのね! 殿下の唇を奪えば、自分が選ばれるとでも思ったの!?」
「狂っている……。ここまでの女だったとは」
アルベルトの眼差しは、もはや怒りを超え、深淵のような軽蔑へと変わっていた。
彼は足元で苦悶にのたうち回るエルゼの肩を、軍靴の先で無慈悲に蹴りつけた。
「毒婦め。その穢れた唇で私に触れたこと、死ぬまで後悔させてやる」
毒が回る。
内臓が焼かれ、意識が遠のく中、エルゼが見たのは。
毒入りのワインを注いだリリアーヌが、アルベルトの腕の中で、エルゼにだけ向けて放った「成功」の微笑みだった。
(……よかった……。あなたが、……死ななくて……)
エルゼは、もはや涙を流すこともできなくなった瞳で、去りゆく彼の背中を見つめた。
喉からは、ただ、じゅうじゅうと命が焼ける音だけが聞こえていた。
だが、エルゼの濁った視界には、卓上に並ぶ銀食器も、揺らめく蝋燭の火も、すべてが不吉な影に見えた。
「――殿下、こちらのワインを。わたくしが選びましたの」
リリアーヌが、給仕の手からボトルを奪い、自慢げにアルベルトの杯を満たす。
その瞬間だった。
エルゼの鼻腔を、かすかな違和感が突いた。熟成された葡萄の香りの裏側に隠れた、腐った林檎のような、甘く冷たい死の匂い。
(……毒。それも、即効性の腐食毒……!)
心臓が跳ねた。叫ぼうとしたが、冷雨に打たれた喉は、掠れた吐息を漏らすことしかできない。
アルベルトが、無防備にその杯を唇へ運ぼうとした。
「……ッ、だめ……っ!」
エルゼは足をもつれさせながら、給仕の列を飛び出した。
ガシャァァン! と耳障りな音を立てて、彼女はアルベルトの腕を突き飛ばした。
「なっ……!?」
アルベルトが驚愕に目を見開く。
エルゼは床に落ちる前の杯を空中で奪い取ると、そのまま、中の液体を一気に飲み干した。
「ごふっ、……ぁ、ああぁぁッ!!」
喉を通った瞬間、火のついた炭を飲み込んだような激痛が走った。
食道が焼け、胃が裏返るような衝撃。視界が真っ赤に染まり、膝から崩れ落ちそうになる。
だが、まだ終われない。彼の唇には、毒液が数滴、付着したままだ。
「エルゼ! 何を狂った真似を……っ」
憤怒の声を上げるアルベルトの胸ぐらを、エルゼは必死に掴んだ。
そして、己の焼ける唇を、彼の唇へと力任せに押し当てた。
「――!?!?!?」
アルベルトの体が、凍りついたように硬直する。
エルゼは残された魔力をすべて使い、彼の粘膜に付着した毒を一滴残らず、己の口内へと吸い出した。
熱い。痛い。
舌が痺れ、喉の奥からせり上がる血の味が、彼の体温とともに混ざり合う。
吸い出し終えた瞬間、エルゼは力なく突き飛ばされた。
「……貴様、……貴様ッ!!」
アルベルトは、信じられないものを見る目で、自分の唇を乱暴に拭った。
その顔は、屈辱と激しい怒りで真っ赤に染まっている。
「衆目の中で、姉の婚約者に……! この私に、こんな……卑劣な、破廉恥な真似を!!」
「あ、……っ、げほっ……!」
床に這いつくばったエルゼの口から、どろりとどす黒い血が溢れた。
毒で喉の粘膜が焼け落ち、肉が溶け始めている。声にならない悲鳴が、ただの不気味な風切り音となって漏れる。
「殿下! 大丈夫ですか!?」
リリアーヌが駆け寄り、アルベルトを庇うようにエルゼを睨みつけた。
「なんて卑しい女……! 私への嫉妬が狂気になったのね! 殿下の唇を奪えば、自分が選ばれるとでも思ったの!?」
「狂っている……。ここまでの女だったとは」
アルベルトの眼差しは、もはや怒りを超え、深淵のような軽蔑へと変わっていた。
彼は足元で苦悶にのたうち回るエルゼの肩を、軍靴の先で無慈悲に蹴りつけた。
「毒婦め。その穢れた唇で私に触れたこと、死ぬまで後悔させてやる」
毒が回る。
内臓が焼かれ、意識が遠のく中、エルゼが見たのは。
毒入りのワインを注いだリリアーヌが、アルベルトの腕の中で、エルゼにだけ向けて放った「成功」の微笑みだった。
(……よかった……。あなたが、……死ななくて……)
エルゼは、もはや涙を流すこともできなくなった瞳で、去りゆく彼の背中を見つめた。
喉からは、ただ、じゅうじゅうと命が焼ける音だけが聞こえていた。
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