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第25話:「私を、忘れてください」
花畑に、音はなかった。
あれほど激しく吹き荒れていた黒い呪いの霧は霧散し、ただ静寂だけが世界を支配している。アルベルトの腕の中には、もはや彼女の体温も、白銀の髪も、透き通るような肌も存在しない。
そこにあるのは、かつて彼が「薄汚い」と罵った、泥と血に汚れたエルゼの衣服の残骸だけだった。
「……ぁ……あ……」
アルベルトの喉から、声にならない嗚咽が漏れる。
彼の胸には、エルゼが魂と引き換えに刻んだ「絶対の守護」の紋章が、彼女の命の火照りを伝えるように熱く脈打っている。守られた。またしても。彼女は死の間際にあってさえ、自分の苦痛ではなく、自分を死に追いやった男の安寧を優先したのだ。
アルベルトの精神は、そのあまりの理不尽さと絶望に耐えきれず、深い深い暗闇へと沈んでいった。
――気がつくと、彼は真っ白な空間に立っていた。
空も地面も境界がなく、ただ柔らかな光だけが満ちている場所。そこは、彼の肉体に刻まれたエルゼの魂と、アルベルトの意識が交差する「魂の境界線」だった。
「……アルベルト様」
聞き覚えのある、けれど今はもう失われてしまった、鈴を転がすような澄んだ声。
アルベルトが弾かれたように顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。
白銀の髪ではない。盲目の灰色でもない。
痣ひとつない透き通るような肌に、春の陽だまりのような金色の髪。若草色の瞳を輝かせ、はにかむように微笑む――それは、彼がリリアーヌだと信じ込み、その実エルゼであった、あの日の「初恋の少女」の姿だった。
「エルゼ……! エルゼなのか!?」
アルベルトは狂ったように駆け寄った。今度こそ離さないと、その細い肩を抱きしめようとする。だが、彼の手は虚しく空を切り、彼女の体をすり抜けた。
「……わたくしは、もうここにはいません。これは、あなたの胸に刻まれた、わたくしの想いの『残り香』に過ぎないのです」
エルゼは悲しげに、けれど慈愛に満ちた表情で首を振った。
「嫌だ……そんなことは言わないでくれ! 戻ってきてくれ、エルゼ! 私はまだ、お前に何も返していない。謝ることさえ、愛していると言うことさえ、お前には届いていないんだ!!」
アルベルトは地面に膝をつき、触れられない彼女の足元に縋り付いた。
エルゼはゆっくりと屈み込み、触れることのない手で、彼の白銀に染まった髪を優しく撫でる仕草をした。
「アルベルト様。あなたは十分、苦しんでくださいました。わたくしの痛みを知り、わたくしのために泣いてくださった……それだけで、わたくしの10年は報われたのです」
「報われるものか! お前は死んだんだぞ!? 私を守るために、魂まで削って……!」
「いいえ、アルベルト様。わたくしは『守る』ために生まれたのです。あなたという光を、絶やさないために。……だから、最後にお願いがあります」
エルゼの瞳から、一筋の光の雫がこぼれ落ちた。
彼女は、覚悟を決めたような、あまりにも残酷な微笑みを浮かべた。
「わたくしを、忘れてください」
その一言が、アルベルトの心臓を物理的に握りつぶしたかのような衝撃を与えた。
「何を……何を言っているんだ……?」
「わたくしとの思い出は、あなたにとって毒でしかありません。わたくしを思い出すたび、あなたは自分を責め、血を吐くような後悔に苛まれる。そんな人生を、わたくしは望んでいません。……わたくしが欲しかったのは、あなたの『謝罪』ではなく、あなたの『幸福』なのです」
エルゼの体が、淡い光を放ち始める。
彼女は、自分自身の存在をアルベルトの記憶から切り離し、彼を「罪悪感」という名の監獄から解放しようとしていた。聖女としての最後の奇跡を、彼女は自分の救済ではなく、彼からの「忘却」のために使おうとしているのだ。
「わたくしという影を捨てて、前を向いてください。あの日、草原で笑い合った少女のことなど、ただの夢だったと思って……。あなたは、立派な王になり、誰かを愛し、笑って生きてください。それが、わたくしの最後にして最大の願いです」
「ふざけるな……!!」
アルベルトが絶叫した。その瞳には、怒りにも似た激しい拒絶の炎が宿っていた。
「お前を忘れて手に入れる幸福など、この世で最も汚らわしい地獄だ! お前を犠牲にして、お前を無かったことにして、のうのうと生きる自分を、私が許せると思うのか!? 忘れない……絶対に忘れないぞ! お前の痛みも、お前の声も、お前の温もりも、この胸に刻まれた呪いと共に、死ぬまで、いや死んでも抱えていく!」
アルベルトは、消えゆく彼女の光を無理やり掴もうと、自分の胸をかきむしった。
紋章が激しく反応し、熱を放つ。
「私を救いたいなら、私を『罪人』のままにしておけ! お前を忘れることは、お前を二度殺すことだ。そんな慈悲などいらない! 私は、お前という地獄で一生を終えることを選ぶ!」
エルゼは驚いたように目を見開いたあと、やがて困ったような、けれど耐えきれないほど愛おしそうな顔をして、ぽろぽろと涙を流した。
「……あなたは、本当に……愚かな方。……そんなに苦しい道を、あえて選ぶなんて……」
「ああ、愚かだ。世界一の愚か者だ。……だから、行かないでくれ。一人にしないでくれ、エルゼ……!」
光が強まり、視界が白く染まっていく。
エルゼの姿が消える寸前、彼女の唇が動いた。それは「忘れて」という命令ではなく、一人の少女としての、消え入りそうな本音だった。
(……ありがとう。……見つけてくれて。……愛してくれて……)
意識が現実へと引き戻される。
アルベルトが目を開けると、そこは先ほどと同じ、冷たい風の吹く花畑だった。
だが、何かが違っていた。
空から、柔らかな光を孕んだ雨が降り始めていたのだ。
それはただの雨ではない。エルゼの命が、魂が、世界を浄化するために霧散し、降り注ぐ「聖女の涙」だった。
アルベルトは雨に打たれながら、自分の中に確かに残っている「重み」を確認した。
彼女は自分を忘れろと言った。だが、アルベルトの魂はそれを拒絶した。
降り注ぐ光の雨の中、アルベルトは彼女の残したボロボロの衣服を抱きしめ、天を仰いで慟哭した。その胸の紋章は、忘れさせまいとするかのように、焼けるような熱を帯び続けていた。
あれほど激しく吹き荒れていた黒い呪いの霧は霧散し、ただ静寂だけが世界を支配している。アルベルトの腕の中には、もはや彼女の体温も、白銀の髪も、透き通るような肌も存在しない。
そこにあるのは、かつて彼が「薄汚い」と罵った、泥と血に汚れたエルゼの衣服の残骸だけだった。
「……ぁ……あ……」
アルベルトの喉から、声にならない嗚咽が漏れる。
彼の胸には、エルゼが魂と引き換えに刻んだ「絶対の守護」の紋章が、彼女の命の火照りを伝えるように熱く脈打っている。守られた。またしても。彼女は死の間際にあってさえ、自分の苦痛ではなく、自分を死に追いやった男の安寧を優先したのだ。
アルベルトの精神は、そのあまりの理不尽さと絶望に耐えきれず、深い深い暗闇へと沈んでいった。
――気がつくと、彼は真っ白な空間に立っていた。
空も地面も境界がなく、ただ柔らかな光だけが満ちている場所。そこは、彼の肉体に刻まれたエルゼの魂と、アルベルトの意識が交差する「魂の境界線」だった。
「……アルベルト様」
聞き覚えのある、けれど今はもう失われてしまった、鈴を転がすような澄んだ声。
アルベルトが弾かれたように顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。
白銀の髪ではない。盲目の灰色でもない。
痣ひとつない透き通るような肌に、春の陽だまりのような金色の髪。若草色の瞳を輝かせ、はにかむように微笑む――それは、彼がリリアーヌだと信じ込み、その実エルゼであった、あの日の「初恋の少女」の姿だった。
「エルゼ……! エルゼなのか!?」
アルベルトは狂ったように駆け寄った。今度こそ離さないと、その細い肩を抱きしめようとする。だが、彼の手は虚しく空を切り、彼女の体をすり抜けた。
「……わたくしは、もうここにはいません。これは、あなたの胸に刻まれた、わたくしの想いの『残り香』に過ぎないのです」
エルゼは悲しげに、けれど慈愛に満ちた表情で首を振った。
「嫌だ……そんなことは言わないでくれ! 戻ってきてくれ、エルゼ! 私はまだ、お前に何も返していない。謝ることさえ、愛していると言うことさえ、お前には届いていないんだ!!」
アルベルトは地面に膝をつき、触れられない彼女の足元に縋り付いた。
エルゼはゆっくりと屈み込み、触れることのない手で、彼の白銀に染まった髪を優しく撫でる仕草をした。
「アルベルト様。あなたは十分、苦しんでくださいました。わたくしの痛みを知り、わたくしのために泣いてくださった……それだけで、わたくしの10年は報われたのです」
「報われるものか! お前は死んだんだぞ!? 私を守るために、魂まで削って……!」
「いいえ、アルベルト様。わたくしは『守る』ために生まれたのです。あなたという光を、絶やさないために。……だから、最後にお願いがあります」
エルゼの瞳から、一筋の光の雫がこぼれ落ちた。
彼女は、覚悟を決めたような、あまりにも残酷な微笑みを浮かべた。
「わたくしを、忘れてください」
その一言が、アルベルトの心臓を物理的に握りつぶしたかのような衝撃を与えた。
「何を……何を言っているんだ……?」
「わたくしとの思い出は、あなたにとって毒でしかありません。わたくしを思い出すたび、あなたは自分を責め、血を吐くような後悔に苛まれる。そんな人生を、わたくしは望んでいません。……わたくしが欲しかったのは、あなたの『謝罪』ではなく、あなたの『幸福』なのです」
エルゼの体が、淡い光を放ち始める。
彼女は、自分自身の存在をアルベルトの記憶から切り離し、彼を「罪悪感」という名の監獄から解放しようとしていた。聖女としての最後の奇跡を、彼女は自分の救済ではなく、彼からの「忘却」のために使おうとしているのだ。
「わたくしという影を捨てて、前を向いてください。あの日、草原で笑い合った少女のことなど、ただの夢だったと思って……。あなたは、立派な王になり、誰かを愛し、笑って生きてください。それが、わたくしの最後にして最大の願いです」
「ふざけるな……!!」
アルベルトが絶叫した。その瞳には、怒りにも似た激しい拒絶の炎が宿っていた。
「お前を忘れて手に入れる幸福など、この世で最も汚らわしい地獄だ! お前を犠牲にして、お前を無かったことにして、のうのうと生きる自分を、私が許せると思うのか!? 忘れない……絶対に忘れないぞ! お前の痛みも、お前の声も、お前の温もりも、この胸に刻まれた呪いと共に、死ぬまで、いや死んでも抱えていく!」
アルベルトは、消えゆく彼女の光を無理やり掴もうと、自分の胸をかきむしった。
紋章が激しく反応し、熱を放つ。
「私を救いたいなら、私を『罪人』のままにしておけ! お前を忘れることは、お前を二度殺すことだ。そんな慈悲などいらない! 私は、お前という地獄で一生を終えることを選ぶ!」
エルゼは驚いたように目を見開いたあと、やがて困ったような、けれど耐えきれないほど愛おしそうな顔をして、ぽろぽろと涙を流した。
「……あなたは、本当に……愚かな方。……そんなに苦しい道を、あえて選ぶなんて……」
「ああ、愚かだ。世界一の愚か者だ。……だから、行かないでくれ。一人にしないでくれ、エルゼ……!」
光が強まり、視界が白く染まっていく。
エルゼの姿が消える寸前、彼女の唇が動いた。それは「忘れて」という命令ではなく、一人の少女としての、消え入りそうな本音だった。
(……ありがとう。……見つけてくれて。……愛してくれて……)
意識が現実へと引き戻される。
アルベルトが目を開けると、そこは先ほどと同じ、冷たい風の吹く花畑だった。
だが、何かが違っていた。
空から、柔らかな光を孕んだ雨が降り始めていたのだ。
それはただの雨ではない。エルゼの命が、魂が、世界を浄化するために霧散し、降り注ぐ「聖女の涙」だった。
アルベルトは雨に打たれながら、自分の中に確かに残っている「重み」を確認した。
彼女は自分を忘れろと言った。だが、アルベルトの魂はそれを拒絶した。
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