死ぬ瞬間にだけ、愛してほしい

しょくぱん

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第27話:死神の接吻

 奇跡の雨が止んだ後の森は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
 世界中が聖女の恩恵に沸き返り、人々が再生の喜びに浸る中、アルベルトだけが、エルゼが光となって消えたあの丘の頂に立ち尽くしていた。

 腕の中には、もはや彼女の重みはない。
 ただ、彼女が着ていた修道服の残骸と、彼女の髪に結ばれていた煤けたリボンだけが、かつてここに一人の少女が存在したことを証明していた。

「……終わりになど、させない」

 アルベルトの瞳には、かつての王太子としての理知も、誇りもなかった。そこにあるのは、愛という名の狂気に身を焼かれた一人の男の執念だけだ。
 彼は懐から、王家の宝物庫から密かに持ち出していた、古い羊皮紙を広げた。それは、歴代の聖女たちが「あまりに残酷である」として封印した、魂の譲渡に関する禁忌の術式。

 本来、聖女が王に命を捧げるための法。だが、アルベルトはそれを逆転させようとしていた。王たる自分が、死した聖女に命を「返還」する――それは、自然の理を汚し、神への反逆を意味する行為だった。

「エルゼ……。私を忘れて、幸福になれと言ったな。だが断る。……私と一緒に地獄へ来い。お前を一人で、そんな清らかな場所に生かせはしない」

 アルベルトは震える手で、自らの左胸を、エルゼの紋章が刻まれた場所を、短剣で深く切り裂いた。
 ドク、と、エルゼから譲り受けた「鼓動」が激しく跳ねる。
 溢れ出した鮮血は、地面に落ちる前に空中に留まり、アルベルトの魔力によって複雑な陣を描き始めた。

 丘の上に、異質な風が吹き荒れる。
 空気中に霧散し、光の粒子となって漂っていた「エルゼの残滓」が、アルベルトの血の香りに惹かれるように、少しずつ集まり始めた。
 銀色の粒子が寄り集まり、淡い輪郭を形成していく。それは、骨のない、肉のない、ただの光の集積。

「あ……が、……っ!」

 術が発動した瞬間、アルベルトの全身を、内側から引き裂かれるような激痛が襲った。
 自分の「生の半分」が、血管を伝って外へ吸い出されていく。視界が急速に白濁し、肺から空気が失われていく。命を分け与えるとは、自らも死の淵に立つことに他ならない。

 光の粒子は、アルベルトの血を吸い込み、少しずつ肉の色を帯びていった。
 透明だった足先が白くなり、透き通っていた指先に爪が宿る。
 アルベルトは吐血しながらも、形を成し始めたその「器」へと這い寄った。

「来い……戻ってこい、エルゼ……!」

 目の前に、かつての彼女の姿が再現されていく。
 しかし、それはまだ「抜け殻」に過ぎない。心臓は動かず、瞳は虚空を見つめたまま。魂の核が、アルベルトの胸の中で震え、主の元へ帰ることを拒んでいるようだった。

 彼女の魂は、あまりにも純潔すぎた。
 自分を犠牲にしたことに満足し、これ以上の生の苦しみを受け入れようとしない。彼女の慈悲深さが、皮肉にも蘇生を阻んでいた。

「……私の言葉が、聞こえないのか」

 アルベルトは、まだ冷たく、硬い、出来立てのエルゼの頬を両手で包み込んだ。
 彼女はもう、彼を守るための「鎧」になろうとしていた。だが、彼はそれを許さない。

「私を救って死ぬことが、お前の望みだったとしても……私はそれを、最大級の悪逆として拒絶する。……生きろ。生きて、私の犯した罪を、私に謝罪させる機会を奪うな!」

 アルベルトは、彼女の微かに開いた、体温のない唇に、己の唇を重ねた。
 それは慈しみの接吻ではない。
 自らの肺にある最期の呼気を、自らの魂にある最期の「熱」を、無理やり彼女の喉の奥へと流し込む――死神が獲物の命を奪うように、生者が死者に「生」を強要する、背徳の接吻。

 その瞬間、アルベルトの胸の紋章が、眼を焼くほどの光を放って砕け散った。
 
 ドクン。

 静寂の丘に、ひとつの、小さな鼓動が響いた。
 アルベルトの胸から、彼女の胸へと、命の核が還流した音。

 エルゼの指先が、ぴくりと動いた。
 灰色の、まだ焦点の合わない瞳が、ゆっくりと瞬きをする。
 
「……ぁ……あ……」

 彼女の喉から、掠れた、けれど確かな「生」の音が漏れる。
 アルベルトは彼女を抱きしめたまま、力尽きるようにその肩に顔を埋めた。
 彼の髪は、代償によってさらに透き通り、今や死人のような白さになっていた。

「捕まえたぞ……エルゼ。……二度と、……逃がさない……」

 彼女は息を吹き返した。
 だが、その瞳には、かつてのような無私な献身ではなく、自分を死から引き戻した男に対する、困惑と、そして深い「共犯者」としての震えが宿っていた。

 二人は、神から命を半分ずつ分け合った、異形の半身となったのだ。
 
 世界が救われた翌日。
 朝日を浴びる丘の上で、一人の死神と、死に損ねた聖女が、互いの不確かな体温を確かめ合うように重なっていた。
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