さようなら、私の初恋

しょくぱん

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第三章:再会、そして絶望へ

第23話:冷ややかな問い

 離宮の回廊に、レオンの荒い呼吸の音だけが響いていた。
 彼は必死だった。アリアが問いかけた「賭けの内容」を答えれば、彼女との繋がりを繋ぎ止められると信じていた。だが、その内容は「アリアがどれだけ自分に心酔しているか」を競うという、あまりに独善的で、あまりに卑劣なものだ。

「それは……その……」
 レオンは、言葉を濁した。今の自分がいかに惨めであっても、かつての自分が彼女をどう扱っていたかを正確に口にすれば、今の交渉が決裂することくらいは理解できた。

 そんな彼を、アリアはただ静かに見つめていた。
 その瞳には、軽蔑すらも浮かんでいない。ただ、深い霧の向こう側にある何かを見るような、空虚な平穏だけがあった。

「レオン様。答えられないのでしたら、もう結構です。……ですが、貴方は先ほどから『あの時の賭けは嘘だった』『思い出してくれ』と、何度も仰いましたね」

 アリアはゆっくりと、レオンとの距離を詰めた。
 一歩。彼女の放つ神聖な魔力の余波が、レオンの腐った右腕の膿を浄化するのではなく、逆に「拒絶」の力となって彼を圧迫する。

「貴方は、私と共有したあの日々を、私を縛るための鎖にしようとしている。……けれど、それはとても滑稽なことなのですわ。なぜなら、私にとっての『初恋』は、あの夜会のバルコニーで、貴方の口から賭けの話を聞いた瞬間に、跡形もなく砕け散って死んでしまったのですから」

「アリア、何を……死んだなんて、そんな不吉なことを言うな! 俺たちはやり直せる、あの日々を……!」

「いいえ。死んだものは、二度と蘇りません」

 アリアの声は、残酷なまでに美しかった。

「思い出してみてください。貴方が私を『便利で地味な女』と呼び、私の献身を酒の肴にしていた時、私は貴方の側でどんな顔をしていたか。……いえ、貴方は一度も、私の顔など見ていなかったのでしょうね。見ていたのは、私が貴方に与える『治癒』という恩恵だけ」

「……っ!」

「私にとって、王国で過ごした時間は、今ではもう遠い前世の記憶のようなものです。そこには苦しみも、悲しみも、確かにありました。けれど、帝国でジークハルト陛下に拾われ、一人の人間として大切に扱われる日々の中で、私は気づいてしまったのです」

 アリアは、自らの胸元に輝く星晶石にそっと手を触れた。

「貴方との思い出に浸る時間は、今の私には一秒たりとも残されていないのだと。……ですから、レオン様。貴方が必死に守ろうとしているその『賭けの記憶』も、私を愛していたという『過去の言葉』も、今の私にとっては、道端に落ちている石ころ以下の価値もございません」

 レオンは、目を見開いた。
 彼女は怒っているのではない。復讐をしようとしているのでもない。
 ただ、本当に「どうでもよくなった」のだ。

「賭け? ……ああ、そんなこともありましたかしら。……ふふ、本当に、思い出せませんわ」

 アリアは、鈴を転がすような声で小さく笑った。
 その笑顔は、かつてレオンが愛した純真な少女のそれとは違い、大人の女性の、そして帝国の高貴な女性としての、慈悲深くも冷徹な笑みだった。

「私を繋ぎ止めるための記憶が、貴方にはもう一つも残っていない。……それが、私から貴方への、最後の答えです」

「嘘だ……嘘だアリア! 俺を愛していただろう!? あの時、泣きながら俺の名を呼んでいたじゃないか!」

 レオンは発狂したように叫び、左手でアリアの肩を掴もうと手を伸ばした。
 これさえ、これさえ掴めば、彼女は再び自分のものになる。失ったすべてが戻ってくる。そんな狂信的な思いが、彼を突き動かした。

 だが。
 彼の指先がアリアのドレスに触れる直前、廊下の空気が一変した。
 物理的な重圧となって、レオンの全身を床に叩きつけるほどの、圧倒的な「暴力的なまでの魔圧」。

「――私の婚約者に、汚らわしい手で触れるなと言ったはずだが?」

 冷徹な声とともに、回廊の曲がり角からジークハルトが姿を現した。
 彼の背後には、抜身の剣を構えた近衛騎士たちが控えている。ジークハルトの瞳は、まるで不快な害虫を処理する直前の園丁のような、静かな怒りに燃えていた。

 レオンは、石畳に顔を押し付けられたまま、呻き声を上げた。
 右腕の腐敗が、ジークハルトの魔力に当てられて激しく脈打つ。

「アリア、下がっていなさい。この男は、自分の立場を理解できていないようだ」

「……はい、陛下。お待たせして申し訳ありません」

 アリアは、一瞬前まで自分に縋り付こうとしていた男のことなど、もう視界に入れていなかった。彼女は優雅に一礼すると、ジークハルトが差し出した手をごく自然に、そして愛おしそうに取った。

 レオンは、床に這いつくばりながら、その光景を地獄の底から見上げるような心地で眺めていた。
 かつて、自分の隣にいるのが当たり前だった少女。
 自分の不機嫌を伺い、自分のためにその身を削っていた少女。

 その彼女が、今、自分という存在を完全に「なかったこと」にして、他人の腕の中で、世界で一番幸せそうに微笑んでいる。

 レオンにとって、それは死よりも残酷な光景だった。
 アリアは、去り際に一度だけ振り返った。だが、その瞳に宿っていたのは、やはり「存じ上げない他人」を見るための、凪いだ無関心だった。

「さようなら、レオン・ヴァスティア様。……貴方の初恋が、安らかに眠れることをお祈りいたしますわ」

 その言葉を最後に、アリアとジークハルトは光の差す方へと歩き去っていった。
 暗い回廊に取り残されたのは、右腕から膿を流し、誇りを失い、そして「愛されていた」という最後の拠り所さえも奪われた、空っぽの男だけだった。
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