私の人生に、おかえりなさい。――都合のいい「お姉ちゃん」は、もうどこにもいません

しょくぱん

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第1章:私を殺して生きた日々

第二話:感覚を失った「お姉ちゃん」

 翌朝、昨夜の雪は止んでいたが、空気の冷たさは一段と厳しさを増していた。
 指先の火傷は、昨夜のうちに膿んで熱を持っていた。本来なら清潔な布で保護し、安静にすべきなのだろうが、この家にそんな贅沢は許されない。

「アリア、何をしているの! 早く庭の洗濯場へ行きなさい!」

 母の鋭い声が屋敷に響く。
 昨夜の夜会でミレーヌが着た豪華なドレスや、家族が汚した大量の布類が、中庭の洗い場に山積みになっていた。

「……はい、お母様。すぐに向かいます」

 私は麻の粗末な上着を羽織り、中庭へと向かった。
 そこにあるのは、石造りの大きな水槽。表面には薄く氷が張っている。使用人たちが「手が壊れる」と言って嫌がる冬の洗濯仕事は、いつからか全て私の役目ノルマになっていた。

 氷を叩き割り、感覚がなくなるほど冷たい水に手を浸す。
 昨日、ミレーヌから転移させた火傷の傷口に水が触れたはずだが――痛みはなかった。
 ただ、じりじりと熱いような、あるいは痺れるような、遠い感覚があるだけだ。

(ああ……また、わからなくなっている)

 心のどこかで、乾いた諦めが溜息となって漏れる。
 過度な苦痛を肩代わりし続けるうちに、私の体は防衛本能として「痛み」を遠ざけるようになっていた。
 石鹸で指の皮が剥けようとも、冷水で関節が強張ろうとも、私の脳はそれを「他人事」のように処理してしまう。

 ザブ、ザブと、重い布を洗う音が静かな朝の空気に溶けていく。
 ふと視線を感じて顔を上げると、二階のテラスからミレーヌがこちらを見下ろしていた。
 彼女は厚手の毛皮に身を包み、湯気の立つココアを手にしている。

「お姉ちゃん、ご苦労様。そのドレス、昨日の夜会でレオン様が『君に一番似合う』って褒めてくれた大切なものだから、念入りに洗っておいてね」

 ミレーヌの言葉に、胸の奥がちりと焼けるような感覚がした。
 レオン様。私の婚約者。
 彼は昨夜、一度でも私の不在を気にしただろうか。屋根裏部屋で一人、膿んだ指を抱えて震えていた私のことを。

「……わかりました。丁寧に仕上げます」
「ふふ、さすがはお姉ちゃん。お母様が言っていたわ。『アリアは感情がないから、冷たい水の仕事も平気なのよ』って。本当に便利ね」

 ミレーヌは満足げに笑うと、温かい室内へと戻っていった。
 感情がない。
 そうかもしれない。今の私は、ただ命じられるままに動く肉塊に過ぎないのだから。

 どれほどの時間が経っただろうか。
 洗濯物を絞ろうとしたとき、私の視界に「赤」が混じった。
 見れば、水槽の水が薄っすらと赤く染まっている。
 私の指先から血が流れていた。ひび割れ、あかぎれ、そして昨日の火傷。それらが冷水と摩擦で限界を迎え、無残に裂けていた。

 それでも、痛みは来ない。
 真っ赤に腫れ上がり、不格好に変色した自分の手。
 かつては、もう少し白くて、細かったはずの手。

(この手で、私は何を描きたかったんだっけ……)

 かつて奪われた絵筆の感触を思い出そうとするが、指先が強張って、何も思い出せない。
 ただ、自分の手が、自分のものではないような錯覚さっかくだけが強まっていく。

 ふいに、背後から足音がした。
 振り返ると、そこには外出着に身を包んだレオンが立っていた。

「アリア、こんなところで何を……。ひどい格好だな。伯爵家の長女が、使用人のような真似をするのは感心しない」

 レオンは眉をひそめ、私から少し距離を置いた。
 私の汚れた服や、濡れた髪、そして血の混じった水が不快なのだろう。

「申し訳ありません、レオン様。すぐに終わらせますので」
「……ああ。ミレーヌから聞いたよ。君は、妹を支えることに喜びを感じているのだと。立派な心がけだ」

 喜び。
 彼には、私のこの姿が「喜びに満ちた聖女」に見えるのだろうか。
 私は赤く染まった水槽を背中で隠し、震える声で尋ねた。

「レオン様……。私の、この手が……」
「ん? ああ、ミレーヌの火傷を引き受けたそうだな。君の魔力はそういう時のためにある。ミレーヌの美しさを損なわずに済んだのは、君の数少ない手柄だ。誇りに思うがいい」

 レオンはそれだけ言うと、私に視線を戻すことなく歩き去った。
 
 誇り。
 私の傷は、彼らにとっては「当然のコスト」でしかない。
 
 水槽に溜まった水は、いつの間にか氷を浮かべて静止していた。
 私の指先の感覚は、もう完全に消失していた。
 冷たいのか、熱いのか、それすらもわからない。
 
 私はただ、壊れた機械のように、再び赤い血の混じる水の中に手を突き入れた。
 
 心の中に、小さく、けれど消えない亀裂きれつが走る。
 いつか、この感覚が戻る日は来るのだろうか。
 それとも、私はこのまま、自分自身を全て妹に与え尽くして、透明になって消えていくのだろうか。
 
 冬の低い太陽が、私の影を長く、黒く、地面に引き延ばしていた。
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