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第1章:私を殺して生きた日々
第三話:約束の小指、嘘のぬくもり
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洗濯を終え、凍えきった体で屋敷へ戻ると、応接間から楽しげな笑い声が漏れていた。
扉の隙間から見えたのは、暖炉の火に照らされた三人の姿だ。父と母、そしてミレーヌ。その中心には、先ほど私に冷ややかな視線を向けたはずのレオンが座っていた。
「アリア、そこにいるのなら入ってきなさい。レオン様がお見えよ」
母の呼び声に、私は濡れた袖を隠しながら一歩踏み出した。
暖かい。部屋の中は、私の屋根裏部屋や中庭とは別世界のような熱気に満ちている。だが、その熱が私の凍りついた皮膚を刺し、耐えがたい痒みと鈍痛を呼び起こした。
「失礼いたします……」
「お姉ちゃん、遅いじゃない。レオン様が素敵なお土産を持ってきてくださったのよ」
ミレーヌが自慢げに指し示したのは、テーブルの上に置かれた小箱だった。中には、繊細な細工が施された金色の髪飾りが収まっている。
「ミレーヌによく似合うと思ってね」
レオンが優しく微笑む。その横顔は、私が幼い頃に憧れた「理想の騎士」そのものだった。
かつて、レオンと私の婚約が決まったばかりの頃。彼は私の小さな指を握り、こう言ってくれたことがあった。
『アリア、君は優しすぎる。いつか君がその優しさで傷ついたときは、僕が必ず君の手を引こう』
あの時の温もりは、嘘だったのだろうか。
レオンはふと私に気づき、思い出したように懐から小さな包みを取り出した。
「ああ、そうだ。アリア、君にもこれを持ってきた」
差し出されたのは、色とりどりの飴細工だった。子供が喜ぶような、安価で可愛らしい菓子。伯爵家の長女に贈るものとしては、あまりにも不釣り合いな代物だ。
「……ありがとうございます」
「君は甘いものが好きだっただろう? ミレーヌを支える『健気な君』への、僕からの心ばかりの賞賛だよ」
賞賛。
その言葉が、私の喉を塞いだ。
彼は私が甘いものを好きなのではない。私が「苦痛を飲み込み、何も言わずに妹に尽くす姿」を愛でているのだ。
私がその飴細工を受け取ろうと手を伸ばした、その時。
震える指先が、隠しきれなかった赤い傷跡を晒してしまった。
「おっ……!」
レオンが、反射的に私の手を振り払った。
飴細工が床に落ち、乾いた音を立てて砕け散る。
「レオン、様……?」
「す、すまない。あまりに手が……その、荒れていたから。君はもう少し、身だしなみに気を使えないのか? ミレーヌのような、たおやかな美しさを持てとは言わないが、限度というものがあるだろう」
彼は嫌悪感を隠しきれない様子で、自分の手をハンカチで拭った。
まるで、私の傷が自分に伝染するかのように。
母が追い打ちをかけるように冷笑する。
「本当に、見っともない子ね。レオン様、申し訳ありません。この子は昔から不器用で、家事も満足にこなせないものですから」
「いいえ、お母様。お姉ちゃんはわざとやっているのよ。そうやって傷を作れば、レオン様に同情してもらえると思っているの」
ミレーヌの言葉に、父も不快げに眉を寄せた。
「アリア、これ以上客人の前で恥を晒すな。下がれ」
私は、砕け散った飴細工を拾うこともできず、ただ頭を下げた。
約束の小指。
いつか君の手を引こうと言った、あの約束。
レオン様が今、その優しさを向けているのは、私が必死に「汚れ」を吸い取って守り抜いている、ミレーヌの偽りの美しさなのだ。
私が傷つけば傷つくほど、ミレーヌは輝く。
そしてレオン様は、輝くミレーヌを愛し、その影で泥にまみれる私を「健気だ」と称賛しながら、汚物のように遠ざける。
なんて、滑稽な構図だろう。
「……失礼、いたします」
背後で、再び楽しげな談笑が始まった。
砕けた飴細工の破片が、私の靴の下で音を立てる。
レオン様。あなたが愛しているのは、私ではありません。
あなたが愛しているのは、私が自分を殺して差し出している、この家の「平穏」という名の幻想です。
廊下に出ると、窓から差し込む夕陽が私の影を長く伸ばしていた。
その影は、ひどく歪で、化け物のように見えた。
私は、レオン様からもらった「嘘のぬくもり」を完全に捨て去る準備が、心の中で着実に進んでいることにまだ気づいていなかった。
扉の隙間から見えたのは、暖炉の火に照らされた三人の姿だ。父と母、そしてミレーヌ。その中心には、先ほど私に冷ややかな視線を向けたはずのレオンが座っていた。
「アリア、そこにいるのなら入ってきなさい。レオン様がお見えよ」
母の呼び声に、私は濡れた袖を隠しながら一歩踏み出した。
暖かい。部屋の中は、私の屋根裏部屋や中庭とは別世界のような熱気に満ちている。だが、その熱が私の凍りついた皮膚を刺し、耐えがたい痒みと鈍痛を呼び起こした。
「失礼いたします……」
「お姉ちゃん、遅いじゃない。レオン様が素敵なお土産を持ってきてくださったのよ」
ミレーヌが自慢げに指し示したのは、テーブルの上に置かれた小箱だった。中には、繊細な細工が施された金色の髪飾りが収まっている。
「ミレーヌによく似合うと思ってね」
レオンが優しく微笑む。その横顔は、私が幼い頃に憧れた「理想の騎士」そのものだった。
かつて、レオンと私の婚約が決まったばかりの頃。彼は私の小さな指を握り、こう言ってくれたことがあった。
『アリア、君は優しすぎる。いつか君がその優しさで傷ついたときは、僕が必ず君の手を引こう』
あの時の温もりは、嘘だったのだろうか。
レオンはふと私に気づき、思い出したように懐から小さな包みを取り出した。
「ああ、そうだ。アリア、君にもこれを持ってきた」
差し出されたのは、色とりどりの飴細工だった。子供が喜ぶような、安価で可愛らしい菓子。伯爵家の長女に贈るものとしては、あまりにも不釣り合いな代物だ。
「……ありがとうございます」
「君は甘いものが好きだっただろう? ミレーヌを支える『健気な君』への、僕からの心ばかりの賞賛だよ」
賞賛。
その言葉が、私の喉を塞いだ。
彼は私が甘いものを好きなのではない。私が「苦痛を飲み込み、何も言わずに妹に尽くす姿」を愛でているのだ。
私がその飴細工を受け取ろうと手を伸ばした、その時。
震える指先が、隠しきれなかった赤い傷跡を晒してしまった。
「おっ……!」
レオンが、反射的に私の手を振り払った。
飴細工が床に落ち、乾いた音を立てて砕け散る。
「レオン、様……?」
「す、すまない。あまりに手が……その、荒れていたから。君はもう少し、身だしなみに気を使えないのか? ミレーヌのような、たおやかな美しさを持てとは言わないが、限度というものがあるだろう」
彼は嫌悪感を隠しきれない様子で、自分の手をハンカチで拭った。
まるで、私の傷が自分に伝染するかのように。
母が追い打ちをかけるように冷笑する。
「本当に、見っともない子ね。レオン様、申し訳ありません。この子は昔から不器用で、家事も満足にこなせないものですから」
「いいえ、お母様。お姉ちゃんはわざとやっているのよ。そうやって傷を作れば、レオン様に同情してもらえると思っているの」
ミレーヌの言葉に、父も不快げに眉を寄せた。
「アリア、これ以上客人の前で恥を晒すな。下がれ」
私は、砕け散った飴細工を拾うこともできず、ただ頭を下げた。
約束の小指。
いつか君の手を引こうと言った、あの約束。
レオン様が今、その優しさを向けているのは、私が必死に「汚れ」を吸い取って守り抜いている、ミレーヌの偽りの美しさなのだ。
私が傷つけば傷つくほど、ミレーヌは輝く。
そしてレオン様は、輝くミレーヌを愛し、その影で泥にまみれる私を「健気だ」と称賛しながら、汚物のように遠ざける。
なんて、滑稽な構図だろう。
「……失礼、いたします」
背後で、再び楽しげな談笑が始まった。
砕けた飴細工の破片が、私の靴の下で音を立てる。
レオン様。あなたが愛しているのは、私ではありません。
あなたが愛しているのは、私が自分を殺して差し出している、この家の「平穏」という名の幻想です。
廊下に出ると、窓から差し込む夕陽が私の影を長く伸ばしていた。
その影は、ひどく歪で、化け物のように見えた。
私は、レオン様からもらった「嘘のぬくもり」を完全に捨て去る準備が、心の中で着実に進んでいることにまだ気づいていなかった。
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