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第1章:私を殺して生きた日々
第四話:奪われた「色」
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家族が寝静まった深夜。私は、屋根裏部屋の隅に隠していた古びた木箱を取り出した。
中には、使い古されて短くなった数本の絵筆と、小瓶に入ったわずかな絵具が収まっている。それは亡き祖母が、私が幼い頃に「あなたの心にある色を形にしなさい」と贈ってくれた、唯一の宝物だった。
膿んだ指先に布を巻き、感覚の鈍い手で筆を握る。
キャンバスなどない。拾い集めた紙の端切れに、私は描き始めた。
(自由な、空の色……)
深い夜の闇でもなく、実家の重苦しい灰色でもない。いつか見た、どこまでも突き抜けるような、透き通った青。
絵を描いている間だけは、私は誰の身代わりでもなかった。火傷の痛みも、冷たい視線も、すべてがキャンバスの向こう側へと消えていく。私はただのアリアとして、呼吸をすることができた。
だが、その微かな光は、唐突に踏みにじられた。
「……何をしているの、アリア」
背後で扉が開き、母が冷たい風と共に立っていた。その横には、好奇の目を隠そうともしないミレーヌがいる。
私は反射的に紙を隠そうとしたが、母の手がそれをもぎ取った。
「これは……空? ふん、下らない。こんなことに魔力を使っていたの?」
「お母様、返してください。それは……」
「お姉ちゃん、ずるい。私にはあんなに大変な公務や夜会の準備をさせておいて、自分だけこんな楽しい遊びをしていたなんて」
ミレーヌが唇を尖らせる。母の瞳が、憎悪を帯びて細められた。
「アリア。お前が吸い込むべき『穢れ』がまだ残っているから、こんな余計なことを考える隙ができるのよ。ミレーヌは今、新しいドレスの着心地が悪いと嘆いているわ。お前がその神経を研ぎ澄ませて、彼女の不快感を全て引き受けるべきなのに」
母は私の手から取り上げた紙を、手近なランプの火にかざした。
「お母様、やめて!」
「これは、ミレーヌへの裏切りよ」
刹那、紙の端から火が燃え広がる。
私が大切に紡いだ青色は、無慈悲な黒い灰へと姿を変えていく。火の粉が舞い、私の心の一部が焼き切れるような感覚がした。
「ああ、そうだわ。この道具も没収ね」
母は木箱の中の絵筆を掴み出し、床に叩きつけた。ミレーヌがその上を、わざとらしく靴で踏みつける。パキリ、と愛用していた筆の軸が折れる音が、静かな夜の部屋に響いた。
「これで少しは反省しなさい。お前の人生に、『色』なんて必要ないの。お前はただ、ミレーヌを白く美しく保つための、影であればいいんだから」
二人が去った後、部屋には焦げた匂いと、折れた筆の残骸だけが残された。
私は床に膝をつき、灰になった紙の破片をそっと拾い上げる。
指先はもう、熱さを感じなかった。
涙も出なかった。
ただ、胸の奥に、絶対的な空白が広がっていくのを感じた。
お母様。あなたが今焼いたのは、ただの紙ではありません。
私があなたたちを「家族」だと信じようとしていた、最後の糸です。
私は折れた筆を一本だけ拾い、汚れきった自分の手のひらを見つめた。
私の人生に、色はいらない。
……ええ、わかりました。
なら、この家を彩っている「偽りの色」も、すべて私が持っていってあげましょう。
窓の外では、月が冷たく私を見下ろしていた。
アリアの中の何かが、完全に死に、そして何かが、静かに牙を剥き始めた。
中には、使い古されて短くなった数本の絵筆と、小瓶に入ったわずかな絵具が収まっている。それは亡き祖母が、私が幼い頃に「あなたの心にある色を形にしなさい」と贈ってくれた、唯一の宝物だった。
膿んだ指先に布を巻き、感覚の鈍い手で筆を握る。
キャンバスなどない。拾い集めた紙の端切れに、私は描き始めた。
(自由な、空の色……)
深い夜の闇でもなく、実家の重苦しい灰色でもない。いつか見た、どこまでも突き抜けるような、透き通った青。
絵を描いている間だけは、私は誰の身代わりでもなかった。火傷の痛みも、冷たい視線も、すべてがキャンバスの向こう側へと消えていく。私はただのアリアとして、呼吸をすることができた。
だが、その微かな光は、唐突に踏みにじられた。
「……何をしているの、アリア」
背後で扉が開き、母が冷たい風と共に立っていた。その横には、好奇の目を隠そうともしないミレーヌがいる。
私は反射的に紙を隠そうとしたが、母の手がそれをもぎ取った。
「これは……空? ふん、下らない。こんなことに魔力を使っていたの?」
「お母様、返してください。それは……」
「お姉ちゃん、ずるい。私にはあんなに大変な公務や夜会の準備をさせておいて、自分だけこんな楽しい遊びをしていたなんて」
ミレーヌが唇を尖らせる。母の瞳が、憎悪を帯びて細められた。
「アリア。お前が吸い込むべき『穢れ』がまだ残っているから、こんな余計なことを考える隙ができるのよ。ミレーヌは今、新しいドレスの着心地が悪いと嘆いているわ。お前がその神経を研ぎ澄ませて、彼女の不快感を全て引き受けるべきなのに」
母は私の手から取り上げた紙を、手近なランプの火にかざした。
「お母様、やめて!」
「これは、ミレーヌへの裏切りよ」
刹那、紙の端から火が燃え広がる。
私が大切に紡いだ青色は、無慈悲な黒い灰へと姿を変えていく。火の粉が舞い、私の心の一部が焼き切れるような感覚がした。
「ああ、そうだわ。この道具も没収ね」
母は木箱の中の絵筆を掴み出し、床に叩きつけた。ミレーヌがその上を、わざとらしく靴で踏みつける。パキリ、と愛用していた筆の軸が折れる音が、静かな夜の部屋に響いた。
「これで少しは反省しなさい。お前の人生に、『色』なんて必要ないの。お前はただ、ミレーヌを白く美しく保つための、影であればいいんだから」
二人が去った後、部屋には焦げた匂いと、折れた筆の残骸だけが残された。
私は床に膝をつき、灰になった紙の破片をそっと拾い上げる。
指先はもう、熱さを感じなかった。
涙も出なかった。
ただ、胸の奥に、絶対的な空白が広がっていくのを感じた。
お母様。あなたが今焼いたのは、ただの紙ではありません。
私があなたたちを「家族」だと信じようとしていた、最後の糸です。
私は折れた筆を一本だけ拾い、汚れきった自分の手のひらを見つめた。
私の人生に、色はいらない。
……ええ、わかりました。
なら、この家を彩っている「偽りの色」も、すべて私が持っていってあげましょう。
窓の外では、月が冷たく私を見下ろしていた。
アリアの中の何かが、完全に死に、そして何かが、静かに牙を剥き始めた。
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