私の人生に、おかえりなさい。――都合のいい「お姉ちゃん」は、もうどこにもいません

しょくぱん

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第1章:私を殺して生きた日々

第八話:最後の夜、自分を盗み出す

 深夜。屋敷を包む静寂は、死の底のように深く、冷たかった。
 私は、使い古されたボロ布のバッグを肩にかけ、最後の準備を整えた。中身は、泥を拭ったオルゴールの残骸と、昨夜厨房からこっそり持ち出した数個の乾パン。そして、この家で唯一、私自身の名前が刻まれていた古い銀のスプーン一本だけ。

 クローゼットの奥に押し込まれていた、一番地味で丈夫な茶色のワンピースに着替える。
 鏡は見ない。もう、そこに映る「伯爵家の長女」という抜け殻に未練はなかった。

 私は静かに屋根裏部屋の扉を開け、気配を殺して廊下を進んだ。
 慣れ親しんだはずの屋敷の風景が、今はひどく異質なものに見える。壁に飾られた歴代当主の肖像画は、逃亡者を見下ろす監視者の目のようで、心臓の鼓動が耳の奥で激しく打ち鳴らされた。

 二階の主寝室の前を通りかかる。
 扉の向こうからは、父の安らかな寝息が聞こえてきた。明日、私の人生を売って手にするはずの「公爵家との繋がり」を夢見ているのだろう。
 その隣の部屋からは、ミレーヌの甘い寝息がする。明日の朝、目が覚めれば、自分の「スペア」がいなくなっているとも知らずに。

(……さようなら。愛してほしかった人たち)

 喉の奥に熱い塊が込み上げたが、私はそれを無理やり飲み込んだ。
 泣く資格はない。いや、泣く時間さえ、私にはもう残されていないのだ。

 一階の勝手口へ向かう途中、ふと足が止まった。
 食堂の大きな鏡に、月光が反射している。
 そこに映った自分の姿を、私は初めて「意志」を持って見つめた。
 頬はこけ、瞳の周りにはクマが浮き、手足は呪法の代償で痣だらけ。
 だが、その瞳の奥には、家族の言いなりになっていた頃にはなかった、小さな、けれど鋭い火が灯っていた。

「私は、私を愛してあげたい」

 声に出して呟いた瞬間、魔法の契約のような重苦しい鎖が、心の奥底で音を立てて砕け散った気がした。

 勝手口の重い閂を、音を立てないようにゆっくりと外す。
 外の空気は、肺が凍りつくほど冷たかったが、同時に驚くほど甘美だった。
 屋敷の敷地を出るために、裏庭の深い茂みを通り抜ける。そこはかつて、オルゴールを叩き壊されたあの泥濘だった。

 私は止まらなかった。
 靴が泥に汚れようとも、木の枝が頬を掠めて血が滲もうとも、一度も振り返らなかった。
 
 屋敷の鉄柵を乗り越え、街道に出る。
 振り返れば、暗闇の中にローラン伯爵家の大きな屋敷が、巨大な墓標のように鎮座していた。
 
 その時、奇妙な感覚が私を襲った。
 胸の奥が、急激に軽くなる感覚。
 同時に、遠くの屋敷から、目には見えない「黒い霧」のようなものが立ち上るのが、魔法の視力で見えた。

(……ああ、そうか)

 私が屋敷を、家族を捨てた瞬間に、今まで私が強引にせき止めていた「負の事象」が、本来あるべき主たちの元へと流れ始めたのだ。
 ミレーヌの肌に。母の若さに。父の健康に。
 私が吸い取っていた十年分の「代償」が、今、ダムが決壊したように彼らへ逆流し始めた。

 だが、私は助けに戻らない。
 それは、彼らが自分たちで蒔いた種であり、私が背負うべき荷物ではなかったのだから。

「私は、行くわ」

 私は前を向いた。
 目指すのは、峻険な雪山の向こう側。隣国との国境だ。
 
 一歩、また一歩と踏み出すたびに、自由の重みが足に伝わる。
 朝日はまだ遠い。
 けれど、私の心の中には、誰にも汚されることのない新しい夜明けが、静かに始まろうとしていた。

 私は、私という人間を盗み出した。
 この世でたった一人の、大切な自分を救うために。

 雪が降り始めた。
 それは過去の足跡を白く塗り潰し、私の新しい物語の始まりを祝福しているかのように、優しく降り積もっていった。
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