私の人生に、おかえりなさい。――都合のいい「お姉ちゃん」は、もうどこにもいません

しょくぱん

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第2章:自分を迎えに行く旅

第九話:境界線を越えて

 雪は止むことを知らず、世界をどこまでも白く塗り潰していく。
 ローラン伯爵家の屋敷を抜け出してから、どれほどの時間が経っただろうか。膝まで埋まる雪を掻き分け、私はただひたすらに北を目指した。

 呼吸が苦しい。肺が氷を吸い込んでいるかのように痛む。
 伯爵家の長女として育てられ、体力など皆無に等しい私の身体は、すでに限界をとうに超えていた。
 それでも足が止まらなかったのは、背後にあるあの地獄へ戻るくらいなら、このまま雪に埋もれて凍死した方がマシだという、切実な拒絶があったからだ。

「はぁ、はぁ……っ……」

 ふと、背後の空が不気味に赤黒く光るのが見えた。
 それは朝焼けではない。魔法的な因果の揺らぎだ。
 私が家族と結んでいた「身代わり」のパスが、距離の減衰と私の拒絶によって、今まさに完全に引き千切られた証だった。

 その瞬間、私の身体を支配していた「澱み」が、霧散していくのを感じた。
 代わりに訪れたのは、猛烈な虚脱感。
 今まで私が強引にせき止めてきた家族全員分の「痛み」や「衰え」は、今頃あの屋敷の中で本来の主たちを襲っているはずだ。
 ミレーヌは、私が肩代わりしていた数え切れないほどの傷と熱に悶え。
 母は、私が無理やり維持していた偽りの若さを失い。
 父は、私が吸い取っていた不摂生の代償に寝込んでいることだろう。

「……もう、知らない……」

 私は独り言ちた。その声は風に掻き消されたが、胸の奥は驚くほど静かだった。
 
 だが、代償は私にも訪れた。
 「守るべき対象」を失った私の魔力が、行き場を失って暴走し始めたのだ。
 指先から熱が奪われ、意識が急速に遠のいていく。
 視界が歪み、立っているのか倒れているのかさえ判別できなくなった。

 どれくらい歩いたのか。
 目の前に、古びた石造りの境界標が現れた。
 ここを越えれば、隣国・レムルシア公国。
 歴史上、私の母国とは長く不干渉を貫いている、魔法工学の進んだ国だ。

「あ……」

 境界標に手をかけた瞬間、私の膝が力なく折れた。
 雪の冷たさが心地よく感じられる。それは、死がすぐ側にまで来ている証拠だと、知識では分かっていた。
 
 薄れゆく意識の中で、私は懐の銀のスプーンを強く握りしめた。
 せめて、これだけは。
 私が私であった証だけは、誰にも奪わせない。

(ごめんね、おばあちゃん……。せっかく逃げたのに……ここまでみたい……)

 まぶたが重い。
 深い闇が、優しい毛布のように私を包み込もうとした、その時だった。

「――おい。こんなところで、何を寝ている」

 不意に、上空から降ってきたのは、低く、けれど通るような男の声だった。
 重い瞼を辛うじて持ち上げると、そこには一人の男が立っていた。
 
 深い紺色の外套を羽織り、雪の反射を受けてもなお暗く沈んだ、氷のような瞳。
 その男は、私の惨状を見下ろし、眉を微かに潜めた。

「身なりは貴族のようだが、中身はボロ雑巾だな。死ぬつもりか?」

 冷淡な問い。
 私は震える唇を動かし、掠れた声で、本能のままに答えた。

「……死にたく、ない……。私は……私のまま、生きたい……」

 それを聞いた男の瞳が、僅かに揺れた気がした。
 彼は大きなため息をつくと、無造作に私を抱き上げた。
 
 暖かい。
 厚い外套越しに伝わる体温が、凍りついた私の心を、ゆっくりと、けれど確かに溶かしていく。

「……勝手な女だ。なら、その意志を証明してみろ」

 男の言葉を最後に、私の意識は深い眠りへと落ちていった。
 
 雪山の静寂の中、境界標だけが、一人の女が「身代わり」としての過去を捨てたことを、静かに見届けていた。
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