ゾンビの坩堝

GANA.

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ゾンビの坩堝【7】

ゾンビの坩堝(62)

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「それじゃ、お願いします」
 申し訳なさそうにこちらに頭を下げ、ディアは手すり伝いに北西の隅に帰っていく。やがてウォッチが鳴り止み、疲れた後ろ姿が北東の角をのろのろ曲がって見えなくなる。飲み食いすれば、出る……誰もいない間にノラはやっているはずだ……静かになったウォッチを後ろに回し、斜に距離を取った自分はロバ先生に右手を振った。
 ほら、帰りましょう。そっちですよ――
 そうして目と鼻の先の部屋に追い立てる。106号室を開けてやり、さながら柵の中へ急かすように……老いぼれたロバ面が手すりから壁を頼り、よろめきながら逃げ込むパイプベッドのそばには黒いサンダル、床頭台には手付かずの昼食が残されていた。外食チェーンストアの一番安い定食並みの自分に比べ、二百円くらい高そうに見える内容だった。ぎしっとパイプベッドに座らせ、室内を見回す。足を踏み入れたときからの、かすかなアンモニア臭……しわしわのシーツとベッドマット、ホウキ・ちりとりセットや尿取りパットのパックが並ぶ壁からも臭ってくるが、148号室と比べたらうらやましいくらいだった。
 食事を運んでやらないといけないのか……――
 ウーパーがやっていたように、あっちとこっちを行き来して……それだけじゃない。さっきみたいなトラブルを起こさないように見張って、時間を見てトイレにも連れていかなければ……面倒ではあるが、ノラなんかよりはましだろう。ぐったりと横になるロバ先生を離れて眺め、自分はあらためてそう評価した。
 その食事、食べるなら食べてください――
 それだけ言い残し、自分は部屋を出た。リハビリをしたくてたまらなかった。昼休みも終盤のデイルームでは、デモ行進を終えたジャイ公たちが水場に集まるけだものよろしくたむろしている。やはりウォッチは鳴っておらず、監視カメラも目をつぶっている。自分は気付かれないようにエレベーターホールを横切った。あれこれ気にしているこちらに比べて、ああしてふてぶてしいジャイ公らが頼もしくさえ感じられる。ああいった行動にもかかわらず高得点をキープしているのだから、ディアが言ったように重症化リスク説は間違いなのだろうか……上の空で北東の角を曲がった自分は、バケツ片手に汚物処理室に入ろうとするディアに出くわした。
「あっ、あの……ありがとう」
 薄日の微笑を浮かべられ、自分はいたたまれなくなった。むかっ腹さえ立った。ディアは尿臭のするバケツを後ろに回し、距離を取ったまま続けた。
「具合は分からないけど、3301番が元気になるまで頑張りましょう。先生、2049番の様子はどう? トイレは行かなくても大丈夫そう?」
 自分は伏し目でうなずき、脇を抜けて148号室に向かった。なぜ自分たちが、こんなことをしなければならないのか……ディアが――あいつが、意気地なしだから……もわもわする頭で開けた途端、奥から逆立ったうなり声が聞こえてくる。
 知ったことか……――
 そちらを背に腰を下ろし、寝床に潜ろうとしたところで無遠慮なノック――起き上がろうとする途中で、黒のフルフェイスヘルメットが焦れったそうに部屋をのぞく。
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