さよならをあなたに

キムラましゅろう

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その日、彼の人生から姿を消した

「すみれ!」

「菫」

「菫ちゃぁぁん!」

「菫、好きだ。俺はお前が、お前だけがどうしようもなく好きなんだ」



過ぎし日の様々な若君が浮かんでは消えてゆく。

あぁこれは夢なのだと、
これからは夢の中でしか会えないのだとそう思いながら、菫の意識は浮上した。



女将をはじめとする紫檀楼の皆に別れを告げ、
菫は迎えに来た二の若君の右腕と言われる桐生と共に馬車に揺られていた。

いつの間にかうたた寝をしていたようだ。

馬車の中は静寂そのもので、車輪が道を蹴る音が聞こえるのみ。

同乗する桐生は馬車に乗る際にただ一言だけ、
「これより斑雪はだらめの里へと向かいます。途中、休憩をしたい時はいつでも仰って下さい」
と告げてから、後はずっとだんまりだ。

菫は改めて桐生という男を見た。
真っ黒な長髪を後ろで一つに束ね、その秀でた額を惜しげもなく晒している。

長身で逞しい体躯をしている事が彼が身につけている西方の国の騎士服の上からでも分かった。

目つきが鋭く、硬質な印象を与えるこの男と幼い頃から親よりも長く共にいる若君。

この寡黙な男と一緒にいて、若君は何故あんなにも柔和な雰囲気を纏う青年に成長したのか。
菫にはそれが不思議でならない。

一度覗き見をしただけですぐに視線を外したというのに
桐生は自分が菫の意識下にいると分かったのだろう、彼は菫を一瞥してこう言った。

「二年間の妓楼暮らしで変わられたようですね」

「……どう変わった様に見える?」

「強かになられた。そして太々しさも。正直、貴女が別邸に移り住む事を承諾されるとは思っていませんでした」

端的にそう告げられ、菫は理解した。

桐生は若君が婚姻前から妾を囲う事を良しとしていないのだと。

この事が世間に知られれば醜聞となる事は免れない。

婚姻後に妾を囲う話は世間でもよくある事としても、
婚姻前に浮気相手を用意しておくのは倫理的に宜しくないからだ。

ましてや若君は公人。
後継ではないが、強い異能を持ち、他国で上級魔術師の資格も得た若君は、州主の二の息子として非常に期待され、常に注目を浴びている。
それを良く思わない輩もいるのだ。

それに加えてただでさえ若君は母親の出自でとやかく言われがちなのだ。
その上で菫の存在が明らかになれば……。

桐生が今の菫を懸念し、警戒するのは尤もだ。

昔の、お嬢様だった頃の菫なら若君の立場を危うくするような、ましてや自身の価値を貶める存在になる事など受け入れなかっただろう。


「……一度全てを失って、強かさを手に入れたのよ……」

菫はそれだけを答えておいた。


桐生は感情を表に出さないが、
きっと腹の底で菫の事を忌々しく思っているのだう。

だけど桐生は分かっていない。

強かに生きる選択をするというスキルを菫が身につけてたとしても、
根本的な考えは変わらない事を。


若君の、大好きな人の幸せを願う。
その思いだけはどれだけ時が経とうと変わらない、変えられない。


ーーこれなら意外と出奔は上手くいきそうだわ。


菫は桐生に告げた。


「お花を摘みたいの。どこか適当な場所で降ろして貰える?」

「わかりました。丁度次の町で昼食にするつもりでした。もう到着しますので、今少しだけお待ちください」

「わかったわ」

菫はそう返してポケットの中に潜ませた小さな薬瓶を握りしめた。

紫檀楼で禿の菊香に持ってきて貰った薬だ。

異能の強い客の夜伽をした遊君がたまにその異能力に当てられて不調を来たすのだ。
それを異能焼けといい、その時に服用する薬。

少量を服用すれば異能焼けを緩和し、
多量を服用すれば………


やがて馬車は小さな宿場町に到着した。


「この宿の食堂で昼食を摂る予定となっております。……廁はあちらですよ」

桐生は少し言い辛そうに菫に廁の場所を教えた。

「ありがとう」

菫は礼を言いそのまま廁へ行こうとするが、何か思いたったように足を止め、桐生に訊ねた。

「……若君は、彼は妻となる方と幸せになれそう?」

「お相手の方は北部の豪族の令嬢です。北部一帯を統べる一族が後ろ盾となれば、一の若君の派閥も若の出自等でとやかく難癖を付けられなくなる事でしょう」

「私が訊きたいのは、妻となる方が若君を大切に想ってくれそうかという事よ」

「………まだ十七歳とお若い方ですが聡明なご令嬢です。きっと時がお二人を良きご夫婦へと導いてくれる事でしょう……」

「そう、良かった……」

「菫様……?」

「あ、じゃあ私はご不浄へ行くわね」

「はい。私は食事の注文をしておきます」

「よろしくね」

菫は桐生にそう告げて廁へと入って行った。


廁へ入るなり、菫はポケットからくだんの薬瓶を取り出す。

そしてその瓶の中身を眺めた。

この琥珀色の液体を飲み干せば、一時菫の持つ異能が消える。

服用して三分ほどで薬の効果が効き始めるらしいので飲み干してすぐに、転移の術を用いて出来るだけ遠く転移をするつもりだ。

薬の効果は一週間ほど。
その間にこの国を出なければならない。

異能の力を一時的に消すのは後を追われないようにする為。
若君が菫の居場所をわからないようにする為だ。

西方魔術の技法、“マーキング”。
魔力を持つ者がを付けたい者の体内へ魔力の一部を移行させ、その自身の魔力を辿る事により居場所を突き止めるという術らしい。

若君はその方法を魔術学園への留学中に知ったそうだ。
若君は本当に優秀で、飛び級で同級生達よりも先に卒業した。
そして帰国した後に菫にこんな術があるのだと話してくれた事があった。

「婚姻後は絶対に菫にもマーキングするから」その時彼はそんな恐ろしい事を口にしていた。

結局夫婦とはなれなかったが、

儚いえにしを繋ぎ止めるかのように何度も体を重ねた。

ーーきっと……多分……もしかして……いや確実にマーキングされているような気がするの……。

自惚れているようで恥ずかしいが用心に越した事はない。
それにもし、マーキングをされていなかったとしても追っ手が掛かった場合も異能の力を消せれば追跡を免れ易くなる。

菫は今一度薬瓶を見つめた。

これを飲んで菫の中の若君の異能を一時的に隠し、転移をしてこの場を逃れれば、
菫は若君と決別する事になる。

瓶を持つ指が冷たくなってゆく。

だけどこれしか道はない。

互いの為にはこうするしかないのだ。


ーー私は今日、彼の人生から消える。


「……さよなら」


菫は勢いよく瓶を煽り、薬を一気に飲み干した。

そして意識を集中させて転移の術でこの場から移動した。




かなりの時間を要しても廁から戻らない菫に桐生はやはりな、と思った。

廁に行く前の菫の様子。
あれは去り行く者の顔だった。

念の為、宿屋の仲居に廁の中を確認して貰ったところ、やはり中には誰も居ないとの事だった。

少し前に異能の力の気配を感じたのだ。
廁の方から、転移の術の残滓も感じた。
しかし菫の力は感知出来なかった。

おそらく追尾を恐れ、何かしらの方法で一時的に異能を消したのだろう。

「まったくお見事です」



菫は若君の為に身を引いたのだ。



「やはり菫様は菫様だったか……」



若君側の人間である限り、
桐生には菫の思いが痛いほどわかる。

しかしこれをどう処理するべきか。


ーーあの方は、若は絶対に彼女を諦めないだろう。


何か理由を見繕って報告を遅らせる他あるまい。


「無事に逃げおおせてくださいよ」


桐生はそう呟いて馬車へと戻った。











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