私は彼の迷い猫

吉ひなた

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第1章 猫になっちゃった

第5話 路頭に迷い

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 ポツッと滴が耳に落ちた。
 冷たい感触を受け意識が浮上した私は、薄っすらと瞳を開ける。辺りは明るくなり、やっと朝を迎えたようだった。まだぼやける視界の中で、私はふと空を見上げる。

 灰色の雲が覆い、しとしとと雨が降っている。空気はひんやりと冷たい。
 鼻がムズムズし、私はくしゃみをした。

「くちゅんっ!」

 ふるりと体が震え、私は慌てて自分の体を見つめ直す。黒い毛に覆われた体。段ボールの箱に身を隠していたことを思い出し、私は落胆した。

(やっぱり……夢じゃなかった)

 路地裏からは、人々が駅へと向かうたくさんの姿が見えた。通学、通勤者の足元をぼーっと目で追いかけながら私は重い溜息をつく。
 何だか捨て猫になった気分だ。人生のうちでこんな物悲しい気持ちで段ボールに入ることがあるなんて、誰が予測できただろうか。
 
 朝を迎えたはいいが、私はこの後どうすればいいか頭を抱える。
 
 ここから電車で二十分の距離にある自宅へ歩いて帰ることを考えた。しかし、家におばあちゃんはいない。あと六日は帰って来ないのだ。鍵だって持っていないから家に入ることは困難。
 その前にまずこんな姿で帰ることなんてできない。私だって気づいて貰えるわけがない。

 じゃあどうするか。
 
(そもそも何で猫になっちゃったんだろう……)

 私は必死で昨日の記憶を遡った。川原に行って月を見て……寝て起きたら猫に変身していた私。
  人間に戻れるヒントがあの場所にあるかもしれない。もう一度あの川原に戻ってみようか閃くも、すぐにその考えは怯んだ。
 また野良猫に遭遇することが怖い。次はうまく逃げられる自信がなかった。まだ痛みが残る首に、襲われた感覚が甦る。
 雄猫と交尾なんて絶対に嫌だ。猫になったからって、見知らぬ相手と性行為に及ぶなどとんでもない。

 ましてや妊娠でもしてしまったら……それこそ元の姿に戻れない気がした。

 子猫を引き連れる自分を想像し、私は勢いよく頭を振る。

(ダメダメダメ! それだけは絶対に嫌だ)

 再び気合を入れ直そうとすると、段ボールに黒い影がかかる。視界が暗くなり、私は頭を上げた。

「ワンッ! ワンッ! ワンッ!」
「ぴゃっ!?」

 大きな口と鼻が突き出され、私は勢いよく飛び跳ねる。一匹の柴犬が段ボールを覗き込んできたのだ。

「にゃああ!」
「ワンッ!」
「こらラッキー。止まってないで早く行くぞ」

 飼い主らしき少年が犬の綱をぐいぐい引っ張った。
 大きな犬歯が目の前に映り、私は段ボールから急いで抜け出すと路地裏の奥へと逃げる。そして街中へと飛び出した。
 この時間帯は丁度通勤ラッシュのようだった。街は人混みで溢れ返っている。人の足という足がバラバラと道路の上を交差していた。
 その人数の多さが生み出す足音が地響きのように感じる。さらに逃げる場所を失い、私はその場で固まってしまった。
 
「あ! 猫だ」

 誰かが私の姿を見て声を放った。

「可愛い~。小さ~い」
「おお、猫がいる」
 
 色んな人の視線が私に注がれた。確かに、こんな人通りの多い場所に猫が迷い込むのは珍しい。へたをすれば踏み潰される可能性があるからだ。自分の身の危険を感じ、巨人のような人々の集団をうまく潜り抜け、私はまたもその場から急いで離れた。





(はあっ……はあっ……はあっ……)

 私は息を乱しながら必死で走る。
 落ち着く場所はどこにもない。人目を避けることに必死となり、自分がどこを歩いているのかもわからなくなってしまった。おまけに猫や犬に遭遇しないか焦っており、注意力も散漫している。
 ゴミ箱にぶつかったり、通りがかった車のタイヤが跳ねた泥水を浴びたり、歩いていた子供に尻尾を掴まれたり。また犬に追いかけられたり。
 一日中駆け回った私の体はどんどんボロボロになっていく。完全に迷子になった私は、見知らぬ公園に辿り着いた。

 気が付けば雨は止んでいた。私は体を休めようと公園のベンチの下に隠れる。
 さっきまで朝だと思っていたのに、もう夕暮れだ。鴉が二匹、鳴きながら空を飛んでいる姿を眺めた。

 無駄に時間だけが過ぎて行き、私は段々苛立ち始めた。
 昨日の夜から飲まず食わず。睡眠だって十分取れていない。迷子になり、ここがどこかもわからない。

(うう~……)

 地面にぽっかりある水たまりを見つけ、私は恐る恐るベンチから出ると水を鏡変わりにして自分の姿を確認した。
 黒い毛皮に長い髭。ピクピク反応する大きな三角の耳。
 ぷにぷにしたマシュマロのような肉球。黄色の中に浮かぶ黒くつぶらな瞳。
 
 どこからどう見ても。誰がどう見たって……猫。
 猫好きな私が見て思う。可愛い黒猫。

 この世は摩訶不思議なことで溢れている。
 テレビとか映画とか、本とかでよくそんな言葉を聞いたことがあった気がする。
 でもそれは所詮人間の空想であって、この世は「当たり前」でできていると私はずっと思っていた。
 魔法だとか呪いだとかそんな非科学的なものは絶対に信じていなかった。
 魔法を手に入れるとか、異世界に行って冒険するとか、生まれ変わってイケメンと結婚なんてよくある設定は確かにワクワクするし王道で素敵だ。ものすごく憧れる。魔訶不思議を味わうのであればそういう王道系のほうが百倍も良かった!
 
 頭の中に浮かぶのは怒りと絶望と少しの後悔。
 私は水たまりに浮かぶ自分の姿を再度確認してから空を見上げて大きく叫んだ。

(神様、女神様、仏さま……これは一体何の罰なのでしょうか。私が一体何をしたって言うのよぉ!)

 そう言葉を発したはずなのに、喉から出たのは誰もが聞いたことがある動物の鳴き声だった。

「にゃあお!」

 私の声は空気へ溶けた。誰に聞こえるわけもなく、私は大人しくベンチの下に再び身を隠す。
 海外にいるお父さんお母さん、そして今温泉でゆったりくつろいでいるであろうおばあちゃん。私はもう……家に帰れません。
 私は手足を折り、体を丸めて地面に顔を埋めた。
 私は心の中で愛しい家族に向けて手紙のように伝えたい思いを唱える。

 ……本気で物悲しい気持ちになってきた。

 泣きたいのに、押しつぶされそうなくらい胸は苦しいのに、涙は出てこない。猫って泣かないんだ……と他人事のように私は感じた。

 生まれて二十一年……まだまだやり残したことがたくさんある。
 今年の父の日には、お父さんにプレゼントだって考えていた。病気がちのお母さんも最近は調子が良いから、一緒に買い物だって行きたいと思ってた。
 お父さんとお母さんとおばあちゃん、たまには家族で旅行に行ってみたかったな。

 学校の友達ともっと一緒に遊びたかった。もっと話だってしたかった。あと二年も学生生活が残っているというのに……勿体なさすぎる。

 そして脳裏に、一番心残りの人物の姿が浮かんだ。

―――『陽太さんの馬鹿ああああ!! もう本当の本当に知りませんから!!』

 何であんなことを言っちゃったんだろう。最後の最後にかけた言葉を思い出し、私は項垂れた。

「にゃあ……にゃあ……にゃあ……」

 小さく私は鳴いた。涙は出てこないのに、声が勝手に漏れる。
 言い争った後で、こんなことを願うのは可笑しな話かもしれない。それでも、私は願わずにはいられなかった。

(ひっく……ふっぐ……ひっぐ……お願い、助けて……)

 心の底から強く願ったその時だ。
 聞きなれた声が私の元に降って来た。

「この辺で鳴き声が聞こえたんだけど……。おっかしいな。空耳か?」

 凛とした声が耳に届き、私はそっと顔を上げた。
 ベンチのすぐそばに、スニーカーが見える。彼が愛用しているジョギング用のものと同じメーカー。
 私は惹かれるように体を起き上げ、ゆっくりベンチから顔を出した。目の前にいる一人の男性を見上げて頼りない声を出す。

「……みゃあ」

 黒を基盤とした、青と赤のラインが入ったジャージ姿。誰であるのか確信し、私は何とも言えない感情が溢れ出した。

「ん? あ! やっぱ猫の声だった。こんなとこにいたのかよ」

 私の存在に気づいてその場でしゃがみ込んだのは……陽太さんだった。 


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