最期の時間(とき)

雨木良

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榊 祐太郎 1

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「現状では、手の施しようがありません。」

片野(かたの)医師の言葉に、祐太郎(ゆうたろう)は、頭が真っ白になった。

「…それは、つまり…。」

祐太郎は、頭に一つの結論が浮かんではいたが、自分から口にすることが怖くなり、途中で止めて下を向いた。

一緒に話を聞きにきた両親は、声を殺して泣いていた。

片野医師は、MRIの画像を見せながら、祐太郎の身体の状態を丁寧に説明した。

他人の話なら、ふむふむと頷きながら聞けたのだろうか。今の祐太郎には、片野医師の言葉が頭の中を素通りして、外に出ていくようだった。

「…という状態でして。…まだ35歳という若さ故、すい臓癌の進行も早く、周りに転移をしてしまい、手の付けられない状態にまでなってしまっているのかと…。」

そう、自分はまだ35歳だ。職場の福利厚生の制度で、35歳になると人間ドッグの助成を受けることができるようになった。特に、それほど自覚は無かったのだが、折角だからというくらいの気持ちで、受診をしてみた結果が今だ。

何故か、医者の話を聞いていると、急に思い当たる節が頭に浮かんできて、最近疲れが取れないだとか、体力が無くなってきたとか、時々腰が痛むだとか…逆にキリが無くなりそうになり、祐太郎は考えることを止めた。

祐太郎の右後ろで聞いていた父親の幸二(こうじ)は、涙を拭うと、祐太郎の肩を掴みながら、片野医師に質問をした。

「先生。この子…祐太郎はあとどれくらい…。」

「ちょっと、あなた!そんなこと聞きたくないわ!」

憔悴していた母親のゆかりが、血相を変えて幸二に言った。

「何言ってんだ!現実逃避している場合じゃないだろ!祐太郎だって、あと残りの人生を悔いなく生きたいはずだ!」

「何であなたはそんなにあっさりと受け入れられるのよ!まだ祐太郎は助かるかもしれ…。」

「母親のお前がそんなんでどうする!俺たちが祐太郎を支えて…。」

祐太郎の背後で両親の口論が続いているが、祐太郎は一切振り返ろうともせずに、下を向いていた。

「お父さん、お母さん、お静かに!」

片野医師の一言で、両親二人はパッと黙り、我に返って頭を下げた。

「お二人のお気持ちは分かりますが、ここから先は祐太郎さんに決めていただきます。…祐太郎さん、どうされますか?」

正直、どうしたら良いのか分からなかった。余命…余命…ドラマとかでよく聞くアレだよな。ドラマではよく余命一年とか、余命半年とか、余命三ヶ月とか…色々あるよな。自分はまだ若いから体力は年寄りよりあるはずだし、あと一年以上は生きられるだろ。…でも、一年か、やっぱり短いよな。…ちょっと待て。そもそも僕はもう、自分が死ぬことは受け入れたのか…。…少しでも長く生きたい…。

「…祐太郎さん。大丈夫ですか?」

「…えっ、あ、はい。」

優しい片野医師の問い掛けに、祐太郎はゆっくり顔を上げた。

「あの…教えてください。僕の余命…。」

「祐太郎…。」

祐太郎の言葉に、立ち上がっていたゆかりは、ゆっくりと腰を下ろした。

片野医師は、祐太郎の目をじっと見つめてゆっくり答えた。

きっと、一年…二年…五年とか我が儘は言わないから、せめて二、三年は…ねぇ、神様…。

「…いっかげつです。」

え?いっかげつ?…一か月?…たった、一か月?

祐太郎は何も答えず、座る力をも失い、椅子から滑り落ちるように床に座り込んだ。

「祐太郎、大丈夫か!?」

慌てて、幸二が祐太郎を支えた。片野医師は、椅子から下りて腰を低くし、祐太郎の視線と同じ高さで、祐太郎の目をじっと見つめた。

「余命はあくまで理論上の数値なだけです。あなた次第で数値は変えられるかもしれない。…あなたのような若い方に、余命の話をするのは…正直何度も場数を踏んでも慣れることはないです。」

片野医師の頬を涙が伝った。

「私は医者だから、変にあなたに希望を持たす嘘はつけません。だから、真実を告げました。どうか、余命の数値に抗って抗って、少しでも長生きして、後悔のない人生にして欲しい!私が力になれることがあれば、何でも言ってください。」

片野医師はそう言うと立ち上がり、後ろを向いて涙を拭った。

祐太郎は何も言えなかったが、片野医師の言葉に、涙が止まらなかった。

「…先生、僕…少しでも長生きします。」

祐太郎はそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。 

「先生、残りの人生、病院で過ごしたくはないです。…家で…日常を過ごしていいですか?」

祐太郎の問いに、涙を拭っていた片野医師は振り返り、コクンと頷いた。

「あぁ、勿論です。飲み薬だけは出させて貰います。あと、ツラくなったら我慢はしないで、必ず私のとこに診せにきてください。」

「分かりました。」

祐太郎は、両親に振り返った。涙を流す二人に、祐太郎はニコリと笑って見せた。

「祐太郎…お前…強いな。…父さんには、真似…出来ない。」

幸二は、祐太郎の頭を撫でながら無理に笑って見せた。だが、ゆかりはずっと下を向いて涙を流していた。

「…母さん。僕、頑張るから。」

祐太郎の言葉に、ゆかりは首を横に振った。

「…いや。嫌よ!」

ゆかりは顔を上げて立ち上がり、祐太郎に抱き付いた。

「嫌よ!母さんより先に死ぬなんて。…先生、私の内臓全部この子にあげます!だから、だから…この子は助けてあげてください。」

「…母さん。」

「ねぇ、先生!お願いします!この子は、本当に優しくて、家族思いで、本当にいい子なんです!私の命あげますから!この子だけは…この子…だけは…。」

祐太郎は、ゆかりを強く抱き締めた。

「…お母さん。お気持ちは分かりますが、祐太郎さんの決意…受け止めてあげてください。」

「うぅ…うぅ…うわぁぁぁぁ…。」

ゆかりは声を出して泣いた。幸二も本当は声を出して泣きたかった。幸二は包むように、優しく二人を抱き締めた。

「…父さん、母さん。僕、頑張るから。苦労掛けちゃうかもしれないけど…僕、頑張るから。」

榊祐太郎、35歳、余命一か月の終活が始まった。
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