最期の時間(とき)

雨木良

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有縣 勝蔵・民子 1

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その頃、総合病院では片野医師が次の患者のカルテと検査結果を手に、頭を悩ませていた。その様子を見て、看護師が話し掛けた。

「先生、どうしたんですか。珍しく頭を抱えて。」

「いや、次の有縣(ありがた)さんなんですけど、どう対応していこうかと思いまして。」

「有縣さんは、確か今日は本人ではなく、ご家族のみをお呼びしたんですよね?」

「えぇ。本人に告げるべきか迷ったんですが、気になる部分があったので、とりあえずはご家族のみに報告して、ご意見を伺おうかと思いまして。…とりあえず、呼んでください。」

「わかりました。」

しばらくして、患者の妻が診察室に入ってきた。片野医師は、丸椅子に腰掛けるように促した。

「今日はありがとうございます。有縣勝蔵(しょうぞう)さんの奥様でよろしいですか?」

「えぇ、妻の民子(たみこ)です。あの、夫の件で、本人には黙って来て欲しいというのは一体…。」

片野医師は机に置いたカルテを見ながら答えた。

「勝蔵さんですが、10年前から鬱病(うつびょう)を発症されて、この病院の精神科に現在も通院されているようですね。」

「…えぇ、仕事で心身を壊しまして、定期的に今も通ってはいますが、昔に比べると今はお陰様で大分良くなりました。…でも先生、今日はそのお話なんですか?」

すると、片野医師は勝蔵のMRI画像をパソコンに映して民子に見せた。

「二日前に腰の痛みを訴えて通院された際に、精密検査をしました。その際に撮ったMRI画像です。…ここなんですが…。」

民子は片野医師の表情を見て、芳しくない結果なのかと危惧した。片野医師は指差しながら説明を始めた。

「ここは肝臓なんですが、この色が周りと違う部分…全てが癌に冒されています。…それから、実は肝臓のみでなく、周りの臓器さらには骨にまで転移していることがわかりました。」

民子は、予想だにしなかった片野医師からの言葉が、余りにも衝撃すぎて、何も言葉が出てこなかった。

「…大丈夫ですか?」

片野医師は、微動だにしない民子を気遣った。民子は、ハッと我に返り頷いた。

「かなり衝撃を受けておられることはお察しします。…正直、もう手の施しようがないほど、癌は進行しています。痛みはかなりあったと思いますが、病院には行かなかったのですか?」

民子は顔を手で覆い項垂れた。

「…病院嫌いの人だったもんで。息子たちも病院に行くように勧めたんですが、とにかく頑固で…。今回は、いよいよ我慢も限界が来たようで自ら検査を受けたんです。…もっと早くに無理矢理にでも連れてきていれば…。」

「…お気持ちは分かりますが、ご自分を責めることはしないでください。これからのお話をしましょう。よろしいですか?」

優しく語りかける片野医師の言葉に、民子はゆっくり顔を上げ、涙を拭った。

「…ご主人は、今年67歳ですか?」

「…はい。今は特に仕事はしておらず、趣味も数年前に始めた園芸くらいで、ほとんどを自宅で過ごしています。」

「そうですか。…ご主人は鬱病を患ってますが…ご本人には病気のこと、伝えますか?」

「…そうか、それで家族だけを呼んだんですね。…病気のこと知ったら…あの人…きっと落ち込んで部屋から出てこないかもしれませんね。…先生、夫はあとどれくらい…?」

「…この状態ですと、正直一ヶ月持つかどうかです。」

「…一ヶ月…。」

民子は余りの短さに言葉を失った。

「今回は、ご家族の意見をお聞きしたくてお呼びしました。『病は気から』なんて言葉がありますが、私はその通りだと思っています。その人の気の持ちよう、つまり思考によって身体の状態に影響を与えることは大いにあるということです。やはり、ご本人には病気のことは伏せましょうか。」

民子は、ゆっくり頷いた。

民子は、片野医師の話を聞きながら、頭の中でこれからのことを考えていた。

一人息子は結婚し実家を出ており、今は一軒家に二人暮らし。民子自身も身体は健康ではなく、心臓の病で通院をしており、過去何回か倒れて救急車で運ばれたこともある。しかし、民子は障害者施設での介護の仕事が好きで、66歳を迎えた今も現役で働いていた。

一方、勝蔵は一流企業を定年退職後は、鬱病のこともあり再任用制度は使わずに現役を引退していた。余暇が増えた勝蔵はしばらくしてから園芸を趣味として始め、植物に接することを生き甲斐として毎日を過ごしていた。

民子は、毎朝早起きして庭の植物に水をあげている時の勝蔵の笑顔を見るのが好きだった。植物と接し始めたお陰か、勝蔵の鬱病も段々と回復に向かっており、民子自身もあと数年で現役を引退して、残りの人生を勝蔵とゆったり好きなことをして過ごすことを楽しみにしていた。

そのライフプランが今、片野医師の言葉で脆くも崩れ去った。

そして、民子に様々な後悔が降りかかった。何でもっと早く病気に気が付いてやれなかったのだろう、何で無理矢理にでも病院に連れて来なかったのだろう、こんなことになるのならもっと早くに現役を引退して、少しでも長く夫と一緒に過ごせば良かった。…涙が止まらなかった。

これから先、夫は人生の幕を一ヶ月足らずで下ろすことになる。今、自分に出来ることは何なのか、しなければいけないことは何なのか…まだ片野医師の言葉を現実として受け入れられていない民子には、何も思い付かなかった。

片野医師は、心ここに在らずの民子を見て、優しく語り掛けた。

「…奥さん、私は医者という職業柄、多くの死を見てきています。今のようにご家族やご本人に余命を宣告することも数えきれないくらいしてきました。…患者さんが亡くなった後、多くのご家族の方がこんなことをおっしゃってました。『家族が一緒にいる時間が増えて、最期まであの人は幸せそうでした。』と。難しいことは考えずに、是非、一緒にいる時間を大切にしてあげてください。」

民子は、混乱していた気持ちが少し救われた気がして、大粒の涙を流しながら頷いた。
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