21 / 56
有縣 勝蔵・民子 1
しおりを挟む
その頃、総合病院では片野医師が次の患者のカルテと検査結果を手に、頭を悩ませていた。その様子を見て、看護師が話し掛けた。
「先生、どうしたんですか。珍しく頭を抱えて。」
「いや、次の有縣(ありがた)さんなんですけど、どう対応していこうかと思いまして。」
「有縣さんは、確か今日は本人ではなく、ご家族のみをお呼びしたんですよね?」
「えぇ。本人に告げるべきか迷ったんですが、気になる部分があったので、とりあえずはご家族のみに報告して、ご意見を伺おうかと思いまして。…とりあえず、呼んでください。」
「わかりました。」
しばらくして、患者の妻が診察室に入ってきた。片野医師は、丸椅子に腰掛けるように促した。
「今日はありがとうございます。有縣勝蔵(しょうぞう)さんの奥様でよろしいですか?」
「えぇ、妻の民子(たみこ)です。あの、夫の件で、本人には黙って来て欲しいというのは一体…。」
片野医師は机に置いたカルテを見ながら答えた。
「勝蔵さんですが、10年前から鬱病(うつびょう)を発症されて、この病院の精神科に現在も通院されているようですね。」
「…えぇ、仕事で心身を壊しまして、定期的に今も通ってはいますが、昔に比べると今はお陰様で大分良くなりました。…でも先生、今日はそのお話なんですか?」
すると、片野医師は勝蔵のMRI画像をパソコンに映して民子に見せた。
「二日前に腰の痛みを訴えて通院された際に、精密検査をしました。その際に撮ったMRI画像です。…ここなんですが…。」
民子は片野医師の表情を見て、芳しくない結果なのかと危惧した。片野医師は指差しながら説明を始めた。
「ここは肝臓なんですが、この色が周りと違う部分…全てが癌に冒されています。…それから、実は肝臓のみでなく、周りの臓器さらには骨にまで転移していることがわかりました。」
民子は、予想だにしなかった片野医師からの言葉が、余りにも衝撃すぎて、何も言葉が出てこなかった。
「…大丈夫ですか?」
片野医師は、微動だにしない民子を気遣った。民子は、ハッと我に返り頷いた。
「かなり衝撃を受けておられることはお察しします。…正直、もう手の施しようがないほど、癌は進行しています。痛みはかなりあったと思いますが、病院には行かなかったのですか?」
民子は顔を手で覆い項垂れた。
「…病院嫌いの人だったもんで。息子たちも病院に行くように勧めたんですが、とにかく頑固で…。今回は、いよいよ我慢も限界が来たようで自ら検査を受けたんです。…もっと早くに無理矢理にでも連れてきていれば…。」
「…お気持ちは分かりますが、ご自分を責めることはしないでください。これからのお話をしましょう。よろしいですか?」
優しく語りかける片野医師の言葉に、民子はゆっくり顔を上げ、涙を拭った。
「…ご主人は、今年67歳ですか?」
「…はい。今は特に仕事はしておらず、趣味も数年前に始めた園芸くらいで、ほとんどを自宅で過ごしています。」
「そうですか。…ご主人は鬱病を患ってますが…ご本人には病気のこと、伝えますか?」
「…そうか、それで家族だけを呼んだんですね。…病気のこと知ったら…あの人…きっと落ち込んで部屋から出てこないかもしれませんね。…先生、夫はあとどれくらい…?」
「…この状態ですと、正直一ヶ月持つかどうかです。」
「…一ヶ月…。」
民子は余りの短さに言葉を失った。
「今回は、ご家族の意見をお聞きしたくてお呼びしました。『病は気から』なんて言葉がありますが、私はその通りだと思っています。その人の気の持ちよう、つまり思考によって身体の状態に影響を与えることは大いにあるということです。やはり、ご本人には病気のことは伏せましょうか。」
民子は、ゆっくり頷いた。
民子は、片野医師の話を聞きながら、頭の中でこれからのことを考えていた。
一人息子は結婚し実家を出ており、今は一軒家に二人暮らし。民子自身も身体は健康ではなく、心臓の病で通院をしており、過去何回か倒れて救急車で運ばれたこともある。しかし、民子は障害者施設での介護の仕事が好きで、66歳を迎えた今も現役で働いていた。
一方、勝蔵は一流企業を定年退職後は、鬱病のこともあり再任用制度は使わずに現役を引退していた。余暇が増えた勝蔵はしばらくしてから園芸を趣味として始め、植物に接することを生き甲斐として毎日を過ごしていた。
民子は、毎朝早起きして庭の植物に水をあげている時の勝蔵の笑顔を見るのが好きだった。植物と接し始めたお陰か、勝蔵の鬱病も段々と回復に向かっており、民子自身もあと数年で現役を引退して、残りの人生を勝蔵とゆったり好きなことをして過ごすことを楽しみにしていた。
そのライフプランが今、片野医師の言葉で脆くも崩れ去った。
そして、民子に様々な後悔が降りかかった。何でもっと早く病気に気が付いてやれなかったのだろう、何で無理矢理にでも病院に連れて来なかったのだろう、こんなことになるのならもっと早くに現役を引退して、少しでも長く夫と一緒に過ごせば良かった。…涙が止まらなかった。
これから先、夫は人生の幕を一ヶ月足らずで下ろすことになる。今、自分に出来ることは何なのか、しなければいけないことは何なのか…まだ片野医師の言葉を現実として受け入れられていない民子には、何も思い付かなかった。
片野医師は、心ここに在らずの民子を見て、優しく語り掛けた。
「…奥さん、私は医者という職業柄、多くの死を見てきています。今のようにご家族やご本人に余命を宣告することも数えきれないくらいしてきました。…患者さんが亡くなった後、多くのご家族の方がこんなことをおっしゃってました。『家族が一緒にいる時間が増えて、最期まであの人は幸せそうでした。』と。難しいことは考えずに、是非、一緒にいる時間を大切にしてあげてください。」
民子は、混乱していた気持ちが少し救われた気がして、大粒の涙を流しながら頷いた。
「先生、どうしたんですか。珍しく頭を抱えて。」
「いや、次の有縣(ありがた)さんなんですけど、どう対応していこうかと思いまして。」
「有縣さんは、確か今日は本人ではなく、ご家族のみをお呼びしたんですよね?」
「えぇ。本人に告げるべきか迷ったんですが、気になる部分があったので、とりあえずはご家族のみに報告して、ご意見を伺おうかと思いまして。…とりあえず、呼んでください。」
「わかりました。」
しばらくして、患者の妻が診察室に入ってきた。片野医師は、丸椅子に腰掛けるように促した。
「今日はありがとうございます。有縣勝蔵(しょうぞう)さんの奥様でよろしいですか?」
「えぇ、妻の民子(たみこ)です。あの、夫の件で、本人には黙って来て欲しいというのは一体…。」
片野医師は机に置いたカルテを見ながら答えた。
「勝蔵さんですが、10年前から鬱病(うつびょう)を発症されて、この病院の精神科に現在も通院されているようですね。」
「…えぇ、仕事で心身を壊しまして、定期的に今も通ってはいますが、昔に比べると今はお陰様で大分良くなりました。…でも先生、今日はそのお話なんですか?」
すると、片野医師は勝蔵のMRI画像をパソコンに映して民子に見せた。
「二日前に腰の痛みを訴えて通院された際に、精密検査をしました。その際に撮ったMRI画像です。…ここなんですが…。」
民子は片野医師の表情を見て、芳しくない結果なのかと危惧した。片野医師は指差しながら説明を始めた。
「ここは肝臓なんですが、この色が周りと違う部分…全てが癌に冒されています。…それから、実は肝臓のみでなく、周りの臓器さらには骨にまで転移していることがわかりました。」
民子は、予想だにしなかった片野医師からの言葉が、余りにも衝撃すぎて、何も言葉が出てこなかった。
「…大丈夫ですか?」
片野医師は、微動だにしない民子を気遣った。民子は、ハッと我に返り頷いた。
「かなり衝撃を受けておられることはお察しします。…正直、もう手の施しようがないほど、癌は進行しています。痛みはかなりあったと思いますが、病院には行かなかったのですか?」
民子は顔を手で覆い項垂れた。
「…病院嫌いの人だったもんで。息子たちも病院に行くように勧めたんですが、とにかく頑固で…。今回は、いよいよ我慢も限界が来たようで自ら検査を受けたんです。…もっと早くに無理矢理にでも連れてきていれば…。」
「…お気持ちは分かりますが、ご自分を責めることはしないでください。これからのお話をしましょう。よろしいですか?」
優しく語りかける片野医師の言葉に、民子はゆっくり顔を上げ、涙を拭った。
「…ご主人は、今年67歳ですか?」
「…はい。今は特に仕事はしておらず、趣味も数年前に始めた園芸くらいで、ほとんどを自宅で過ごしています。」
「そうですか。…ご主人は鬱病を患ってますが…ご本人には病気のこと、伝えますか?」
「…そうか、それで家族だけを呼んだんですね。…病気のこと知ったら…あの人…きっと落ち込んで部屋から出てこないかもしれませんね。…先生、夫はあとどれくらい…?」
「…この状態ですと、正直一ヶ月持つかどうかです。」
「…一ヶ月…。」
民子は余りの短さに言葉を失った。
「今回は、ご家族の意見をお聞きしたくてお呼びしました。『病は気から』なんて言葉がありますが、私はその通りだと思っています。その人の気の持ちよう、つまり思考によって身体の状態に影響を与えることは大いにあるということです。やはり、ご本人には病気のことは伏せましょうか。」
民子は、ゆっくり頷いた。
民子は、片野医師の話を聞きながら、頭の中でこれからのことを考えていた。
一人息子は結婚し実家を出ており、今は一軒家に二人暮らし。民子自身も身体は健康ではなく、心臓の病で通院をしており、過去何回か倒れて救急車で運ばれたこともある。しかし、民子は障害者施設での介護の仕事が好きで、66歳を迎えた今も現役で働いていた。
一方、勝蔵は一流企業を定年退職後は、鬱病のこともあり再任用制度は使わずに現役を引退していた。余暇が増えた勝蔵はしばらくしてから園芸を趣味として始め、植物に接することを生き甲斐として毎日を過ごしていた。
民子は、毎朝早起きして庭の植物に水をあげている時の勝蔵の笑顔を見るのが好きだった。植物と接し始めたお陰か、勝蔵の鬱病も段々と回復に向かっており、民子自身もあと数年で現役を引退して、残りの人生を勝蔵とゆったり好きなことをして過ごすことを楽しみにしていた。
そのライフプランが今、片野医師の言葉で脆くも崩れ去った。
そして、民子に様々な後悔が降りかかった。何でもっと早く病気に気が付いてやれなかったのだろう、何で無理矢理にでも病院に連れて来なかったのだろう、こんなことになるのならもっと早くに現役を引退して、少しでも長く夫と一緒に過ごせば良かった。…涙が止まらなかった。
これから先、夫は人生の幕を一ヶ月足らずで下ろすことになる。今、自分に出来ることは何なのか、しなければいけないことは何なのか…まだ片野医師の言葉を現実として受け入れられていない民子には、何も思い付かなかった。
片野医師は、心ここに在らずの民子を見て、優しく語り掛けた。
「…奥さん、私は医者という職業柄、多くの死を見てきています。今のようにご家族やご本人に余命を宣告することも数えきれないくらいしてきました。…患者さんが亡くなった後、多くのご家族の方がこんなことをおっしゃってました。『家族が一緒にいる時間が増えて、最期まであの人は幸せそうでした。』と。難しいことは考えずに、是非、一緒にいる時間を大切にしてあげてください。」
民子は、混乱していた気持ちが少し救われた気がして、大粒の涙を流しながら頷いた。
0
あなたにおすすめの小説
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
【完結】仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる