最期の時間(とき)

雨木良

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月明かりの下で

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2時間後。

生駒が叫びながらノックもせずに処置室の扉を開けた。

「ゆうた!!」

生駒の目に飛び込んできたのは、静かに眠る祐太郎と、祐太郎を囲うように立っている祐太郎の両親、加奈子夫妻、紗希の父親、鶴井班長、天野の姿だった。

皆、肩を震わせ涙を流していた。祐太郎の母のゆかりは、祐太郎の手を両手でギュッと握り、嗚咽を漏らしながら声を出して泣いていた。

「…そ、そんな。」

「生駒先輩…。」

天野が生駒に気が付き、涙を拭いながら生駒に近づいた。そして、生駒の腹にパンチを喰らわせた。 

「ぐっ…いった!」

「遅い!先輩遅いですよ!!…榊先輩…もう…もう…。」

その場で泣き崩れる天野。生駒は天野の頭を優しく撫でて、ゆっくりと祐太郎が寝そべるベッドへと近付いた。

「…生駒。榊は、ついさっき旅立った。皆死に目に会えたよ。…お前にも間に合って欲しかった…。」

鶴井はそう言うと、生駒の肩をポンと叩き、処置室から出ていった。

「…ゆうた。」

生駒はゆっくりと祐太郎の頬に触れた。まだ温かかった。

「…ゆうた、頑張ったな。頑張り過ぎちゃったな。…だけど、最後に紗希ちゃんと北海道旅行行けて良かったな。…紗希ちゃんも…あれ?」

生駒は、この部屋に紗希がいないことに気が付き、辺りをキョロキョロと見回した。

「紗希なら、この場に居れないからちょっと外の空気を吸ってくると言って、さっき出ていったよ。追い掛けようかと思ったが
、男の先生が追い掛けてくれた。」

紗希の父親の孝夫が生駒に言った。孝夫は、目の前の現実が受け入れられずに、壁に寄り掛かって放心状態だった。

「…紗希ちゃん。」

生駒は処置室の入口を見つめながら呟いた。


病院の中庭のベンチ。外灯と月明かりに照らされ、神々しく光って見えるその場所に、紗希と片野医師が腰掛けていた。

片野医師は、紗希を追い掛けて探しているうちに、ベンチに座る紗希の姿を見つけ、無言で一人分スペースを空けた位置に腰を下ろしていた。

紗希は、地面を見つめたまま、重い口を開けた。

「…先生、色々とありがとうございました。」

「いえ、私は何も…何もしてませんよ。彼を支えていたのは、紗希さん貴方ですよ。」

「結局、私にはゆうちゃんが望むものを叶えてあげられませんでした。…結婚も…間に合わなかった。」

「…祐太郎さんは…きっと紙切れを役所に提出するような…そんな形じゃなくて、紗希さんの気持ちを知りたかったんだと思います…ですから、きっと満足したと私は思いますけどね。」

「…結局、父に反対されたんです。その直後に倒れて…こんな…こんな最期って…。」

紗希は我慢して溜めていた涙を一気に溢れさせた。

「そうですか…。でも…お父さんのお気持ちも理解してあげてください。さっきも言いましたが、祐太郎さんは紗希さんの気持ちを知りたかったのだと思いますから。…お一人の方がよろしいですかね?」

片野医師は、そう言うとベンチから立ち上がり、ゆっくり歩き出した。

「…先生。」

去ろうとする片野医師を紗希が呼び止めた。片野医師が足を止めて紗希に振り返ると、紗希はそっと顔を上げ、片野医師の目を見つめて問い掛けた。

「先生は、ゆうちゃんの容態が良くないのを知ってて退院させたんですか?」

意表を突く質問に片野医師は目を丸くした。

「…もう身体がボロボロだったんじゃないんですか?」

紗希の質問に片野医師は、ニコリと微笑み空を見上げて呟いた。

「…医者としては失格ですよね。」

「…先生、それじゃ…。」

紗希は驚いた表情を見せた。

「もう祐太郎さんの命は短いことがわかっていました。…私は、まだ若い祐太郎に後悔のないように最期を全うして欲しかった。…医者としては間違っていたかもしれませんが、私個人として判断したものです。責任は私にあります。」

片野医師はそう言うと、胸ポケットから封筒を取り出した。

月明かりと外灯で、ぼんやりとしか見えなかったが、紗希には『辞職願』と書かれているのが見えた。

「祐太郎さんの最期は見届けたいと思ってました。…皆さん、死に目に立ち会えて、とても良い最期だったと思います。…それに…私も、時間がないんですよ。」

「…どういう意味ですか?ゆうちゃんの最期を見届けて、お辞めになるんですか?…私は、先生がゆうちゃんを退院させたこと、悪いこととは思っていませんよ。先生を責めたりはしません。」

「…ありがとうございます。しかし、医者としては誤った判断です。仮に、退院させたことで、彼の命が短くなったと訴えられたら負けますよ。…彼のご両親が知ったら…。」

片野医師はそう言うと、軽く会釈をして病院内への入口に向かって歩き出した。

紗希は、どうすれば良いのか分からなかった。確かに、祐太郎の両親がこのことを知ったら、片野医師を責めるであろうと思った。ただ、紗希としては、結果はダメであっても、祐太郎が直接両親に結婚の話をする機会を与えてくれた、そのことには感謝しかなかった。

「ゆうちゃんだったら…。」

紗希は今は水が止まっている噴水を見つめながら考えていた。



片野医師は病院内に入り、祐太郎がいる処置室を目指し歩いていると、ポタリと左手の甲に何か液体が垂れたことに気が付いた。

涙だった。

医師を辞めると決断したことに対する涙か、祐太郎が亡くなったことに対する涙か、それとも他の理由か…片野医師自身、その答えは分からなかった。

ブーッ、ブーッ。 

突如、胸ポケットに入れていたスマホが鳴り、片野医師は慌てて涙を拭いながらスマホを取り出した。

「…え?晃子(あきこ)…。」

片野医師はスマホの画面を見て驚いた表情を浮かべ、直ぐに着信を取った。

「…もしもし。」
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