最期の時間(とき)

雨木良

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それぞれの覚悟

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一週間後。鵺野医師の元に、あずさが検診に来院していた。

「先生、先日はすみませんでした。」

「大丈夫だった?お母さん飛び出して行っちゃったから心配してたんだよ。」

「ホントに恥ずかしい話ですよね。…でも、あれから色々あって、お母さんに彼をしっかりと紹介することができたんです。それで、お母さんも彼の人柄を分かってくれて、彼との交際を認めてくれたんです。」

「そうなんだ、それはそれは。…じゃあ、子どもについても話し合ったのかな?」

あずさはコクンと頷いた。

「…産みたいです。彼も、お母さんも、おばあちゃんも全力でサポートしてくれるって言ってくれました。」

「そうか、それは本当に良かった。お腹の子は、君を選んで君の中に宿ったんだ。…正直、これから君自身は、病気によってツラい現実があるかもしれない。でも、この子は、君自身が頑張って生きた証になる。君が愛する人と幸せな時間を過ごした証だ。僕も全力でサポートするから、一緒に頑張ろう。」

あずさは、鵺野医師の言葉に、改めて覚悟を決めて、大きく頷いた。

「…ありがとうございます。あ、あと、さっき片野先生のとこに行ったんですけど…。」

鵺野医師は表情を曇らせた。

「…片野先生は、先日退職したよ。」

「え!?ホントですか!?…何でですか?」

「…色々…、色々あったんだ。片野先生は、自分の身体より患者を優先に頑張ってこられた。だけど、その身体もついに限界になったみたいで。僕も片野先生が病気だったとは知らなかった。だから、先生は、本当は君たち患者のことを放って引退したわけじゃないことは理解してほしい。」

「…そうだったんですか。…最後にお礼くらい言いたかったなぁ…。」



片野宅。

晃子に真実を告げた翌日、片野医師は病院長に辞職願を提出した。ただ、病院に迷惑をかけないよう、三ヶ月前から辞職する話をしていたため、片野医師の後任の医師の手配はできており、片野医師は安堵していた。

「お父さん、大丈夫?」

晃子は父親を危惧していた。退職してからというもの、緊張感が解けたのか、片野は家にいる間、ソファに座ってぼーっとする時間が増えていた。

「…あ、あぁ。…すまないな、折角晃子が帰ってきてくれたのに…、何か落ち着かなくてな。」

「そりゃ、医者に全てを捧げてきた人生なんだもん、急に物足りなく感じるのは当たり前よ。それだけ仕事が好きで、真面目にやってきたって証拠じゃん。…あの時は、それが嫌だったけど、今考えたら、凄いカッコイイことだと思うよ。」

晃子は照れくさくなったのか、そう言うとリビングから出ていった。

「…ふふっ。」

片野も照れくさくなり、一人で微笑んだ。



総合病院。

「弓削さん、今大丈夫ですか。」

片野医師の後任の医師と打ち合わせをしていた弓削の元に、看護師がやってきた。

「どうしたの?」

「片野先生にお客さんが来てまして。片野先生お辞めになったこと説明したんですが、どなたか片野先生に連絡付く方いませんかって言われてまして。」

「お名前は?」

「榊祐太郎さんの件と言えばわかると。」

弓削は、さっと立ち上がり部屋から出ると、待ち合いの長椅子に座る紗希と目が合った。

「…祐太郎さんの、彼女さんですよね?」

弓削の問い掛けに紗希は立ち上がって、コクンと頷いた。紗希は、弓削に近づき、ポケットから一通の封筒を取り出した。

「色々とお世話になりました。…まさか、片野先生がご退職されてるなんて、ホントにびっくりです。先生にこれを渡したくて…。」

紗希は封筒を弓削に差し出した。受け取った弓削は封筒の宛名を見た。

「片野先生宛て?」

「えぇ、祐太郎くんが片野先生に宛てた手紙です。」

弓削は、紗希を長椅子に座らせ、自分も隣に腰を下ろした。

「…祐太郎さんがこんな手紙残してたのね。」

「えぇ。先生にだけじゃなく、家族や私、会社の先輩、同僚、大学時代の友達とか、一人ひとりに手紙を残してたんです。」

「それは凄いわね。」

「北海道旅行に行く前に書き上げたみたいです。旅行中に、私に鍵を預けたんです。自分が死ぬまで持ってて欲しいって。…それで、先日祐太郎くんの実家に鍵の話をしたら、すぐに机の引き出しの鍵だと分かって…それで急いで開けてみたら…うぅ、皆に、感謝の言葉を綴った手紙が…たくさん…うぅ…。…本当に優しい人でした…。」

紗希は涙を拭いながら話した。

「…ありがとうございます。この手紙は片野先生に絶対にお渡ししますから。…まだ色々とツラいとは思いますが、あなたも頑張ってくださいね。」

弓削の言葉に、紗希は礼を言うとその場を去っていった。 

「早く渡しさないと…。あ、そうだ野々村(ののむら)先生待たせてるんだった!」

弓削は手紙をポケットに入れ、慌てて部屋へと戻っていった。


数時間後。

紗希は実家の部屋のベッドの上でぼーっとしていた。手紙を皆に渡し終わり、次に何をすべきかを考えたが、何もやる気が起きなかった。

ブーッ、ブーッ。 

すると、ベッドの上に無造作に置かれたスマホが鳴り、紗希は面倒くさがりながらもスマホを手に取った。

生駒からの着信だった。

「…もしもし。」

「紗希ちゃん、体調は大丈夫か?」

「…うん、体調は大丈夫。心配してくれてありがとうございます、生駒さんだってツラいのに…。」

紗希は、何故か生駒の声を聞いて、ホッとした気持ちになった。

「紗希ちゃんから貰ったゆうたの手紙、本当に嬉しかった。あいつの直筆の手紙なんて初めてで…開いただけで泣けてきちゃって、まだ全部は読めてないんだけどさ…。それでさ…。」

「…生駒さん、電話ありがとうございます。」

「え?」

「何か気分が滅入ってて…生駒さんの声聞いて、少し落ち着きました。」

「…そっか、こっちこそありがとう。俺も落ち着かない気持ちをどうにかしたくてさ…紗希ちゃんに電話しちゃったんだ…。」

「…ゆうちゃんの生駒さんへの手紙には何て書いてあったんですか?」

「え?…えっと…。」

生駒は少し考えてから、ゴクンと唾を呑み込んで話を続けた。 
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