しらぬがまもの

夕奥真田

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仕組まれた予知

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彼のことをあの子から聞いた時には、正直驚いた。

まさか、こうも近くにいてくれるとは。

しかし、虚しいな……。

近くにいながら、長い間気づいてやれないとは。

まぁいい……。

死ぬことはないだろうが、安全な場所に避難させておいて損は無いはずだ。

それに、大きくなった彼を一目見ておきたい。







フェンガリの調査へと派遣されて以来、精神はどんどんと磨り減っている。

領主やその領主と繋がる者たちによる陰謀を暴かねばならないという使命感と、その使命感から目を背け、
家族との幸せを享受したいという欲求の板挟みに苦しんでいるのだ。 

それ故、大切な家族と一緒にいても、ため息を止めることが出来ない。

「大丈夫ですか?もし具合が悪いなら無理しなくても……」

這いずっていた蛇の下半身を止め、妻のラミアが包帯の巻かれていない片方の目で、心配気にこちらを見つめる。

「あぁ、うん、大丈夫だよ……」

解けかけた手をもう一度繋ぎ直し、頑張って微笑むも、ラミアの表情は晴れない。

申し訳ない気持ちで胸が痛くなる。

彼女の心配はひどく嬉しいのだが、この苦悩を打ち明けることは出来ない。

打ち明ければ、おそらくはこの苦悩も多少は和らぐはずだが、それは彼女はもちろん、娘のヴィエルジュにも被害を与えてしまう可能性が生まれる。

自身がもし死んだとしても、それは別に仕方のないことだと諦めがつくだろうが、大切な家族がひどい目に遭う、あるいは殺される様なことだけは絶対に避けなくてならない。

「パパ、ママ?どうしたの?」

左手に抱きついていたヴィエルジュも、止まったことを不審に思ったのかこちらを見上げてくる。
少し内気なところもあるが、人を思いやるその優しさは母親譲りだ。

「何でもないよ。さぁ、行こう?」

二人の手を引き、前へと歩き出す。

苦しくとも、今は空元気を出してでも愛する二人との幸せな時間を過ごさねばならない。

自分は彼らの夫であり、父親なのだ。

二人の前で弱音を吐く訳にはいかない。

フェンガリの一件を済ませて数日が過ぎたが、自身以外に特に変わった様子はない。

街の雰囲気も、帰り道で立ち寄ったソレイユの様に陰鬱になっていないし、騎士たちも騒ぎ立てる様子はない。

余計な混乱を避けたい領主の望んだ通りの結果なのだろうが、それ故に恐怖も感じる。

一つの街が破壊されたという大事をこうも隠し続けるのは、並大抵の情報統制では出来ないはずだ。

一体如何なる手段を用いているのか。

もっとも、領主と話した時にはフェンガリでの一件をシエル全体へと伝え、次の襲撃に備えるべきであると考えていたが、この平穏を壊すことが本当に暮らしている者たちにとって良いことなのか、こう一市民に戻ると途端に分からなくなってしまう。

いつもと変わらぬ日常を送る多くの人や魔物たちの平和な表情を見ていると尚更だ。

「それにしても、人通りが多いね。いつもこうなの?」

「そう、ですね……。大通りはあまり通らないので、ちょっと分からないです。私の目だと、他の人に迷惑がかかっちゃいますから……」

ラミアは切な気に、空いた手で包帯の巻かれた片目を触れる。

騎士という役職上、家族と共に過ごせる時が少なくなってしまうのは仕方がないことであるが、自身が如何に家族のことを知らないのかが思い知らされる。

思えば、こうして家族で出かけるのも久しぶりだ。

「ご、ごめん……。なら、人通りの少ない通りに行こうか?」
「い、いえ、きっと大丈夫です……!だって、今日はビルゴがいますから……」

繋いでいた手を一度離すと、ラミアは右腕にしがみつく。

結婚し、ヴィエルジュが生まれてからはこんな恋人がするようなことはした覚えがない。

恥ずかしさで顔が熱を持ち始めるのが分かる。

しかし、決して嫌な気持ちはしない。

柔らかく、温かな妻の肌が、暗く、苦しい心の中に優しい光を差し込んでくれるようだ。

「むっ……!」

「うわっ……!」

右腕の心地良さに恥ずかしがりながらも、安らいでいると、急に左腕が引っ張られる。

見ると、ヴィエルジュがラミア同様に左腕へとしがみついている。

「ヴィ、ヴィエルジュ……!引っ張らないで、転んじゃうよ……!」

「む~!」

ラミアの様に腕にくっつきたいのだろうが、体がまだ小さいために、うまくくっつくことが出来ないらしく、強引にこちらの体を引き寄せにかかってくる。

抱っこをせがまれた時にも感じたことだが、やはりヴィエルジュも魔物。

その力はなかなか抵抗して勝てるものではなくなってきている。

仕方なく膝をつき、ヴィエルジュと視線の高さを合わせる。

「ヴィエルジュ?あんまり引っ張られると痛いよ?」

「パパがいけないんだもん……」

「どうして?」

「だって、ママとっきり、いちゃいちゃしてるもん……」

そっとラミアと顔を見合わせ、互いに苦笑いを浮かべる。

小さくともやはりラミアの娘、その嫉妬心も負けず劣らずらしい。

といっても、さすがにこの大通りで、ヴィエルジュの身長に合わせて歩くことも出来ない。

ラミアの目の不自由さも考えれば尚更だ。

とすると、愛娘を納得させる方法は一つだろう。

「よっこいしょ……!」

「うわっ……!」

大通りの人目など気にせず、ヴィエルジュを蛇の下半身も余すことなく抱き上げる。

「今はこれで我慢して?ね?」

「うぅ……」

すぐに機嫌が良くなるとは思ってはいなかったが、抱き上げられたヴィエルジュは胸元へと顔を埋めて、小さく唸るばかりだった。

今度は何がまずかったのかと首を捻っていると、ラミアが耳元で小さく囁いてくれた。

「人前だから、きっと恥ずかしいんだと思います」

なるほど、確かに人前で抱っこをねだっていたと思われるというのは、恥ずかしいかもしれない。

もっとも、本当に嫌ならば、暴れるなりなんなりをして離れようとするはずだ。

それがないということは、しばらくは胸に抱くことを許してくれるということだろう。

ありがとう、そんな意味を込めて、優しくヴィエルジュの頭を右手で撫でる。

しかし、そんな右手を強引に引き寄せ、ラミアはまたくっついてくる。

「……妬いてる?」

「……ちょっとだけです」

俯きながらも、少し拗ねた様にラミアは呟く。

愛する家族二人にこうも求められることは嬉しいが、正直ヴィエルジュが大きくなった時は少し心配だ。







妻と娘に誘われるがまま、こうして街へ繰り出してみたが、実際何の目的があるのかは分からない。
買いたい物でもあるのか、あるいは単純な散歩のつもりなのか。

もっとも、付いて回るだけの者に目的など知る必要もないのかもしれない。

買う訳ではなくとも、商品を手にとって、互いに笑い合う二人を見ているだけで、孤独な苦悩を忘れられるのだから。

大通りではその人の多さもあって、買い物という買い物はせず、人の波に流されるがままに進んで行った。

そうして、出入り口のある門近くの波打ち際まで来た所で、そっと小さな通りへと曲がる。

いつもラミアとヴィエルジュが買い物に来るという通りだ。

無論、買い物を楽しむ目的ならば、多種多様な露天商が店を並べる先の大通りこそ、この街では適当だろう。

しかし、生活に必要な食材や家具などを買うのなら、こういった小さな通りでも事足りることが多い上に、大通りの露天商よりも親交深い関係を築けることもある。

実際、こちらを見つけた野菜売りのマンドレイクは、植木鉢から土だらけのそのか細い手を振ったり、肉屋のワーウルフは気さくな挨拶をしてくれる。

彼らはこんなにも温かな優しさを持つ者たちなのだ。

シエル以外の国々の人間たちが魔物を悪く言う理由が未だに理解できない。

もちろん、遥か昔に魔物たちが人間界に攻め込み、それを勇者が魔王を滅ぼすことで退けたという神話にも近い御伽噺は知っている。

しかし、魔物たちと共生し、この温かさを知ってからは、その古臭い物語も事実だったのか疑わしく思えて仕方がない。

もっとも、過去がどうあれ、今現在、人と魔物たちは、このシエルを元に良い関係を築き始めていることは間違いない。

いずれこの関係は世界中に浸透していく。

そして、その新たな力関係の世界の先駆者となることで、長く弱小と罵られてきたシエルの輝かしい未来が待っているはずなのだ。

他のシエルに住む人間が何を考えているかなど分かろうはずもないが、自分は常に強いシエルを思い描き、その実現を願っている。

それ故、魔物たちと手を組むことに何の抵抗もなく、むしろ渡りに船だとも感じたものだ。

実際、魔物のたちの力によって、奪われていた領土を取り戻し、技術や知識によってシエルは豊かになってきている。

彼らには感謝こそすれ、怒りや憎しみなど抱こうはずがない。

むしろ、そんな彼らを悍ましい化け物と罵り、妻から一度光を奪った他国の連中を許せるはずはないし、そんな連中の端くれ共が今度は街を焼いたというのに、何の動きも見せない領主たちも気に入らない。

しかし、最も腹が立つのは、ある程度のことを知りながらも、大切な家族を失うのではないかという恐怖から動くことを恐れている己自身に対してだ。

「ん……?お前さん……?」

大通りの時同様、特に買い物もせず、通りの商人たちに挨拶を返しながら歩いていると、店に並ぶ商品を見つめていた小さな老人が不意にこちらへと顔を向けた。

真っ白な髭に、険しい表情、そして、所々黒く焦げたらしい服。

見間違うことはない、あの時持ち帰った武器や防具を鑑定してくれたドワーフだ。

「あぁ……!こんにちは、あの時はありがとうございました」

「ふん、大したことはしておらん。礼なんぞいらん」

澄まし顔で鼻を鳴らすドワーフだが、決して嫌がっている様子はなく、むず痒そうに立派な顎鬚を触る。
ドワーフという種族柄か、素直でない者が多く、他種族嫌いと誤解されることも多い彼らだが、人の好意を無下にして楽しんだりするようなことは決してない。

ただ単に不器用なだけなのだ。

「あの、この方は……?」

「あぁ、えっと、前に仕事でお世話になったドワーフだよ。鍛冶屋を営んでいるんだ」

「そうですか。その節は夫がお世話になりました」

「だから、わしは大したことはしとらんと言うとるじゃろうが、全く……」

ドワーフは頭を抱え、深いため息を吐く。

礼を言われることに、やはり慣れていないのだろう。

「今日は何か買い物ですか?」

「お前さんには関係あるまい」

「それは、まぁ、そうですが……」

「……まぁ、一日中鉄と向かい合うのも疲れる、それだけじゃ。お前さんの方こそ、今日は家族とか?」

「はい、妻と娘です」

手で二人を示すと、ラミアは静かに頭を下げ、ヴィエルジュも恥ずかしそうにそれに倣う。

ドワーフはそんな二人の顔を見比べると、微かな笑みを浮かべた。

「良かったの。愛らしい者たちに囲まれて」

嫌味や皮肉などではないのは、その優しげな声色ですぐに分かる。

嬉しいことは当然だが、改めてそう言われると、どこか気恥ずかしく、照れた笑みを浮かべることしか出来ない。

そんな様子がおかしかったのか、横でラミアが小さく笑った。

「……ところで、今日はあの馬鹿を連れておらんようじゃな?」

頬の熱が少し冷えた頃、先ほどの微笑など嘘の様に消え失せた、検のある表情をドワーフがこちらへと向けた。

「馬鹿?それって……」

「アルのことじゃ」

アル、本名はアル・ハイル・ミッテル、このコハブの街でもっとも腕の良い医術師と評判の人物だ。

個人的にはここ数日はあまり耳に入れたくない人物の名でもある。

何故彼のことを馬鹿と呼ぶのかは分からない。

しかし、思えばあの時、彼はこのドワーフとそれなりの付き合いがあるような話ぶりだった。

このドワーフもまた彼の治療を受けたことのある者なのかもしれない。

「えぇ……。あの時はたまたまです。いつも彼と一緒にいるという訳ではありません」

「そうか、それならいい……」

「……あの、アルさんがどうかしたんですか?」

治療を受ける身として、彼のことが気になったのか、おずおずとラミアが口を挟む。

また何でもないと突き放されると思っていたが、ドワーフは静かにラミアの方を見つめる。

「……お前さんのその目、奴に診てもらっているのか?」

「は、はい……。一度は見えなくなってしまいましたが、アルさんの治療のおかげで、少しずつではありますが、見えるようになってきています」

「……それは、良かったの」

ドワーフは少し考え込んだ末に、絞り出す様に告げる。

祝福する気がない訳ではないが、手放しで喜ぶことは出来ない、そんな風だ。

「彼について、何か知っているんですか……?」

「……お前さんが知ってもしようのないことじゃ、気にするな」

「そう言われて簡単に引き下がれる訳ないじゃないですか。僕だって騎士です、訳ありそうな一市民を放ってはおけません」

「騎士……?」

どこか諦める様に背を向け、その場を去ろうとしていたドワーフが顔だけをこちらへと向ける。

こんなことで騎士の役職名を出すことが適しているのかは、何とも言えないところだが、個人的に彼については調べる必要性が大いにあると考えているだけに、むざむざとこの機会を逃す手はない。

「お前さん、騎士なのか?」

「はい、一応……」

雑務ばかりをこなしている下っ端ではあるが、一応は騎士に違いはない。

「……」

暫くの間こちらをじっと見つめていたドワーフだったが、不意に顔を戻し、腕を回す。
付いて来い、そう指示しているのだとすぐに分かった。







困惑する妻を安心させるように、組まれたその手を強く握り、不思議そうにこちらを見つめる娘の頭を時々撫でながらドワーフの背を追いかけていくと、コハブの街にいくつかある広場の一つへとやって来た。

広場というだけあり、先ほどまで通って来た小さな通りよりも人や魔物の数は当然に多く、真ん中に設置された噴水や、周囲にある店には多くの人混みが出来ている。

そんな中をドワーフは怯むことなく、噴水へと歩いていき、その縁の空いた所へと腰掛けた。

アルに関する如何なる話を聞かされるか分からないが、こうも人の多い場所で話しても良いことなのだろうか。

そんなことを疑問に思いつつ、その隣へと腰掛けようとすると、ドワーフが小さく手招きをする。

「嫁さんと娘さんを何処かへやれ。でなきゃ聞かせられん」

腰を屈め、近づけた耳にドワーフは小さく囁く。

こうも人の多い所でありながら、二人だけを遠ざける理由もよく分からないが、気難しいドワーフの機嫌を損ねぬよう、素直に頷き、その意思に従うことを示した。

「ごめん、ちょっとだけ時間をちょうだい。二人だけで話したいことがあるんだ」

「ビルゴ……」

「大丈夫、すぐに終わるから」

無論、そんな保証はどこにもない。

しかし、今にも泣き出しそうな程不安気な表情を浮かべる妻を、今以上に不安がらせることは、嘘をつく以上に良心が痛んだ。

「……分かりました。でも、本当にすぐ戻りますからね」

「うん、分かった」

巻きついていたラミアの手が右手から離れていく。

途端に、心を癒していてくれた心地よさや温かさが消え失せ、幼い時迷子になった時の様な心細さや孤独感が目を覚まし出す。

そして、すぐにでもまた妻の温かな手を握り締めたい、そんな思いで胸が一杯になる。

だが、今弱音を吐く訳にはいかない。

「……ヴィエルジュ、近くでママと一緒に何か簡単に食べられそうな物を買って来てくれない?」

「……パパは一緒に来ないの?」

「僕はちょっと大事な話があるから……」

「……分かった」

渋々といった表情ではあるが、特に駄々をこねることはなく、ヴィエルジュは地面へと降り、ラミアの手を取ってくれた。

不安気な表情でこちらを何度も振り返るラミアにぴったりとくっつき、その目の不自由さを補佐しながら、ヴィエルジュは人混みを進んで行く。

二人で街へと出かけていると話を聞いた時には、ラミアが他者とぶつかり、怪我をするのではないかと心配したものだが、もうその心配は杞憂らしい。

ヴィエルジュがしっかりとラミアを守っているのだから。

自身の知らぬ間にこうも成長してくれていた娘に、自然、涙が滲んでくる。

「……すみません、遅くなってしまって」

「いや、謝るのはこっちじゃ、すまんな。じゃが、あんな愛らしいからこそ、聞かせるのはあまりに不憫じゃ」

手の甲で涙を拭き取り、ドワーフの横へと座る。

「……それで、アルについて何を知っているのですか?」

「……」

あらゆる所から上がる人の声に隠れる様な、だが、隣に座るドワーフには確実に聞こえる声で尋ねる。

しかし、ドワーフは俯き、じっと地面を見つめたまま答えようとはしない。

急かす必要はない。

自身の隠し事であろうと、他者の秘密であろうと、そうぺらぺらと話せるものではないはずだ。

むしろ、ぺらぺらと話されては、嘘や作り話ではないかと疑いたくなる。

暫しの間、ドワーフの返答を待っていると、彼は深いため息を吐いた後に、ぽつぽつと話し始めた。

「この街で奴の名を聞き始めたのは、ちょうどこの街の領主が変わり、今のプレシエンツァになった頃じゃ……。その前まで何をしていたかは知らんし、奴自身語ろうともせんが、皆その医術の腕前に魅せられ、誰もそんなことを気に留めようともせんかった……」

言われてみれば、彼の事で知っていることはひどく少ない。

歳若い見た目をしている故、似た様な歳なのだろうと勝手に思い込んでいたが、確かに実際の年齢は知らないし、ドワーフの言うように気にもしなかった。

それに、過去のことも。

「じゃが、よくよく考えてみればその話もおかしな話。何故奴はわしら魔物の治療を行うことが出来る?わしら魔物が魔王様に連れられてこの人間界にやって来たのは十年以上前、奴の名を聞く様になったのも十年近く前。たった数年であれほどの技術を習得出来るとは思えん」

彼の医術の腕前が今更嘘であると否定は出来ない。

何故なら、現に妻であるラミアの失われた視力を回復させたのだから。

しかし、ドワーフの指摘もまた正しい。

魔物の出現と彼の出現には確かに数年の開きがある。

だが、その数年の間に、多くの魔物の体の構造や性質を理解し、それに効く薬や治療を施せるようになれるほど、医術の道は平坦ではないはずだ。

「では、どうやって彼はあれほどの医術を……?」

「……お前さんたちには悪いが、魔物は一度人間全てを滅ぼそうとしたことがある。その時に、研究された魔物に関する古い書物が無いわけではなかろうが、それでもあれほどの情報を得られるとは考えづらい」

もっともだ。

それに、もしそれほどの古く貴重な書物を読む機会があったとしたら、やはり彼は領主やそれ以上に権力のある者たちと深く繋がっていることを示している。

「……彼のことは、前から疑っていたのですか?」

腕を組み、首を捻るドワーフに、話の途切れた隙間でそもそもの疑問をぶつける。

じろりとこちらに怪訝そうな目がこちらを見つめる。

数日前のフェンガリの一件から、彼のことを疑い始めた身であるが、心の何処かで全てのことが杞憂に終わることを望んでいるのかもしれない。

それほどまでに、疑う前は、彼のことが好きだった。

それ故、自分と同じように彼のことを疑ってしまっている人物を、どこか歓迎したくない気持ちがあるのかもしれない。

「そうじゃな……。随分前、奴に診てもらった時から、どこか疑っておった」

「その時は何故診断を?風邪とか、ですか?」

「いや、肺じゃよ。まぁ、こんな仕事柄じゃ、仕方がない」

そう言って、その小さな胸を軽く叩く。

そうだ、このドワーフは鍛冶屋だ。

害のある煙や埃、粉などを否応無しに吸い込んでしまう。

そのせいで、おそらくは肺を患ってしまったのだろう。

「……すみません」

自然、口から謝罪の言葉が漏れる。

「何故お前さんが謝る?お前さんは何も悪くはないじゃろう」

「嫌なことを尋ねてしまいましたから……」

「はぁ、全く、お前さんは……。気にするな、話を進めるぞ」

励ますためか、あるいはこちらに心配されるのが嫌だったのか、肩をばしばしと叩き、ドワーフは再び彼のことを話し始める。

「奴はすぐに肺に問題があることを突き止め、薬を調合もしてくれた。じゃが、診察も終わり、帰ろうとしたところで、奴は血をくれと言ってきた」

「血を……?瀉血、ということですか……?」

瀉血というのは、体内の不純物を出血と共に体外へと出す、痛々しい一昔前の治療法であるが、今は何の治療効果もないと考えられており、行う者はまずいないはずだ。

「いや、奴の口ぶりではそういった意図で行う訳ではないようだった」

「では、何故血なんか?」

「分からん。じゃが、奴の診察を受けたことのある他の魔物たちの話を聞くと、全ての魔物たちが血を取られた言っておった」

「……ちなみに、どんな風に血を?」

おそるおそる尋ねると、ドワーフはすっと服の袖を巻くり、逞しい腕を見せてくれた。

火傷らしい痕はいくつもあるが、それ以外の数は見当たらない。

「……すみません、どの傷ですか?」

「すまんが、わしにももう見えん…。確かに小さな短剣で傷をつけられ、血を取られたはずなのじゃが、その後に塗り込まれた薬と包帯のせいで、次の日には分からなくなってしまったんじゃ」

「小さな傷だったんですか?」

「いや、随分と血を取られた気がするから、それなりの大きさだったはずじゃが……」

腕を回転させ、それらしい切り傷をドワーフ自身も探すが、やはり見つからないらしい。

もしもその傷が見つかれば、その事で彼を追及できそうでもあったが。

それにしても、患者の血を集めるなど、不可解な話だ。

 彼の正体はヴァンパイアだとでもいうつもりだろうか。

……いや、そんなはずはない。

そんなはずはないが、彼がただの医術師ではないことは充分に理解出来た。

「他に、彼に関して知って……」

「よぉ、可愛い子ちゃん二人をほっといて、パパはボーイフレンドとデートかい?」

驚きのあまり、隣に座るドワーフと共に体がひどく震える。

この今はひどく聞きたくもない軽い口調が誰ものなのかは、顔を向けずとも嫌でも分かる。

しかし、顔を向けないまま、この状況が変わることを切に願うわけにもいかない。

意を決して、額やこめかみから溢れ出す冷や汗をさっと拭い、声のした方向へと顔を向ける。

そこには、妻と娘と共に、医術師のアル・ハイル・ミッテルが飄々と立っていた。

「……そういう貴方こそ、今日はお休みで?」

「そうしたいのは山々だが、生憎こっちは患者からの評判が命だ。具合が悪い時にやってない、能無し医術師なんて逆恨みをされちゃたまらないからな。定休日じゃなきゃ休めないさ」

やれやれとアルが態とらしく肩を竦めると、ラミアとヴィエルジュがくすりと笑う。

「そこのお店で偶然お会いしたんです。ちょうど回診からの帰り途中だったみたいで」

手に持ったいくつかの紙袋の内の一つを渡しながらラミアが付け足してくれる。

紙袋の中からは、焼きたての美味しそうなパンの香りが漂ってくる。

「本当はまだ何軒か回らなくちゃならないんだがな……。全く、嫌なところを見られたもんだ。頼むから、患者より腹ごしらえを優先してるなんて噂は流さないでくれよ?」

「大丈夫です、そんなことしません。アルさんにはいつもお世話になってるんですから」

「励みになる御言葉どうも。あぁ、そうだ。明日からは俺も忙しくなるからな。有り合わせの物で少ないが、薬を渡しておくよ」

そう言うと、腰から下げたポーチからいくつかの薬包紙を取り出し、こんな形で申し訳ないと謝りつつ、それらをラミアへと手渡す。

「いつもありがとうございます。アルさんのおかげで、だいぶ見えるようになってきています」

「そいつは結構な話だ。だが、そういうのは黙っとくもんだ。まだよく見えないって言ってる方が旦那もくっつきやすいだろうからな」

「そ、そんな嘘つかなくても、ビルゴはくっついてくれます……!」

慌てた様子で赤らめた顔をこちらへと向けるラミアに、静かに頷いて見せる。

以前ならば、ラミアの言葉に強く同意し、アルに文句の一つでも言って、互いに笑い合う場面であるが、今はそんな以前の振る舞いが出来るほどの余裕はなかった。

「まぁ、嘘も方便ってことさ。それより、お宅はこんなとこで何してるんだ?」

アルの視線がドワーフへと向かう。

表情と口調は相変わらず軽いものだが、その視線だけはひどく鋭い。

「親父、あんたには頼んでおいた仕事があるはずだ。こんなとこで油を売ってるってことは、もう出来たってことかい?」

「……まだじゃ」

「おいおい、まだボケる歳じゃないだろ?納期は明日なんだ、ちゃんと間に合うのか?」

「……努力はする。じゃが、お前、医術に使う試験管やら小刀なら分かるが、騎士が着るような防具なんぞ、一体何に使うんじゃ?」

挑むような目つきでドワーフはアルを見返す。

「防具……?」

彼を腕の良い普通の医術師にと思っているラミアやヴィエルジュは、あまりに彼にそぐわない単語に戸惑いの眼差しを向ける。

二人には余計な話を耳にさせたくはなかったが、彼を問い詰める効果はあるだろう。

こうなっては仕方がない、問い詰められるところだけでも問い詰めてみよう。

「……どういうことですか?医術師の貴方が防具なんて発注して、一体何を企んでいるんですか?」

「企むとは人聞きが悪いな。さっきも言ったろ?こっちは評判が命だとな」

「……では、何故そんな物を手に入れたいのか、説明してください」

彼の表情が強張る……そう思っていた。

しかし、彼は軽く笑い、その飄々とした態度は一切崩れることはなかった。

「何、単純な話さ。新しい患者が来たんだが、そいつがなかなか困りもんでね。硬い鱗でほとんど全身を覆ってるんだが、そいつのせいで刃物が通らず、治療が二進も三進もいかない。だから、その鱗を溶かす為のちょうどいい硫酸を作る、その実験に同じくらい硬い防具が必要ってわけさ」

事情を説明する彼の口調はいつも通り軽いのものだ。

あからさまに早口になる訳でもなければ、変に口ごもることもない。

何も事情を知らぬ者が聞けば、彼の言い分はひどくそれらしいものであろう。

「……説明は以上で良いかい?」

一気に口を動かしたのが疲れたらしく、顎を摩りながら彼は尋ねてくる。

「……ちなみに、その患者というのは一体誰ですか?」

「クエレブレ……あっ、これ診療情報……」

彼の表情が今更になって強張り、引きつった笑みへと変わっていく。

「悪いが今のは聞かなかったことにしてくれ……!じゃあ、親父また夜頃には受け取りに行くから、それまでには完成させておいてくれよ?」

逃げる様に足早に去って行く彼の後ろ姿に、妻と娘はまたくすりと笑うが、噴水の縁へと腰掛けるこちら二人は互いにちらりと顔を見合わせた。

彼の言葉を鵜呑みにするつもりはない。

しかし、だからといって全てを疑ってかかることが賢明とも言えないのは確かだ。

どこが真実で、どこが嘘なのか、それをしっかりと考えなくては。

クエレブレという魔物がこの街にいることは事実だ。

ドラゴン種故のその図体の大きさから、地上に降り立って街の中を闊歩する姿を見たことはないが、街の上空をくるくると飛び回っている姿は何度も見たことがある。

もっとも、話で聞き、遠目で見たことしかないために、クエレブレの鱗が実際にどれほどの強度を誇っているのかは定かではない。

ただ、他のドラゴン種や鱗を持つ魔物たちを見れば、並大抵の刃物など通じるとは到底思えない故、彼が硫酸を製作する意義も分からないではない。

そして、その硫酸の実験するためにドワーフに防具を製作させている。

一見すると、矛盾はないのかもしれない。

だが、どうしても腑に落ちない。

彼はクエレブレ以外にも、以前に刃物が通じない強靭な鱗や肉体を持つ魔物たちを診てきたことだろう。

それに、刃物が通じずとも粉薬などは調合できるはず。

何故、そこまで硫酸に拘るのか……?

「……では、わしももう行こう。奴からの仕事を終わらせなくてはな」

「あっ、待ってください……!」

噴水の縁から降り、仕事場へと戻ろうとするドワーフにラミアが声をかけ、紙袋の一つを差し出す。

「あの、ドワーフさんの分も買ってきたので、もしもう帰ってしまうなら、お家で食べてください」

「……」

微かに予想はしていた通り、ドワーフは険しくも、困惑した表情を浮かべる。

「貰ってあげてください。せっかく妻が買ってきた物ですから」

こちらとラミアの顔を交互に何度も見やるドワーフだったが、軽く息を吐き出すと、意を決して紙袋を受け取った。

「……ありがとう、礼を言う。もし、何か困ったことがあればわしに言え。しがない鍛冶屋じゃが、出来ることはさせてもらう」

「ありがとうございます。また何かあったら頼らせていただきます」

縁から降り、深く頭を下げると、ドワーフも頭を下げ、小さく手まで振ってくれた。

質実剛健なドワーフにしては、少し珍しく柔らかなことをするものだと不思議に思っていたが、その理由はすぐに分かった。

初めて会ったドワーフに恥ずかしがり、ラミアの背に隠れながらも、ヴィエルジュが小さくその手を振っていたからだ。







彼とドワーフが立ち去り、再び家族だけとなると、ラミアたちが買って来てくれたパンで、簡単な昼食を取ることにした。

ヴィエルジュを挟む形で噴水の縁へと座り、それぞれのパンをちぎりながら一緒に食べる。

量としてはさして多いものではないが、愛する二人と笑い合いながら食べると、幸せで自然とお腹が一杯になっていく。

「この後はどうする?もう少し店を見て回る?」

「……ビルゴはどうしたいですか?」

「僕?僕は何でも良いよ。たまの休みなんだし、二人に付き合うよ」

「……」

実際、連れ出されたに近い形で外出したもので、特に買いたい物もなければ、見たい物もこれといってない。

家で休みたい気持ちが無いといえば嘘になるが、騎士としての時間が多く、妻や娘と一緒にいられる時間が少ないのだから、休みの日くらい出来るだけ二人の意見を尊重したい。

そういう意味で告げたのだが、ラミアは不満げで、少し怒った様な表情を浮かべる。

「……なら、もう少しだけ街を歩きたいです」

「う、うん……。分かった……」

不機嫌そうに告げるラミアに気圧され、静かに頷く。

……何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうか?

午前中同様、頭の片隅で彼や領主のことを考えつつ、ぼんやりと買い物に付き合い続けていると、不意に胸に柔らかな吐息を感じた。

見ると、腕に抱えていたヴィエルジュが小さく可愛らしい寝息を立てている。

いつの間にか、時は既に夜の帳が下りる頃となっていたのだ。

右腕から離れ、前を進むラミアに声をかける。

「ねぇ、そろそろ帰らない?もう暗くなってるし、ヴィエルジュも寝ちゃったし……」

人通りも少なくなり、片付けを始める店もある中、これ以上の買い物は無用だろう。

もっとも、そもそも今日は買い物らしい買い物をしていない気もするが。

声に反応し、ラミアが歩みを止める。

しかし、振り返ろうとしない。

「どうしたの?」

「……うるさいです。この甲斐性なしの一生童貞顔野郎」

……なるほど。

胸の中でため息と共に手の平を叩く。

どうやら怒っているようだ。

昼食のパンを食べていた辺りから、それらしい空気には気がついてはいたが、気にする程ではないと高を括ってしまっていた。

妻を怒らせたことは何度かある。

それ故、彼女の怒りの表し方はよく知っている。

アルは二重人格と評していたが、まさにその表現は正しいかもしれない。

彼女は激高することも、声を荒げることもなく、静かに致死的毒を吐いてくる。

もちろん、身体的に死にこそしないが、心は壊れかかる寸前までいたぶられ続けるのだ。

「えっと、まずは落ち着いて?人通りもあるし、ヴィエルジュも寝てるし……」

「ヴィエルジュヴィエルジュヴィエルジュ娘が可愛くて仕方ないんですねいつか大きくなったら発情するんですねそうですねそうに違いありません」

「ち、ちょっと、ラミア……」

通り行く他者からの視線など気にもせず、いつものおっとりとした口調からは考えられもしない程、流暢に毒を吐き続ける妻を止めるため、そっと近寄る。

「文句を言いたいのは分かるけど、ここじゃ流石にまずいよ……。場所を変えよ?」

「良いですよ何処でも言い続けてあげますあなたは妻のことなどまるで見ない甲斐性なし男だと何処に隠れても私が追わずとも噂が追いかけていくように仕向けてあげますそして……」

聞くに堪えないとはまさにこのことだ……。

ラミアの手を取ると、ヴィエルジュを落とさぬよう気をつけながら、駆け出した。

人と魔物の多い街だけあり、全く誰もいないところなどなかなか見当たらず、吐き出され続けるとラミアの毒の背に浴びながら当てもなく彷徨っていると、街の外へと通じる門まで来てしまった。

さすがに暗くもなると門を出る者も、入ってくる者もそういないらしく、人影はない。

「ここらへんなら良いかな……。ちょっとは落ち着いた?」

「いいえ全く」

そうは言いつつも、その後に毒が続かないあたり、全てを出し切ったか、ある程度怒りも静まったのだろう。

「……ごめんね、怒らせる様なことしちゃって」

「私が何に怒っているのかちゃんと言ってください。でないと意味ないです」

「……」

ぐうの音も出ない。

適当に謝っておけば機嫌が直ると思い、先手を打って謝罪したつもりはないのだが、残念ながら妻が怒っている理由は見当もつかない故に、もはや八方塞がりだ。

「早く答えてください」

「え、えっと、買い物にちゃんと付き合わなかったから……?」

「違いますさすが甲斐性なしですね」

「な、なら、あのドワーフさんと二人っきりで仕事の話をしてたから……?」

「……掠っていますけど核心ではないので外れですこの童貞顔」

「ほ、本当にごめんなさい……。もう怒らせないよう努力しますので、どうか許してください……。そして、出来れば今回の怒りの原因も教えてください……」

「……」

深く深く頭を下げ、妻に必死で懇願する。

腕力でも、口先の罵り合いでも勝てないのだ。

もはや男として、夫として恥も外聞もない。

それに、一時の気持ちの昂りで、愛する妻を傷つける訳にもいかない。

気持ち昂りのせいで、ソレイユでは散々な目にあったのだから。

暫くの間、ヴィエルジュをしっかりと抱きかかえながら、頭を下げ続けていると、不意に手が伸びてきた。

手は優しくヴィエルジュを抱き取っていく。

「まだそのままですよ」

少し上げかけた頭が止まる。

どうやら相当におかんむりの様だ。

一体どんなぽかをやらかしただろう……?

重力に従う血液のせいで、ぼんやりと気持ち悪くなっていく頭を懸命に働かせ、妻の怒る原因を今一度考える。

だが、それらしい身に覚えがない。

妻が最も忌み嫌う嫉妬心を擽る様な事もしていない。

もっとも、全てはこちらの主観的な評価であって、ラミアがどう思っているかまでは、推し量れはしないのだが。

「何故怒っているか、分かりましたか?」

「ごめんなさい、分かりません……」

「……質問を変えます。ビルゴは何を隠しているのですか?」

「えっ……?」

あまりに予想だにしなかったラミアの言葉に、自然、言いつけなど忘れて顔が持ち上がる。

そこには、先ほどまでの怒りの色など消え失せ、悲しみに満ちた面持ちのラミアが立っていた。

「か、隠す……?な、何を言ってるの?何も隠し事なんか……」

「私が気がつかないとでも思っているんですか……!」

叫ぶラミアの目には微かな涙が滲んでいる。

「数日前から様子がおかしかった……。ずっと思い詰めた様子で、何を尋ねても、大丈夫の一言だけ……。そんなに私やヴィエルジュに聞かせられないことですか…!そんなに家族のことが信用出来ませんか!?」

「……っ」

悲痛な叫びが胸を締めつける。

ラミアは苦悩していることに気づき、人知れず心配していてくれたのだ。

そんな優しさに気づかず、一人だけで孤独に苦悩しているとばかり思っていた自分自身が、ひどく恥ずかしく、腹立たしい。

「私が怒っているのはそこです……!家族なのに、悩みも打ち明けてくれないなんて……」

「……」

「すごく……悲しいです……」

そっと、ラミアへと近づき、その体を抱えるヴィエルジュごと抱きしめる。

「ごめん……」

「謝るくらいなら、訳を聞かせてください……」

「……」

妻はひどく心配してくれている。

正直とてもの嬉しかったし、ありがたかった。

そして、そんな優しく、健気な妻がとても愛おしい。

だが、本当に今自身が抱える苦悩を妻に告白するべきなのかは、別問題だ。

アルや領主、それ以上の者たちの不確かな謀略を突き止めるべきなのか、あるいは、知らぬふりを貫き、今の幸せを願うべきなのか。

改めて苦悩に向き合うと、途端にアルと領主の顔が頭の中に浮かぶ。

苦悩の中の彼らは常に不敵な笑みでこちらを見つめてくる。

幸いなのは、そんな笑みを向けられているのは、おそらく今は自分一人だけということだ。

しかし、もしラミアに例のことを話してしまえば、その笑みはラミアやヴィエルジュにも向けられる可能性がある。

妻と娘にもしもの事があれば……。

そう思うと、体が震え、動悸と鼓動が早まり、とても告白できるものではなかった。

「本当に、ごめん。今は言えない……」

「……どうしてもですか?」

「……うん、どうしても」

背中へと回していた腕から抜け、包帯のされていないラミアの片目が見つめてくる。

こちらもその目をじっと見つめ返す。

目を背けたいという気持ちはなかった。

妻は苦悩の正体は知らない。

だが、苦悩それ自体に感づき、そこから救おうとしてくれた。

なら、自分はそんな心優しき妻と娘を守ろう。

苦悩が消えた訳ではない。

騎士としての職業柄か、生まれの性分か、あるいはシエルという国民性か、権力を持つ者たちばかりが良い思いをすることはどうしても許せない。

かといって、妻と娘をおざなりにするつもりはない。

余計なことへと巻き込まぬよう二人を守り、彼らの謀略を暴く、それこそ目指すべき最善だ。
「……なら、もういいです。でも、苦しくなったら、いつでも言ってください。家族なんですから」

「うん、ありがとう、ラミア……」

微笑みを浮かべると、ラミアも優しげな笑みを返し、体を寄せてくる。

その体を再び抱きしめようと、手を回す。

だが、その手が止まった。

カチャカチャカチャカチャ……。

「ビルゴ……?どうし……」

「しっ……」

門の外から微かに聞こえてくる、聞き慣れた音に、神経を集中する。

これは鉄靴の音だろうか。

しかし、おかしい、何故他の音がしないのだろう。

もし防具一式を装備しているならば、それぞれが擦れ合うなどしてかなりの音を立てる。

到底この程度の音では済まない。

それに、何故今頃外からこんな音が聞こえてくるというのだろうか。

少なくとも遠征や遠出をしている騎士も、こんな時間に防具を装備して外に出る非番の騎士たちもいないはずだ。

……だとすると、ちゃんとした装備を身につけていない輩か、あるいは傭兵や賞金稼ぎか。

どちらにしても、碌な者ではないはずだ。

「こっち……!」

「えっ……!?」

ラミアの手を引き、近くの建物の物陰へと身を潜める。

本当ならばあの場で待ち、音の主を確認したいのだが、今は丸腰な上に大切な家族までいる。

正直、不要な混乱は避けたい。

だが、こちらは非番とはいえ、騎士。

良からぬ輩が易々街の中へと入ることを許す訳にはいかない。

物陰から門の方を伺って、暫くすると、音は次第にはっきりと聞こえ始め、ついにおかしな音の主が外の暗闇から姿を現した。

「あれは、アルさん……?」

自然、ラミアが呟くのも無理はない。

暗闇から現れた人物は、手甲と鉄靴のみを装備し、アルと同じ真っ白な髪をしていた。

かなり疲れているのか、きょろきょろと辺りを見渡しながら、荒い呼吸を繰り返している。

「一体どうしてあんな格好を……?」

ラミアの疑問は当然のものだが、無論、そんな理由が分かるはずがない。

声をかけてみるべきだろうか、そう思っていると、不意に執事服を身に纏う黒髪の女性が街の奥からやって来た。

彼女のことは知っている。

先日、領主の館で唯一空気感の違う女性の召使いだ。

「リウ様ですね?御手紙はお持ちですか?」

リウ……?

何処かで聞いた事のある名だ。

しかし、一体いつ耳にしたのかよく思い出せない。

リウと呼ばれた男は、人に好意的な意思を抱かせぬ様な表情で召使いを睨みつけながら、胸のポケットから手紙を取り出し、それを渡す。

「……御手数をおかけしました。どうぞこちらへ領主様がお待ちです」

手紙を受け取ると、召使いは手で背後の道を一度示し、さっさと歩いて行く。

リウも黙って、その後に続いた。

「違ったみたいですね……。白髪に若そうな顔つきでしたから、一見アルさんに見えたんですけど……」

「……」

「ビルゴ……?」

ラミアの心配気な声はちゃんと耳に届いていた。

だが、それに反応するよりも、頭はアルや領主、先ほどの召使い、そしてリウについて考えを巡らすことを優先させた。

アルと領主は繋がっている。

領主と召使いは当然だ。

では、領主とあのリウという男はどういう関係なのだろう……?

見たところあの男は外からやって来た。

手紙を確認し、召使いが呼びに来るあたり、領主が直々に呼びつけたと考えるのが妥当だろうか。

一体何のために……?

手持ちの手掛かりに、新たな手掛かりが加わっても、核心には至らない。
もっとも、そもそもアルや領主などがまだ上手く繋がっていないのだ、それも無理はない。

それにしても、リウという名、一体何処で聞いたものだったか……?
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