しらぬがまもの

夕奥真田

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「こ、これは一体……?」

何度も顔を左右に向け、到底自然に出来上がったものとは思えぬ、黒く焼け焦げた大地を見渡した後、リウの大切な杖を人の手で持ったスクレが困惑した様子でこちらに顔を向けた。

だが、残念ながら、答えられることは何もない。

奇妙な心の騒めきや水槽の中で眠っている間に聞こえた気のする、“あの子たち”の助けを呼ぶ声、それらを手掛かりにやって来たというだけで、此処で何があったかについては何も知らないのだ。

「ひどい有様だね……。これじゃあ、燃え尽きたコハブ以上だ……」

倦怠感が抜けず、むしろ“跳んだ”ことにより、疲れがぶり返したらしい、純粋な“マシアハ”の血筋である、マトカが深い呼吸を繰り返しながら、苦笑する。

「……ごめんなさい。無理をさせてしまいましたね」

「別に構わないさ……。どうせあのまま寝ていたところで、屋敷の主人たちが帰って来たら、問答無用で八つ裂きにされ、良い玩具にされていただろうからね」

「いいえ。“あの子たち”には、二度と貴女を傷つけぬよう誓わせます」

「……ふふっ、まるで神様の様な物言いだね。そんなだから、“あの子たち”に刺されたんじゃないのかい?」

「……っ」

微かな笑みこそ浮かべつつも、刃物の様に鋭利な言葉を投げ返してきたマトカに、私は返す言葉を詰まらせた。

実際、その通りだったのだ。

過去の“彼女”は、口では愛していると告げながらも、何処かで、“あの子たち”を“失敗作”だと見下し、その意思を尊重しなかった時、そして、“あの子たち”を単なる“兵器”としてしか見ぬ、同僚や“大切な彼”からの、蔑みの視線に耐え切れず、ひどく“人間”らしい“あの子”たちの心を、敢えて否定する時があったのだ。

“誰がその身体を創り上げたと思っているの……!?”

“お願いだから、黙って言うことを聞きなさい……!”

“戦えないなら、必要ない”

“二度と貴女を傷つけぬよう誓わせます”

思い通りの“勇者”がなかなかに創り出せぬなど、多くのことに苦悩し、身体的にも、精神的にも疲弊していた“彼女”が“あの子たち”に言った、ひどく冷たい言葉が脳内に響き渡ったすぐ後、“私”が無意識的に告げたものが続いた。

……そんなところまで、似てはいけないというのに。

「ごめんなさい……。貴女や、“あの子たち”の意思も聞かず……。軽率な発言でした」

「ちょ、ちょっと、本気でヘコまないでおくれよ……!単なる嫌味のつもりだったんだから……」

「でも、私は……」

「あっ!主様!」

痛みの様なものさえ感じ始めた胸を押さえながら、“あの子たち”への想いを改めようとしていたその時、蜘蛛の様に細長い脚を伸ばし、高くから辺りを見渡し続けていたスクレが声を上げた。

「どうしたの?」

「穴の中央近くにプレシエンツァの姿が見えました」

「プレシエンツァが……?」

「はい。近づいてみましょうか?」

「……そう、ね。なら、彼女も一緒にお願い出来る?」

「主様の御命令とあれば、我は何でもやります!」

“彼女”が殺される前に見た時とは比べ物にならない程に、朗らかな笑みを浮かべると、スクレは背中に生えた、四本の大きな魔物の腕を使って、私たちを抱きかかえる。

「やれやれ……。よりにもよって、まず彼らと御対面か……」

「ごめんなさい……」

「別に、気にしなくて良いさ。むしろ、あの家族大好き継ぎ接ぎ女より、まだ話が通じそうなだけマシさ……」

冗談めかす様に肩を竦めるマトカだが、その顔は憂鬱そのものであった。

一度は死の淵にまで追い込んだ相手と会わねばならないのだ、気乗りしないのは当たり前だろう。

ただ、それは“私”も同じだった。

“あの子たちが“彼女”のことを、良くも悪くも想い続けながら生きてきたことは知っている。

それ故、恐らく“あの子たち”がこちらを拒むことはないであろう。

しかし、“あの子”たちの気持ちを上手く理解してあげられず、その手を赤く染めさせたこと、十年以上の歳月を“私”などに費やさせたこと、そして、何よりも“あの子”たちと再会するのが、“私”だということが、ひどく申し訳なかったのだ。



「……ということは、貴公が黒龍の?」

「そういうことです……。ですから……」

「おーい!プレシエンツァ!」

私とマトカを背に抱えながら、それなりに急な坂を器用に下ると、スクレはものの数十秒程で、黒い大地の中央へと辿り着いた。

遠目では見えなかったが、中央には、大地と同じ位に黒く焼け焦げた、竜の無惨な亡骸が横たわっており、それを囲む様にして、プレシエンツァとトゥバン、そして、魔王は立っている。

そんな三人の前に、何処か得意げで、幸せそうな笑みを何度もこちらへと向けていたスクレより、ゆっくりと降ろしてもらうと、“私”と“彼女”はつい、あの子の名を呼ぶ前に、笑ってしまった。

というのも、容易にはその冷静な態度を崩さず、常に兄らしい振る舞いと、自身の信ずる“勇者”らしさを取り続けていた、あのプレシエンツァが、口を半開きにし、目を大きく見開いた、何とも間の抜けた表情をこちらへと向けているのが、可笑しかったのだ。

「ご、ごめんなさい……。でも、あまりに……ふふふっ……!」

困惑する者たちの目など気にもせず、温かな涙が止めどなく溢れる程、一人で一頻り笑うと、先ほどの緊張感や、憂鬱などはすっかり洗い流され、“記憶”とは違う、現実に大きく成長した、子どもたちと再会出来る“嬉しさ”だけが、心の中に残っていた。

「プレシエンツァ、久しぶりね……」

「母……さん……」

戸惑いつつも、確かな笑みを浮かべるプレシエンツァ元へと歩み寄るも、傷だらけの身体を抱きしめようと、その手を伸ばしかけた時、雪の様に真っ白な鱗に覆われ、鋭利な爪をこちらへと向けた、巨大な腕が行く手を遮る。

「何のつもりだ、トゥバン……!?」

「……プレシエンツァ様は黙っていてください」

まるで壁の様に、目の前に立ち塞がり、明らかな殺意と憎悪の篭った瞳をこちらへと向けたのは、己の運命を大きく変えたプレシエンツァのことを、人として、魔物として、ひどく憎みながらも、それでも愛してくれている、トゥバンだった。

彼女のこと、というよりも、“あの子たち”に好意を寄せ、心から理解してくれる者たちのことは、全員良く知っている。

“あの子たち”の“記憶”を追う上で、“彼女”が最も気にしていたのが、自身への心証などではなく、トゥバンやフェンリルの様な、“あの子たち”のことを理解し、愛してくれる者たちの存在だったからだ。

確かに、余裕の無かった頃の“彼女”は“あの子たち”を“失敗作”、或いは単なる“兵器”として見下してしまうことはあったかもしれない。

だが、本心では、全てが終わった後、本当の家族の様に一緒に暮らすことさえ本気で考えていた程に、“あの子たち”のことを“人間”として、愛する“我が子”として、想い続けていた。

そして、死してなお消えずにあった、そんな“彼女”の親心が、トゥバンたちの様な、“あの子たち”自身が紡いだ絆の中にいる、大切な存在に注意を向けさせたのだろう。

「貴女がトゥバンさん、ですね?」

「……何故、私の名を?」

「プレシエンツァの“記憶”の中で、貴女は大切な存在として、よく出てきましたから」

「……では、貴女は本物のメシア様ですか?」

殺気こそ薄らいだものの、警戒の色は少しも解けぬ瞳を、じっとこちらへと向け続けるトゥバンの問い掛けに、一瞬、私の胸の奥がずきりと痛たんだ。

「……それは、一体どういう意味でしょう?」

「……先ほど、我々は貴女のそっくりの“人間”……とは、とても呼べない程の力を持つ、何者かに襲われていました。そのため、貴女もまた、それに類する者なのではないかと疑っているのです」

「そう、だったのですね……。ですが、少なくとも、私に貴女方を傷つける意思はありません」

「……」

「放っておけ、トゥバン。その者に害はない」

どれだけ言葉を重ねようとも、納得させるのはひどく難しいであろうことを直接的に明示する、如何にも訝しげな表情を浮かべるトゥバンに難儀していると、不意にこちらへと近づいてきた魔王が、その腕を無理矢理下げさせた。

「しかし……」

「ふぅ……。顔こそ似ているが、その者は“勇者”ではない」

「何故そう言い切れるのですか?」

「“勇者”の恐怖を身を以て知っているからだ」

「ならば、尚のこと、竜族のことよりも早く解決すべきことでは……」

「いや、今最優先すべきは竜共への対応だ。その者についてと、貴公たちへの尋問はその後、落ち着いた時にでも行えば良い……」

傍目からも分かる程に溜まりきった疲労を、少しでも絞り出す様に、深い息を吐き出しながら、不満げな声を漏らすトゥバンを一蹴した魔王は、顔や首筋から流れる大量の血液を拭った、両手の黒いロンググローブを地面へと投げ捨て、一人城へ向けて歩き出す。

疲労故か、丸まった猫背に摺り足の様な、いつもの気品さが消尽した、歩の進め方をする魔王だが、その身体から溢れ出る、まるで陰りの見えぬ圧倒的なオーラは、着いてくる様言われた訳でもない、私を含む残された者たちの身体を、無言で強く惹きつけた。

「行こう、母さん。皆城にいる。きっと貴女の姿を見れば喜ぶはずだ」

「そうね……。でも、先に貴方たちの意見を聞かせて、彼女への……」

プレシエンツァとトゥバン、二人の目を交互に見つめた後、そっと振り返り、腕を組みながら、さも興味無さげに、こちらの様子を眺めていたマトカへと視線を向ける。

「やれやれ、ようやく逃げ出せそうなタイミングがやって来たっていうのに……。全くどうして、貴女はそう人のチャンスを不意にするんだろうね……」

「ごめんなさい……。でも、これから生きていく上で必要なことだと思いましたので……」

「余計なお世話というものだよ。これから私がどう生きようと君たちには関係が無いし、君たちにどう思われていようと構いはしない。それに、私はもう君たちの様な“化け物”と関わりたいとは思っていなしね……」

「ですが……」

「くどいよ……。別に良いじゃないか、想いをはっきりなどさせなくたって……。どうせ、私という復讐の魔の手から逃げ切った、君たちの勝ちなんだから……」

「……っ」

鬱陶しげに何度もその黒い髪をかきあげ、不貞腐れるというよりは、悟った様な、或いは何かを捨てた様な、感情の色の薄い表情で、こちらを見つめるマトカを見ていると、不意に、とある一風景と言葉が脳裏を過ぎった。

……ほら、どうせ、言うことは聞いている、それで貴女は良いではないですか。

窓辺に座り、何をするでもなく、ただ外の景色を見つめる、幼い頃のペルメルに告げられた言葉だった。

今でこそ明るく、飄々とした、掴み所の無い姉として振舞っているが、アルやガルが創り出される以前のあの子は、今のマトカと同じく、ひどく冷めた、まるで抜け殻の様な態度で、自分“たち”に残酷世界をぼんやりと見つめていた。

どうなろうと構いはしない、どうせ何も変わらない、そんな風に。

当時のあの子があんな風になってしまった、最も大きな要因は、“勇者”を創り出す過程における、過度な実験によって負った大怪我を、同様の実験に失敗し、廃棄された多くの“子ども”たちの、それでもまだ使えそうな部位を継ぎ接ぎして、何とか治療してしまったことによる、容姿の劇的な変容だろう。

現に、鏡を見た瞬間、急に自身の喉元に鋏を突き立て、それをプレシエンツァが必死で止める場面も、度々報告されていた程だ。

だが、“彼女”はそれを知りながらも、そんなあの子の態度を良しとはしなかった。

……言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい。

“記憶”を見た今ならば、あの子が内心、“彼女”へのどうしようもない葛藤を抱えながら、それをひた隠しに、ずっと生きてきたことを知っている。

しかし、当時の“彼女”は、恨み辛みを吐き出すでもなく、かといって、まるで甘えもせず、幼いながらの欲求らしい欲求をこちらに伝えぬ、あの子のそんな不遜な態度に、“彼女”自身の過去を映しているかの様で、変に不愉快だったのだ。

また、己が理想とする“母親像”や“家族像”との乖離に焦る想いもあったのかもしれない。

何にしても、“彼女”は浮世離れしたあの子の態度を改めさせた。

そして、今まさに、“私”は同じ様なマトカの態度を改めさせようとしている。

先ほど、“彼女”に似てはならない部分を再確認したばかりだというのに。

……思った以上に、“私”は既に“私”ではないのかもしれない。

マトカの姿に、幼い頃のペルメルを重ね、あの子にしてしまったことへの罪悪感に打ち拉ぐと共に、自覚しているにも関わらず、悪しき“彼女”の価値観を切り捨てられずにいることに、愛憎こもごもの想いを抱いていると、ふと、右肩に温かなものが乗せられ、ゆっくりと引き寄せられた。

先ほどの間の抜けた顔ではなく、いつもの凛としながらも、何処か余裕のある表情を浮かべたプレシエンツァがマトカに近づく様に大きく一歩踏み出し、代わりに私を背後へと引き寄せたのだ。

「残念ながら、私はそうは思っていない」

「……なら、どうするんだい?私を殺し、やられた分の仕返しをするかい?」

「いいや、生憎と君の様にちんけな者ではないのでね。そんな下らない感情論だけで動くつもりは毛頭ないさ。ただ、このまま君を帰しても、余計な火種を残すだけで、我々には何の利益もない」

「……だから?」

「だから、全ての決着をつけよう。……あそこで」

そう告げると、プレシエンツァは手に持っていた槍を背負い直し、背後の城を顎でしゃくる。

「ふっ、紅茶はお好きかな?」







半球状に窪んだ黒い大地が目の前一面に広がる中、不可思議にも、壁に一つの大きな穴があく以外には、さほどひどい被害を受けている様子の見受けられない城の中では、多くの使用人らしき人間や魔物たちが、包帯や薬箱、毛布などをその手に抱え、忙しなく走り回っていた。

そんな者たちの邪魔とならぬよう、隅の壁に寄り、“記憶”で見た時よりも、あからさまなまでに穏やかな表情を浮かべたマトカと、スクレの会話を聞くともなしに聞いていると、少し離れた位置で何かを話していたらしい、プレシエンツァたちがすぐに戻ってくる。

「では、母さん。私とトゥバンは、先程述べた通り、魔王様と話し合わねばならないことがありますので、これにて一度失礼します」

家族、母親と呼んでくれる割には、まるでそれを行うことに誇りでも持っているかの様に、相変わらず仰々しいお辞儀をし、城の奥へと早足で歩みを進めていく、プレシエンツァとトゥバンの背中を静かに見送る。

本音を言えば、マトカの件もあり、二人にはあの子たち全員に会い、その意思を確認するまで一緒にいて欲しかった。

しかし、道中、大凡の話は聞かせてもらったが、“記憶”があるにも関わらず、短時間では全てを理解出来そうにない程、現状が複雑怪奇であることを鑑みるに、魔王が呼び寄せているらしい二人を、今引き止めることは出来そうにない。

「……では、御三方はこちらへ」

二人の後ろ姿が見えなくなると、それまで小声でプレシエンツァと何かを話していた、“記憶”が正しければ、ヘルという名の魔物が、とある通路を一瞬だけ手で示し、一人すたすたと歩き出す。

そんな彼女のとても丁寧とは言えぬ応対に、スクレは口をへの字に結んだ。

「全く、無愛想な奴だ……!」

「ふふっ、リウだってあんなものだろう?」

「リウは違う!リウはもっと、こう、何というか……」

「ほらね?一緒にいても、その程度じゃないか」

「う、うるさい!お前なんかに、我とリウの関係性が分かってたまるものか!」

「理解するところもない程薄っぺらい関係性ってことかい?」

「何だと!?」

「はいはい……。行きますよ?」

リウに関して何故か言い争う二人の手を取り、足早に進みながらも、何度もこちらを振り返ってくれているヘルの後をすぐに追いかける。

“私”と“彼女”の足取りはひどく軽かった。

マトカをあの子たち、特に因縁深い、ペルメルやアルなどと会わせることには、一抹の不安もあったが、プレシエンツァとの再会で、罪悪感や申し訳なさよりも、あの子たちの笑顔に迎えられる快楽を覚えてしまったのだ。

時間など気にすることなく、何処か無我夢中で、前を歩くヘルの背中を追いかけていると、そのヘルが急に足を止め、左手側にあった扉を開けた。

ふぅ、という深いため息の音が、背後から聞こえてくる。

しかし、それを気に留めるよりも早く、身体は二人の手を引いて、部屋の中へと入っていた。

「あっ……」

部屋の中の景色は、頭の中で想像していたものと、そう変わらない、望んだ通りものであったが、つい口から声が漏れる。

それほどまでに、嬉しかったのだ。

成長したあの子たちと、直接また出会えたことが。

「ただいま……っていうのは、おかしいかしら……?」

「あぁ……。あんたが屋敷の水槽で寝てた本人なら……おはよう、っていうのが妥当じゃないか?少なくとも、俺が出掛ける前は寝てたんだし……」

「そうね、それもそうかもしれない……」

ベッドに横になるガルの容態を診ていたアルが、ぎこちなく、戸惑いながらも、昔と変わらぬ、あの子らしい軽い調子で助け舟を出してくれる。

他方、それを沈めるが如く、横に腰掛けていたペルメルは口の端を不必要なまでに吊り上げ、部屋中にこだまする程の声で吼えた。

「いいえ~?“ただいま”でも、“おはよう”でも、“おそよう”でもなく、貴女が言うべき言葉は“さようなら”でしょ~?」

「……それは、私が彼女を連れているせい?それとも、やはり私は死んでいた方が良いという意味?」

「んふふ~。そこはご想像にお任せするわ~」

「ありがとう、そうさせてもらうわね?」

継ぎ接ぎだらけの顔を態と利用した、嫌らしく、不気味な満面の笑みを浮かべるペルメルに、自然と浮かんだ笑みでもって応えると、部屋の外でこちらの様子を心配げに見つめていたヘルに小さく礼を言い、扉を閉じる。

廊下からの喧騒と、微かな光がぱたりと消えた、部屋の中はひどく静かで薄暗い。

しかし、息苦しさというものは、さして感じはしなかった。

ガルが横になるものも含め、三つのベッドに、その他小さな家具などが置かれた、確か、例の問題が発生するまでは、ガルとフェンリル、そしてソルが利用していた、それなりに大きな寝室の隅に、マトカを隠す様に寄せ、ペルメルたちとは向かい合う形で陣取る。

すると、別のベッドに腰掛けていたターイナが静かにこちらへと歩み寄り、スクレの足に隠れる様にしながら、おずおずと口を開いた。

「ほ、本当にお母さん……なの……?」

「……少なくとも、貴方たちの屋敷の地下で眠っていた存在なのは確か。でも、それ以上“私”が“私”であることの証明は出来ない」

「……スクレ?このお母さんは、本当に……僕の創ったお母さん?」

蜘蛛の脚に縋る様に身を寄せ、問いかけるターイナにスクレはやはり何処か自慢げに何度も頷く。

「勿論、そうだとも!彼女は、正真正銘、お前が甦らせた主様だ!それは我が保証する!」

「なら……!」

何処から湧いてくる自信なのか、えへん、と人間の手で胸を叩くスクレの返答に、それまでの、訝しげでもあり、物悲しげでもあったその表情を、まるで花が咲くかの様に、愛らしい、柔和な笑顔へと変貌させたターイナは、ちらりとペルメルたちの方へ顔を向ける。

そして、彼らが仕方ないとばかりに、力無く頷くと、こちらへ駆け寄り、躊躇いなく私の背中へと手を回してくれた。

「お母さん……。お母ぁ……さん……!会いたかったぁ……!ずっと、会いたかったよぉ……!」

「ありがとう、ターイナ……。本当にありがとう……」

まるで自身の身や魂を刷り込ませるかの様に、必死で小さな身体を擦り寄せてくるターイナを、同じくらいの力で抱きしめ返す。

すると、自然、“私”の目から大粒の涙が、音も無く溢れた。

あまりに、懐かしかったのだ。

それこそ、嫌という程“彼女”が耳にした、この子の泣き声と、温かで優しい鼓動音が。

しかし、そんな懐かしさに涙を溢れさせる一方、胸奥からは、遣る瀬無い申し訳なさも溢れてきていた。

多大で過酷な実験により、あの子たちの中でも、目に見えて強大な力を発現させたターイナは、その代償として、身体的、及び精神的“成長”という、ある種の“人間”らしさを失くしている。

それ故、この様に、後に創り出されたアトゥやリウよりも身体は小さいままであり、未だ多感な幼心も抜けきれてはいない。

もっとも、成長を失うといっても、不老不死となった訳ではなく、例えるならば、何かの拍子で止まってしまった時計が、針を上手く動かせぬままに劣化していく様なものだろうか。

何にしても、この子はそんな、いつまでも変わらぬ、残酷なまでに純粋な心を持ちながら、手段を問わず、善悪も問わず、何度もその手を汚してきた。

“彼女”に似た“部品”を手に入れる為、“私”を甦らせる手法を編み出す為。

“私”と“彼女”は、そんなターイナを抱きしめることで、甦らせて貰ったことに感謝しつつも、自身の存在が、あの子たちに途轍もない苦役を強いるだけでなく、あの子たち以外の、何の罪も無い者たちの運命を引き裂く、全ての元凶となっていたことを、改めて自覚させられ、それがひどく心苦しかったのだ。

「……それにしても、何故此処へ?あんたが来る理由なんか無いはずだろう?」

中々に止まらぬ涙と共に啜り泣くターイナの背を撫でながら、瞳から溢れ、頬を濡らした自身の涙を拭うと、努めて冷静な声で、至極真っ当な質問をするアトゥへと顔を向けた。

「私が此処へ来たのは、貴方たち、助けを呼ぶ声が聞こえたから」

「助け……?あの女と戦っている時か……」

「……私そっくりの女性のことね?」

「何か知っているのか?」

「思い当たらないことが無い訳でもない……。でも……ごめんなさい、誰かに話せる程、考えが纏まっている訳でもないの」

「ふん……。まぁいいさ、無事あんたの目が覚めたのなら、別にあの女のことを今更調べる必要性もない。それに、どっちにしても、あの女は“消え去った”」

腰に携えた刺剣に手を宛てがい、アトゥは本当に微かな笑みを浮かべる。

プレシエンツァから、あの子が例の女性を討つ上で、最も欠かせない存在であり、また功労者だったということはちゃんと聞いている。

それ故、その笑みは、一見斜に構えた様に見えながらも、本当はただただ謙虚で、恥ずかしがりな、あの子なりの自尊心の表れなのだと、自然、頷けた。

だが、それもまた複雑な想いだ。

“記憶”の中で、あの子自身何度も述懐していたことだが、あの子、アトゥは自分の力を決して大層なものとは考えてはいない。

“彼女”は勿論、施設より逃げ出した後、他の子たちに、“無能”のレッテルと共に捨てられなかったことを、純粋な気持ちで不思議と思う程に。

もっとも、だからといって、あの子は、己の存在意義や、価値を他者に直接聞く様なことはしなかった。

それは、自らそれらを見つけようとする、思慮深さや決意もあったのだろうが、最も大きな原因は、あの子にも、死や捨てられることへの恐怖があったからだ。

施設において、実験に失敗し、廃棄される者たちを実際に見つめていたという事実も、それを更に掻き立てたに違いない。

そして、その恐怖が心や言動など、あらゆるものを縛り、今の、本音を吐露出来ず、家族であるにも関わらず、常にその御機嫌を伺ってしまう怯懦さと、そんな態度を必死で隠す為の偏屈さを持つ、あの子を形作ってしまった。

でも、本当はそんなことはないのだ。

本来、他の子たちの異形な力を封じ込めるアトゥの力は、無力ながらも研究を続けていた“彼女”たちの、謂わば安全装置であり、最後の切り札であった。

それに、たとえ力が無くとも、“彼女”はあの子を愛していたし、他の子たちも捨てたりはしないだろう。

だから、アトゥには、もっと素直に、喜びや自慢げな想いを、表に出して欲しかった。

アトゥからの問いに、我ながら歯切れの悪く答えると、ベッドから腰を持ち上げたペルメルがまた、不敵な笑みを浮かべる。

「んふふ~。そうなるとぉ、やっぱり私たちが一番解決しなくちゃいけないのは、その女のことなんじゃないかしらぁ~?」

「まぁた、そっちの話に持ってこうとする……。もう、ほっとけよ……」

「あぁら?その首から下がすげ替わったのは、一体誰のせいかしらぁ~?」

「そのおかげで得たものもあるから何とも言えん……。それに、兄貴が此処へ通したってことは、そういうことだろう?」

「もぉ……都合の良い時だけ、お兄ちゃん子になってぇ……。そんなんじゃ、お姉ちゃん、泣いちゃうわよ?」

「人知れず枕を濡らしてるのはこっちなんだ。そっちも少しは泣いてくれなきゃ、不平等……おっと、気がついたか。具合はどうだ、ガル?」

小さな子どもの様に、態とらしく頬を膨らませるペルメルに顔すら向けず、ひたすら治療に専念していたアルが、苦しげにお腹を押さえながらも、何とか上体を持ち上げたガルの背中を優しく摩った。

「少しお腹が痛い……。でも、大丈夫……」

「お前のその言葉程信用出来ないものないんだがなぁ……。まぁいい、ちょっと待ってろ。余った薬や包帯を貰うついで、水やら何やらも貰って来てやるよ」

血や薬品に汚れた手袋を器用に投げ捨て、アルはそそくさとこの薄暗い部屋を出て行く。

すると、部屋の中がより一層暗く、静かになり、空気に異様な重みがついた気がした。

今まで気兼ね無く喋っていたことが、嘘の様に感じる重みが。

だが、アルが出て行った事により、この緊迫した空気が突如として発生した訳ではない。

恐らくこれは、私がマトカを連れてこの部屋に入った瞬間、ごく自然的に発生していたのだ。

それを、空元気とも言えるペルメルの明るさとは違い、生まれながらに、あの軽妙さと柔軟さを持つアルが、無意識的に和ませていたのだろう。

思えば“彼女”も、こうした空気を経験した覚えがあった。

他の子たちの“記憶”の内では、時に鬱陶しがられることもあったようだが、こうして改めて、アルが発しているらしい優しげな雰囲気を肌身で感じると、この子たち全員が“人間”らしく生きていく上で最も欠かせない、“精神”の安定と、“秩序”の維持に大きく寄与したのは、あの子だと痛感する。

プレシエンツァとペルメルが、それぞれの想いを胸にあの子たちの手を引き、先導したとしたら、アルは全員を後ろから優しく見守ってくれていたのだ。

ただ、そんな優しいアルのこれからの人生は、直近の未来を見ても、決して平坦なものとは言えない。

それに、あの子自身、捨て切れぬ慕情と、己の欲を律する道義心に揺れ動き、決心という決心が未だつけられずにいる。

しかし、たとえあの子がどんな選択をしようとも、私はそれが最善であったと、あの子自身が信じ、笑えるよう、出来る限りの応援をするつもりだ。

自分を殺した友を恨めず、その友を殺し、侮辱した姉弟の殉情を憎めぬ、そんな優しいアルのことを。

それが、我が子を愛する“母親”というものだろう。

気兼ね無く物を言い合える弟が居なくなり、手持ち無沙汰となったのか、それまで不気味な笑みを浮かべていたペルメルも、その無理矢理吊り上げた頬を下ろすと、こちらと向かい合う様にして、静かに壁に寄りかかる。

だが、敢えて口を開こうとはしなかった。

そんなペルメルの落ち着いた様子に、内心ほっとしながら、足音さえ殺す程のゆっくりとした動きでもって、ベッドへと近づき、その端に腰を下ろす。

「……大丈夫、ガル?」

「はぁ……はぁ……。か、母様……?うぅ……!」

一度顔を持ち上げ、こちらを驚いた様子で見つめるガルだったが、その額に大粒の汗をびっしりとかいていることに気づいた時には、再び俯き、必死で腹部を押さえ始めた。

尋常ではないその痛がり方に、一瞬目を疑い、戸惑うも、すぐさまガルの背中へと手を宛てがい、大きく上下に撫でる。

そして、私同様に、ガルの容態に困惑するペルメルたちへと顔を向けた。

「……ペルメル、ガルはそれほど大きな怪我を負ったの?」

「ごめんなさい、分からないわ……。私も途中からは抜けているから……。ターイナとアトゥは?何か知っている?」

「うぅん……。僕も、分からない……。アトゥは?」

「すまないが俺にもよく分からない。正直、あの時は自分の事で手一杯だった。だが、連携はそれなりに取れていたはずだ。だから、そう易々と大きな攻撃を受けたなんてことはないと思うんだが……」

「そう……。なら、リウは何か分かる?」

ターイナとアトゥが同様に首を横に振るのを確認したペルメルは、ついぞ何の反応を示さず、ただじっと窓の外に広がる、薄暗い曇天を見つめ続けるリウに声をかける。

しかしながら、リウはその声に大した反応を示さぬどころか、重さの増していく空気を察したアトゥが、慌ててその身体を小突いても、鬱陶しがる様子すら見せなかった。

その様は、まるで小さな子どもが、親の声など聞こえぬ程夢中になって、何かを探しているかの様だった。

そんなリウに、ターイナとアトゥは呆れと怒りの混じった、何とも言えぬ表情で肩を竦める。

大切な家族が苦しんでいる時に、こうも非協力的な様を見せつけられたのだ、二人の感情は最もだろう。

ただ、多くの“記憶”を垣間見た“私”と“彼女”には、正体も分からぬ痛みに苦しむガルを邪慳に無視するあの子の姿が、ひどく奇妙に映った。

殺した者の“命”を奪うだけでなく、人知れず、その者の最後の感情すら吸い取ってしまう“勇者”の力のおかげで、長年、故も知らぬ者から、言葉通り、一生の怨み言を延々と浴びせられ続け、夜もまともに眠れぬ程の苦痛を味わい、最終的には、少しでもその苦痛から逃れる為、人としての心を閉ざしていたリウだが、本来のあの子はひどく真面目で優しく、甘えたがりな子だ。

しかも、今は亡きソレイユの“家族”たちと過ごし、三年前からは、怨み言を吐き出す者たちも消え、少しづつとはいえ、本当のあの子らしさを取り戻してきている。

そんなリウが、ガルの苦しむ姿を看過するとは思えなかったのだ。

ちらりとペルメルに目配せし、ガルを任せると、ベッドから腰を持ち上げ、窓辺にいるリウへと近づく。

「リウ、貴方はずっと何を見ているの……?」

冷たい輝きを発する黒い手甲に守られた手ではなく、ぼろぼろとなった衣類の破れ目から見える、温かで、成長したリウの腕に、そっと触れながら尋ねる。

リウはちらりと、こちらを横目で見つめたが、特段文句も言わず、触れられた腕とは別の腕を持ち上げ、とある一点を指差した。

目を向けると、そこには、途切れ目の見えぬ曇天が広がっている。

「空に何か見えるの……?」

「……あの雲の中に、時折“命”が見える」

「“命”が……?」

半信半疑ながらも、じっと、視力に意識を集中させる。

すると、確かに、黒く、暗い雲の中で、それらとは明らかに色彩の異なるものが見え隠れしていることに気がついた。

しかし、如何せん遠目故、本当にあれが“命”なのかについては、断言出来そうにない。

「あれ、かしら……?でも、どうしてあんなところに“命”が……?」

「さっきまで戦っていた、あんたそっくりの女が“命”を自在に操っていた……。そして、その力で、竜たちが集めた“命”も、此処に呼び寄せていたらしい……」

「それが、まだ此処に集まり続けているということは……」

「奴はまだ存在している……」

皆に聞こえぬ様、出来る限り声量を抑えた、囁きにも近い声で告げられるリウの言葉に、自然、身が震えた。

話でしか聞いていない故、あの子たちが戦った、自分自身にそっくりな女性が何者なのかについては、未だ判然せぬが、その姿形と、リウと同じ、いや、それ以上の力を有する“勇者”ということから察するに、その女性を創り上げたのは、“彼”に違いない。

しかし、どうして今更、“勇者”を創り上げることが出来るだろうか。

“彼”、“ヘルト”は殺されてしまったはずなのに。



恋仲、許嫁、言葉だけを聞けば、“彼女”と“彼”の関係は、謂わゆる甘ったるさに満ちたものの様に思えるかもしれない。

しかし、現実は、互いに、為すべき仕事、果たすべき一族の責務に駆られ、話すことはおろか、小さな手紙すら書かず、“彼女”は“勇者”を創り出す研究、“彼”はその“勇者”の糧となった人間を“甦らせる”研究に没頭していた。

そして、研究施設として利活用していた屋敷が、“あの子たち”によって燃やされ、そこからどうにか逃げ果せた“彼女”を、“彼”が匿ってからも、その関わり方はあまり変わらなかった。

“彼”が“彼女”のことをどう思っていたのかは分からない。

だが、少なくとも“彼女”に、“彼”を想う気持ちはあまりなかった。

というのも、功を焦るあまりか、研究とその成果にばかり目が行き、スクレを始めとする、多くの被験者を杜撰に扱うその後ろ姿が、“あの子たち”に見限られた情けない“自分自身”を映す鏡の様で、ひどく見るに堪えなかったのだ。

それ故、こちらの実験で得られた、“勇者”に関する知識や、実験成果などを教えた後は、もはや積極的に“彼”と関わろうとはせず、何とか連れ出せたリウと、廃棄されかけたスクレと共に、小さな一室で、大人しく過ごし続けた。

口封じとして、各国から派兵された者たちによって殺されるまでの、ひどく短くも、とても幸せな余生を。

もっとも、そのせいで、“彼”がその後、どの様な事を続けていたのか、当時の“彼女”には、まるで分からなかった。

しかしながら、目標値かどうかは別にして、“彼”がある一定の研究成果を出していたことは、“私”という存在そのものが示している。

というのも、“私”を“甦らせる”為、肉体と記憶の併存という、その者がその者であると、自他共に認識する為に最も欠かせぬ工程に苦心惨憺としていたアルが、スクレと出会った屋敷の地下において発見した、設計図と手記こそ、“彼”が書き記した物に違いなく、現にその手法で“私”は“彼女”となった。

要するに、“私”はある意味、“彼”の研究の賜物なのだ。

ただ、だからといって、“彼”があの襲撃を生き延び、私そっくりな“勇者”を創り上げたとは考えづらい。

アルやスクレの“記憶”でも、“彼”が生きていると断言出来る証拠は、殆ど見つかってはいないのだ。

それに、もしも生きていたとして、何故今更、“彼”が動き出し、おまけに“勇者”を魔物である竜たちに差し出したのか、その理由に皆目見当がつかなかった。



“彼”と例の“勇者”の存否が、言い知れぬ恐怖となって、身体を情けなく震わせ、四肢に無用な力を込めさせる。

「でも、アトゥは消え去ったと……!」

「奴は空に集まっていた大量の“命”を落とし、それに呑まれる様にして消え去っただけだ……」

「……なら、落ちてきた大量の“命”は、その後どうなったの?」

「殆どは散り散りになった気がするが、詳しくは分からない……。あの時は、俺も意識が朦朧としていた……」

小さな舌打ちを混ぜつつ、さも悔しそうに、言葉尻を濁らせるリウの態度から、誇らしげながらも、そのあまりに無謀な作戦を決行した弟たちに、苦笑さえ浮かべられぬプレシエンツァが語ってくれた、当時のことを思い出す。

その身に大量の“命”を溜め込んだ例の“勇者”を強引に討ち取ったのは、確かにアトゥの一撃だ。

しかし、その一撃は、“勇者”の羽交い締めしたリウの身体諸共貫くという、あまりに卒爾なものだった。

いくら“勇者”の力を持っているとはいえ、アトゥによってその力を無力化されてしまえば、リウも常人とかけ離れはしない。

結果、リウは限りなく死に近づいたのだ。

三年前とは比べ物にならない程、間近に。

そして、だからこそ、リウは当時のことをよく覚えてはいないのだろう。

暗く、広大で、寛容な、“私”や“彼女”を一度は取り込んだ、“死”という存在に抱かれかけた瞬間を。

「でも、もし、生きていたとして、落ちてきた“命”と消え去ったのなら、本体である身体は一体何処に……?」

「考えられるとすれば、あの空の“命”の中だろうな……。だが、奴に関しては、あんたの方が詳しいんじゃないのか?」

「……ごめんなさい。正直、詳しいことは何も分からない。“命”から武具を創り出したり、全身を“命”として散らせるなんて芸当、少なくとも、貴方の研究をしていた時には、全く確認されていないもの」

「……つまり、俺は出来損ない、か」

「いいえ、そんなことは決してないわ……!だって、貴方は私の……」

「母さん!」

怒るでもなく、不貞腐れるでもなく、ぽつりと告げられた、あまりに寂しいリウの言葉を否定し、その大きく成長した身体を抱きしめようとしたその時、悲鳴にも近いペルメルの声が背後からぶつかってきた。

瞬時に振り返ると、そこには、傍目からでも分かる、先ほど以上の苦痛に呻吟するガルと、それに戸惑うペルメルやターイナたちの姿がある。

しかし、身体はすぐには動かなかった。

ガルの、そのあまりに痛ましい姿に動じた訳ではない。

むしろ、残っている片腕でもって、必死に腹部を押さえるその姿が、空の様に曇り、陰った私の思考に一筋の光となって注ぎ込み、“記憶”深くに埋もれていた、とある一つの事柄を照らし出したのだ。





……そうだ、今のガルには、小さな“命”が宿っている。

未熟で、不安定で、形さえ未だ定まらぬ、しかし、魔物と同じ、ひどく強大な生命力を持つ、小さな“命”が。





「アトゥ!早くガルに触れ……」

信じ難くも、しかし、決して有り得ないとは言い切れぬ、恐ろしい想像に恐怖した私はすぐに叫び声を上げる。

だが、その叫びが意味ある言葉となるよりも早く、耳だけでなく、自然、目さえ塞ぎ込みたくなるような、重々しい破裂音が部屋中にこだました。

真っ白な細い腕が一本、ガルの腹部より、無造作に突き出したのだ。

「ぇっ……」

誰のものとも知れぬ、もはや声と呼ぶにも値しない、大きな吐息音が、静まり返った部屋と、鼓膜に響く。

予想通り、あまりに予想通りの展開だった。

しかし、その赤黒い血液に濡れながらも、病的な白さは十分に分かる腕がぬらぬらと動く様子と、突き出した時に貫かれたのか、捥げたガルの左手が、ベッド外に落ちる光景を間近にした私の身体は、全く動く勇気を削がれてしまっていた。

それ故、突如現れた黒色の剣を握った腕が、ガルを心配し、ベッドに腰掛けていた、アトゥの胸を瞬時に突くのを、ただ呆然と、見つめることしか出来なかった。

「アトゥ!」

「ちっ……」

頭の中で予測していながらも、実際目に映る、あまりの惨状に、結局動けずじまいだった、情け無い私とは違い、一拍遅れてペルメルとリウが慌てて動き出す。

そして、事態を理解する間もなく、胸を貫かれ、驚きの声すら上げられぬアトゥの身体を、ペルメルが抱き寄せる様にして、剣から引き抜くと、リウは臆する事なくその腕を掴み、勢い良く全身を引きずり出した。

どの様な姿形でガルのお腹の中に留まっていたのかは分からぬが、リウによって引きずり出されたそれは、確かに、私そっくりの顔で、裸の女性の姿をしていた。

「あ、主様……!?」

「違う!」

私そっくりの顔に気がつき、動揺するスクレの言葉を強く否定したリウは、女性を反対側の壁へと投げ飛ばす。

だが、裸体である故の身軽さか、猫の様に華麗な受け身を取った女性は、喜怒哀楽に誑かされることを知らぬ、一切曇りのない双眸をこちらへと向けた。

その瞬間、まるで思考を直接刺激されたのかと錯覚する様な衝撃が走り、“勇者”とは何者なのか、また、“あの子たち”が、極めて“人間”であることを確信した。

「母さん!ガルたちをお願い!ターイナ!リウ!スクレ!手を貸して!」

呆然と立ち尽くす私の手を強引に手繰り寄せ、ついで、胸から止めどなく血液を溢れさせるアトゥを押し付けると、ペルメルは号令と共に、“勇者”と相対する。

ターイナたちもその姉の横に並び、壁の如く立ち塞がった。

されど、心はまるで安心というものを感じない。

あの“勇者”がどれほどの力を持っているのか、その戦いぶりをこの目で見てはいない故、正確なことは何一つ言えないのだが、ペルメルたちの怪我の様子や、“あの子”との“約束”から、極度に“命”を惜しむリウに、プレシエンツァ曰く、卒爾な作戦を決行させるあたり、それが決して並々ならぬものであることは理解できる。

ところが、当の“勇者”は、手に持っていた剣を一度だけ構えたものの、すぐにそれを“命”へと変質させ、己の内に取り込むと、無防備な裸体を曝け出した。

剣同様の、黒色の防具も創り出さず。

挑発でないことと、徒手空拳で挑もうなどという、大それたことを考えていないのは、空っぽな瞳を覗けば明白だ。

もっとも、それ故、その意図に勘付くことも出来なかった。

あの子が扉を開けるまでは。

「お~い、見ろよ。水やら何やら、いっぱいくすねて来て……おわぁ!?」

その両腕から溢れんばかりの荷物を抱え、前すら良く見えていないらしいアルが、のんびりとした調子で扉を開けると、瞬く間に、“勇者”はその身を“命”に溶かし、部屋を出て行く。

どうやら、戦う姿勢を見せなかったのは、そもそも逃げることだけを考えていたからのようだ。

でも、それは何故だろう。

淡い色の“命”となった“勇者”に衝突され、持っていた物を上空に放り投げる程盛大に転び、アルは腰を地面へと強く打ち付ける。

「いてて……。な、なんだってんだよ……!人がようやく上手く積ん、ぐぉっ!?」

だが、不幸は続き、急いで“勇者”の後を追いかけようとした弟の脚が、そんな兄を思い切り踏みつけた。

「邪魔だ、どけ」

辛辣な言葉を残し、リウが部屋を飛び出して行くと、すぐに開いたままの扉の外から、凄まじい悲鳴と絶叫が届き始める。

そこでようやっと“勇者”の真意に気がついた。

“命”を蓄える気だ。

この子たちとの戦いで、すっかり消耗してしまった“命”を。

此処にいる者たちを殺して。

「アル!ガルとアトゥの治療をお願い!ペルメルとターイナとスクレはリウの援護に行ってあげて!」

地面に打ち付けた腰の痛みか、踏まれた顔と胸の痛みか、或いは、辛辣過ぎる弟たちの言動か、暫し呆然とした表情で天井を見上げるアルを無理矢理起き上がらせ、指でリウが向かった方向を指さす。

ペルメルは小さく頷くと、ターイナたちを伴い、廊下へと出る。

しかし、その時、スクレはそっと、人の手で握っていた杖を私へと差し出した。

「邪魔となってしまうやもしれませんので、主様、これをお願いします」

「……分かった。スクレ?」

「はい?」

「リウを、お願い」

「はい……!」

恐怖をまるで感じてはいない、ひどく嬉しそうな表情を浮かべたスクレは、先ほどとは打って変わって、真剣そのもののペルメルに連れ立たれて廊下を駆け出す。

また、文句を言いながら、痛むらしい部位を撫でていたアルも、ガルやアトゥの容態に気がつき、表情を引き締め、無言で向かい合った。

リウたちが部屋を出て行くと、城を揺らさんばかりの、果てしない金切り声と、咆哮を届ける廊下が嘘であるかの様に、室内は静まり返る。

黒く焼け焦げた大地を厭う、いつの間にか、天が落とし始めた小さな雫のぶつかる音さえ、耳に届いた。

「……あれが本当の“勇者”かい?」

動揺と混乱、そして、恐怖、似ているようでいて、それぞれ全く異なる感情に晒され、疲弊した心を落ち着けていた私に、マトカは重々しい口調で尋ねる。

私は力なく首を縦に振った。

「リウと同じ、人の“命”を源にして戦うあたりは、残されていた資料とは一致します……。でも……」

「でも、何だい?ほら、喜びたまえよ、本当の“勇者”、本物の“化け物”が目の前にいるのだから」

「……」

「……それとも、あんな“化け物”を創り出すつもりはなかった、とでも言うつもりかい?」

「……少なくとも、彼女を創り上げたのは、私ではありません」

「だろうね……。リウたちの様な、なりそこないの“勇者”ばかりのところを見れば、貴女に、あの“化け物”を創り出す才能が無いことくらい分かるさ」

肩を竦め、こちらを揶揄する言葉を、躊躇なく吐き出すマトカだが、不思議とその言葉自体には、出会った頃の様な、胸に突き刺さる鋭さは感じられなかった。

また、私も、その言葉を、自然、受け入れいた。

耳と心の底が痛くなり、“彼女”であれば、憎たらしい肉親たちの幻聴が聞こえるであろう、嫌味にも関わらず。

もっとも、それ故に、マトカには返す言葉もなかった。

他の子たちを意図的に軽侮するつもりはないが、“彼女”は、自身が創り上げたリウこそが、本物の“勇者”であると、最後まで信じて疑わず、死んでいった。

しかし、あの“勇者”の、何の感情も灯らぬ、虚ろで、空っぽな、敵を捉える為だけに埋め込まれた瞳を見た時、“私たち”は確信したのだ。

あれこそ、過去の栄華に縋るマシアハが、常しえに望み続けた、“勇者”という名を冠する“化け物”なのだと。

リウもまた、あの子たち同様、“失敗作”だったのだと。

そして、あの子たちが、本物の“勇者”とは程遠い、“心”を持つ“人間”だったのだと。







迂闊だった。

上空に溜まり続けていた“命”という、ある意味、露骨なまでに、奴の存在を諷示させるものにばかり注意が行き、他の可能性や、周囲の具合には気づかず、剰え、奴の復活を許すとは。

おまけに、“あの女”の前とあっては、情け無いことこの上ない。

先ほど戦った時に感じていた、己と同じ力を持つ者への、嫉妬心や焦燥感に加え、心奥から湧き上がってくる羞恥心と、それに付着する怒りが、身体を更に熱くさせ、素早くさせる。

だが、如何に強烈な攻撃を放とうとも、奴はそれをまるで意に介さず、あくまで城の内にいる人間や、ソルの様な、人間と魔物の合いの子に狙いを澄ましていた。

結果、奴の周りには、重厚な鎧や、多様な武器へと姿形を変異させても、有り余るかの様に、“命”が溢れ出し続け、また一方で、廊下や室内には“命”とならない魔物たちの無惨な死骸が無数に転がっていた。

攻撃を交えながら追いかける俺たちから逃げる様にして、城中を縦横無尽に駆け回り、“命”の収集と、戦力となろう邪魔な魔物たちを殺した奴は、その最後、冷たい雨粒が打ち付け、墓の様なものが立ち並ぶ、中庭の中央で、ぴたりと足を止めた。

それから、ゆっくりと両手を、鈍色の空へ持ち上げる。

「な、何だ……?何をしているんだ……?」

いつの間にやら、背後をついて来ていたらしいプレシエンツァが、当惑した様子で小さく呟く。

その背後にいた魔王やペルメルたちも訝しげな表情を浮かべた。

しかし、そんなものは関係ない。

あまりに突拍子もない行動に、一瞬止めかけた足を再び動かし、天仰ぐ奴の顔面目掛けて拳を繰り出す。

勿論、手応えはある。

だが、奴の身体に触れた瞬間、情け無い俺の“心”は、ようやく忘れかけていた痛みと苦痛に、再び襲われた。





“君さえいなければ、僕は死なずに済んだ。リウ、君さえいなければ”





“リウ!”

何処からか聞こえた呼び声に、はっと我に帰る。

いつの間にやら、地に突いていた膝を伸ばし、慌てて周囲を見渡すと、先ほどまでは奴の身体から溢れ出ていただけの“命”が、まるで霧の様に、一面に広がっていた。

淡い色ながらも、その濃さ故か、振り返っても、仲間たちの姿はまるで視認出来ない。

見えるのは、殴られた顔の向きも戻さず、未だ天高く腕を伸ばし続ける奴の姿だけだった。

しかし、あからさまに隙だらけの奴を目の前にしても、再び腕を持ち上げることは出来なかった。

気づかぬ内に攻撃を受け、怪我をしたとか、そういう訳ではない。

恐ろしかったのだ。

まるで虫の様に蠢きながら、身体の内へと入り込み、俺の心を呪詛する、奴が溜め込んだであろう“命”が。

嫌だったのだ。

再び、故も知らぬ者たちに、覚えもない、理由も分からぬ恨み言を吐かれるのが。

アトゥたちと共に戦った時や、ガルディエーヌから引き抜いた時には何も起きなかったものが、何故、触れるだけで、奴が得たであろう“命”がこちらの内に流れ込むようになったのかは分からない。

だが、理由はどうであれ、聞こえてくる恨み辛みを、身悶えし、絶叫し、たとえ一言二言でも搔き消すことで、卑小な安寧を得ていた、あの地獄の様な時期に戻る勇気は、今の憫然たる“心”には無かった。

「リウ!」

周囲の視界を遮る程の“命”を持つ奴に、致命傷を負わせる術もなく、また、忘れかけていた恐怖に心が怖気づいてしまった故に、もはや手も足も動かせずにいると、ふと、自身の名を呼ぶ声が、今度ははっきり背後から聞こえた。

力無く振り向くと、目の前には大きな植物の手が迫って来ており、それは避ける間も無く、こちらの身体を掴み上げ、引き寄せる。

視界を覆う、霧の様に濃い“命”を掻き分け、引き寄せられた先には、人の身体と魔物の手脚を持つスクレがいた。

こちらの身体を掴み上げたのは、そんなスクレの持つ、魔物の手の一つだったのだ。

「リウ!良かった、無事だったんだな!」

「ス、スクレ……!?」

予想だにしなかったスクレの参上にひどく驚き、おかしな声が喉から漏れる。

しかし、内心ではその驚きに負けぬ程、安堵していた。

奴を攻撃する勇気もなければ、背中を向けて逃げ出す気力もない、そんな臆病で惨めな自分を助けてくれた、スクレという存在に。

そんなスクレは、蜘蛛の様な脚を器用に使い、素早く身を翻すと、風を切って走り出す。

どうやら奴を倒す為の応援に駆けつけた訳ではなく、元より俺の回収が目的だったらしい。

もっとも、冷静に考えれば、唯一奴を殺せる力を持つアトゥがいないこの状況下では、奴と戦うこと自体が無意味と言っても過言ではない。

それ故、俺は黙って、憔悴しきった心体を休めた。

ペルメルの手と同じく、頭の記憶にはないが、身体が、心が、何とはなしに覚えているスクレの温かな熱の中で。

だが、その熱も、突然身体から離れていった。

まるで、三年前のソーレたちの様に、突然。

「くっ……!」

それまでは微かな振動だったものが、一瞬大きく揺れたかと思うと、身体はすぐに、激しく降りつける冷たい雨と同じく、濡れた地面へと強く叩きつけられた。

あまりに突然なことと、完全に気を抜いていたせいで、碌な受け身すら取れはしなかった。

口の中に入った微かな泥を吐き出すと、慌てて辺りを見渡し、スクレを探す。

自分を放り出したことへの怒りも、正直多少あったが、それ以上に、頼れる存在が急に消えたことが、ひどく恐ろしかったのだ。

もっとも、ありがたいことに、彼女はすぐに見つかった。

こちらが放り出されたすぐ後ろで、子どもが転んだかの様に、無様に倒れ込んでいる。

「スクレ……。おい、大丈夫か……?」

奴が行動を開始する可能性から、殆ど視界の利かない周囲を絶えず気にしつつ、背中から生えた魔物の腕に押し潰され、身動き一つ取らないスクレの身体を引っ繰り返し、仰向けにする。

そこでようやく、異変に気がついた。

スクレの身体にひびが入っているのだ。

それも、人間の身体中、隅々に至るまで。

乾燥肌や、肌荒れなどという生易しいものではない。

まるで地割れの如く走る一本一本の亀裂は、確実に、意識の無いスクレの内側までも蝕んでいる様に見える。

「スクレ……!スクレ!」

亀裂の見当たらない部分を軽く叩いたり、身体を微かに揺らす。

だが、スクレは目を覚まさない。

むしろ、かなり小さな力であったにも関わらず、亀裂からは雨音に比肩する、ひび割れ音が耳に届いた。

「……すまない」

姉への、さして心にも無い詫言をぽつりと告げると、冷たい黒色の手甲を外し、慎重な手つきで、静かに目を瞑るスクレの身体を背負う。

転んだ時に頭を強く打ったのか、或いは、このよく分からないひび割れの影響なのか、スクレが意識を無くした要因は定かではない。

しかし、今はそれを特定している余裕もないのだ。

此処は未だ、奴の“命”の中なのだから。



人間の身体こそ小さいものの、背中や腰から伸びる魔物の手脚のせいか、気を抜けば、後ろへ引っ繰り返りそうになる体幹を何とか正しつつ、“命”の霧の中を、ただひたすらに前を見つめ、進み続けていると、それは何の兆しもなく、突然晴れた。

まるで、境目がはっきりとあるかの様に。

霧を抜けた先では、“母”と慕われるあの女や、魔王などの全員が、そう遠くない所に寄り集まり、何かを話している。

その表情は遠目でも分かるほどに、深刻そのものだ。

もっとも、如何にその顔が険しくとも、皆の姿がそこに見えるというだけで、自然、身体は軽くなった。

そうして、今一度微かな息吹を取り戻した足でもって、雨に濡れた泥を引きずって行くと、こちらに気がついたあの女が、いの一番に駆けつけてくれた。

「リウ……!良かった、無事だったのね!」

「あぁ……。だが、スクレが……」

「……やっぱり」

「やっぱり……?何か分かるのか?このひびについて」

「推測ではあるけれど……。でも、まずは身体全体を診ないといけない。スクレをそこに寝かせてあげて?」

「分かった……」

言われるがままに、背負ったスクレをゆっくりと地面へ降ろす。

女の力を借りながらとはいえ、異形な手脚の重さに引き込まれぬよう、常に踏ん張らねばならぬ故、それは一瞬の力でもって、持ち上げた時よりも、ひどく辛いものであった。

だが、背中より生える四本の腕に寄り掛かる形で寝かされたスクレの全身に、改めて目を向けると、恣に空気を取り込んでいた肺すら、その動きを慎んだ。

それだけ衝撃的だったのだ。

指先が無くなっていることが。

顔や腕に走る大きな亀裂はそのままに、スクレの身体には、それとはまた別の、恰も枯渇した大地の様な小さなひび割れが出来ていた。

それは、手足などの、身体の末端部分に特に集中している。

そして、今尚、雨風と共にぽろぽろと、スクレの指先を塵の如く崩れさせていた。

「どうなってる!?」

「騒がないで!余計に壊れてしまう!」

「ちっ……!」

両手を挙げ、静止するよう注意する女の言葉に、自然、俺の身体は背いていた。

焦りか、怒りか、はたまた恐怖からか、その理由は、はっきりとは分からない。

しかし、身体は当然の如く、雨風をほんの少しでも和らげようと、両手を広げ、スクレを覆い隠す様にして立つことを望んだのだ。

とはいえ、それも所詮は気休め程度のもの。

指先は着実に崩れ去り、手足共に、もはや第一関節を残すものの方が少ない。

そんなあまりに痛ましい光景を前にして、再び胸中が騒ついたせいか、躊躇いなくスクレの頬に触れようとする女に、怒鳴るとまでは言えぬものの、ひどく語気を強めた言葉をぶつける。

「さっさとアルを呼べ……!」

「……いいえ。たぶん、これはアルでも治せない」

「どうして分かる……!?」

「……この傷のことを、知っているから」

「ならさっさと治せ!」

「出来ないの!それは……出来なかったの……」

指先だけでなく、顔などに走る大きなひび割れからも、耳も塞ぎたくなる様な、残酷な音が聞こえ、女は伸ばしかけていた手を静かに引くと共に、拳を握りしめる。

その様子からは、悲嘆とも、悔恨とも、憤怒とも言い切れぬ、複数の、それも“一人の人間”が抱けるとは思えぬ程大きな、感情が綯交ぜとなった、とても言葉では言い表しようの無いものを感じた。

静まり返った水面に小石を落とす様に、そもそも張り詰めていた空気に、荒れた波を起こしたお陰か、背後から何人かの、泥を踏みつける足音が近づいて来た。

身体はそのままに、顔だけを出来る限り、そちらへと向けると、ペルメル、アル、そして、マトカの姿があった。

「反抗期なんて起こしてる場合じゃないぞ、リウ。一体何言い合ってるんだ?」

「アル、スクレを診てくれ……!身体中にひび……」

「駄目よ……!もう誰も触れられない、触れれば、それだけ早く壊れてしまう!」

「じゃあ、このまま放って置くのか!?」

「他に選択肢は……」

「はいは~い、そこまで~。お姉ちゃんは、イヤイヤ期な弟も、毒親も要らないわよ~?だから~、さっさと、事情を説明しなさい。両方とも」

手を叩きながら浮かべる、その笑顔とは裏腹に、異を唱えることすら許さぬであろう、ひどく威圧的な声で告げられたペルメルの言葉に、この場は静かに収拾した。

その独特な喋り方のせいか、今までは不快としか思わなかったペルメルの声によって、不思議と、焦りなどの感情が落ち着かせられたのだ。

あまり認めたくないことではあるが。

ともかく、落ち着いた気持ちで、俺がスクレのひび割れについて簡単に伝えると、今度はあの女が、小さな吐息と共に、静かに口を開いた。

「残念だけれど……もう、スクレは助からない……」

「何故だ……!?」

「さっき言った通り、私はこの傷のことを知っている……いいえ、知っているなんてものじゃない。私たちはこの傷についても研究していた。リウ、貴方を創り上げる一環で……」

「リウちゃんの……?それはどういう意味?」

「……当時、プレシエンツァからアトゥまでの、常人ではとても得られない力を持った“人間”を創り出すことには既に成功していた。けれど、“私たち”が望んでいたのは、如何なる傷を負っても、決して死なない、不死身の“勇者”だった」

「それがマシアハの……いや、貴女自身の悲願だった訳だね?」

「そう……。そして、そんな“勇者”を創り出す為に考えられた方法が、他人の“命”をその“勇者”となる者の中に溶け込ませるというものだったの……」

「俺とターイナが、トゥバンたちに施した実験に似てるな」

「そうね……。魔物の生命力によって人を甦らせる。確かに、近いものがあるかもしれない。でも、貴方たちのものとは違って、私たちの行った実験は、あまりに酷かった……」

確実に崩壊していくスクレから目を背け、逃げる様に距離を置いた女は、荒れた呼吸を整えつつ、静かに目元を拭う。

だが、それでも、女の目からは、雫が溢れ続けた。

空から降り注ぐ雫よりも、大きな雫が。

「器に見合わない量の水は溢れ、そして、その器それ自体を汚す……。余計な“命”を無理矢理詰め込まれた子たちは皆、身体をひび割れさせ、そして、崩れていった……。今のスクレの様に……」

「……つまり、スクレちゃんを壊しているのは、その余分な“命”ということ?」

「恐らくはそう……。リウを助ける為に、この子はあの濃い“命”の中に入っていったから……」

「だからあの時、全員に急いで離れるよう言ったのか……。それで……その、駄目元で聞くんだが、スクレを治す手段は……?」

「分からない……。出来る限りの薬や方法を試したけれど、効果的なものは見つからなかった……。だから……」

「だから、諦めろ……そう言いたいのかい?」

言葉尻は掠れていく女を揶揄う様に、腕組みしたマトカが、その頬を微かに吊り上げる。

もっとも、それは決して邪悪な笑みではなかった。

「ふふっ……。貴方は本当に学ばないね。自分に出来なかったことは、絶対に彼らには出来ないと決めつけているみたいだ」

「……どういう意味ですか」

「まぁ、見ていなよ」

何処か苛立ちげに、腰に携える、微かに反った形の剣を素早く引き抜くと、マトカはそれをこちらへと突きつける。

「退いてくれるかい、リウ?」

「……何をするつもりだ?」

「そう怖い顔をしないでおくれよ。この子を救ってあげられるかもしれないだから……」

「おいおい、死は救済だ、何てカルトみたいなこと言うつもりじゃないだろうな?」

「そこまで熱心じゃないさ。……でも、あながち間違いではないかもね。私の考えが外れていれば、この子の致命傷となるかもしれない」

「……」

黙ったまま、伸ばしていた両手を元に戻し、殺意の籠らぬ、剣の切っ先をそっと掴む。

つまらなそうな薄ら笑みを浮かべるマトカの言葉を、どうしても信じる気にはなれなかったのだ。

すると、マトカはそれを予想していたかの様に、声を上げて笑い出した。

それはあからさまなまでに、嘲笑であった。

「はははっ!流石は“家族”。リウ、君は“母親”に似ているね」

「……何が言いたい」

「ふふふっ……。でも、本当にそれで良いのかい?放っておけば、その子は遠からず塵になる。それなら、何か考えのある者に賭けてみる方が、諦めた彼女と肩を並べるより賢明だとは思わないかい?」

「……」

囲む形で周囲に立っていた者たちの視線が、頬にさえ亀裂が走り始め、今にも砕けてしまいそうな状態となった、中央のスクレに集まる。

確かに、マトカの言う通り、スクレの状態は焦眉の急だ。

しかし、今の今までこちらを襲い掛かってきた者の言葉を鵜呑みにする余裕も、勇気も無い。

ただ、だからといって、このまま何もしなければ、スクレの行く末は瞭然たるものだろう。

叩きつける雨粒よりも冷たい脂汗が、身体全体を気色悪く濡らし、怒りと、恐怖と、焦りによって、既に回りの悪くなった思考を、更に雁字搦めにする。

あの女の言う事は本当か、自分のせいでスクレはこんなことになったのか、自分は何故無事なんだ、マトカの考えは何だ、マトカの狙いは何だ、どうすれば良い、どうすれば……。





助けて……助けてくれ、イヴ……。





「リ、リウ……」

雨と脂汗にすっかり濡れ、感覚が無くなっていることにさえ気づかぬ程冷えた片手に、不意に温かな熱が灯る。

目を向けると、まともに目さえ開けられずにいるスクレが、もはや指の無い、壊れかけた手をこちらの手に宛てがっていた。

「スクレ……」

「リウ……。良かった……無事、だったんだな……」

「あぁ……」

「良かった……。本当に、良かった……。あの時みたいに……ならなくて……本当に……」

「……っ!」

耳に入れたくも無い、残酷なひび割れ音にさえ負けてしまいそうな、ひどく小さな声で話していたスクレの手が離れる。

急いで手を掴もうともがくも、もはや遅かった。

それは地面へと激突し、粉々に崩れ去ってしまった。

あっ……。

自分の声なのか、別の者の声なのか、一人が発したのか、全員が発したのか、それすら判別出来ぬ、空虚な声が耳の内でこだまする。

だが、そのあまりに非情な様子に、呆然とする時間も、懺悔する時間も、“姉”は与えてはくれなかった。

「やっぱり、“中途半端”は良くないわね……」

ペルメルはその継ぎ接ぎだらけの手を、マトカの手に添えると、それを躊躇なく動かし、スクレの腹部に剣を突き立てさせたのだ。

あまりの衝撃的な出来事の連続に、止まりかかっていた思考が、ついに止まる。

そして、止まった思考は剣を引き抜くことも、罵詈雑言を浴びせることも忘れ、俺に、ただじっと、片手を無くしたスクレを見つめさせた。

剣が突き立てられても、スクレが痛みに呻くことはなかった。

しかし、彼女の頬や腕に走るひび割れからは、まるでその割れ目の溝を埋めるかの様に、真っ赤な血液が止めどなく溢れ出てくる。

また、それに伴って、肝心であった、指先の崩壊が止まった。

「指が……。でも、一体どうして……?」

「たぶん、私の仮説が正しかったのさ」

困惑する女に顔を向けたマトカは、特に隠し立てすることもなく、あっけらかんと答える。

「貴女はさっき、彼女を壊しているのは、余分な“命”だと言っていた。なら、その余分なものを、この刀に吸収させてしまえば、それでお終いだろう?」

「それは……。でも、どうして貴女にそんな力が……」

「ふふっ……。こう見えて、君たち全員の命を狙っていたからね。当然、弱点や欠点が何なのかは把握しているよ。例えば、プレシエンツァなら、その先読みに頼った戦法を逆手にとって、嘘の未来を見せれば、簡単に騙せる、という感じにね」

「では、その刀はまさか……」

「そう、リウを殺す為の刀さ」

マトカは添えられたペルメルの手を払い除けると、ゆっくりとスクレの腹部に刺さった刀を引き抜く。

ひび割れた部分同様、刀の抜かれた箇所からも、血が溢れ出す様子に、アルは慌てて医療道具を取りに走って行った。

まるで、こちらの意図を読んだかの様に、絶対に触るんじゃないぞ、そうきつく釘を刺してから。

「……といっても、“命”を吸収する方法については、別に私が一から編み出した訳ではないけどね」

「では、その刀はどうやって……?」

怪訝そうな表情で尋ねる女から、マトカの視線はすぐ横に立つ、ペルメルへとずらされる。

「私……?」

「おや?記憶に無いかい?“命”を吸い取り、イヴを操った防具のことを……」

「あぁ……。んふふ、そういえば、そんなものも創ったわねぇ……」

悪怯れる様子もなく、かといって、懐かしむでもなく、単なる過去を思い返す様に、ペルメルは遠い目をしながら頷く。

「この刀は、そんな君たちが利用していた業を、一工夫して創り上げたものさ。そして、これなら……」

降り注ぐ雨粒によって、付着したスクレの血液を洗い落とすと、マトカは刀を鞘へと納め、それをこちらへと差し出す。

「アトゥの力が無くとも、あの“化け物”を殺すことが出来るはずだ。行ってくれるかい、リウ?」

「どうして、俺なんだ……」

質問ではなかった。

ずっと堪えていた、心の叫びだった。

忘れかけていた苦痛と、大切な者を喪う、恐怖と悲しみを再び思い起こし、打ち拉がれた心の唯一の甘えだった。

だが、それも、あの女には届きはしなかった。

「“命”の中で無傷で居られるのは、同じ力を持つリウ、貴方だけなの……。これは、貴方にしか頼めない。此処であの“勇者”を止めなければ、この世界が
……」

「……っ」

傍らに寄ってきた女を突き飛ばすと、マトカから刀を奪い取り、円形の雲の様になった、“命”の霧へと向けて駆け出す。





所詮、俺は“勇者”なのだ。

所詮、俺は“化け物”なのだ。

所詮、俺は創り出された兵器なのだ。

血の繋がらぬ家族と笑うことも、大切な者たち為に涙を流すことも、きょうだいや“母”に甘えることも、結局出来はしない。





なら、そもそもそんなことを望む、“心”など、もはや要らない。



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