しらぬがまもの

夕奥真田

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リウとイヴ

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遠くの方で声が聞こえる。

女の声だ。

優しい声だ。

知らない声ではない。

だが、誰かは分からない。

声は少しずつ近づいてくる。

りう、りう、と同じ言葉を口にし続けながら。





りう、とは何の事だろう……?







「此処に居たのね……?りう?」

風の様にふわりと、心地良い温かな熱を持った何かが頭に乗せられる。

膝に埋めていた顔を持ち上げると、其処には、優しげな笑みを浮かべた、黒髪の女が居た。

女は目の前に座り込み、その華奢な手を、僕へと伸ばしている。

どうやら、頭に乗せられたのは、この女の手だったらしい。

だが、女の顔に覚えはない。

会ったことも、見たこともない。

声を除けば、まるで知らぬ女だった。

しかし、乗せられた手を払い除ける気にはならなかった。

何故かは分からない。

ただ、頭から頬へと下っていく、懐かしい温もりが嫌いではなかったのだ。

「良かった、本当に良かった……。間に合って……」

僕の両頬を包み込むと、女はその声と、その笑顔を震わせた。

そして、それを隠す様に、手よりも熱く濡れた頬を寄せる。

頭や背中に回された手から、触れ合う頬から、柔らかな熱が伝わってくる。

それらはひどく温かく、それでいて、懐かしかった。

もはや女の正体など、どうでも良かった。

見覚えがなかろうと、声に覚えがあろうと。

“いゔ”と同じ様に、冷たい呪詛ではなく、心地良い温もりだけを与えてくれるのなら。

それだけで。





“いゔ”、とは何の事だっただろう……?





全身を包み込む温もりに甘えていた目を開け、ぼんやりと、前を見つめる。

すると、少し離れた所に、別の女の姿を見つけた。

目の前にいる黒髪の女と同じ色の髪を短めに切った、知らない女だ。

女は遠目に、じっとこちらの様子を伺っていた。

敵意はない。

呪詛する様子もない。

だが、その瞳はひどく冷ややかなものだった。

軽蔑や嫌悪といった、厭らしいものではない。

もっと単純な冷たさ。

純粋な冷たさだ。

そして、そんな女の瞳から、目を逸らすことが出来なかった。

これもまた、理由はよく分からない。

ただ、目を逸らしてはいけない。

目を逸らせば、もう二度と見つけることが出来なくなる。

そんな気がしてならなかったのだ。

現に、女がこちらに背を向け、離れていくのが見えると、自然、身体は踠いた。

「りう……?」

女はそっと身体を離し、心配げに僕を見つめる。

しかし、僕の様子から何かを察したのか、一度背後を振り返ると、今度は、どうしようもない程に、真剣で、悲しげな表情を向けた。

「そうね……。ずっと、傍に居てくれたものね……。ずっと、守り続けてくれたものね……。りう?“彼女”に会いたい?“彼女”を思い出したい?」

再び震えそうになる言葉を、表情を、懸命に支えながら告げる女の言葉に、僕は頷いた。

想いのままに。

感じるがままに。

すると、女はにっこりと笑い、僕をもう一度強く、強く、抱きしめた。

全身を包み込んでいた温かな熱が、躊躇いなく身体の中心に集まっていくのが分かる。





“愛してる、リウ。ずっと、ずっと……”







気がつくと、そこは“ソレイユ”の街だった。

三年前、アトゥたちの襲撃により、跡形も無く焼けてしまったはずの。

ソーレたちへの罪悪感から、破壊された無惨な姿を確認した以後は、訪れる事もなく生きてきたが、いつの間にか再建されていたのだろうか。

それにしては、あの時と全く同じ様子だが。

いや、それ以前に、何故俺はこんな所に居るのだろうか。

舗装もされていない、雨が降れば、どうしたって足や服が汚れてしまう、街の真ん中を走る大きな道に沈んでいた腰を、何とか持ち上げながら、混乱した頭を整理する。

しかし、頭に浮かぶのは、断片的な記憶ばかりで、手掛かりと呼べる代物ではない。

むしろ、ひびの入ったガラスが、それぞれ異なる光の屈折を魅せる様に、大小様々な記憶の欠片が放つ、あらゆる色彩は、あからさまなまでに、毒々しかった。

仕方なく、痛み出すこめかみを押さえつつ、辺りを見回す。

周囲には誰もいない。

人間や魔物、その間の子どもはおろか、この街を通り抜けて行くだけの馬車すら見えない。

また、建物の外観こそあの時と全く同じであるが、その内からは、生命の気配がまるで感じられない。

試しに、近くの建物の扉を開け放つが、やはり、内はがらんどうであった。

奇妙であることを優に超え、微かに薄気味悪さすら感じるこの状況には、もはや眉を顰める他なかった。

こうも寸分違わぬ程の街並みが再建されているというのに、人っ子一人いないとは、一体どういうことだ。

此処は本当に“ソレイユ”なのだろうか。

それとも、“ソレイユ”に似た、ただの廃街なのか。

乱反射する記憶も相まって、混乱するばかりの頭をふらつかせながら、足を離し切れぬ、泥濘んだ道を歩み進んで行く。

そして、救いを乞う様に、“あそこ”へと向かった。

「ブラックドッグ……!ソーレ……!ミノタウロス……!」

変わらぬ場所に、変わらぬ佇まいで存在してくれた“自宅”の扉を開け、変わらぬ様に存在して欲しかった者の名を呼ぶ。

返事は、当然ない。

家中を見て回るも、彼らの姿形はおろか、微かな生活跡すら見受けられはしなかった。

結局、此処は“ソレイユ”に似ているだけの、単なる廃街ということなのだろうか。

それならば、何故そんな場所に、自分は居るのだろう。

訪れる意味などないのに。

存在する価値などないのに。

曖昧な、しかし、何かを訴えかける様に強く輝く記憶と、一度は受け止めきれたはずの残酷な現実に、頭も気分も、足取りすらも次第に重くなっていく。

それ故、重たい身体を引き摺りつつ、何とか“自宅”を出るも、そこまでが限界だった。

俺はまるで吸い付けられる様に、地面へと両手両膝を落とした。

立ち上がることは出来なかった。

何処からともなく溢れ出る冷や汗、幾ら吸えども楽にはならぬ呼吸、何かが閊える様な胸の痛み。

それら意図せぬ苦しみに包まれた身体は、己のものであるにも関わらず、碌に言うことを聞かないのだ。

このままではいけない。

身体同様、まるで動かぬ頭ではなく、およそ本能的なものがそう囁く。

せめて、座り込む体勢へとなれれば、まだ楽かもしれない。

消耗していくだけの身体に鞭を打ち、鉛の様に重いそれを後ろへと仰け反らせる。

すると、それは案外容易に、後ろへと倒れ込んだ。

しかし、“空”が視界を覆うことはなかった。





「何をしているんだ?」





温かな熱を感じる。

それは、懐かしさのある熱だった。

それは、触れたことのある熱だった。

それは、ずっと求めていた熱だった。





「イヴ……?」

温かな熱に寄り掛かる、動かすことさえ億劫な程に重い身体はそのままに、顔だけを何とか振り向かせる。

そこには、イヴがいた。

守ってあげられなかったあの時と、何ら代わり映えしない容姿で。

しかし、あの時よりも、ずっと朗らかな表情を浮かべて。

「久しぶりだな、リウ」

「どうして此処に……?まさか、甦ったのか……?」

「そうか、まだ混乱しているんだな……。いや、甦ってなどいない。私はずっと此処にいた。お前の内に」

「俺の内……?」

「そう、お前の内に、お前の“命”の一部として」

「……」

「よく憶えていないか?まぁ、“彼女”の“記憶”だからな、無理もないだろう」

一人納得する様に頷くと、イヴはこちらの身体を持ち上げ、“自宅”の出入り口へと寄り掛からせた。

その手つきはひどく荒っぽいものであったが、同時に、何か焦っている様にも感じられた。

この街で暮らしていた時の焦りとは、また違う焦りを。

ただ、それとは裏腹に、イヴはこちらの様子を見つめながら、小さく微笑んだ。

「ふふっ、あの時とは、立場が逆になったな……」

「あの時……?」

「一緒にフェンガリへ行った時だ。あの時は、お前が私を支え、木陰へ運んでくれただろう?」

「憶えていない……」

「そうか……。だ私はよく憶えている。あの時は、お前の真意が分からず、とても恐ろしかったからな……」

「恐ろしかった?」

目眩を引き起こす程の輝きを放っていた記憶が落ち着き、それと共に、辛うじて気だるさの抜け始めた身体を、そっと前屈みにしながら聞き返す。

思えば、当時、イヴの想いを考えたことなどなかった。

想いのままに、彼女のことを助け、その正体を黙っていたが、それは彼女にとって、本当は迷惑だったのかもしれない。

レイダット・アダマーに身を置いていた過去がありながら、此処ソレイユで暮らすというのは、彼女にとって、本当は苦痛だったのかもしれない。

今更ながらではあるが、そう考えると、胸が急に締め付けられ始めた。

そんな俺の様子を察してか、イヴはまるでお茶を濁すかの様に、周囲に視線を泳がせた。

しかし、話題そのものを変えはしなかった。

「敵であるはずの私を助け、生かす理由は何なのか……。また、それを誰にも口外しないのは何故なのか……。私は、そんなことをずっと考えて、不安になっていたんだ……」

「……」

「でも、それは所詮、私の杞憂に過ぎなかった」

「えっ……?」

「だって、そうだろう?リウ、お前はブラックドッグやソーレが言っていた通り、“優しい子”だったじゃないか」

「優しい……?俺が……?」

あまりに急で、意識したこともない指摘に、覚えの悪い鸚鵡の如く聞き返す。

すると、イヴは一瞬だけ口を噤み、考え込むと、少し打たれ弱いかもしれないが、と付け足し笑った。

遠回しに馬鹿にされた気もするが、その屈託の無い笑みに、自然、こちらも釣られた。

それにしても、彼らがこんな自分を、“優しい子”だと評し、イヴさえも、それを肯定するとは。

正直、驚き以外の何物でもない。

こんな“化け物”のことを、そんな風に思っていてくれたなんて。

しかし、嬉しさが込み上げる一方、それとは相反する、悲しみと後悔も同様に浮かび上がってくる。

「だが、俺は……俺は、お前たちを守れなかった……」

「それは……」

「あんなに、あんなに恩を受けていたのに……」

今此処に居ない、かけがえのない者たちの笑顔と、笑い声が走馬灯の様に脳裏を過る。

涙が溢れた。

彼らを守れなかった、自分が恨めしくて。

彼らの仇を討とうとせぬ、自分が情けなくて。

彼らに縋ろうとする、自分が憎くて。

しかし、そんな涙に濡れた頬に、イヴはそっと手を宛てがってくれた。

優しく、温かな手だ。

ただそれは、重ね合わせなければ消えてしまいそうな程に、儚げなものだった。

「やはり、リウは優しい子だな……」

「違う……。俺は……」

「いいや、お前は優しい子だよ、リウ。そして、そんなお前だからこそ、恨まず、ずっと傍にいられた」

「……」

「だから、さぁ、涙を拭いてくれ。そして、その涙が拭けたら、一つ大事な話をさせてほしい」












「あらあらぁ~?もう夫婦喧嘩かしらぁ~?」

ぬるりと部屋へと入って来たペルメルは、その継ぎ接ぎだらけの頬をいやらしげに持ち上げると、態とらしく廊下を見つめた。

その視線の先には、入れ替わる様に部屋を出ていったトゥバンの後ろ姿があるはずだ。

もっとも、大方、扉越しにこちらの会話を盗み聞きしていたに違いない。

そうでなければ、こうも嫌味たらしい瞬間はつけまい。

全く、難儀な妹だ。

「……そんな風に見えたか?」

「そりゃぁねぇ~。優しいトゥバンちゃんに“角”が生えてるんだもん」

「……」

「ま~た、無理難題吹っ掛けたんでしょ~?」

「仕方あるまい……。魔王たちには処分する対象が必要だ。そして、我々と違って、竜たちの身代わりなど創り出せはしない」

「……だから、トゥバンちゃんにその候補者選びに行かせた、と」

「努力はした……。しかし、一、二体の犠牲はどうしても必要なのだ……」

「でもぉ~、それをトゥバンちゃんに選ばせるのは、少し酷じゃなぁ~い?」

「……かもしれない。だが、黒龍の娘である彼女の言葉ならば、竜たちも従わざるを得まい」

ここ数日でめっきり硬くなった身体を、柔らかな椅子へともたれ掛からせながら、半ば吐き捨てる様に告げる。

トゥバンに関することを詰られるのは、今はどうしても不愉快だった。

ただそれは、彼女に対しての想いではなく、不甲斐ない自分への怒りから来るものだ。

長を失い、混乱する多くの竜たちを、父親に代わって統べ、守らなくてはならない彼女と、そんな彼女たちを、そもそも葬ろう画策していた魔王側に付く私では、その立場があからさまに違う。

真反対と言っても差し支えないだろう。

それ故、せいぜい、この世界において、およそ絶対者として君臨する、魔王の思惑に適う妥協案を絞り出し、それを彼女たちに、無理矢理呑ませることしか出来ない。

絶滅に瀕した竜族の意思を完全に叶えてはあげられないのだ。

結果、トゥバンがこの屋敷にいてくれる時間が、日に日に短くなっていく。

背後の窓を揺らす、力強い羽ばたき音を聞く限り、今日もその時間を更新したようだ。

既に重たい肺から、これまた重たい吐息が吐き出され、その重みで身体が溶けていく。

そんな様子を見てか、妹はくすくす笑いながら、開いたままの扉を閉め、近くのソファへと寝転んだ。

どうやら、急を要する要件で訪ねてきた訳ではないらしい。

「……それで、どうかしたのか?」

「あらぁ?せぇ~かく、遊びに来てあげたのに、そういうこと言うの~?」

「我々に遊んでいる暇はないと思っていたが?」

「そうかしらぁ?ごたごたしてるからって、“死人”が表を闊歩する訳にもいかないでしょ~?それにぃ、気持ちばかり先走っても仕方ないじゃない?」

「ふっ……。それもそうだな……」

すっかり椅子に溶けていた姿勢を正し、目の前に置かれたカップに手を伸ばす。

中に入った紅茶はすっかり冷えてしまったのか、カップには何の温もりも残ってはいない。

トゥバンが淹れてくれたものだが、どうやら彼女との口論は、存外に長時間に及んでいたようだ。

仕方なくも、その冷たい上に、渋くなってしまった紅茶で口を湿らすと、ソファで横になるペルメルへ、再度声を掛ける。

「……情勢はどうだ?」

「カオス、その一言よ」

「シエルという国が“無くなった”訳だからな……。やむを得まい」

「あそこの内だけじゃないわよ?各国も当然動揺してる。でもまぁ、今は良いも悪いも決めかねるって感じかしら?」

「ならば、下手に先手を打たれる前に、さっさと魔物主体の新たな国家を樹立すべきだろうな……」

「んふふ……。“元”シエル王も、これでようやく“妊活”に専念できる訳ねぇ~」

「……そうかもな」

自分たちは勿論、魔王すら予想だにしなかったであろう言葉を口にした時の彼の顔が、ふと頭に浮かぶ。

彼の表情は、真剣そのものだった。

そして、彼は真剣に、シエル解体を提案した。

この世界から憎悪を無くす、そう告げて。

真意は分からない。

傀儡とはいえ、王というに立場に疲れたのか、或いは、私の知らぬ間に、ペルメルが余計な記憶を思い出させ、それに誘引されたのか。

しかし、聡く、神妙なはずの彼にしては、随分大胆で、無責任な発言であった。

もっとも、シエルを解体する意味は確かにある。

被害者であれ、加害者であれ、シエルは各国との間で多くの軋轢を生み出してきた。

それらは、直ちに帳消しに出来るものではない。

だが、彼の言う通り、シエルという国を消すことで、その軋轢の根幹にある、互いの憎悪の念を薄めることは出来るはずだ。

そうなれば、今以上に安定した世界を創り出せる。

それに、時機としてもそう悪いものではない。

シエル王城とその周辺の壊滅が、表向き、我々と黒龍の悪逆によるものと認知された当時、彼が亡くなったという“虚妄”は、あまりに自然な流れだったからだ。

彼の死が、即ちシエルという国、それ自体の死と同義となる訳ではないが、“正当な”後継者のいない国を再建するよりも、真に力のある“新たな王”が、より良い“新たな国家”を創造する方が早ければ、それに文句などつけられはしない。

ましてや、例の一件に混乱している国民では尚更難しい事だろう。

そして何より、もはやこの世界は、魔物ありきのものとなっている。

それ故、シエル王の死に伴う、シエル解体の提案は承諾されたのだ。

もっとも、魔王は最後まで乗り気ではなかったが。

「それにしても、彼も厄介な提案をしてくれたものだな……。おかげで、“物語”の修正が大変だ……」

「でも、あれで良かったのよ。いつか彼は捨てられた。そうなったら、姉のトゥバンちゃんも悲しむでしょぉ?」

「……だが、おかげで世界は余計に混乱した」

「それブーメラン。私たちも大概よ。その癖、成果は何もなかった……いいえ、無くなってしまった、と言うべきかしら?」

「“彼女”のことか……」

「どうする?もう一度創る?」

「……」

ペルメルは寝転びながら、自らの継ぎ接ぎだらけの手を、じっと見つめる。

まるで、消えてしまった“彼女”を思い起こす様に。

だが、その口調自体は、ひどく軽々しいものだった。

居ても構わないが、居なくても特段構わない、そんな風だ。

やはり、妹にとって、“彼女”という存在は、それほど大事ではなかったのだろう。

薄情者、とはもう言うまい。

“彼女”が再び消えた今、私もまた、生きる目的を見失いかけているのだから。

「いや、止めておこう……」

「そっ……。まぁ、私はどっちでも良いんだけどね」

「そうか……。ペルメル、一つ聞いても良いだろうか?」

「結婚関連はなしよぉ~」

「“彼女”は、甦りたくなどなかったのだろうか……?」

「……知らない」

見つめていた手を下ろし、目元を覆うと、ペルメルは素っ気なく口を尖らせた。

正にその通りだ。

あまりに予想通りの反応に、小さな苦笑が漏れる。

瀕死のリウへと“命”を捧げたあの時、“彼女”が何を想っていたかなど、“彼女”自身でなければ、分かろうはずはない。

私を甦らせることはもうやめなさい、そうきっぱりと告げた“彼女”の想いなど。

口を湿らすだけに留まらず、胸の内を容赦なく冷やす、冷め切った紅茶のカップを弄びながら、妹の冷たくも的を射た返事に、何と答えるべきか難儀していると、不意にその妹が勢い良く身体を起こした。

そして、少し寝癖のついた、綺麗な白髪を、わしゃわしゃと掻き乱す。

「止め止め……!“頭痛”で頭が痛くなっちゃう。“あの人”の話はこれっきりにしましょう?ターイナちゃんがまた泣き出したら大変よぉ……」

「あぁ、そうだな……。そういえば、あの子たちの様子はどうだ?」

「アルちゃんは“未亡人”宅に通い婚中~」

「彼女たちは生きていたのか?」

驚きと共に、素直な喜びが湧き上がってくる。

彼女たちというのは、以前存在したコハブの街において、アルが目を掛けていた、ラミアと、その子ども、ヴィエルジュのことだ。

コハブ壊滅の際には、ペルメルがその生存を確認してくれていたが、まさか、今回も生き延びているとは。

過去の因縁故、一度は本気で排除を検討した者たちだが、アルの今後を考えると、その生存はひどく有り難かった。

「黒龍が襲った時、シエルの城下街を逃げ出したみたいよぉ~。旦那と違って、あの子たちはなかなかの運の持ち主よねぇ~」

「なるほど。それで、アルはこれから彼女たちをどうすると?」

「さぁ?少なくとも、“友だち”を甦らせるつもりはないみたいよぉ」

「そうか……。ガルディエーヌの方は?」

ごく自然な流れで次妹の名を口にするも、妹の顔からは、瞬時に笑顔が剥がれ落ちた。

それだけで、あの子の状態が決して芳しくないことが理解出来た。

「お腹の傷は無事塞がった……。でも、赤ちゃんは駄目だったって……」

「……あの子は大丈夫か?」

「フェンリルがずっと傍に居てくれてるから、最悪なことは起きないと思う……。けど、当分は目を離せない状態よ……」

「……分かった。肝に銘じておこう」

締め付けられてばかりいる胸を静かに撫でながら、ガルディエーヌとフェンリルが休んでいるであろう、部屋の方を見やる。

実際この目で見ていない為に、腹部から例の“勇者”が突如生えてきたなどという報告は、未だ信じられない。

しかし、ガルディエーヌのそのお腹から、小さな命が流れ出てしまったことは、アルやターイナと共に確認した、認めざるを得ぬ事実だった。

正直なところ、何故ガルディエーヌでなくてはいけなかったのかと思ってしまう。

家族を護る為に左腕を失い、三年前の謀略に心を痛めていた、心優しいあの子が何故、今回も犠牲とならなくてはいけないのか、と。

他の人間でも良かったのではないか、と。

どうせ死ぬ定めにあった、どうでも良い人間であれば嬉しかった、と。

だが、そんな想いを口にすることは出来ない。

それは、自らの立場もあるが、何よりも、ガルディエーヌたちの為にならぬからだ。

当事者でない者が幾ら嘆いたところで、あの子たちの苦しみが和らぐはずはない。

そして、だからこそ、歯痒くも、あの子たちを見護ることしか出来ぬのだ。

気持ちと共に重く沈んでいく視線を何とか、眉間に皺を寄せたペルメルの元へと戻しつつ、話題を残る弟たちへと切り替える。

まずは、ここ数年、裏方として我々を最も支えてくれたあの子についてだ。

「……そういえば、ターイナがまた奴隷を買って来ていると耳にしたが、本当か?」

「……えぇ、本当よ。今は全員地下で安置されてる。皆、私が選んだ可愛らしい女の子よ」

「何故また?」

「“家族”を増やしたいんじゃないかしら?」

「“家族”を?」

いまいち腑に落ちぬペルメルの答えに、すかさず聞き返す。

ターイナが如何にして“家族”を定義しているかは分からぬが、私からすれば、我々“家族”は既にかなり大きいものだ。

スクレを含む我々八人兄弟に、それぞれが大切にしている者たちを含めれば、この屋敷にある部屋くらい簡単に埋まってしまう程だろう。

それなのに、まだ“家族”を増やしたいというのだろうか。

「……いえ、正確に言うなら、“家族”から貰える“愛情”を増やしたいから、ね」

「どういう意味だ……?」

「つまり、あの子は極度の寂しがり屋なのよ。そして、その寂しさを取り除いてくれるはずだった、唯一の“あの人”が消えてしまった……」

「……だから、他の“愛情”を増やし、気を紛らわせよう、と?」

「たぶんね……。でも、まぁ、下手な依存症になるよりはマシじゃない?弟がストーカーなんて、嫌でしょう?」

「……」

確かに、“彼女”を失った精神的衝撃から、自暴自棄になられるよりは遥かに良い。

また、奴隷についても、独善的な考えではあるが、他の者たちに買われるよりは、此処で働く方がある程度まともだろう。

しかし、“彼女”を失った反動が、そうした行動として、如実に出ているという点に関しては、特に危惧しておく必要がある。

ターイナに限ったことではないが、あの子に関しては特に、精神的衝撃から、己の能力を暴発させる可能性が高い。

現に、コハブはそれによって消し飛んだ。

それに、ターイナがその奴隷たちを、“そのまま”家族として迎え入れるかどうかも怪しい。

ましてや、この件にペルメルも一枚噛んでいるとなれば、尚更に。

やはり、トゥバンの顔色や、魔王たちの情勢ばかりに目を向けている訳にはいかないようだ。

これからは、もう少しあの子たちの動向にも、気を配らなくては。

「はぁ……。それで、アトゥの様子は?彼も何か“抱え込んでいる”のか?」

もはや碌な報告も望み薄と、呆れ、おざなりに残りの弟の様子を尋ねる。

すると、意外ことに、ペルメルの口調は先の二人とは打って変わって、明るく解された、いつもの上面だけの御機嫌とも違う、心底悦ばしげなものへと一転した。

「“抱え込んでいる”のはアトゥちゃんじゃなくて、オネちゃんでしょ~?といっても、まだまだお腹はあんまり大きくないけど」

「あぁ、それもそうか……。今はどれくらいの期間なんだ?」

「一ヶ月から二ヶ月の間くらいって、アルちゃんは言ってた気がする。んふふ~、待ち遠し?」

「勿論だ。しかし、その件でアトゥには何もないのか?例えば、オネ君以上に不安がっている、とか?」

「どうかしらねぇ~?でも、あの子のことだから、たぶん、問題ないんじゃないかしらぁ?」

「何故そう言える?」

「だって、“死の誘惑”にすら勝った子よ?もう怖いものなんかないじゃなぁ~い?」

「ハルでのことか……」

この屋敷へと逃げる最中に立ち寄った旅館での、アトゥの心の叫びが、脳裏に過る。

あの時、優しいあの子は、我々が招いた混乱と惨状に、人知れず心を痛め、その上得たで幸福も一心に喜べずにいた。

それ故、マトカに負わされた致命傷を、恰も、自らを罰する正当なものであるとし、甘んじてそれを受け入れようとしていた。

しかし、最終的に、あの子は、“死の誘惑”を断ち切り、苦しくも、温かなこの世界を選び取った。

オネ君が、それを赦してくれたのだ。

つまり、ペルメルの言っていることは、恐らく間違っている。

あの子が死の誘惑に勝ったのではない。

“あの子たち”が勝ったのだ。

そう内心、妹の言葉を訂正すると、冷たくなった紅茶を一気に呷る。

余計な言葉を飲み込む為に。

「……まぁ、あの二人に問題がないなら、私はそれで良いさ。ありがとう、ペルメル。これからも、あの子たちの事を見守ってあげてくれ」

「あら?肝心な“あの子”については尋ねないの?」

意外そうに呟くペルメルの顔は、驚きよりも、あからさまな喜びに満ちている。

どうやら、話したくて仕方がないらしい。

だが、“あの子”については、聞いておくべき事もないだろう。

「あぁ。あそこまで様変わりされると、却って目が離せないものだからな」

「それもそうねぇ……。ん~、そろそろ着いた頃かしら?」

「彼女たちが一緒だからな。もうそろそろ、といったところだろう」

「んふふ……。“新居探し”、上手く行くと良いわね~」












もうすぐ、“彼女”に託された“命”が、終わる。

自分でもその感触は分かった。

もう、リウの体温すら感じられてはいない。

急がなくてはならない。

しかし、いざ面と向かうと、“別れ”を告げるのが、寂しかった。

このまま、時の流れない“ソレイユ”の中で、ずっと一緒にいたい、そう思ってしまうのだ。

どうやら、三年間、“彼”の為を想って、応えもせず、話しかけもしなかった自制心は、一度“死んだ”時に、何処かへ置いてきてしまったらしい。

それ故に、こんなにも、“彼”のことが、恋しいのだろう。

愛おしいのだろう。

でも……。

でも、それではいけない。

それでは、“彼女”との約束を破ることになってしまう。

それでは、“彼”のこれからの幸せを、再び奪うことになってしまう。

それでは、“彼ら”をまた、待たせることになってしまう。

だから、告げよう。

“真実”を。

“別れ”を。

“想い”を。







自分でも分かる程に腫れた目元を軽く擦り、もはやほんの少しの涙も出ないことを確認すると、そっと上目遣いで、目の前のイヴを見つめた。

泣いている間、ずっと頬に手を宛てがっていてくれた彼女は、少し困った様に微笑む。

「少し疲れたか?すまないが、大事な話だけさせてくれ?それが済んだら、好きなだけゆっくりしてくれて構わないから……」

語尾を聞き逃しそうになる程に、語気弱くそう告げたイヴの手が、頬から離れる。

慌ててその手を掴もうと、何故か重い身体を、何とか浮かしかけるが、彼女はそんなこちらの不安とは裏腹に、そっと横に腰を下ろし、身体を寄せてきた。

懐かしさを感じた。

強い懐かしさを。

だが、それが何故なのかは、まるで分からない。

澱んでいたものが、吐き出され、ひどくすっきりした頭の中をどれだけ探っても、“記憶”にはないのだ。

もっとも、不可解ではあるが、恐怖という程のものは感じなかった。

それだけ、温かな懐かしさだったのだ。

そっと、隣に寄り掛かるイヴを見やる。

良くも悪くも、その感情を露わにしている時の方が多い気がする彼女だが、今その目は、まるでそのまま眠るかの様に、ひどく細められていた。

「なぁ、リウ……。お前は、死んだ時のことを憶えているか……?」

「死んだ時……?」

「あぁ……。“心”と“身体”、そのどちらもが死んだ時のことだ……」

「“心”と“身体”……」

イヴから発せられる懐かしさを感じ、またその理由を、“記憶”の内よりぼんやりと探していた手を一度止める。

そして、今度は彼女の言葉通りの“記憶”を探していく。

よくよく考えると、自らの死の“記憶”を探すなどというのは、大層馬鹿馬鹿しく、気味の悪いの話だが、特にその理由を聞いたり、拒もうという気は湧いてこなかった。

イヴが隣に居てくれたというのもあるのだろうが、こうして今自分が“生きている”ことが、何よりの理由だろう。

生きている者に、死んだ“記憶”などあるはずがない。

それに、俺には“化け物”の力もある。

死んだことなど、あろうはずはないのだ。

「いや……憶えていない。それに第一、俺は今生きてるじゃないか?」

「そう……だな……。今は生きているな……。でも、お前は、そのどちらをも失ったんだ。あの“勇者”との戦いで……」

「“勇者”?」

「お前の“母さん”そっくりに創り上げられた“化け物”さ。そして、お前が止めを刺した……」

「……それなら、どうして俺が死ぬんだ?」

「相討ちだったんだ……。奴は持っていた“命”の全てをお前に奪われ、消滅が、お前も殆どの“命”を使い果たし、その上、身体の半分以上を喪っていた……」

「……」

ぞくりと、言い知れぬ悪寒が走る。

しかも、それは、右半身をとびきり震わせた。

寄り添ってくれているイヴの様子を気にしつつ、左手を静かに自身の右手に這わせる。

そこには、大粒の冷や汗を噴き出しながら、意思とは無関係に、小刻みに震える右手が、確かにあった。

「残り少ない“命”をどう使っても、お前を修復することは出来なかった。杖に残っている私の“命”を含めても……」

「じゃあ……何故、俺は生きてるんだ?」

「お前の“母さん”が、助けてくれたんだ……」

「俺の“母親”……?」

「あぁ……。彼女が自らの“命”をお前に捧げて、身体を修復してくれたんだ」

「……」

リウ、リウ、そう何度もこちらを呼ぶ“母”の姿が、自然、思い起こされる。

不思議なことに、その姿はひどく鮮明だった。

イヴに尋ねられた事の悉くを憶えておらぬというのに、何故“母”の姿ばかりがこうもありありと思い出せるのか。

一瞬、恥じらいから来る、苛立ちの念を抱きかけるも、すぐにそれは、霧散した。

それは、彼女が、俺の“母親”だからだ。

自らの“母”を忘れる子などいようはずもない。

しかし、それ故に、イヴの話は、俄かには信じられず、受け入れられぬものだった。

自らを助ける為に、“母”を犠牲にしたなど。

如何なる親不孝者であろうと、その様な過ちを犯すとは思えぬ。

ましてや、自分が。

だが、イヴが、そんな陰湿な嘘を吐くとも思えない。

彼女は、ひどく真っ直ぐな人間なのだから。

ただ、だとすると、俺は“また”大切な者を護れず、剰え、殺してしまったというのだろうか。

気色の悪い冷や汗が噴き出しながら、震え続ける右手を、左手で包み込む。

しかし、どんなに右手を捕まえても、震えは止まらなかった。

ばくばくと高鳴り、過剰なまでに酸素を欲する心の臓が、そんな左手ごと、身体全体を震わせていたのだ。

また、澱みが生まれる。

また、気分が悪くなる。

そう覚悟し、目を強く瞑った。

すると、不意に、背中に柔らかな熱が宛てがわれた。

「すまない、混乱しているお前には、少し急ぎ過ぎたな……」

そっと目を開け、イヴの方を見ると、彼女が背中へと手を回してくれていた。

規則正しくゆっくりと上下する彼女の手は、変わらず温かく、優しい。

「はぁ……はぁ……。いや、大丈夫だ、続けてくれ……」

「……分かった。“彼女”の助けもあって、お前の身体は完全に修復された。そして、そこで、私の存在は完全に消えるはずだった」

「消える……?何故……?」

「お前の重傷を治す為に、“命”を使い切ってしまったからな……。でも、彼女は、そんな私に“命”をくれた……」

「どういう意味だ……?」

背中を摩られる心地良さに、震える身と心を委ねつつ、静かに尋ねる。

“母”がイヴに“命”を与えた、とはどういうことだろうか。

すると、背中を摩る手がぴたりと止まり、イヴの表情が苦痛に歪んだ。

「本当は、“心”を失くした、空っぽで、無垢なお前を、彼女が見護るはずだった……。私がそうした様に、ずっと、傍にいて……」

「……」

「でも、彼女は……私に“命”を、お前には“心”と“記憶”を託し、消えてしまったんだ……」

「じゃあ、この“記憶”は……」

「あぁ、そうだ、全て“彼女”のものだ……。だから、私の言っていることが、よく思い出せなかったり、何となく違和感があっただろう?」

自然、頭は何度も上下に頷かれていた。

ようやく合点がいった。

イヴの言っている事をまるで思い出せなかったのも、“記憶”にないものを感じ取っていたのも、それが原因だったのか。

頭の中、特に“記憶”を司っているであろう部分の、不快感の無い、不可解な感覚が収束していく。

だが、それは同時に、“記憶”の内で微笑む、“母”の姿をより明瞭にし、“彼女”への悲しみや後悔、苦痛などを更に強くさせた。

震える言葉を、表情を、懸命に支えながら、自らの“罪”を告白をし終えたイヴの頬には、大粒の涙が絶えず伝っていた。

「すまない、リウ……。私が……私が、すぐに消えていれば良かったんだ……。そうすれば、きっと、お前は“彼女”と幸せに……」

「そんなことはない」

イヴの言葉を遮り、否定する。

胸の奥底から這い出し、再び澱みを生もうとしている、“母”への負の感情を捨て去る様に、強く、強く。

世辞や、慰めではない。

そして、勿論、諦めでもない。

本当に、そんなことはないのだ。

空っぽな、“心”の死んだ自分を、“母”がどれほど想っていたのかは分からない。

しかし、今の自分、“記憶”を受け継いだ自分にとっては、イヴが傍に居てくれることの方が、幸せだった。

そして、そのことを、彼女に伝えたかったのだ。

「だが、“彼女”は、お前の母親なんだぞ……?」

「関係ない。俺は、イヴの方が大事だ」

道路へと向けていた身体を、イヴの方へと方向転換させ、その頬を伝う涙を、泥で汚れていない服の袖部分で拭ってやる。

そして、改めて彼女の顔を真剣に見つめた。

短く切った黒髪に、額や頬に刻まれた切り傷、化粧っ気のなさ。

相変わらず、女っ気はない。

だが、それ故に、何処か愛らしく感じられた。

すまない、“母”よ。

やはり、俺は親不孝者だ。

“貴女”を犠牲にしておきながら、その死を悼むことなく、他の女、それも、“貴女”の“命”を得た女に現を抜かしている。

しかし、例え“貴女”に叱られようとも、イヴのことを想う気持ちは変わらない。

俺にとっては、“貴女”よりも、イヴが大事なのだ。

“記憶”の内の“母”に、そう白状すると、“彼女”は少しだけ嫌そうに顔を顰めた。





だが、その後、にっこりと微笑んでくれた。





「あ、ありがとう、リウ……。もう、大丈夫だ……」

イヴはやんわりと、頬に触れていた俺の手を退ける。

力を込めぬよう意識していたつもりであったが、流れる涙を拭き続けた彼女の頬は、微かに赤くなってしまっていた。

「すまない、痛かったか?」

「いや、そんなことはない……。ただ、ちょっと、恥ずかしくてな……」
 
「……されたことを、“お返し”しただけだ」

「そ、それは、そうかもしれないが……!あ、“あんなこと”を言われた後だし……」

「そうか……。ふふっ……」

「わ、笑うな……!」

頬以上に赤く腫れ上がった目元と、鼻下を手荒くごしごしと擦りつつ、イヴは未だ少し震える声を、精一杯荒げる。

別に、彼女のことを笑った訳ではない。

ただ、今更ながら、“あんなこと”を言った“自分”が、少し可笑しかったのだ。

“母”から貰った、この“記憶”と“心”の中に、本当の“自分”など、もはやいようはずはなく、憶えているはずもない。

だが、“あんなをこと”を平気で告げた、“自分”らしくない自分を、はにかみながらも、微笑んでくれる“自分”が、確かにいた。

それが、何処か懐かしくて、愛おしくて、可笑しかったのだ。

「全く……。でも、リウの気持ちはとても嬉しい。それに、私も、お前のことがとても大事だ……」

「イヴ……」

頬を更に赤くさせ、照れくさそうに告げるイヴの頬へ、再び手を伸ばす。

彼女はその手を静かに重ね、導いてくれた。





“ありがとう”





頬に宛てがわれているはずの手からは、微かな熱も感じられはしなかった。

それは、如何に力強く押し宛てようとも、変わらない。

「イヴ……?」

混乱し、動揺する心を必死に押し殺しながら、手を重ねてくているイヴに呼びかける。

静かに目を閉じた彼女の目からは、再び涙が溢れていた。

「ありがとう、リウ……。こんな私を赦してくれて……。こんな私を大事に思ってくれて……」

イヴの身体が、嗚咽と共に震える。

すると、その身体から、見覚えのある、“淡い色”の粒子が飛び立ち始めた。

慌てて、イヴの身体を抱きしめる。

きつく、決して離すまいと。

「イヴ!待て!待ってくれ!」

「あぁ……。やっぱり、リウは、温かいな……」

片手でイヴを抱きしめつつ、もう片方の手を飛び立っていく粒子に伸ばす。

しかし、それら粒子は、まるで意思でもあるかの様に、手の隙間を抜けていってしまう。

「イヴ……!行かないでくれ……!行かないで……」

「リウ……。ありがとう……」










気がつくと、腕に抱いていたはずのイヴは、消えてしまっていた。












「リウ?」

“自宅”が建っていたであろう、今は黒く焦げた木材や、風化した煉瓦だけが散らばる場所の前に佇んでいると、不意に右手が小さく引かれた。

見ると、ふさふさの真っ黒な毛に覆われた、獣の耳に尻尾、手脚を持つ少年がこちらを見上げている。

あぁ、ソルだ。

“母”の遺してくれた“記憶”を手繰り寄せ、彼のことを思い出す。

ブラックドッグとソーレの遺児であり、大切な“家族”の一人である、彼が、どうやら繋いだ手を引っ張ったらしい。

「どうした?」

「うぅん、何でもない。ただ、ぼーっとしてたから」

「……そんなにか?」

ソルはこくりと頷く。

しかし、あの屋敷から、“故郷”である此処ソレイユには、態々数日も掛け、ゆったりとした足取りで来た。

微かながらに傷が残る身とはいえ、それほどまでに疲れが溜まるとも思え……いや、思っている以上に、疲労は溜まっているのやもしれぬ。

ソルの方へと視線を動かした時、その“原因”たちの姿が見え、声が聞こえてきた。

「……本当に此処が、魔王から賜った土地なのか?」

こちらへとゆっくりとやって来た三人の女性の内、顔を含む、ほぼ全身に包帯を巻いた、白髪の少女が、周囲を訝しげに見渡しながら、誰ともなしに尋ねる。

そんな少女の、背中や腿あたりからは、幾つもの異形の手足が生えているが、それを蔑む者は勿論、不審に思う者もいない。

何故なら、彼女、スクレもまた、大切な“家族”の一人だからだ。

「あぁ、此処だ、間違いない」

スクレの問い掛けに、短く答える。

すると、彼女の背中から生える異形の手に掴まった、丁寧に梳かされた紅色の髪の女が盛大に舌を鳴らした。

「ったく、もう!何考えてんのよ……!こんな廃墟なんか貰って!もっと、良い場所あったはずでしょう!?」

泥濘んだこの道を歩くことを、決して良しとせぬであろう、華美な衣装に身を包んだ女の名はフー。

成り行きで、俺たちについて来た“らしい”が、例の一件後は、すっかりとあの屋敷に居着き、今回の旅にも、無理矢理同行して来た。

他の者と比べて騒々しく、鬱陶しがる者も中にはいるが、個人的には、さほど気にしてはいない。

むしろ、彼女がいなくては、あの屋敷は静か過ぎる。

それに、崩壊したままのソレイユを再び建て直す為にも、彼女の財力は必要らしい。

プレシエンツァ曰く、追い出すにはあまり惜しい存在、とのことだ。

だが、そんなフーの喚き声に、三人目の女は、態とらしく耳を押さえる素ぶりをして見せた。

「本当に喧しいね、君は……。それでも、貴族の娘なのかい?此処は一応、“墓場”なんだよ?」

伸びかけの黒髪を微かに揺らしながら、女は何処か嘲笑とも取れる笑みを浮かべ、肩を竦める。

気障で、芝居掛かったその言動は、何処と無く姉のペルメルや、兄のアルを思わせるが、彼らと血縁的“関係”はない。

しかし、我々きょうだいと彼女との間に、深い“因縁”はある。

特に、イヴを“二度”も救えなかった俺と、彼女の姉であるマトカとの間には。

「わ、分かってるわよ、そのくらい……!ちょっと、声が大きくなっただけじゃない……!」

「どうだか……。それで、もう良いのかい?」

苦虫を噛み潰した様に顔を顰め、大して落とし切れてもいない声量で反論するフーに、マトカは一度呆れた様子で頭を抱えるも、すぐさま、その仕草からは、予想も出来ぬ程に鋭い視線を、こちらへぶつけてきた。

如何様にも形容し難い、多様な感情を孕みつつも、最も表層に、明確なる殺意を彩色したそれに、身体は自然、たじろぐ。

だが、逃げる様に泳がせた視線の中に、再び瓦礫と化した“自宅”が映り込むと、覚悟は一瞬にして固まった。

“記憶”には無い、胸の内の懐かしさが、手伝ってくれたのだ。

「あぁ、もう大丈夫だ。帰ろう」

「そうか……。なら、早々に退散するとしよう。こんな人気のない土地にいる所を見られたら、要らぬ噂を立てられるからね」

「えぇ!?もう帰るの!?まだ、街をぐるっと回っただけで、何にもしてないじゃない!これじゃあ一体何しに来たのよ!?」

「はぁ……。全く……」

マトカの肺から、長いため息が漏れだし、スクレは苦笑いを浮かべる。

一応とはいえ、共にプレシエンツァより説明は受けたはずだが、どうやら、フーの頭からは綺麗に抜け落ちているらしい。

仕方なくも、もう一度簡単に経緯を説明しようと、口を開きかけると、マトカが手でそれを制した。

そして、彼女はスクレに向かって顎をしゃくる。

連れて行け、先に行っていろ。

向けられた当事者でなくとも、その意味はすぐに理解出来た。

「フーよ、プレシエンツァに言われたことを忘れたのか?我らの今回の目的はあくまで下見だ。此処が本当に無人であるかを確認し、今後の住処として……」

「だからって、こんな……」

きー、きー、と喚き続ける背中のフーに、一際優しい声で語りかけながら、スクレは街の出口へと、先に歩き出す。

その後ろ姿はまるで、不満ある赤子をあやす、“母”の様だった。

「やれやれ……。やっと、うるさいのが消えてくれた……。屋敷では、数少ない味方となってくれる、有り難い存在だが、煩わしいのが難点だね」

「……そうかもしれないな」

「おや?君が冗談を言うとは、驚いた。明日は……う~ん、小雨くらいかな?」

「なら、昨日も何処かで言ったのかもしれない」

「ふふっ、かもしれないね。……もう、吹っ切れたのかい?」

「……」

マトカの真意は、すぐに分かった。

だが、かといって、すぐに答えられるものでもなかった。

ただ、そんなこちらの様子を認めてか、穏やかな表情を浮かべる彼女の、その瞳の色彩が、微かに薄まった気がした。

「まぁ、そうだろうね……。私だって、まだ忘れられはしないよ……。あの子のこと……」

「……そうか」

「でも、死ぬ勇気もない。だから……決めたんだ」

「何を?」

「あの子のことを忘れないのと同じ様に、君たちのことも怨み続けよう、って。死ぬまで、ずっと……ずっと……」

「覚悟は、出来ている」

「……ふふっ、しなくて良いよ。その方が、私も楽だから」

そう言って、軽く肩を叩くと、マトカはにっこり微笑み、スクレたちの後を追いかけて行く。

泥濘みに足を取られず、颯爽と走り去っていく彼女の背中を、一陣の風が押した。

フーたちの声が聞こえなくなると、辺りは一層静かに感じた。

耳に届くのは、手を繋いでいる、ソルの微かな吐息だけ。

そっと、そんな彼の方に視線を落とす。

彼は、静かに、それは静かに、自身の鋭い爪を噛んでいた。

「止めろ、ソル。嫌いな爪切りが長くなるぞ?」

「ん……」

返事とも、微かに漏れる息とも取れる、音を発するソルだが、止めようとはしない。

夢中で、無心で、たとえ血が出ようとも、彼は爪を噛み続けた。

そんなソルを無理矢理抱き上げる。

「帰ろう、ソル。帰ろう……」

それなりに大きくなったとはいえ、それでもまだまだ幼いソルを無理矢理抱き上げ、何度もそう言葉を発する。

まるで自身に言い聞かせる様に。

そうでなければ、根が生えてしまったかの様に、重い二本の脚を動かせる気がしなかったのだ。





「あっ……」

ようやっと持ち上げられた脚を止めぬよう、足元の泥濘みに注意しながら、早足で歩みを進めていると、不意に、背後へと顔を向けていたソルが、小さく声を上げた。

その声は、不思議な響きを含んでいた。

遠方に見えるフーたちの元へ急ぎ戻ろうと、何処か焦る想いを、不思議と宥めるのだ。

意識的に忙しなく動かしていた両足を止め、腕に抱いたソルの様子を見る。

彼は大きく、手を振っていた。

自分の存在を知らせる様に。

誰かとの別れを惜しむ様に。

そっと、振り返ると、俺も手を振った。










だって、“彼女”たちの姿が見えた気がしたから。








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