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プロローグ
しおりを挟む「準備が整いましてございます」
薄暗い部屋の中、旅装に身を包んだアンジェリクは、今日のために危険を冒して協力してくれた年嵩の侍女の手を取った。
「ありがとう、エレナ……どうかこれを」
アンジェリクが差し出したのは一通の封筒と、ずっしりと重い、金貨が詰められた革袋。
「手紙には、すべて私の指示であること、あなたたち侍女には何の罪もないことを記しておいたわ。私が出たあと寝室のテーブルに置いてちょうだい。金貨は、万が一解雇になってしまった時、あなたたちが路頭に迷わぬように分けて」
受け取るのを躊躇うエレナに、アンジェリクは半ば強引に革袋を手渡した。
「アンジェリク様……本当に行ってしまわれるのですか?」
エレナは瞳を潤ませた。
「ええ。私がここにいては、ジュリアン様はいつまで経っても幸せになれないもの」
本当は、もっと早くこうすべきだった。
けれど、もう少し……もう少しだけと、仮初めの妃の座に居続けてしまった私は強欲で、罪深い女だ。
「エレナ。あなたの存在にどれだけ救われたか……どうかいつまでも元気でね」
「アンジェリク様……!」
嗚咽を漏らすエレナの姿に後ろ髪を引かれながら、アンジェリクは部屋を出た。
すると、すぐ近くの円柱の陰に、潜むようにして立っている男に気づく。
「アンジェリク様、こちらです」
彼は、もう一人の協力者である護衛だ。
アンジェリクは彼の案内で、人気のない通路を急ぐ。
「商人が出入りする裏門から脱出します。幸い今夜は宴に出す食料や酒の搬入で、人の出入りが多い。入城手続きは厳しいですが、出るのは簡単でしょう」
「ありがとう、クレフ」
クレフは、アンジェリクが王妃としてこの城に迎え入れられてから今日までずっと、護衛として仕えてくれていた。
城を出ることを告げた日、最初は反対していたが、最終的にはアンジェリクの意思を尊重してくれた。
裏門に出ると、そこは商人と、彼らの乗ってきた荷馬車でごった返していた。
アンジェリクは、ローブのフードを目深に被り、伏し目がちにクレフの後をついて行く。
──いやあ、それにしてもこれだけの品を集めるなんて、豪勢な宴だな!
──そりゃあ、惚れに惚れて求婚した王女様を娶るのだから、これくらいは当然だろう
──でもお可哀想に。心から愛して一緒になるお方が、二番目の地位だなんて
懐が潤ったらしい商人たちが、ほくほくとした笑顔で会話しながら帰り支度をしていた。
(やっぱり、そうなのね……)
もう誰もが知っている事なのに、ジュリアンは何もアンジェリクに話してはくれなかった。
例え政略的になされた結婚だったとはいえ、八年も連れ添ったのに。
「……あの馬車です」
クレフは気まずそうな顔で、少し先に停めてあった幌付きの荷馬車を指差した。
八年暮らした王宮とも、これでお別れだ。
もう二度と、ここへ戻ってくる事はないだろう。
「どうぞ」
差し出された手を取り、馬車の荷台に乗り込む。
中には空の酒樽がたくさん積んであった。
「なるべく奥へ。可能な限り体勢を低くして、酒樽の陰に隠れていてください」
言われた通り、酒樽からはみ出ないよう小さく丸まって座ると、クレフと御者が、今後の行程について確認を始めた。
宴の開かれている宮殿からは、優雅な音楽と、人々の楽しそうな声が聞こえてくる。
めでたい宴はきっと夜通し続くはず。
そして、ほどよきところで花嫁は支度のために席を立ち、寝所にて新郎の訪れを待つのだろう。
アンジェリクの胸は、ぎちぎちと軋むように痛んだ。
「出発いたします。揺れがつらいと思いますが、少しの間ご辛抱を」
クレフが荷台に乗り込むと、馬車はゆっくりと動き出した。
このあとは港へ行き、オスロという島国へ行く船に乗る予定だ。
アンジェリクが嫁いだのは、澄んだ青空が美しい春の日で。
白塗りの豪奢な馬車で、花弁舞う沿道を進み、未来の王妃ををひと目見ようと詰めかけた民衆に祝われながら入城した。
けれど今日、アンジェリクは誰にも知られる事なく、商人たちが出入りする裏門から出て行く。
寂しいなんて、思ってはいけない。
最初から、覚悟していたことなのだから。
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