もう、追いかけない

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 それは三か月前の出来事だった。
 視察に出かけたエミル殿下が落石事故に遭遇した。
 乗っていた馬車は大破し、死傷者も出る中、殿下は運よく軽傷で発見された。
 しかし命が助かる代わりに彼は大切なものを失った。
 “記憶”だ。
 幸いにも日常生活に支障はなく、すぐに公務に復帰した彼だったが、唯一、私のことだけはいつまで経っても思い出すことはなかった。
 それでもいつか必ず思い出してくれると信じて待ち続けた私は、すぐに残酷な事実を知ることになる。
 事故の後、私は殿下を見舞うため、何度も皇宮を訪れた。
 しかし、彼との面会が叶うことはなかった。
 その日も花束とお菓子を持参し、断られるのを承知で殿下の元を訪れた。
 すると、目の前で殿下の執務室の扉が開いたのだ。
 もしかしたら今日こそ会ってくれるのかもしれない。
 そんな淡い期待を抱く私の前に、扉の向こうから現れたのがヤノシュ伯爵令嬢だった。
 ヤノシュ伯爵令嬢は私に気づくと気まずそうに下を向き、そそくさと逃げるようにその場から立ち去った。
 その後、私のために殿下の執務室の扉が開かれることはなかった。
 屋敷に戻った私はすぐさま父の部屋へと駆け込んだ。
 そして今皇宮で見てきた光景について質問すると、これまで見せたことのない難しい顔で私に告げたのだ。
 エミル殿下がヤノシュ伯爵令嬢と密会を重ねていると。

 これまでまったくと言っていいほど接点のなかった二人がなぜ?
 私は取り乱しながらも父に問い質した。
 父が聞いた話によると、殿下が事故に遭ったのはヤノシュ伯爵領で、事故の直後、意識のないエミル殿下を献身的に看病したのがヤノシュ伯爵令嬢だったそうだ。
 そして殿下が皇宮に帰還してから二人の逢瀬は始まったと……
 これまでに感じていた疑問が、頭の中ですべて繋がった。
 彼はヤノシュ伯爵令嬢と恋に落ち、私の存在が疎ましくなったのだ。

 その日から私は、皇宮へ足を運ぶのをやめた。
 そのうちに帝都でも二人が恋仲であるという噂が広まり始め、私の元には彼の側近が書いたのであろう、婚約内定を白紙に戻す旨が記された手紙が届いた。
 呆気ない初恋の終わりだった。


 この夜会は元々、エミル殿下と私の婚約発表をするために開かれたもの。
 婚約を白紙に戻すというのなら、私がこの場にいては邪魔だろうに。
 けれど皇室側は私の出席を求め、逆らう術もない私は今、こうして広間の片隅から、愛し合う二人の姿をぼんやりと眺めている。
 私とエミル殿下の婚約内定は皇室の機密情報で、知っている人間はごく僅か。
 そのお陰で私に同情したり、嫌味を言ってくる人間がいないのは幸いだが、その代わりに遠慮なく飛び交う二人への賛辞が容赦なく胸に突き刺さる。

 「なんてお似合いの二人なのでしょう。それにしてもいつの間に?」
 「あの冷徹で有名なエミル殿下が……恋人の前ではあんなに甘いお顔をされるのですね」

 ヤノシュ伯爵令嬢を心底大切そうに見つめるエミル殿下は、私も知らない別人のようだ。
 いや、元々彼はこんな人なのかもしれない。
 ただ私が知らなかっただけで──

 「……っ」

 思わず込み上げた嗚咽を必死でこらえた。
 (泣いちゃダメ)
 どうして自分が婚約者に内定したのかもよく理解していたつもりだ。
 別に愛されていたわけでも彼の役に立つからでもなんでもない。
 エミル殿下が結婚というものに人生の重きを置いていなかった事と、私が由緒正しきコートニー侯爵家の娘で、母は皇后陛下の親友、そして父は忠臣とくれば、必然的に同年代の婚約者候補の中では抜きんでていたのだろう。
 私が選ばれたんじゃない。私を取り巻くものの価値が選ばれただけだ。
 
 


 






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