2 / 71
2
しおりを挟むそれは三か月前の出来事だった。
視察に出かけたエミル殿下が落石事故に遭遇した。
乗っていた馬車は大破し、死傷者も出る中、殿下は運よく軽傷で発見された。
しかし命が助かる代わりに彼は大切なものを失った。
“記憶”だ。
幸いにも日常生活に支障はなく、すぐに公務に復帰した彼だったが、唯一、私のことだけはいつまで経っても思い出すことはなかった。
それでもいつか必ず思い出してくれると信じて待ち続けた私は、すぐに残酷な事実を知ることになる。
事故の後、私は殿下を見舞うため、何度も皇宮を訪れた。
しかし、彼との面会が叶うことはなかった。
その日も花束とお菓子を持参し、断られるのを承知で殿下の元を訪れた。
すると、目の前で殿下の執務室の扉が開いたのだ。
もしかしたら今日こそ会ってくれるのかもしれない。
そんな淡い期待を抱く私の前に、扉の向こうから現れたのがヤノシュ伯爵令嬢だった。
ヤノシュ伯爵令嬢は私に気づくと気まずそうに下を向き、そそくさと逃げるようにその場から立ち去った。
その後、私のために殿下の執務室の扉が開かれることはなかった。
屋敷に戻った私はすぐさま父の部屋へと駆け込んだ。
そして今皇宮で見てきた光景について質問すると、これまで見せたことのない難しい顔で私に告げたのだ。
エミル殿下がヤノシュ伯爵令嬢と密会を重ねていると。
これまでまったくと言っていいほど接点のなかった二人がなぜ?
私は取り乱しながらも父に問い質した。
父が聞いた話によると、殿下が事故に遭ったのはヤノシュ伯爵領で、事故の直後、意識のないエミル殿下を献身的に看病したのがヤノシュ伯爵令嬢だったそうだ。
そして殿下が皇宮に帰還してから二人の逢瀬は始まったと……
これまでに感じていた疑問が、頭の中ですべて繋がった。
彼はヤノシュ伯爵令嬢と恋に落ち、私の存在が疎ましくなったのだ。
その日から私は、皇宮へ足を運ぶのをやめた。
そのうちに帝都でも二人が恋仲であるという噂が広まり始め、私の元には彼の側近が書いたのであろう、婚約内定を白紙に戻す旨が記された手紙が届いた。
呆気ない初恋の終わりだった。
この夜会は元々、エミル殿下と私の婚約発表をするために開かれたもの。
婚約を白紙に戻すというのなら、私がこの場にいては邪魔だろうに。
けれど皇室側は私の出席を求め、逆らう術もない私は今、こうして広間の片隅から、愛し合う二人の姿をぼんやりと眺めている。
私とエミル殿下の婚約内定は皇室の機密情報で、知っている人間はごく僅か。
そのお陰で私に同情したり、嫌味を言ってくる人間がいないのは幸いだが、その代わりに遠慮なく飛び交う二人への賛辞が容赦なく胸に突き刺さる。
「なんてお似合いの二人なのでしょう。それにしてもいつの間に?」
「あの冷徹で有名なエミル殿下が……恋人の前ではあんなに甘いお顔をされるのですね」
ヤノシュ伯爵令嬢を心底大切そうに見つめるエミル殿下は、私も知らない別人のようだ。
いや、元々彼はこんな人なのかもしれない。
ただ私が知らなかっただけで──
「……っ」
思わず込み上げた嗚咽を必死でこらえた。
(泣いちゃダメ)
どうして自分が婚約者に内定したのかもよく理解していたつもりだ。
別に愛されていたわけでも彼の役に立つからでもなんでもない。
エミル殿下が結婚というものに人生の重きを置いていなかった事と、私が由緒正しきコートニー侯爵家の娘で、母は皇后陛下の親友、そして父は忠臣とくれば、必然的に同年代の婚約者候補の中では抜きんでていたのだろう。
私が選ばれたんじゃない。私を取り巻くものの価値が選ばれただけだ。
246
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)
愛してしまって、ごめんなさい
oro
恋愛
「貴様とは白い結婚を貫く。必要が無い限り、私の前に姿を現すな。」
初夜に言われたその言葉を、私は忠実に守っていました。
けれど私は赦されない人間です。
最期に貴方の視界に写ってしまうなんて。
※全9話。
毎朝7時に更新致します。
「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。
あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。
「君の為の時間は取れない」と。
それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。
そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。
旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。
あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。
そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。
※35〜37話くらいで終わります。
7歳の侯爵夫人
凛江
恋愛
ある日7歳の公爵令嬢コンスタンスが目覚めると、世界は全く変わっていたー。
自分は現在19歳の侯爵夫人で、23歳の夫がいるというのだ。
どうやら彼女は事故に遭って12年分の記憶を失っているらしい。
目覚める前日、たしかに自分は王太子と婚約したはずだった。
王太子妃になるはずだった自分が何故侯爵夫人になっているのかー?
見知らぬ夫に戸惑う妻(中身は幼女)と、突然幼女になってしまった妻に戸惑う夫。
23歳の夫と7歳の妻の奇妙な関係が始まるー。
教養が足りない、ですって
たくわん
恋愛
侯爵令嬢エリーゼは、公爵家の長男アレクシスとの婚約披露宴で突然婚約破棄される。理由は「教養が足りず、公爵夫人として恥ずかしい」。社交界の人々の嘲笑の中、エリーゼは静かに会場を去る。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる