久遠のプロメッサ 第三部 君へ謳う小夜曲

日ノ島 陽

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1章 贖罪の憤怒蛍

10 悪党/兄

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***


 ルシオラがシトロンと出会ったのは、彼がまだ十歳の頃だった。
 故郷を失って三年、生まれたばかりの妹を腕に抱いて各地を這いずり回った。ただ生きるために。そう願った父と母の思いに応えるために。
 しかし、たかだか十未満の少年に赤子を連れながら全うに生きる術はなかった。頼れる親族もなく、炎に揉まれたために金目のものもなく、あるのはただ虚無だけだ。
 盗んで奪って傷つけてどうにか生きてきた少年は、ある日とある街に迷い込む。
 シアルワ領にあるその街はそれなりに裕福そうに見えた。だからルシオラは次の標的をここに決めた。

「君、見ない顔だね」

 小さなシャルロットを背負って今後の計画を立てていたときに声をかけてきた少年がいた。
 くすんだ黄緑色の髪と橙色の瞳。年は自分より数年ほど上に見えた。身に纏っているのは上等な洋服で、いかにも裕福な家に生まれた子どもだと分かる。ただ、十代にしては表情に子どもらしさがなく、値踏みされているかのような視線にはっきりとした不快感がこみ上げてきたことを今でも覚えている。

「良いね、良いね。楽しませてくれそうじゃん?」

 シトロンと名乗った少年は自分がこの街の長の子だと明かす。
 彼はルシオラの心に燻っていた復讐心を見透かし、資金援助をすると申し出た。
 最初こそ怪訝に思っていたルシオラだが、生きられるならなんだって構わない。お言葉に甘え、兄妹そろって生きられる環境を最優先で手に入れた。
 その途中、気がついたことがある。
 この街はシトロンを中心に廻っている。村人も町長も全てが彼を恐れ、逆らわない。不審に思って調べれば、すぐに情報が出てきた。
 シトロンは街にとって恐怖の象徴だった。ただ頭脳は明晰で、彼が関わった取引はほとんどが成功した。街が裕福なのも、ほとんどこいつの影響だったらしい。
 その代わりと言わんばかりに彼は人々の苦しむ顔を見るのが大好きだという一面を持っていた。無差別に人を刺し、仕入れた薬を仕込み、仲間はずれを作りだして誰かを孤独に陥れるなど――本当に好き勝手に生きていたようだ。

 胸くそ悪いとは思った。
 しかし、それ以上にこいつは利用できると思ったのだ。あっちがこちらを気に入ってくれるのなら、利用する他はない。
 貧困の心配はなくなった。
 次にルシオラの心に満ちたのは精霊への復讐心で、やがて胸くそ悪さは塗りつぶされていった。

 その後はルシオラ自身も好き勝手に生きた。
 シャルロットが成長すると家を空けるようになり、兵器の開発に尽力した。少しでも可能性を感じられたら全てに手を出し、寝る時間も惜しんで研究する毎日。手を穢すことも厭わず、途中でいつの間にか秘書を名乗るようになったメイルも仲間に加え――。
 いつしかルシオラは、シトロンと近い深さまで墜ちていた。
 彼らの差はただ一つ。
 家族を愛する心があるかどうか、それだけだ。


***


 時は少し遡る。
 レイがメイルによって突き放され、彼女と二人きりになった後の事だ。

「――例えそれが真実であろうと、俺は変わらない」

 二人きりの廊下。
 押し倒したメイルの上、ルシオラは眼鏡の奥の目を細める。
 彼女は出会ってからというものの、献身的に研究に協力してくれた存在だ。勝手についてきて勝手に罪に手を染めて勝手にルシオラを慕ってきたが、それらの積み重ねは信頼に足るものだと思っている。彼女がレイを遠ざけて二人で話そうとしたのも、相応の理由があったのだ。
 その理由というものを先ほど聞いて、ルシオラは怪訝に眉をひそめた。
 まるでおとぎ話のような、信じがたい話だった。

 女神に代わる神を自称する存在がシトロンの前に現れ、信託を下した。
 世界は瘴気に蝕まれ、ゆっくりと死にゆく定めであること。精霊はそれを食い止めるため、そして瘴気を浄化し続ける女神を助けるために新たな神を作ろうとしていたこと。
 その新たな神の名はレガリアであること。
 そして――。

 メイルは嘘をつかない。
 彼女は信じているのだ。世界のためとは言え、精霊の手で犠牲になった家族を思うと復讐心は消えない。
 例え、ルシオラの認識を根底から覆す真実が突然降りかかってきたとしても。

「精霊は憎い。出来るならこの手で滅ぼしたい。だが、この数ヶ月で思い知ったことがある」

 メイルのアンティークゴールドの瞳が見開かれた。

「復讐よりも大切なことがある」
「……それは?」
「簡単なことだ。――家族。そして、その幸せを守ること」

 二十三年を生きて、大半を愚行に費やして、ようやく知った。
 失ってしまったものはもう取り返せない。ルシオラに魔法は使えない。歴史から見ても女神や精霊ですら死者を蘇生する術は持たない。つまり、この世界で奇跡は起きない。
 だからこそ、今あるものを守らねばならない。それが兄としての贖罪になる。

「俺はシャルロットと彼女の幸せを最優先にする。新しい神だのなんだの、そんなのは二の次だ」
「ルシオラ様……」

 メイルはふと微笑んだ。

「それでこそ私が憧れた貴方の姿です。……分かりました。あの男と決別をするならば、ひとつお教えしましょう」
「何だ?」
「正直、これから貴方の役に立つものではございません。しかし、貴方の妹君にとっては無関係ではない――私たち花守に伝わるお話です」

 メイルはラエティティア王国に仕える花守の一族出身だ。現在はアルという少年が女王シエルに仕えている身であるが、メイルはその一族から抜け出してきた身だ。
 その彼女が一体何を伝えようと?
 細い手首を押さえつけていた手を離し、体勢を整える。彼女も身体を起こし、ひとつ深呼吸をしてから真剣な眼差しで語り始める。

「これより語るは、女神より与えられた『永久の花畑』が何故そう呼ばれているのか。それを解明するための物語でございます」


***


 彼女から語られた秘密は簡潔にメモにまとめ、首にかかったロケットペンダントの中に押し込んである。本当ならシャルロットに直接伝えてやりたかったが、どうにも時間を確保する余裕がない。
 火薬の臭いが鼻孔をくすぐる拷問室の中、ルシオラは冷ややかに崩れゆく白衣の体躯を見下ろした。白衣は返り血とシトロン自身の血で赤色に染まり、書き込まれたメモ達はもう見えない。

「……あは。油断しちゃったなぁ」
「シャルロット」
「無視? ひど……って、あれ」

 いくら非道とはいえ、シトロンは人間だ。不死身ではない。
 さらに、思った以上に身体が動かないことに冷や汗をかく。シトロンとしてはルシオラは怒りに飲まれているのだと思っていたが、銃弾に麻酔薬を潜むくらいの冷静さはあったようだ。
 そのルシオラは真っ直ぐにシャルロットの方へ向かい、顔を覗き込む。
 半分黒く染まった妹を見て歯を食いしばる。口内に血の味が広がる中、白衣のポケットから取り出した鍵で鎖を解いてやる。こういうときに限って施設の長であって良かった、と思う。鍵の場所も分かるし、マスターキーも持っている。

「おにいちゃ」
「あぁ。遅くなってすまなかった。もう大丈夫だ」

 ルシオラは柔らかく微笑むと、シャルロットの白金の髪をそっと撫でた。こうして頭を撫でるのは彼女が幼いとき以来だ。もっとたくさんしてやれば良かった、と今になって思う。
 後悔に浸っている暇はない。撫でていた片手を離すと、首にさげていたロケットペンダントを外してシャルロットの首にかけてやる。
 家族の似顔絵とメイルから語られた秘密が入ったルシオラの宝物。
 それが今、シャルロットに託された。

「お兄ちゃん……これは」
「お前が持っていてくれ。こんなところで終わってしまっては可哀想だからな」
「え?」

 自分と同じ瞳が見開かれる。
 彼女が質問をしようとするのを遮り、ルシオラは隣にいたレイへ視線を向ける。

「レイ君。色々話したいことがあるのは山々だが、時間がないからこれだけ伝えておく。聞いてくれ」
「は、はい」
「この部屋から出たらメイルという女がいる。彼女の指示に従い、ここから脱出してくれ。あと、レガリアには気を付けろ。あいつが全ての元凶だ。最後に――この子を、全力で守れ。何があろうとも」
「――」

 強制力を伴う、力のある言葉だった。
 彼の本気の願いを受けて、レイは唇を噛みながら頷いた。頷くことしか出来なかった。

「命に変えても」

 二人のやりとりを苦しげに聞いていたシャルロットだが、弱々しく口を開く。

「なにを、話しているの……? あの人が起きる前に、お兄ちゃんも一緒に逃げようよ」
「シャルロット、本当にすまない。……今日くらい、格好付けさせてくれ。俺はお前の、兄さんだから」
「なんでそんなお別れみたいなことを」
「レイ君、行ってくれ」
「え……きゃあ!」

 シャルロットの身体がふわりと持ち上がる。突然の浮遊感に悲鳴を上げ、反射的に自らを抱き上げた青年にしがみついた。
 羽のように軽い身体を抱えたレイは、一度ルシオラに向き直って小さく頭を下げた。そして、何も言わぬまま走り出す。
 シトロンは頽れたまま動かない。血は止めどなく溢れ、残忍な男の命を削っていることを窺わせた。

「待って、待ってよぉ! ――お兄ちゃん!!」
「どうか幸せに」

 遠ざかる悲鳴にふと微笑み、それからルシオラは表情に氷の鋭さを滲ませた。
 それはまるで子ども向けの本に登場するような、悪役の顔だった。

「さぁ、贖罪の時だ。立て、悪党」
「……ルシたんには言われたくないなぁ」
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