公爵令嬢クラリスの矜持

福嶋莉佳

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第4話

まさに、鶴の一声だった。

「見苦しいですわ」

その一言で、ざわめきが止まった。

当事者たちも、やじを飛ばしていた学生も、通行人も。
みな、呼吸すら忘れたように静止していた。





その少し前――。

王都学園。王侯貴族の子弟が集う学び舎。
クラリスももちろん通っていた。

「クラリス様だ」「第二王子殿下と婚約されたんですって……!」
「王太子と婚約破棄されて間もないのに?」

囁きがさざめき、空気がざわりと揺れた。
クラリスはわずかに顎を上げ、足取りひとつ乱さない。

名家の公爵令嬢、元・王太子妃候補。
完璧さとその性格が、人を近づけさせない。
――だが、それでもなお、彼女を慕う者はいる。

「クラリス様――!」

淡色のドレスを揺らし、令嬢たちが駆け寄る。
クラリスを取り囲んだ。

「今日のお召し物、とても素敵ですわ!」
「婚約、本当におめでとうございます!」

クラリスは柔らかな微笑を浮かべる。
「あら、ありがとう」

その一瞬に、令嬢たちは静かに息を呑む。
彼女の“調教”……いや、影響を受けた令嬢たちは知っている。
クラリスが“陰の噂”を何より嫌うことを。
だからこそ、疑問は正面から尋ねる。

「あの……クラリス様。どうして第二王子殿下と……?」

恐る恐る問う声に、クラリスは扇をゆるく開いた。

「“あえてお名前は申しません”けれど、ある方と比べものにならないほど――
聡明で、誠実で、そして……わたくしを深く愛してくださる方だからですわ」

令嬢たちの瞳が揺れ、息が止まる。

「そして、何より……」
扇をぱちりと閉じ、唇がほどける。
「お顔が……とても美しいからですの!」

堂々とした、揺るぎない口調。
だが令嬢たちは揃って困惑した。

(第二王子殿下が……美しい?)
(えっ、どんな方だったかしら?)
(確か、野暮ったい印象が……)

「クラリス様、それは……」

そのとき――。

「アン! アン・ドルトン! 君との婚約を――破棄する!!」

地面が震えたかと思うほどの怒声だった。
人々の視線が一点へ集中する。

「メリーを虐めてただろう! 泣いてたんだぞ!!」

メリーはロバートの腕に縋り、
アンは蒼白になって震えている。

「あれ、ロバート男爵家の……?」
「噂、本当だったのか……」

クラリスの胸に、冷たいものが走った。
まるで巨大な氷塊が、心臓に沈んだように。

(わたくしの前で“公開婚約破棄”だなんて……
わたくしへの嫌味?)

クラリスの脳裏に蘇る、あの日の王太子の宣告。

「わ、私は……! メリーさんがあなたにあまりにもべったりで……注意しただけで……!」

「なに!? 言い訳するな――!」

ロバートがさらに声を荒げた、その瞬間。

深紅の影がすっと割って入る。
クラリスだった。

深紅の瞳が、二人を射抜く。

「――見苦しいですわ」

クラリスは扇をゆっくりと閉じる。

「こ、公爵令嬢……?」

ロバートの声が震える。

クラリスは緩やかに歩み寄り、低く告げた。

「公衆の面前で、何をお考えなのかしら?
それとも……本当に何もお考えではなかったのかしら?」

周囲は、石像のように動かなくなった。

「こ、これは……クラリス様には関係のない――!」

「関係ありますわ」

扇の先が、すっとロバートへ向けられる。

「あなたの“歪んだ正義”が、周囲すべてを不快にしているのですもの」  

そこにあったのは、ただの不快感だった。

ロバートの顔が引きつる。

「そもそも、個人同士の諍いに殿方が干渉するなんて。
そんな過保護――メリー嬢のためになりませんわ。
社交界では、なおさらね」

メリーの肩がびくりと跳ねる。
アンは、ただ呆然と見つめていた。

「それともあなた、メリー嬢の一生を背負うおつもり……?
ずっとつきっきりで庇って差し上げるの?」

ロバートは言葉を詰まらせた。

(……わたくし、“守られて当然”の顔をする女(イレイナ)が……大嫌いですの!)

クラリスはメリーを一瞥した。

「まあ……それで双方納得なさるなら、それも一興でしょうけれど」

(この二人のために助言をするなんて……わたくし、本当に優しすぎませんこと?)

「――あなたはひとつだけ、良いことをなさいましたわ」

ロバートが顔を上げる。

「ご自身の愚かさを、婚約者にしっかり示されたこと。
これほど分かりやすい教訓もありませんもの」

アンの瞳が揺れる。
胸の奥が、解放と羞恥でごちゃ混ぜに熱くなる。

「アン嬢。
あなたは傷ひとつ付けず、婚約を美しく解消できるのですから――
本当に運がよろしいのよ」

──クラリスにとっては
アンが虐めようが、メリーが泣こうが、本質的にどうでもよかった。

「安心なさいな。あなたに相応しいお相手を……わたくしが見つけてさしあげますわ」

アンは震えた声で呟く。 

「く……クラリス様……」

クラリスは扇をそっとロバートとメリーへ向けた。

「あなたたち、お似合いですこと。
どうぞ、互いに依存し合って生きてくださいませ」

ただ“自分がすっきりした”ことが重要なのだ。



「クラリス」

その名を呼ぶ声が、人垣の向こうから響いた。

歩いてきたのは――
クラリスが丹念に仕立て直した、洗練された第二王子ルシアン。
漆黒の髪は陽光を拒むように滑らかで、
静かな灰の瞳は、冷たく深い、
整いすぎた横顔に光が滑った瞬間、
周囲が息を呑んだ。

「あれが……殿下?」
「まったく別人みたい……」「素敵……」

群衆がざわめき、空気が華やかに揺れる。

「迎えが遅くなった。どうした? 何かあったのか?」

クラリスは扇を伏せ、令嬢らを振り返らず答えた。

「いいえ、なんでもありませんわ」

(それにしても……わたくしもまだまだ未熟ですわね。
所詮、人は“似た高さ”の者にしか結ばれない……そういう摂理なのだと、改めて思い知らされましたわ)

「では、帰ろうか」

「ええ、殿下♡」

差し出された手を取り、クラリスは優雅に歩き出す。

深紅のドレスが、石畳を艶やかに滑る。

人々はその背を見送り――
アンだけがその後ろ姿を見つめていた。

「……虐め、否定されなかった……」

クラリスの靴音が小さく遠ざかっていく。
その音に、胸の奥が妙に落ち着くのが分かってしまう。

「けど……まあ、いいか」

なぜ自分がそう思ったのか、アン自身も理解できなかった。
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